世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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2015年、明けましておめでとうございます。

本年度もマイペース更新ですが、どうか当ブログをよろしくお願いいたします。
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欺瞞に満ちた男 悪夢のリリントン・プレイス10番街

本名ジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティ 通称ジョン・クリスティ

「最初の殺人にはゾクゾクしたよ。私自身が望んでいた道に、ついに足を踏み入れたのだから───。そう、殺人者への道だ」(ジョン・クリスティ)

ジョン・クリスティ
現在ヨーロッパの各国は、欧州人権条約などにより、死刑の撤廃が加速している。
銃殺刑があったロシアですら、1995年から死刑を廃止している。
大抵は上記の欧州人権条約からの「人道に反する」というものや、宗教上の理由であるが───
1953年にイギリスの首都ロンドンのリリントン・プレイス10番街で発覚したこの事件は、凄まじい議論を国中に呼び、やがて死刑を廃止させる原因となった。
果たして、リリントン・プレイス10番街の殺人鬼は一体何人いたのか?

発端:壁の裏の何か
1953年3月24日、ロンドンのリリントン・プレイス10番街のテラスハウス(長屋とアパートの中間のような共同住宅)。
ここの最上階に住むジャマイカ人、ベレズフォード・ブラウンは上機嫌だった。
このテラスハウスでは3年前にティモシー・エバンスという男が陰惨な殺人事件が起こした場所として有名だが、今や当時を覚えている唯一の住民であった、
前借用人だったジョン・クリスティという男は3日前に「急遽バーミンガムに転勤になった」と引越した為、1階に移り住む事を大家から許可されたのだ。
しかも、ペンキが色あせ荒れ果てた共同キッチンを改装してくれたら「今後は優先して使っていい」という承諾も得た。
鼻歌まじりに前借用人のクリスティの残していったガラクタを庭に運び出し、1階の部屋の大掃除を終えたブラウンは、いよいよキッチンの改修に着手した。
結婚して妻もいるブラウンだったが、独身貴族時代によく自炊していた彼は、今も妻の代わりに自分が料理を受け持つこともあった。
「よし、料理の際のBGM代わりのラジオを置く棚を取り付けるか」しかし、板を取り付けようとしたブラウンは、奇妙な事に気づいた。
壁を叩くと、向う側が空洞のような音がするのだ。どうやらアルコーブ(冷蔵庫や食器棚を置くための凹部分)に壁紙を貼っただけらしい。
不可解に思って壁紙を破ったブラウンはアルコーブを懐中電灯で照らしてみた。
彼の目には信じられない光景が映った。ミイラ化した人間の背中が見えたのだ。
驚いたブラウンは懐中電灯を投げ出し、他の住民を呼びにいった。そして駆けつけた住民の1人、アイバン・ウィリアムズと共に、もう一度中を覗いてみた。
ガラクタの山の上に腰掛けるようなポーズの、間違いなく女性の遺体だった。ブラウンとウィリアムズは、すぐに警察に連絡した。
遺体が発見されたアルコーブ

現場に駆けつけた警察は、キッチンの壁紙の裏のアルコーブから、毛布にくるめられた合計3体の遺体を発見した。いずれも女性だった。
1階をくまなく捜索した警察は、応接間の床下からも、1体の女性の遺体を発見した。クリスティの妻、エセルの遺体だった。
さらに翌日、裏庭を掘り返してみると、そこからも2体の白骨化した女性の遺体を発見した。合計6人である。
検死の結果、庭の遺体は約10年前に埋められたもので、フランシス・キャンプス博士は「2体とも絞殺されたものだ」と断定した。
帝都ロンドンの片隅で連続殺人が密かに行われていたことに捜査官たちは愕然とした。
マスコミに対し「ロンドン史上最もショッキングな大量殺人事件」が行われていたとの発表がされ、1階の前借用人だったジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティは、
重要参考人としてただちに指名手配された。
ホテル、映画館、サッカースタジアムにも「大量殺人の重要参考人ジョン・クリスティを見かけた方はすぐにご一報を」と記されたクリスティの人相書きが貼られたが、
その行方はようとしてとして知れなかった。

3月29日の23時20分、『 News of the World 』の犯罪担当デスクであるノーマン・レイに、電話がかかってきた。
「私が誰だかわかるかね?」レイにはそのガラガラ声が誰なのか、すぐに分かった。新聞記者、中でも犯罪担当記者の記憶力は、非常に優れているのである。
レイはティモシー・エバンスの事件で、クリスティにインタビューを申し込んだ事があったのだ。「もう耐えられないんだ」クリスティは続けた。

「奴らは犬のように私を追い回してくる。もうクタクタだ。寒いしびしょ濡れだというのに、着替える服もない」

クリスティはレイに、食事とタバコと、腰を下ろして休める暖かい場所を提供してくれたら、自分の話を『 News of the World 』に提供する、と申し出た。
レイは「申し訳ないが、その後は警察に通報しない訳にはいかない」と告げるとクリスティも理解を示した。
2人は午前1時30分にロンドン北部のウッド・グリーン・タワーホール前で落ち合う事になった。
レイを待って茂みに身を潜めていたクリスティだったが、そこにたまたまパトロール中の2人の警官が現れた。
両警官はもちろんレイとクリスティの約束など知らなかったが、レイに裏切られたと思ったクリスティは、そこを逃げ出してしまった。

3月31日、パトニー橋付近を巡回パトロールしていた若き巡査トーマス・レジャーは、堤防に寄りかかりテムズ川を眺めるみすぼらしい男に眼を止めた。

「こんなところで何しているんです? 仕事でも探しているんですか?」
「失業者カードが発行されるのを待っているんです」
「名前と住所を教えてくれませんか?」
「ジョン…ウォディントンです。住所は……ウェストボーングローブ35番地です」


苗字も住所も少し間を置いてからたどたどしく答えた男を見て、レジャー巡査はすぐに不審に思った。
自分にやましい事が何もない人間は、普通は自分の名前も住所もスラスラと答える。こんなに間を空けてたどたどしく答えたりはしない。
レジャー巡査は男の顔をまじまじと見つめてから、帽子を取るように命じた。禿げ上がったその頭を見て巡査は確信した。
指名手配中の大量殺人犯、ジョン・クリスティだ。
逮捕され連行されるパトカーの中で、クリスティはポケットの中のものを全て出すように命じられた。
細々とした物の中に、1950年に行われたティモシー・エバンスの裁判の切り抜き記事が含まれていた。
 
過去:威厳ぶったろくでなし
1898年4月8日、イングランド北部のハリフォクスのブラックボーイ・ハウスで、ジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティはこの世に生を受けた。
アーネストはカーペット会社のデザイナーで、ハリフォクスの保守党設立メンバーの1人だった。
また、「労働者階級に清廉さを広める」プリムローズ・リーグ(桜草連盟)という組織のリーダー的存在でもあった。
母のメアリー・ハンナは演劇の世界では「麗人ハリディ」として有名な存在で、メアリーはジョンを溺愛した。
ジョンは厳格な父を酷く恐れ「話しかけるときですらいちいち許可を得なくてはいけなかった」と回想している。
父は厳しく接し母は溺愛し甘やかす、という多くの連続殺人鬼のテンプレの状況で、ジョンも育っていった。
少年時代のクリスティは成績優秀で、特に算数・数学は常に学年トップだった。
「一旦興味を持った科目はとことんマスターしないと気がすまない主義だった」という。しかし「一旦マスターするとすぐに飽きてしまった」そうである。
しかし小学校時代のジョンは父譲りの短気さと、変に威厳ぶった態度のおかげで、友達はほとんど出来なかった。

8歳の時のクリスティ
ジョンは少年時代、その後の人生を決定付ける2つの出来事に遭遇している。
まず8歳の時に母メアリーの父が死亡し、その亡骸を見た事である。この時ジョンは喜びでうっとりとしたという。

「死体には生きている肉体には決して持ち得ない美と尊厳が備わっている………。死には私を和ませる平穏がある」

死体に対する、ジョンの後年の言葉である。
さらに10代のころ、初体験の失敗している。男女グループで遊んだあと、それぞれペアになって別れたのだが、経験豊富な女子といざ体験という時に役に立たなかった。
少女はジョンを「息子のないレジー」「アレが役に立たないレジー」と散々言いふらし、この屈辱ゆえに、彼は本格的なインポテンツになってしまった。
この辺りの経緯と、無抵抗な女性に対して性的不能から開放されるというのは、アンドレイ・チカティロと非常に良く似ている。
そして17歳の時、地元の警察で事務員として働いていたジョンは、些細な盗みを見つかってクビになり、さらに激怒した父親に家から叩き出された。
仕事を転々とし、時には父親の家庭菜園の小屋で寝泊りし、母親が食事を差し入れる事もあったという。

やがて第一次世界大戦が起き、召集された18歳のジョンはフランスに送り込まれ、戦地で負傷し帰国する。
ティモシー・エバンスの裁判では毒ガス攻撃にあったと力説するが、実際はどうなのかは不明である。
とはいえ帰国後は障害年金を受け取り細々と暮らしていた。1920年5月20日、エセル・ウォディントンは不幸にもジョンと結婚する。
しかし結婚から1年後、郵便局に勤務していたジョンは仕事中に封書から金を抜き取ったところを捕まり、9ヶ月間服役する。
2年後には詐欺事件を起こし、これは「判事の寛大な裁量」のおかげで保護観察処分で済むが、1年後にはまたしても窃盗で逮捕され、今度は9ヶ月服役する事になる。
妻エセルはジョンに完全に愛想を尽かし、実家に帰ってしまう。1929年、ジョンは今度は同棲していた売春婦に暴行を働いたとして6ヶ月間服役する。
1933年には親しくしていた教会の神父の自動車を盗んだのがバレて、またもや刑務所に入る。
この間にジョンは「ヨリを戻してほしい」とエセルに手紙を書き、2人は元の鞘に納まる。
そして1938年、40歳になったジョンはエセルと共に、のちに英国犯罪史上にその名を残す事になるリリントン・プレイス10番地に移り住むのである。
10年後の1948年3月、問題のティモシー・エバンスとその妻ベリルが、リリントン・プレイス10番地に引っ越して来た。
第二次大戦の勃発が時間の問題だった1939年には、ジョンは戦時予備警察官に応募し採用される。
今までの悪事を忘れ、生まれ変わったかのように仕事に打ち込んだジョンだったが、持って生まれた卑しい性格は隠し切れず、すぐに権力を笠に傍若無人に振る舞い始め、
もう1人の同僚と共に「ネズミとイタチのコンビ」として知られるようになる。
そして1943年8月、いよいよ最初の殺人に手を染めるのである。

誤審:嘘の自供
1948年11月30日、ウェールズのマーサー・ベール警察署に1人の男が出頭し、そこにいた巡査に「妻を処分しました」と告げた。
男はティモシー・エバンスと名乗った。「どういう意味なのか?」と巡査が尋ねると、エバンスは供述を始めた。
11月10日、仕事を終えて帰宅すると、妻のベリルが死んでいた。トラック運転手用の食堂で偶然知り合った男からもらった堕胎用の薬を飲んだ事が原因だ、という。
動揺した彼は、遺体を階下に運び下水道に棄てた。そして故郷のウェールズに逃げたが、良心の呵責からこうして出頭した…というのだ。
エバンスの話を聞いた警官は狐に化かされた心境だった。
ティモシー・エバンス

「帰宅したら妻が死んでいたからといって、それを下水道に遺棄して逃げたりするものか? その時点で警察に通報すればいい話だろう」
とはいえ、イタズラの類として片付ける訳にもいかない。
念のために死体遺棄の容疑でエバンスの身柄を拘束し、その場にいた巡査と刑事がそのまま取り調べを担当する事になった。
ロンドン警察に連絡して下水道を調べさせたが、遺体はどこにもなかった。
「おい、ロンドン警察からは遺体など無い、という報告が来ているぞ」エバンスは驚き「そんなバカな」という表情をし、供述を変えた。
「妻は下の階に住むジョン・クリスティという男の堕胎手術を受けて死んだんです。このままでは私も共犯になると言われて、それで妻の遺体を処分しました」
まだ1歳の娘はクリスティに預けている、という。当日夜、共犯としてクリスティも警察に身柄を拘束された。
供述に基づき、彼が住むリリントン・プレイス10番地のテラスハウスを捜索した警察は、裏庭の洗濯場に隠されていた2人の遺体を発見した。
妻のベリルと娘のジェラルディンだった。2人とも絞殺されていた。
エバンスはすぐにロンドンのノッティングヒル警察署に移送され、本格的な尋問が始まった。

刑事は彼に1本のネクタイを見せて訊ねた。「これに見覚えはあるかね?」
それはジェラルディンの首に巻きつけられていたネクタイだった。エバンスは思わず呟いた。

「俺のネクタイだ…俺は自分のネクタイで自分の赤ん坊を絞め殺してしまったんだ……」

「2人ともお前が殺ったんだな?」エバンスは、小さく頷いた。
別の自供では、ベリルはロープを使って絞殺し、遺体を洗濯場に隠すまでを語った。
エバンスは裁判前の拘置所にてドナルド・ヒューム(のち紹介予定)という殺人犯と知り合った。
コロコロと二転三転するエバンスの話を聞いていたヒュームは顔をしかめて、「主張すべき事を一つに決めて、それを押し通した方がいい」と助言した。

ベリルとジュラルディン
娘のジェラルディン殺害の件で1950年1月11日からオールド・ベイリー中央刑事裁判所にてエバンスの裁判が始まった。
(筆者注:妻ベリル殺害の件では罪には問われなかった)
公判前は妻子の殺害を認めていたエバンスだったが、審理が始まると供述を一転させ、妻子はクリスティに殺されたのだと主張した。
しかし陪審団は、以前から虚言癖があり、また妻との喧嘩が絶えずその深夜の怒鳴り合いが近所でも有名だったエバンスには、最初から懐疑的だった。
裁判でも二転三転するエバンスの証言も、陪審団の印象を悪くしてしまった。
一方、身だしなみのいい格好で証人台に立ったクリスティは、「自分は2人の死には一切無関係である」と主張し、メリハリのある誠実な紳士であることを印象づけた。
反対尋問でクリスティは弁護団に過去の数々の犯罪を暴かれたにも関わらず、陪審団はたった35分間の協議でエバンスの有罪を評決した。
ウィルドレド・ルイス判事はエバンスに死刑判決を下し、1950年3月9日、エバンスは絞首刑に処された。

殺人:紅茶は死の香り
逮捕されたクリスティは良心の呵責を感じている様子もなく、むしろ「殺すギリギリまで被害者に自分の意図を悟らせなかった」事を自慢するかのように、
被害者を自宅におびき寄せ、殺害した様子を語りはじめた。
1943年8月、妻エセルがシェフィールドにいる姉妹の家に遊びにいっている間、クリスティは自分の管轄で商売をしていた17歳の売春婦、ルース・フュアストを、
リリントン・プレイス10番地に招待した。
以前もルースはクリスティに「10シリングほど貸してほしい」と頼み、そしてクリスティも金を貸す条件にルースを10番地の下宿に連れ込んでおり、
ルースをここに呼ぶのはこれが2回目である。

「モーゼの十戒の一つ、『汝、殺すことなかれ』に私は魅せられていた───いつの日か、自分がそれに逆らうのが分かっていたからだ」
「妻を殺した事で、10年間私を押さえつけていた障害を取り除く事が出来た。妻が死んで、自分の運命を達成するための道を阻むのもは何一つ無くなった」
「何年もの間、『10人の女を殺すまで自分の仕事は終わらない』と考えていた」


取調べでこのような異常な発言を平然とするクリスティを、弁護人のデレク・カーティス=ベネットは精神異常だとを主張したが、陪審団を納得させる事は出来なかった。
「クリスティは人格異常、性格異常であっても精神異常ではない」というのが陪審団の結論だったが、これは正しい判断だと思う。
それはルースの殺害が、ベッドの横に絞殺するための紐をあらかじめ用意していた点でも分かる。
おそらくルースは特別警察官だったクリスティに、半分脅されて10番外の下宿に来たのだ。クリスティから金を受け取るつもりすらなかった筈だ。
8歳の時に祖父の遺体を見て「震える程の衝撃を受けた」クリスティは、最初から計画的にルースを殺害し、その遺体を屍姦し何度も楽しむつもりだったのだろう。
しかし、妻から予定を早めて帰るとの電報が届いたため、慌ててルースの遺体を一旦床下に隠し、妻の隙を見て裏庭に埋めた。

1943年の暮れに特別警察官を御役御免となったクリスティは、ロンドン西部のラジオ工場の事務職に就き、そこで2人目の犠牲者となるミュリアル・イーディーと出会う。
鼻カタルに悩んでいた彼女にクリスティは「いい治療法がある」と持ちかけ、1944年の10月のある日、リリントン・プレイス10番街に招いた。
クリスティは前回以上に用意周到だった。耳鼻科にある治療用の吸引機をわざわざ拵えていたのだ。2本の管の1本はガス管に繋がれていた。
2人で紅茶を楽しんだ後、これを吸引して意識朦朧となったミュリアルと「愛を交わし」絞殺したのである。

「2番目の殺人は、実に巧妙なものだった。最初の殺人よりも、ずっと巧妙だった。綿密に計画を立てておいたんだ」

死刑囚監房から、クリスティが知人に宛てた手紙の一文である。ミュリアルの遺体は、ルースと同様に裏庭に埋められた。

1948年3月、問題のティモシー・エバンスとその妻ベリルがリリントン・プレイス10番街に引っ越して来た。
10月にはジュラルディンが生まれて夫婦仲は円満だったが、翌年の夏に妻ベリルが再び妊娠してからは、険悪になって行った。
先天的な知的障害があり、字も読めないエバンスは、収入の高い仕事に就くことが出来ず、家賃も滞納し、ベリルとは連日大声で怒鳴り合うようになっていた。
そんなエバンス夫妻の相談相手が、10番街の「ヌシ」と化していたクリスティだった。「元警官」という肩書きも、2人を信用させた。
経済的に困窮したエバンスは、クリスティにベリルの中絶手術を依頼した。しかし、結果的には妻子を殺害され、自らも絞首刑に処せられる羽目になるのである。
(筆者注:但しクリスティはベリル殺害は認めたが、娘ジュラルディンの殺害は最後まで否定した)

クリスティと妻エセル
1952年12月12日に庭で洗濯物を干している姿を最後に、妻エセルは2日後に夫に殺害されている。
クリスティに自身の供述によると、妻のエセルが「関節炎にもがき、夜も寝れないくらい苦しんでいた妻に安息を与えるために」殺害したという。
しかし、エセルは死亡する数週間前から何らかの不安を抱えていたのは誰の目にも明らかで、不眠症のため、かかりつけの医者に睡眠薬を処方してもらっている。
エセルがクリスティの何らかの秘密を知っている、もしくは疑っているために、そんな精神状態に駆られたエセルが秘密を暴露する事を恐れたクリスティが、
口封じで殺害した可能性は大いにある。
彼女の遺体は床下から発見された。

裁判:絞首刑台への道
本人が「妻を殺してからは自分の道を行く障害が無くなった」と語っているように、クリスティがかろうじて付けていた「真人間の仮面」は完全に外れた。
狂乱したように殺人のペースが速くなり、1953年1月から3月にかけて3人も殺した。
26歳のサウサンプトンの売春婦、キャスリーン・マロニーはロンドンのパブでクリスティと知り合い、10番街でガスを吸わされ絞殺された。
ベルファスト出身の25歳の売春婦、リタ・ネルソンもカフェで知り合ったクリスティに10番街に招待され、ガスを吸わされ絞殺された。
26歳のヘクトリナ・マクレナンは恋人と一緒に宿を探していたところをクリスティと知り合い、恋人が職業安定所にいる時に10番街に誘われ、絞殺された。
治療用吸引機を不審に思ったヘクトリナはクリスティともみ合いになったが、女の力ではさすがに男には勝てなかった。
3人の遺体はいずれもキッチンのアルコーブに隠された。
経済的に逼迫していたクリスティは、数少ない財産である家具を処分したが、それでも家賃を滞納し、完全に行き詰っていた。
クリスティにとっては「殺し納め」的な意味もあったのだろう。
そして3月21日、アパートの部屋を無断で又貸ししたかどで追い出され、大量殺人が発覚するのだ。
連行されるクリスティ

1953年の6月22日よりオールド・ベイリー中央刑事裁判所にて、フィネモア判事を裁判長として、クリスティの裁判は始まった。
25日まで4日続いた裁判では、上記の通りベネット弁護士が精神異常を主張したが、これは認められなかった。
検察側の証人であるセント・ジョージ病院のデズモンド・カラン医師「被告は非常に思い上がりの強い人間だが」いかなるヒステリー、
混乱状態にも侵されてはいない、と弁護側の主張を切って捨てた。
陪審団は4日目の16時5分に席を立ち、約1時間の協議でクリスティの有罪を評決し、フィネモア判事は死刑を宣告した。判決に対し、クリスティは押し黙ったままだった。

「一つの建物に絞殺魔が2人も同時期に存在したりするのか?」しかもクリスティは、ベリル殺害を正式に自白しているのだ。
「エバンスは無実の罪で絞首刑台に送られたのでは?」この事件に関心を持った国民はほとんどこう思った。
内務省はただちにエバンスの事件の再調査を命じたが、たった7日間で「ベリルとジュエラルディンを殺害したのはエバンスで間違いない」という報告書が提出された。
しかし、この事がさらに国民の疑惑を深める事になり、イギリス各地でエバンスの恩赦を求めるキャンペーンが起った。
1953年7月15日午前9時5分ペントンピル刑務所内にてクリスティは絞首刑に処された。54歳だった。

1965年から労働党政権下において、死刑が試験的に5年間停止する事が決まり、そしてその後、イギリスでは2度と死刑が復活する事はなかった。
エバンスの亡骸は1965年11月、遺族に返還され、エセックス州のセント・パトリック墓地に改めて埋葬された。
そして1966年、ダニエル・ブライビン判事の指揮の元、エバンス事件の再調査が行われ、「ジュエラルディンはクリスティが殺害した」という結論が発表された。
彼は娘を殺害した容疑で死刑になったのだから、事実上無罪を証明されたという事になる。
同年10月、エバンスはエリザベス2世女王陛下から恩赦を与えられた。
現在リリントン・プレイスは住所名をラストン・クローズからさらにバートル・ロードと変え、9番地の次は11番地となっており、10番地は無くなった。
しかし、リリントン・プレイス10番街は犯罪史にいつまでもその名を轟かす事だろう。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.12 礼儀正しい殺人鬼 (デアコスティーニ)
愛欲と殺人 (扶桑社)
恐怖の都・ロンドン (筑摩書房)
参考サイト
殺人博物館

すいません。

管理人のとあるプロファイラーです。
9割完成していた新記事が、保存しようと思ったところでPCがいきなり再起動となり、パー。
途中での保存が4割程度の完成だったものだけに、正直凄まじくモチベーションが下がっています。
悔やんでも仕方ないので、また続きを書いて完成させようとは思いますので、もう少しお待ちを。

犠牲者の肉を食用に売り捌く「ハノーバーの狼男」

本名フリードリッヒ・ハインリッヒ・ハールマン 通称フリッツ・ハールマン

「こんな事はしたくなかったが、やらずにはいられなかった。恐怖よりも、バラバラにしてみたいという激情の方がはるかに強かった」
(フリッツ・ハールマン、犠牲者の遺体をバラバラに解体した事について)

我が国でも先日、長崎県佐世保市で女子高生が友人を自室で殺害後、頭部と左手首を切断したその異常な行為に世間が震撼したが───
第一次世界大戦終戦から間もない1924年、ハノーバー警察が「情報屋」だったフリッツ・ハールマンを逮捕した件は、ドイツ全土をパニックに陥れた。
ハノーバーの狼男、ハールマン
大戦直後だけあって食料はどこでも不足がちだったが、闇市の中のハールマンの屋台にはいつでも新鮮な肉があった。しかもそれは、皆格段に安い。
人々はさぞ彼は闇市で「いい顔」なのだろうと思っていた。しかし、彼の商売が、趣味と実益を兼ねたものだとは思いもしなかった。
丸顔で人懐っこい好人物を「恐怖の狼男」に変貌させた、周期的発作とは何だったのだろうか?

逮捕:子供が川で見つけたあるもの
1918年11月、第一次世界大戦は連合国側の勝利に終わり、敗戦国ドイツは想像を絶する悲惨な貧困に喘ぐ事となった。
超インフレが発生し、マルクの価値は1ドル=1億3000万マルクにまで下落した。
資産家たちも、財産を切り売りしてその日のパンやソーセージを買わなければならないような有様だった。
ニーバーダクセン州の小都市ハノーバーは他のドイツの都市よりもさらに荒廃ぶりがひどく、街にはホームレスと化した難民、売春婦、闇屋がごった返していた。
1924年5月17日、ライネ川で遊ぶ子供たちは水の中に奇妙な白い物体を発見した。それは人間の頭蓋骨だった。10代の少年の頭蓋骨のようだった。
5月29日、製粉工場の近くで、また別の頭蓋骨が発見され、さらに6月13日には、2つの頭蓋骨が市内の別々の場所から発見された。
猫の手も借りたいくらいの仕事を抱えていた警察は、当初は通報にも「医学生のイタズラでしょう」と相手にしなかった。
しかし、これが逆に市民の恐怖を煽る事となった。「狼男や巨大な蜘蛛が人間を捕らえて食したのでは?」などという噂も流れ始めた。
闇市で肉を買った主婦が「この肉、白すぎやしないかね」と警察に駆け込む事もあった。
警察は慌てて「川の上流には墓があり、墓荒らしが墓を荒らした後、骨を川に捨てたのだと思います」との推測を発表したが、頭蓋骨には肉がついているものもあり、
この推測を支持するものはほとんどいなかった。
7月24日、郊外の藪森の中から、またも肉のついた頭蓋骨が発見された。さらに同日、野原で遊んでいた子供たちが、人骨が大量に詰まった袋を発見。
さすがに警察も重い腰を上げざるを得なくなり、大掛かりな捜査を開始した。
市民ボランティア団体は、何かと悪い評判のある「『ハノーバーの中心地の旧市街地』に問題の原因が潜んでいるのでは?」と考え、日曜に川を塞き止め大捜索を行った。
結果、ヘドロの中から腐敗した人間の体の様々な部分が見つかった。
警察が調べたところ、500に及ぶ部分が見つかり、最低でも22人分の残骸であるのが確認された。
犠牲者の骨
実は警察は、すでに有力な容疑者を1名、リストアップしていた。しかし警察にとってはあまりにも都合の悪い人物だったために、逮捕出来ずにいたのだ。
その男の名はフリッツ・ハールマン。 犯罪歴のある同性愛者だが、警察のお気に入りの情報屋であり、裏捜査員の資格も与えられていた。
闇市で肉屋をしていたハールマンは悪党や闇屋連中にも顔が利くので、警察も6年以上金を払って重宝し続けた。
元警察本部長のオルファーマンと一緒に「アメリカン・ラッソ探偵社」を設立し、探偵ハールマンの名詞すら持っていたのだ。
ハールマンの情報で、悪党たちの計画を事前に知る事も多かったのだ。偽札作りの一味を一網打尽に逮捕出来た事もあった。
「ハールマン探偵」が少年の失踪に関係している、という噂は段々広がっていき、さすがに警察も、見て見ぬふりを続ける訳にはいかなくなった。
問題はどうやって逮捕に踏み切るかだったが、6月22日、そのチャンスが訪れた。
「ある警察関係者」に逆らったというカール・フロムという15歳の少年が、「この少年は偽造の身分証明書で旅をしている」と、その警察関係者とやらにより、
鉄道公安局に突き出されていた。
取り調べを受けたフロム少年は「突き出される前に、その警察関係者の下宿に4日ほど泊まったら、猥褻行為をされた」と証言した。
警察は、鉄道公安局とフロム少年からその警察関係者が「ハールマンに間違いない」という証言を得た。
「件の少年について情報を得たい」とハールマンに出頭を求め、その間に彼が借りていた下宿屋の部屋を捜索した。
男性の衣類や身分証明書が大量に見つかり、中には血のついているものもあった。そして壁やベッドにも、多くの血痕が発見された。
この事実を知らされたハールマンは、完全に自分が罠にかけられた事に気づいたが、笑顔を絶やさず、穏やかな口調でこう言った。

「皆さんも御存じの通り、私は肉屋です。血痕があってもなんの不思議もありません。服だってそうですよ。
これも皆さんご存知の通り、私は古着屋もやっていましたから。肉を捌いている時に、服に血がついたとしても、まったく不思議ではありません。
何もかも、私を拘留しておく理由にはなりませんね」


しかしハインリッヒ・ラッソ警視は、一見素直で穏やかなハールマンの態度を信じてはいなかった。
彼は目の前にいるのが間違いなく狼男だと確信していたが、問題はそれをどう証明するか、だった。

過去:怠け者のマザコン少年
フリッツことフリードリッヒ・ハインリッヒ・ハールマンは1879年10月25日、6人兄弟の末っ子として生まれた。
機関士である父のオッレ・ハールマンは気が短く、ちょっとした事で妻や子供たちに手を上げ、その上大酒飲みの最低の男だった。
家族は資産家の娘であった妻ヨハンナの持参金で持っているようなものだった。
ヨハンナはフリッツを産んでからは死ぬまで寝たきりとなった。故に夫婦仲は悪く、何かにつけて喧嘩をした。
優しいフリッツ少年は母親の肩を持ち、次第に父親を憎むようになった。
病弱だったために医者から動かないように言われていたフリッツは人形遊びを好み、粗野な遊びの一切を嫌悪した。
5番目の娘でフリッツには姉であるエマ以外、兄弟の事も嫌っていた。
とはいえ人なつっこく話術も巧みなフリッツ少年は、周囲から親しまれる存在だった。
学校の成績は悪く、2度進級出来ない事もあった。何とか小学校を卒業した時にはもう14歳だった。
卒業してすぐに錠前屋に見習いとして就職したが、仕事はつまらなく、彼はすぐに辞めた。
16歳になったフリッツはノイブライザッハの陸軍下士官学校に入隊した。
最初は成績も優秀で滑り出しも上々だったか、度々発作を起こして退学。この挫折はフリッツの心に暗い影を落とす事となる。
フリッツはどうしようもなく怠惰な人間に成長し、働く事を拒否するようになる。父がタバコ工場の経営をはじめ、そこに入社するように勧められたが頑として拒否した。
そして児童公園に出向くと幼児に猥褻行為をして逮捕され、精神病院に送られた。
この時は「危険度の高い狂人」と診断されている。この件でフリッツは生涯、精神病院を嫌悪する事になる。
のちに連続殺人で逮捕された時も「精神異常を理由にして精神病院収容」という戦術を取らなかったのは、このためである。
かつてのハノーバー駅

20歳になったフリッツには自分がまだ同性愛者だという自覚がなく、エルナ・レワートという女性と同棲を始めた。
彼女が妊娠するとフリッツは中絶を勧めた。理由は「自分のような障害者の血を残してはならない」との事だった。
そして1900年陸軍に入隊。彼は軍隊ではかなり優秀な兵だったが、それも神経衰弱に陥るまでだった。
軍の精神病院から精神障害と診断され、わずか1年半後に除隊。フリッツは再び深く傷つく事になる。
「普通の市民」に戻った彼は、働く事を徹底的に拒否。「お前はただ怠け者なだけなんだ」父親は説得したが、フリッツは自分は障害者だと主張し続けた。
ならばと1903年、父親はフリッツを精神病院に入れようとしたが、逆にフリッツはこれで父親を警察に訴えている。
その時警察が取り寄せた診断書には「『手の施しようがないほどの意志薄弱』ではあるが精神異常ではない」と記されている。
その後はフリッツは父と和解、魚屋を経営するための資金を出してもらった。しかしこれは散々な結果になり、エルナを「お前は商売の才能がない」とののしった。
するとエルナはフリッツと縁を切り、その後も魚屋の運営を続けた。名義はフリッツの知らない内にエルナに書き換えられていた。
フリッツが自分は同性愛者だと自覚するのはその直後、1905年の25歳の時である。
彼は闇市で知り合ったアドルフ・マイルという中年男と愛人関係になった。2人の関係はフリッツが刑務所に入る1913年まで続いた。
それからのフリッツは強盗、墓荒らし、強制猥褻で出入獄を繰り返し、おかげで大戦中をほとんど獄中で過ごした。フリッツはある意味、ラッキーだったとも言える。
そして敗戦後の1918年、出所した彼は刑務所仲間のアドバイスもあり、闇市で肉屋を始めた。フリッツは肉屋は繁盛し、たちまち自分の屋台を持つようになった。
そこにたむろする他の闇屋、悪党たちともパイプラインが出来て、あっという間に闇市の顔役になった。
警察に情報を売る、情報屋としての地位を確立したのもこの時期である。闇市の人間たちは、彼に尊敬と畏怖の念を込めて「ハールマン刑事」と呼んだ。

とはいえ、刑務所を出たばかりのフリッツには当然住む家などはなく、兄弟の中で唯一親しくしていた姉のエマと夫の家に転がり込み、しばらく居候する事になった。
ある日フリッツがパンを食べようとすると、エマの一番下の息子がフリッツにこう言った。「あまりパンを食べないでね、おじちゃん」
「ん? どうしてだい? おじちゃんがパンを食べちゃダメなのかな?」子供ならではのジョークだろう、くらいに思い笑顔で返したフリッツだったが、
エマの子供から返ってきた返事はショックなものだった。

「並んで買わないといけないし、ウチにあまりパンないし、僕たち病気なんだ」

「そうか………。何とかならないものかな」こんな小さな子たちがパンも腹いっぱい食べられないのか、とフリッツは不憫に思った。
その夜、フリッツはエマに「姉さん、少しでいいんだ、金を貸してくれないか?」と頼み込んだ。
エマからわずかばかりの金を借りたフリッツは、夜の闇市に直行した。闇市の顔役である彼は、ここでは文字通り水を得た魚だった。
あらゆる品物を値切りに値切り、翌朝、肉、ソーセージ、卵、魚などを、両手いっぱいに抱えて帰ってきた。
子供たちは自分の父親よりも、愛嬌のある丸顔で、どこに出かけると美味しい食べ物をいつもたくさん持って帰ってくれる、優しい「フリッツおじちゃん」に夢中になった。
フリッツも子供たちが喜んでくれるのが嬉しく、闇市に出かけたら必ず栄養のある食べ物をいつも袋いっぱいに持って来た。
当時のドイツでは非常に貴重な、チョコレートもお土産にもってくる事があった。
フリッツに関してはかなり克明に説明がなされている優れた文献と言っていい、デオドール・レッシング著の『 The Story of Werewolf 』(狼男の物語)には、
「痩せ細っていた子供たちはみるみる健康になり、皆太っていった」とフリッツは後日こう回想した、と記されている。
エマたちが住んでいた借家の大家にも肉、ソーセージ、スープのダシ用の骨を配り、大家たちからも感謝された。
しかし、平和な日々もそう長くは続かなかった。
フリッツを最初から嫌っていたエマの夫は、子供たちが自分よりもフリッツを慕っていると分かるや、さらに腹を立てた。
「あいつは違法な行為で食い物を手に入れている。あいつから食い物をもらうと警察に目を付けられますよ」と大家を焚き付け、フリッツを追い出してしまったのだ。
フリッツは人生において三度目のどん底に突き落とされてしまった。
(筆者注:この事がハノーバーの狼男を誕生させる決定的な出来事になってしまったような気がしてならない)

自供:暴かれた犯行
以前ハールマンが住んでいたツェラーシュトラーセ27番地の下宿では、彼が血がなみなみと入ったバケツをもって階段を駆け下りていくのを見た、
という他の下宿人の目撃情報もあった。
こうした事実を突きつけられてもハールマンは「私は肉屋ですから」の一点張りで、肩をすくめて笑うだけだった。
ハールマンがこのような対応をしてくるのは分かりきってはいたが、警察は完全に行き詰ってしまった。
ハールマンが最後に過ごした下宿の屋根裏部屋

しかし、思わぬ偶然から、警察は突破口をこじ開ける事に成功する。
2ヶ月前の4月26日、ロベルト・ウィッツエルをいう18歳の少年が、サーカスを見に行ったきり行方不明になっていた。
父親の熱心な捜索願を受けていた警察は、この事件がハールマンの悪事を暴くキッカケになるかもと考え、捜索願を受理した。
警察から、川から見つかったいくつかの頭蓋骨を見せられ、その内のひとつの歯並びの酷く悪い頭蓋骨が息子のものだとすぐに分かった。
ロベルトの友人、フリッツ・カールマイヤーは「ロベルトは『警察関係者の男』と一緒にサーカスにいきました」と証言した。
カールマイヤー少年にハールマンの写真を見せたところ「ええ、警察関係者と名乗っていたのはこの男です」と断言した。
カールマイヤー少年は、実は自分もロベルトも14歳の頃から同性愛者である事をお互い自覚し、いわゆる「ホモだち」の関係になり、2人で同性愛者のたむろする、
カフェやレストランに出入りしていたのでハールマンと知り合った、と告白した。
(筆者注:のちにハールマンは自供の中で、少女のような可愛い顔立ちのカールマイヤー少年を『あの子も犯して殺したかったな』とカミングアウトしている)
ハールマンの部屋から見つかった服の中に、ロベルトの服も発見された。
そして、この偶然がなかったら───警察はハールマンを、証拠不十分で釈放せざるをえなかったかも知れない。
事情聴取を受けるため、ウィッツエル夫妻とカールマイヤー少年は警察の待合室にいた。
その3人の目の前を通りかかった、痩せた中年女性と若い男性の2人連れの男性の方が、ロベルトの上着を着ているのを発見したのだ。
ロベルトの両親は急いでその男女を引きとめ「その上着はどこで手に入れました?」と尋ねた。
男性は静かに答えた。「ズボンと一緒に、ハールマンさんから買ったんです」
女性はハールマンの現在の下宿の家主のエンゲル夫人で、男性はその息子テオドールだという。
「そういえばズボンには、ロベルト・ウィッツエルって身分証明が入っていましたっけ」夫妻、カールマイヤー少年、そして駆けつけた警官は顔を見合わせた。
警官が質問した。「その身分証明はどうしました?」「ハールマンさんに返したら、破り捨ててしまいましたよ」

報告を受けた取調官は、ハールマンを厳しく尋問した。やましい事が何もないのなら、どうして身分証明を破り捨てたのか?
今までのらりくらりと追及をかわしてきたハールマンだったが、さすがに動揺しているのを隠し切れず、屈服寸前だった。
ここで警察は、お馴染みの非常に効果的な方法を用いる事にした。
1人の荒っぽい警官が怒鳴り、胸倉を掴んで脅し、ハールマンの尻を剥き出しにして、ゴムホースで殴りまくる。
そこに「そんな事はやめろよ」と「優しい警官」が入ってきて、温和に、同情を持って彼に接し、なだめすかして自白に追い込む、というものだ。
素朴な性格で同情や好意に弱いハールマンに、この作戦は的中だった。
逮捕されてから1週間後の6月29日、彼は突然涙を流しながらこう言った。
「牧師さんを呼んでください。お話します」
「何をだね?」
「人を殺した事です…」
「何人かね?」
「30人か40人か………思い出せません」
「どうやって殺したんだね」
ハールマンは静かに答えた。

「喉を食い千切ったんです………」

犯行:生々しい解体の自供
ハールマンの自供が進むにつれて、「一連の事件は狼男の仕業では?」という噂も、あながち見当外れではない事が分かった。
彼は死体の解体について、生々しい自供を始めた。

「寝ている少年の喉笛にいきなり噛み付くんだ。同時に首を絞めて殺害する。
そのあとは濃い目のコーヒーを入れて、それを飲んで一息ついてから解体を開始する。
死体を床に置いて、顔に布をかぶせて目が合わないようにする。
腹部を2箇所切り開いて内臓をバケツに入れる。次に肋骨から肩まで3箇所切れ目を入れ、肩の周りの骨が折れるまで押しつぶす。
それからこの部分を切り開く」


ハールマンの「解体作業」の説明に取調官は気分が悪くなったが、しかし彼は一旦話しはじめると饒舌になり、構わず続けた。

「もう心臓、肺、腎臓に手が届くので、それを切り取ってバケツに入れる。次に脚をはずし、そして腕を切り落とす。
………全て運び出し、便所や川に捨てるのに5~6往復くらいしなければならなかった。
頭はいつも最後に切り取った。頭はボロ布で覆って顔を下にして麦わらのマットに置き、叩き潰す音が外に漏れないようにした。
それから斧の背で叩き、頭蓋骨をバラバラに砕く。脳はバケツにいれ、砕いた骨はこれまた川に捨てた」
「よって、川から発見された4つの頭蓋骨は私の犠牲者ではない。私はいつも頭蓋骨は細かく砕いて捨てていたから」


そして彼はこう続けた。
「こんな事はしたくなかったが、やらずにはいられなかった。
恐怖よりも、バラバラにしてみたいという激情の方がはるかに強かった」

「少年たちは皆痩せていたので、私が食べてしまうと売り物になる部分はそんなには残りませんでした」
「服は大抵ハンスにやった。ハンスの事が好きだったからだ」

そしてこの「肉屋」は、最後にこのような言葉で自供を締めくくった。
「ですから、死体はいくらあっても足りませんでしたね」
このような発言の数々は、ジェフリー・ダーマー同様、ハールマンが自分だけの妄想とサディズムの世界に生きている事を示している、といっていいだろう。

ハールマンの最初の犠牲者は、1918年に失踪したフリーデル・ロッテという当時12歳の少年だと言われている。
家出したフリーデルの行方を探していた両親は、息子と思しき少年が「刑事に補導された」との情報を入手、早速警察に足を運んだ。
警察はその「刑事」がハールマンであることはすぐに判った。
大事な情報屋だが、さすがに今回は仕方がない。寝込みを襲って踏み込むと、彼は別の少年とベッドの中で戯れていた。
現行犯なので目をつぶるわけにもいかず、ハールマンは猥褻罪で逮捕され、懲役9ヶ月の実刑を受けた。
警察は問題のロッテ少年も、こうして彼に犯されて泣きながらに逃げ出したのだろう、と推測した。
だが、4年後に再び逮捕されたハールマンは「あの少年の頭部は新聞紙に包んでオーブンの後ろに隠してあった」と告白した。

ハールマンを支配していたハンス・グランツ
9ヶ月後の1919年9月に出所したハールマンは、連続殺人鬼へと変貌する事になったパートナーに出会う。
自供で「彼の事が好きだったから」と表現した、ハンス・グランスである。
友人から「おいハンス、あのおっちゃんホモでさ、この前可愛い男の子がセックスに応じたら20マルクくれたんだぜ」という話を聞き「そんなにもらえるのなら自分が」と、
ハールマンの「愛人」に名乗り出たのである。
その時家出したばかりのまだ18歳だったグランスはハールマンの更に上を行く悪党だった。強盗、恐喝、墓荒らしなど朝飯前だった。
付き合っていた女に金を盗ませ受け取り、女が逮捕されると「盗んだものなんて知りませんでした」とシラを切り通し、結局女だけが罰せられた、という出来事もあった。
美少年の彼は、ハールマンが自分にベタ惚れなのを知っており、ハールマンを完全に支配し、その殺人衝動を己れの利益に利用した。
もちろん、ハールマンの殺人衝動がグランスに向けられる事もあった。
しかし狡猾なグランスは、ハールマンに喉笛に噛み付かれる前に、両腕ごと抱きしめキスをすれば、彼がそのまま自分にメロメロになり、殺人衝動を失う事を知っていた。
中には、グランスが「あいつが着てる服が欲しい」という理由だけで殺された者もいた。
彼らの手口はいつも決まっていた。まず、ハノーバー駅で家出少年を補導するか、カフェで浮浪少年を一夜の宿や食事を餌に下宿に連れ込む。
そう、真夜中になるとハノーバー駅で家出少年を「補導」するハールマンの姿がよく見られるようになったのも、この時期からである。
その後は酒や料理でどんちゃん騒ぎのあと強姦、もしくは少年が疲れきって眠りに落ちたところで、ハールマンが喉笛を喰いちぎって殺害する。
それから上記のハールマンの自供の通り、死体を捌いて屋台で売る。余れば他のルートで売り捌く。遺留品も屋台で売る。
こんな大胆な犯行であったから、彼らは何度か危ない橋を渡っている。
ハールマンの下宿に来たグランスの愛人の売春婦2人、エリー・シュルツデルヘン・ムルツェークが、シチュー鍋に入っていた2切れの肉片を見つけた。
それは「人間のうぶ毛としか思えない毛が生えていて」2人は警察に届けた。
ハールマンを情報屋に使っていたミューラー刑事は青ざめた。ミューラー刑事は豚肉である事を保証して2人を帰した。
1918年年から逮捕される1924年にかけて、ハールマンが喰いちぎった喉笛は数知れない。
明らかに彼が関与している、と確定している失踪者は27人。しかし、実際には50人以上になると信じられている。
ハールマン自身も「48人以上は憶えていない」とカミングアウトしている。

裁判:茶番的な裁判
ハールマンの裁判は1924年12月4日から始まった。
警察とハノーバー裁判所当局はスキャンダルが広がるのを恐れた。
彼が警察の情報屋で、裏捜査員として「ハールマン刑事」を名乗る事さえも許されていたのを、バラされたくなかったからである。
そして何人かの刑事が簡単に買収に応じる事も、ハールマンは知っていた。
機嫌を損ねたハールマンに、 こうした警察の「黒い裏事情」を裁判において暴露されたら、一大スキャンダルである。
さらに上記のエリーとデルヘンが警察に持ち込んだ「豚肉」の件も、警察がちゃんと調べていれば、20人以上の少年・若者の命は救えたはずである。
そこで司法は、ハールマンのご機嫌を徹底的に取る作戦に出た。
この御機嫌取り作戦は効を奏し、ハールマンは余計な事、つまり自分の警察との関係、警察の裏事情については裁判終了まで沈黙した。
検察及び弁護団にも「ヨーロッパ全土に余計なパニックと怒りを引き起こさず裁判をスムーズに進めるために」人肉食及び人肉売買についての質問は一切せぬよう、
徹底的な指示が出された。
公判の第1日目、傍聴席を見渡したハールマンは、女性が多いことに不平を述べた。「こんな惨い事件、女性に聴かせるものではないだろう。帰ってもらってくれ」
判事は「自分には合理的な理由なく傍聴人を退席させる権限はない」と言って、ハールマンに頭を下げた。
そして検察が冒頭陳述を終えると、友人に話しかけるような口調でこう言った。「上出来だよ」
盗み撮りされた裁判。赤丸がハールマン

審理の手順はハールマンが仕切り、証人喚問もハールマン自身が行った。
「さあ、知ってる事は遠慮せずに全部話してくれ。我々は真実を知るために、こうしてここに集まったんだからな」
こんな傍若無人な態度にも判事たちはただ「うんうん」と頷くだけだった。
被害者の父親が証言台に立って証言している間、退屈した様子のハールマンが「タバコを吸わせてくれ」というと、無条件で認められた。
またある時などは、殺された少年の父親が証言台でハールマンに罵詈雑言を浴びせると、彼は尊大な態度でこう言った。
「私には私の基準がある。あんたの息子、写真で見たが何だありゃ。
私はこんな不細工な醜い生き物に興味など持たない」


陪審団が評決についての審議に向かう際、ハールマンは陪審団に向かってこう言った。
「今更刑の軽減を訴える気なんてないから、評決は手短に頼むよ。クリスマスはあの世でお袋と一緒に過ごしたいんでね!」
12月19日、起訴された27件の内24件の殺人について有罪となり、ハールマンは死刑を宣告され、グランツも2件の殺人幇助で死刑を言い渡された。
もっともクリスマスを最愛の母・ヨハンナと一緒に過ごしたいというハールマンの願いは、残念ながら1924年には実現する事はなかった。
彼がギロチン形に処せられたのは、翌1925年4月15日の事だった。
ハールマンの犠牲者の慰霊碑

余談になるが、ハールマンが死刑判決を受けてからの2ヶ月後、郵便配達人が歩道に落ちている手紙を拾った。
筆跡はハールマンのもので、宛先はグランスの父、アルベルト・グランスだった。
おそらく警察に連衡される途中で、ハールマンが車から投げ捨てたものであろう。手紙はグランスの父から、デオドール・レッシングに預けられた。
この手紙の中でハールマンは「ハンスはどの殺人にも、一切関与していない」と書いている。
「例えば『彼が欲しがっていた服を着ていた少年を殺すようハンスに命じられた』などハンスも共犯だと裁判で証言したのは警察に強要されたからであり、
私がハンスに不利な証言をすればするほど、私への待遇が良くなっていった」

さらに「私は罪を墓場まで持っていく事は出来ない」とし、グランスはまったく無実である、と訴えている。
実際にグランスは刑を不服として上訴し、懲役12年に軽減された。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.22 ハノーバーの狼男 (ディアコスティーニ)
カニバリズム―最後のタブー (青弓社)
図説 (原書房)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

キャンディ・マン 笛吹き男の少年狩り

本名ディーン・アーノルド・コール 通称ディーン・コール

「小屋の中に足を踏み入れようとした時、彼の顔色がまるで灰のように白くなっていきました。その時、この小屋には何かあると直感しました」
(捜査員の1人、ボート小屋を捜査しようとした時のウェイン・ヘンリーについて)

1970年秋から、テキサス州のヒューストンで次々と起きた少年の失踪事件。
警察は親たちの訴えにも「家出でしょう」と真剣に捜査せず、これが犯人ディーン・コールの大量殺人を助長する原因となった。
キャンディ・マンことディーン・コール
お菓子で少年たちを誘っては殺害していた事から、犯罪史ではキャンディ・マン(お菓子男)として知られるコール。
善良な市民の仮面を被っていた彼は、どのように27人以上の少年を犠牲にしたのだろうか?

発端:善良な青年の知られざる素顔
1973年8月8日午前8時24分、朝から凄まじい暑さとなっていたテキサス州ヒューストンのパサデナ警察に、若い男からの通報があった。
冷房の効いた署内の中に入ってホッとしていた電話交換主任のベルマ・ラインズが急いで電話を取ると、その声は少年のようで、テキサス訛りがあるところから、
地元の人間と見て間違いなかった。

「すぐに来てくれませんか。たった今、人を殺しました。住所はラマー・ドライブの2020番地です」

ラインズ主任はただちにラマー・ドライブ2020番地に急行するように指示。2台のパトロール・カーが現場の木造平家建ての民家に到着した。
コールの一軒家。
玄関前のポーチに、2人の少年と1人の少女が腰を下ろしていた。少女の服はボロボロで、3人とも先ほどまで泣いていたらしく、目が真っ赤だった。
3人はそれぞれエルマー・ウェイン・ヘンリー・ジュニア(17歳)、ティモシー・カーリー(16歳)、ロンダ・ウィリアムズ(15歳)と名乗った。
通報したのはニキビ面が特徴的なウェインで、彼の案内で家に入ると、全裸の男が壁にうつぶせで倒れていた。
34歳になる家主のディーン・アーノルド・コールで、ウェインによると、撃ったのは自分で、自分とディーンは以前から知り合いだ、という。
家具の調達具合からして、コールという男がこの一軒家に引っ越してきたのは、つい最近のようだった。
3人は事情聴取のためパサデナ警察に連行され、ウェインは供述を始めた。

その晩、ウェインとティモシーはコールに「ペイント・パーティーをしよう」と呼ばれていた。
トルエンの入ったアクリル塗料のスプレーを紙袋の中に噴きつけ、その揮発成分を吸引する、早い話が我が国でいう「アンパン」である。
午前3時頃、家出したばかりで行く所のないロンダを連れて行くと、コールは怒って怒鳴り散らした。

「何で女なんか連れて来たんだよ! お前らのせいで何もかもぶち壊しだ!」

しかし、その後コールは機嫌を直し、4人でペイント・パーティーを始めた。そして1時間後、全員が意識を失った。
やがてウェインが意識を取り戻すと、手錠をかけられて、足首を縛られていた。ティモシーとロンダも縛られていた。
コールはウェインの腹部に22口径のリボルバー式拳銃を押しつけながら囁いた。

「お前たちを殺してやる。だが、その前にたっぷりと楽しませてもらうぞ」
 
さっきは機嫌を直したふりをしただけで、コールはずっと怒ったままだというのだ。コールは悲鳴や叫び声が外に聞こえないように、ラジオのボリュームを最大に上げた。
ウェインはなんとかコールの怒りをなだめようとした。必死に命乞いをし、許してくれたら他の2人を殺すのを手伝うと申し出た。
最初は拒否していたコールもやがて了承し、ウェインの手錠を外し「お前はロンダを犯せ」と命じた。
ウェインがロンダに馬乗りになると、コールもティモシーを犯しにかかった。ティモシーは必死に抵抗した。
ウェインは「ロンダを別の部屋に連れて行っていいかな。彼女はこんな行為は見たくないといっている」とコールに尋ねたが、ラジオの音声にかき消され、
行為に夢中だったコールの耳には届いていないようだった。
コールが拳銃を手放し床に置くと、ウェインは素早くそれを拾い上げ、銃口をコールに向けた。
「やめろディーン、やめるんだ!」ウェインはラジオの音声に負けない大声を上げてコールを威嚇したが、しかしコールは怯える事なくウェインを挑発した。
「ほう。殺れるもんなら殺ってみな、ウェイン。ほらどうした? 殺ってみろよ!」ウェインは無我夢中で引き金を引いた。
コールはうつぶせに床に崩れ落ちた。更に倒れた背中に向けて、ウェインは残りの弾丸を全て撃ち込んだ。
6発全てを撃ち尽くしたところで、鍵を見つけ出し、2人の手錠を外して通報したという。

けたたましいサイレンを鳴らしながらコールの家に次々に到着するパトカーに、近隣住民たちは大騒ぎになった。
「犯罪などとは無縁の善良な好青年」というのが、近所の住民たちのコールに対するイメージだったからだ。
コールの家を捜索した警察は2枚の合板を張り合わせ、四隅に手錠とビニール紐で四肢を固定出来る「拷問台」と、その傍らには鞘に収められた狩猟用ナイフ、
そして、40cm以上もある張り形を発見した。
コールの「拷問台」
この家で「サディスティックな異常性行為」が常習的に行われていたのは明らかだった。
「拷問台」の用途について追求されたウェインは、コールは同性愛者でが幼い少年を好んだ事、コールに少年を紹介する度に金をもらっていた事を告白した。
何故コールを殺す気になったのか、と質問されたウェインは、「ディーンが『人を殺すのは初めてじゃない』と言ったからです」と答えた。
「ディーンは『これまでに何人もの少年を殺して、ボート小屋に埋めた』と言っていました」ウェインの供述をとっていた捜査員2人は、顔を見合わせた。
「コールが3人を殺すと言ったのはただの脅しでは?」程度に思っていた。ところが、これは遥かに恐ろしい事件である可能性が出てきた。
捜査員たちはまだ半信半疑だった。ひょっとして昨日のアクリル塗料のせいで、ウェインの頭はまだ「ラリったまま」なのではないか、と。
とはいえ、一応供述内容の裏づけを取る必要はある。捜査員は質問をした。「君はそのボート小屋に行く道は分かるか?」
「1度しか行った事はありませんが、分かると思います。ハイアラム・クラーク・ロードの近くです」「よし、行ってみよう」
しかし捜査員たちは、これが当時の米国犯罪史上最悪の猟奇的連続殺人事件の幕開けになるとは、思いもしなかった。

過去:邪悪なパートナーとの出会い
1939年のクリスマス・イヴにディーン・アーノルド・コールはインディアナ州ウェインズデイルで、アーノルド・コール妻メアリーの長男として生まれた。
「子供に興味はない」と公言していたアーノルドはメアリーとは性格が合わず、2人はディーンが6歳の時に離婚した。
以後は弟のスタンリーと共に、母メアリーに溺愛されて育った。
1950年には心臓に先天的な疾患がある事が判明し、以後学校での体育の授業に出るのは控えるように医師が指示されている。
1964年、ディーンは軍隊に徴兵された。彼が「自分は同性愛者だ」と自覚したのはこの時である。
彼は「母の経営する菓子製造会社が人手不足で、手伝いたい」と早期除隊希望を申請し認められ、わずか11ヶ月半で名誉除隊となった。
除隊後はメアリーがテキサス州ヒューストンで経営する菓子製造工場を手伝っていた。
ディーンは工場で余った菓子を近所の子供たちにタダで配って歩いたので「キャンディ・マン」(お菓子男)の愛称で親しまれた。
特にザ・ハイツと呼ばれる貧民街では、お菓子をねだる子供たちがディーンの後ろを大勢ついて回るその様から、童話「ハーメルンの笛吹き男」にならい、
「ザ・ハイツの笛吹き男」とも呼ばれた。
母の菓子工場を手伝っていた頃のコール

のちにディーンの共犯者となる、当時12歳だったデヴィッド・オーウェン・ブルックスも、ディーンに菓子をもらっていた1人だった。
工場内でディーンを「誘惑した」アルバイトの少年を、「ディーンを守るため」と称してメアリーはクビにした。
が、アルバイトの少年にはディーンの性癖に気づいている者もいて、「ディーンとは絶対に2人きりにならないようにしている」と断言する少年もいた。
ディーンはデヴィッドにフェラチオを教えた。してくれるたびに5ドルを与えた。
しかし、両親が離婚したデヴィットは母についたため、ポーモンドに引っ越す事になり、2人はしばらく疎遠となる。

メアリーは1968年に菓子工場をたたみ、そしてヒューストンに1人残りフリーとなったディーンは電気工に転職した。
電気工になっても、ディーンは真面目に仕事に打ち込み、たちまち会社や同僚から信頼されるようになる。
父には疎ましがられ、母には溺愛され、心臓に欠陥があり少年時代は同年代と同じ行動が出来ず、仕事は優秀で同僚たちから信頼され、そして同性愛者である事を自覚し、
尚且つ女性との普通の結婚を夢見ていた、犯罪史に残る殺人数を記録する同性愛連続殺人鬼───
ディーンの死から5年後に、米国での最多殺人数を更新するジョン・ゲイシーとディーンには、多くの共通点がある。(ゲイシーは実際に女性と2度結婚している)

1970年、ディーンは15歳になったデヴィットと再会する。今度は父親と暮らす事になったデヴィットは、ヒューストンに戻ってきたのだ。
父親とギグシャグした関係の続くデヴィットは、次第にディーンのアパートで過ごす時間が多くなっていく。
両親が離婚して、当時思春期だったデヴィットが一番飢えていたもの───愛情をコールは与える事によって、デヴィットはますますコールに心酔していった。
「ディーンは本当にいい兄貴分だった………頭も切れるし、気前も良かった」デヴィットがコールを評して言った言葉である。
働き者で、子供たちにも親切なディーンを、近所は誰もが善良な好青年、だと思っていた。

惨劇:床一面を埋め尽くす死体
その日の午後、ウェインはパサデマ警察の捜査官はまずヒューストン市警察に立ち寄り、13日前に行方不明になっている2人の少年の写真をチェックした。
ウェインはその2人がチャールズ・コブル(17歳)とマーティ・ジョーンズである事を確認した。2人ともウェインがコールに「紹介した」少年である。
ヒューストン南西部ハイアラム・クラーク・ロードのボート小屋に到着した捜査陣一行は、11号の小屋の賃借人が死んだ事を大家のメイム・メイニア夫人に説明。
コールが独自にかけた南京錠を破壊する許可を得た。
小屋の中はサウナ風呂のような暑さだった。小屋の中には案の定、ボートは一隻も置いてなく、半分解体した車、そして子供用の自転車などがあった。
土が剥き出しの床には、細長いカーペットを2枚を敷いてあった。何より捜査員の不安を駆り立てたのは、2袋の生石灰だった。
小屋の隅の大きなビニール袋には、男物の衣服がたくさん詰め込まれていた。
入り口にいたウェインはやがて、パトカーを停めてある場所まで戻ると地面に座り込み、両膝を手を抱え込む、いわゆる体育座りをしたまま、完全に黙り込んでしまった。
小屋の中の物を外に運び出した捜査員たちは、車と自転車の登録番号の照合をし、車は中古車販売店から盗まれたもの、自転車は数日前から行方不明となっていた、
ジェームス・ドレイマラという13歳の少年のものであるのを確認した。
小屋の隅の一角が盛り上がっているのを発見したマリカン捜査官は、刑務所からボランティアで来た2人の模範囚人に、そこを掘るように命じた。
15cmほど掘ると、土に白い粉が混じってきた。「生石灰だ、いいぞ、もっと掘れ」さらに掘り下げると凄まじい異臭が漂った。
囚人がゆっくりと土を掘ると、出てきたのは人の顔だった。彼は悲鳴を上げてスコップを放り出すと小屋の外に飛び出し、激しく嘔吐した。
その囚人だけでなく、小屋にいた全員が凄まじい吐き気に襲われたが、1人の捜査員が勇気を振るい、放り投げられたスコップを持ち、作業を続けた。
数分後、捜査員たちはついに透明なビニールに包まれた少年の遺体を掘り出した。年齢は12か13歳くらい、全裸で、殺されてから数日しか経っていないようだ。
ビニールに包まれた少年の遺体は、まさに巨大で邪悪なキャンディのように見えた。
捜査員の1人がすぐにパトカーの無線機に飛んでいき、警察本部に鑑識班の派遣を要請した。

ボート小屋の発掘状態
やがて小屋の周りに、野次馬と報道陣が次第に集まり始めた。ウェインは取材に来ていたラジオ局に頼んで、自動車電話を貸してもらい、母に電話をした。
「ママ、俺ディーンを殺してしまったんだ」「ウソでしょウェイン、あなたがそんな!?」ヘンリー夫人の叫びは、ラジオ局のレポーターにもはっきり聞こえた。
ヘンリー夫人は自分もボート小屋に行きたいと希望したが、これは警察には認められなかった。
2人目の遺体が発見され、さらに2体の少年が遺体が掘り出された。
電話をし終えたウェインは、明らかに動揺していた。「全て、俺のせいだ…」「どうしてだい?」捜査員の1人が尋ねると、ウェインはこう答えた。
「あの子たちをディーンのところに連れて行ったのは、俺なんです…」22時、ウェインは警察本部に呼び戻された。
掘っても掘っても少年の死体が出てくる状況に、捜査官、そして作業員たちは戦慄した。
あるTV局は「床一面に死体が埋まっています」と表現した。最終的に8体の遺体が掘り出され、その日の作業は打ち切られた
捜査員は大家のメイニア夫人に「コールがこのボート小屋をレンタルしたのはいつからです?」と質問すると夫人は「70年の11月からです」と答えた。
夫人から顔を顔を背けた捜査員は「何てこった……」と呟いた。70年以降、ヒューストンで行方不明になっている若者は42名に及んでいるのだ。
その死から16時間も経っていないのに、コールは最悪の連続殺人鬼として、世界中にその名前を知られる事になった。

翌朝、母親と面会したウェインは、取調室でマリカン捜査官と向かい合っていた。
「君がコールのところに連れて行った少年たちについて話してくれないか」と捜査官は切り出した。
ウェインによると、彼がコールと知り合ったのは2年前で、「誰でもいいから少年を自分の家に連れてきたら、1人につき200ドル払う」と持ちかけられた。
しかし、金に困っていなかったウェインは1年は何もしなかったが、その後どうしても金が必要になり、コールの申し出に乗る事にした。
「最初の少年の時ですら全額払ってくれず、その後はパッタリと払ってくれなくなった」そうだが、マリカン捜査官はウェインの話を真に受けなかった。

「だったら、その後も君はコールに少年たちを紹介し続けたのは何故かね。
そもそも、君は最初に『少年を紹介して金をもらった』と言ってるじゃないか。行方不明者には君の友人や幼馴染もたくさんいる。
『俺はホモの性犯罪者に友人たちを200ドルで売った最低の男』という事実を認めたくないから、
金はもらってないなんて言い出し始めたんだろう?」


マリカン捜査官に追求されたウェインは、どんどん供述の辻褄が合わなくなっていき、そして重大な事実を認めた。
「ディーンが少年を殺した時、何件かは自分もその現場にいた」というのだ。これは警察が想像していた事件の状況を180度変えるものだった。
当初はウェインは半分無理やりにコールの「少年狩り」を手伝わされていた、という構図だった。
ところがこの供述により、どうやらウェインは積極的な殺人の共犯者だったのではないか、考えられるようになった。
ボート小屋から出てきた少年の遺体は、最終的に17体に及んだ。1体のかたわらには、切り取られた性器をつめたビニール袋も発見された。
ウェインによると、コールは被害者の少年がまだ生きている内に去勢する事もあったらしい。
コールの犠牲者

犠牲:「笛吹き男」の少年狩り
ヒューストン市警察からマリカン捜査官に電話が入り、ブルックスという男性が、息子のデヴィット・ブルックスを連れて出頭しており、そのデヴィットが、
「ディーン・コールについて話したい事があります」と申し出ているという。
さらにデヴィットは「事件の何件かはウェイン・ヘンリーが関与しています」と供述している、というのだ。
その話をマリカン捜査官から聞いたウェインは動揺するどころか、むしろホッとした様子で「良かった、これで何もかも打ち明けられます」といった。
マリカン捜査官はボート小屋以外にコールが遺体を埋めた場所を知らないか、と尋ねると、ウェインは「あります」と即答した。
サム・レイバーン湖のほとりと、ハイアイランド・ビーチにも、死体をたくさん埋めた、という。

サム・レイバーン湖からも次々に発見される遺体
デヴィットは「殺人に関わったのはウェインのみ、僕はディーンとは2年前に喧嘩別れになってそれっきり連絡もとっていません」という主張をかたくなに続けていた。
そこでマリカン捜査官は、デヴィットが拘置されているヒューストン市警察にウェインを連れて行くことにした。
デヴィットにショックを与えたら、洗いざらい白状するのでは、と思ったからだ。
ウェインは1歳年上のかつての友人を睨んでいった。「俺は全て白状したぞ。デヴィット、お前もそうした方がいい」
「一体何の事だいウェイン? 俺にはお前の言っている事が分からないな」デヴィットは探りを入れるかのごとく用心深く返答したが、しかしウェインはさらにデヴィットを脅した。
「いいや、お前は分かっているはずさ。あくまでとぼけるつもりなら『実は今までの自供は全て嘘で、関与しているのはデヴィットのみです』と言ってやるぞ」
するとデヴィットはマリカン捜査官の期待通り、見る見る顔色を変え泣き出してしまった。
一方ウェインは腹をくくったのか観念したのが、実によくしゃべった。そして合計で9件の殺人に関与し、内2人は自分が殺したのを認めた。

コールが初めて殺人を犯したのは、デヴィットと再会したそのすぐ後と思われる。
1970年9月25日、テキサス大学の学生である21歳のジェフリー・アラン・コーネンが、ヒッチハイクをして行方不明になった。
3年後、彼の遺体はハイアイランド・ビーチで発掘される事になる。鑑識医も死因を特定出来ないくらい遺体は腐敗しきっていたが、手足はロープで縛られていた。
また、ある日コールの部屋に無断で入ったデヴィッドは、2人の少年が裸で、例の「拷問台」に縛りつけられているのを目撃した。
コールは「何勝手に入ってきてるんだ、出て行け!」と激怒し、デヴィッドを追い払った。
後にコールはデヴィットに「あの2人は殺した」と打ち明け、そして口止め料としてグリーンのシボレー・コルベットを買い与えた。

コルベットをもらったデヴィッドは今や、立派なコールの共犯者だった。コールと共にコルベットで街を流し、気に入った少年を見つけると誘い込む。
デヴィッドがウェインをコールに紹介した頃には、殺人は慢性的になっていた。そもそもウェインは、1971年にデヴィットがコールに「獲物」として紹介したのだ。
しかしコールはすぐに、ウェインがいい手下になるだろうと考えた。ウェインには友達が多かったし、金のためにはなんでもしそうに見えたからだ。
ウェインが手下になってからも、犠牲者を見つける方法は変わらなかった。コールとウェインがワンボックスワゴンで街を流し、気に入った少年がいると声をかける。
声をかけられた少年は、ワゴンに自分と同じくらいの少年が乗っているのでまったく不審に思わず、コールのワゴンに乗り込んでいく。
あるいは、コールの近所に住む、いわゆるコールとは顔見知りの少年も多数犠牲になった。上記のジェームズ・ドレイマラを誘ったのも、その手口だった。
食料品店の側にワゴンを停車し、そこにジェームズ少年が通りかかると、コールが声をかけた。
「よう、ジミー。ガレージに山ほどコークの空き瓶があるんだ。なんだったら取りに来ないか? 店に持って行けば、空き瓶代が稼げるぜ」
ワゴンの後ろに自転車を積んで車に乗ったジェームズ少年は、ラマー・ドライブのコールの家に行き、強姦され、拷問され、そして絞殺された。
行方不明の少年がコールと知り合いだった親にとって、もはや息子の生存は絶望的だった。
親たちは「どうしてコールを善良な青年だと思っていたのか」としきりに悔やんだ。

捜査に協力しているウェイン(左)とデヴィット
サム・レイバーン湖のほとりからは、計6体の遺体が発見された。衝撃的な事件にサム・レイバーン湖には世界各国から取材記者が訪れた。
ウェインは「ハイアイランド・ビーチには8人の遺体が埋まっている筈だ」と証言した。しかし見つかった遺体は4体のみで、残る4体はついに発見されなかった。
ハイアイランド・ビーチで発掘作業の協力の最中に記者たちから「どのような拷問が行われたのか?」と質問されたデヴィットだったが、
「あれはアンタたちの言う拷問ではなかったと思います」と答えたきり、口をつぐんでしまった。
ここまでで合計27人の犠牲者が確認され、世界がキャンディ・マンに驚愕した。

裁判:終結のない悪夢
冒頭で、コールがウェインを怒ったのは、ロンダが女性だったから、が大きな理由ではない。
コールは、婚約者が行方不明になり悲観していたロンダが、ウェインと結婚したがっているのは知っていたし、近い内に母が住むコロラド州に引っ越そうと考えていたが、
その際にウェインとロンダも一緒に連れて行ってやろう、と考えていたそうである。
(筆者注:ちなみにロンダの婚約者だったフランク・アーギーアレイは、皮肉な事にコールの27人の犠牲者の内の1人である)
コールが、ウェインがロンダを連れてきて怒ったのは、ティモシーを殺せなくなったからである。そう、ウェインはティモシーを獲物としてコールの家に連れてきたのだ。
ティモシーは事情聴取で「警察を待っている間、ウェインが僕に『お前が俺の友達じゃなかったら、1,500ドル儲かったのにな』と呟きました」と証言している。
警察は何人かの他の少年からも事情聴取をし、ウェインとデヴィットは第一級殺人罪で起訴される事になった。
裁判に出頭するウェイン

新たな事実が発見される度に、世界中からガルベストン捜査当局に対する批判が相次いだ。
確かに、行方不明になった少年たちの捜索願を「単なる家出でしょう」と捜索に全く尽力していなかったのだから、無理もない。
これ以上の失態と無能ぶりを晒す訳にはいかないガルベストン当局は、事件の終結を急いだ。
「ハイアイランド・ビーチの残り4体の遺体を捜索したい」というヒューストン市警察の要請をあっさり却下し、コールの犠牲者の発掘は27人で打ち切られた。
菓子工場時代に、工場内の個室や工場裏でコールが穴を掘っていたのを、当時パートで働いていたルビー・ジェンキンス夫人が目撃している。
もしこれが遺体を埋める穴だったとすれば、コールの最初の犯行は1970年前に遡ることになる。
ところが捜査当局は、ジェンキンス夫人の指摘した場所をほんの少し掘っただけで「奥さん、これは古いセメントですよ。ここに死体が埋められている訳ありません」と、
捜査をすぐに打ち切ってしまっている。
警察のまとめによると、コールの連続殺人には約半年の謎の空白がある。
1972年の最後の犠牲者っぽいマーク・スコットの殺害が12月下旬、そして1973年の最初の犠牲者とされるビリー・ローレンスが姿を消したのは6月11日だ。
コールの殺人への欲求を考えると、これはかなり不自然である。あと6人か7人は殺されている、と見ていいだろう。
こう考えると、コールの犠牲者は27名には留まらず、最大で35人にまで達している、と考えた方が自然なように思える。

予審を経て1974年6月から始まった裁判は翌7月まで続いた。弁護団は精神異常を主張したが認められず、ウェインとデヴィッドは陪審団に有罪の評決を下された。
ウェインは起訴された9件の内、6件について殺人(マーク・スコット殺害)、殺人幇助などで99年の終身刑の6連続遂行、合計594年の禁固刑を宣告された。
デヴィットは1件の殺人(ビリー・ローレンス殺害)で有罪となり、99年の終身刑1回が言い渡された。

5年間を刑務所で過ごしても、まだ23歳のウェイン
1979年5月、23歳になったウェインは、有罪判決と重過ぎる刑罰を不服とし、再審請求をしたが訴えは実らず、再び有罪判決を受けただけだった。
1980年、ウェインとデヴィットには仮釈放権が発生し、以後2人は3年毎に仮釈放の申請をしているが───申請の度に却下されている。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.64 キャンディ・マンの少年狩り 仮面の下の連続殺人鬼 (デアコスティーニ)
世界殺人者名鑑 (タイムライフ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

ミステリーの女王、謎の失踪

緑の眼に卵型の輪郭、ピンとはね上がった口髭をたくわえた愛嬌のある外見でお馴染み、「灰色の脳細胞」をフル活用する名探偵エルキュール・ポワロ
名探偵エルキュール・ポワロ

編み物や刺繍、庭いじりが趣味で紅茶をたしなむ姿がお似合いのおばあちゃん探偵ミス・マープル
おばあちゃん探偵ミス・マープル

これら愛すべき名探偵たちの生みの親でギネスブックにも「出版数全世界で約20億冊、史上No.1のベストセラー作家」として認定されていた、
「ミステリーの女王」ことアガサ・クリスティ。
(筆者注:現在認定されているのは、同じ英国出身の女流作家である「ハリー・ポッター」シリーズの産みの親、J・K・ローリング)
奇抜なトリックの数々と複雑怪奇な人間関係を上手く融合させたアガサの作品群は、後世のミステリー小説や推理クイズ本などにも、多大な影響を残している。
そのアガサだが、一度まさに自身の作品のような非常に奇妙な、謎の失踪で話題になった事があるのだ。
ミステリーの女王ことアガサ・クリスティ

1926年に「アクロイド殺し」を発表し文壇の話題をさらった、当時36歳だったアガサは新進気鋭の女性ミステリー作家として注目されていた。
(筆者注:『アクロイド殺し』は名探偵ファイロ・バンスの生みの親である作家ヴァン・ダインが『読者に対する詐欺行為』と糾弾するなど当時ミステリー作家、
ファンの間で賛否両論が続出したほどである)
12月3日、アガサはロンドン近郊の田園都市サニングデールの自宅から22時ごろ、住み込みのメイドに行き先も告げず「外出してくるわ」とだけ言い残し、
愛車のモーリスに乗って夜のドライブに出かけたまま、忽然と姿を消してしまったのだ。
(アガサが信頼していた秘書のショーロットと、夫であるアーチボルト・クリスティ大佐には『ドライブに行ってくる』と手紙を残している)
翌朝、彼女の自宅から1時間ほどの田舎道に、草むらにボンネットから突っ込んでいるアガサのモーリスが発見された。
車内にはアガサの運転免許証、毛皮のコート、化粧セットなどが残されており、警察はすぐに捜査を開始。
近くには底なし沼もあり、そこにもダイバーを潜らせて大々的に調べたが手がかりはまったく得られず、捜査は暗礁に乗り上げた。

「新進女性ミステリー作家アガサ・クリスティ、謎の失踪!?」

マスコミはセンセーショナルに書きたて、そしてアガサのプライベートが金銭面以外では現在どん底である事も暴露された。
最愛の母親を亡くし、その直後に夫であるクリスティ大佐が浮気していた事も発覚。
現在離婚協議中であり、不眠や食欲不振に悩まされ、神経的にかなり参っている状態だった、など………
アガサがいなくなると、一番得をするのは夫である大佐であるため、当初世間の疑惑の目は一斉に大佐に向けられた。
「離婚に中々同意しようとしないアガサを亡き者にしたのではないか?」と。しかし、大佐には完璧なアリバイがあった。
大佐は「アガサの失踪に関して有力な情報を提供してくれた方には500ポンド(当時のレートでは今の約200万円)の謝礼を払います」と新聞に広告を載せた。
大佐の犯行ではないとすると、アガサが失踪した理由は何だろうか? 

「新作のトリックが実際に可能か実験しているのでは?」
「単に夫である大佐への当てつけでは?」
「自作自演の売名行為では?」

世間ではアガサが自らの意思で失踪した、という諸説も飛び交い始めた。

そんな騒ぎの中、250マイルほど離れたノース・ヨークシャー州のハローゲートのオールド・スワン・ホテルに、テレサ・ニールという赤毛の女性が滞在した。
テレサはアガサ失踪の翌日から高級ルームに宿泊し、他の客たちとダンスを楽しみ、散歩に出かけるといった毎日で、特に変わったところはなかった。
しかし、ホテルの給仕長がアガサの失踪事件を知り「テレサ・ニールという客が、新聞に出ていた女性作家にそっくりなんです」と警察に通報。
警察が2日に渡りひそかに調査すると、大佐の愛人がナンシー・ニールという名前であり、テレサが同じ姓を名乗っている事と、
さらに「最近南アフリカから戻ったテレサ・ニールの所在を知っている方はご一報を。EC4タイムズ社私書箱R702」という奇妙な広告を、
タイムズ紙に掲載している事が分かったのだ。
アガサ失踪から11日目の12月14日の夕方、警察と共にホテルを訪れたクリスティ大佐は流行の服に身を包んだテレサと対面、妻アガサであると正式に確認。
当時は記者としてこの事件を取材していた、のちの彫刻家リッチ・コールダー卿によると、アガサは落ち着き払った様子で
「記憶喪失にかかっていたの」と答えたという。
アガサが宿泊していたオールド・スワン・ホテル

その後はクリスティ大佐も「妻は一時的な記憶喪失だった」と繰り返し、アガサを診断した医師たちもこれに同調したが、当然のように世間は納得しなかった。
特に不可解なのは、失踪時はカーディガン、ニットスカート、ベロア帽子という軽装で、数ポンドの現金しかもっていなかったはずのアガサだが、
発見された時には流行の服に身を包み、300ポンドもの大金を所持していた。
一体これらの金は、どうやって工面したのか? あの奇妙な広告はなんだったのか? 何故夫の愛人そっくりの偽名を使ったのか?
自分の失踪記事を読んでも分からないほどの記憶喪失だったのに、どうしてホテルの給仕や他の客からは正常に見えたのか?


失踪の理由としては、一時的な記憶喪失と発作的なヒステリーなどが考えられる。
大佐から離婚を迫られていたが、決して愛人の名前を公表しないようにと口止めされ、錯乱状態に陥り一時的に記憶喪失になったアガサが、
愛人の名前を公表して夫の名誉を傷つけたいという潜在意識に従った、という説である。
確かに可能性の高い仮説だが、しかし、これでは発見された時の金銭的な理由に説明がつかない。

その後、アガサはクリスティ大佐と離婚、13歳年下の考古学者と再婚し「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」といった傑作を次々と発表、
ミステリーの女王の名を欲しいままにした。
しかし、他界するまで50年以上の間、この失踪事件については語ることはなかった。
自伝でも一言も触れることはなく、自分の作品のように「事件の真相」を明かす事はなく、ついに真実を墓場まで持っていってしまった。
のちにアガサの親友となったコールダー卿によると、「あの失踪事件は彼女の作品のスタイルにもとづいて計算されたものだった」と語り、
アガサ自らがシナリオを書き、主役を演じたのだとほのめかしている。
本当ならばTVドラマで名探偵ポワロを演じたデヴィッド・スーシェ並みの役者という事になるが、真実は不明である。

参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)
世界の未解決事件53 (PHP研究所)

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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