世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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ミステリーの女王、謎の失踪

緑の眼に卵型の輪郭、ピンとはね上がった口髭をたくわえた愛嬌のある外見でお馴染み、「灰色の脳細胞」をフル活用する名探偵エルキュール・ポワロ
名探偵エルキュール・ポワロ

編み物や刺繍、庭いじりが趣味で紅茶をたしなむ姿がお似合いのおばあちゃん探偵ミス・マープル
おばあちゃん探偵ミス・マープル

これら愛すべき名探偵たちの生みの親で、ギネスブックにも「出版数全世界で約20億冊、史上No.1のベストセラー作家」として認定されている、
「ミステリーの女王」ことアガサ・クリスティ。
奇抜なトリックの数々と複雑怪奇な人間関係を上手く融合させたアガサの作品群は、後世のミステリー小説や推理クイズ本などにも、多大な影響を残している。
そのアガサだが、一度まさに自身の作品のような非常に奇妙な、謎の失踪で話題になった事があるのだ。
ミステリーの女王ことアガサ・クリスティ

1926年に「アクロイド殺し」を発表し文壇の話題をさらった、当時36歳だったアガサは新進気鋭の女性ミステリー作家として注目されていた。
(筆者注:『アクロイド殺し』は名探偵ファイロ・バンスの生みの親である作家ヴァン・ダインが『読者に対する詐欺行為』と糾弾するなど当時ミステリー作家、
ファンの間で賛否両論が続出したほどである)
12月3日、アガサはロンドン近郊の田園都市サニングデールの自宅から22時ごろ、住み込みのメイドに行き先も告げず「外出してくるわ」とだけ言い残し、
愛車のモーリスに乗って夜のドライブに出かけたまま、忽然と姿を消してしまったのだ。
(アガサが信頼していた秘書のショーロットと、夫であるアーチボルト・クリスティ大佐には『ドライブに行ってくる』と手紙を残している)
翌朝、彼女の自宅から1時間ほどの田舎道に、草むらにボンネットから突っ込んでいるアガサのモーリスが発見された。
車内にはアガサの運転免許証、毛皮のコート、化粧セットなどが残されており、警察はすぐに捜査を開始。
近くには底なし沼もあり、そこにもダイバーを潜らせて大々的に調べたが手がかりはまったく得られず、捜査は暗礁に乗り上げた。

「新進女性ミステリー作家アガサ・クリスティ、謎の失踪!?」

マスコミはセンセーショナルに書きたて、そしてアガサのプライベートが金銭面以外では現在どん底である事も暴露された。
最愛の母親を亡くし、その直後に夫であるクリスティ大佐が浮気していた事も発覚。
現在離婚協議中であり、不眠や食欲不振に悩まされ、神経的にかなり参っている状態だった、など………
アガサがいなくなると、一番得をするのは夫である大佐であるため、当初世間の疑惑の目は一斉に大佐に向けられた。
「離婚に中々同意しようとしないアガサを亡き者にしたのではないか?」と。しかし、大佐には完璧なアリバイがあった。
大佐は「アガサの失踪に関して有力な情報を提供してくれた方には500ポンド(当時のレートでは今の約200万円)の謝礼を払います」と新聞に広告を載せた。
大佐の犯行ではないとすると、アガサが失踪した理由は何だろうか? 

「新作のトリックが実際に可能か実験しているのでは?」
「単に夫である大佐への当てつけでは?」
「自作自演の売名行為では?」

世間ではアガサが自らの意思で失踪した、という諸説も飛び交い始めた。

そんな騒ぎの中、250マイルほど離れたノース・ヨークシャー州のハローゲートのオールド・スワン・ホテルに、テレサ・ニールという赤毛の女性が滞在した。
テレサはアガサ失踪の翌日から高級ルームに宿泊し、他の客たちとダンスを楽しみ、散歩に出かけるといった毎日で、特に変わったところはなかった。
しかし、ホテルの給仕長がアガサの失踪事件を知り「テレサ・ニールという客が、新聞に出ていた女性作家にそっくりなんです」と警察に通報。
警察が2日に渡りひそかに調査すると、大佐の愛人がナンシー・ニールという名前であり、テレサが同じ姓を名乗っている事と、
さらに「最近南アフリカから戻ったテレサ・ニールの所在を知っている方はご一報を。EC4タイムズ社私書箱R702」という奇妙な広告を、
タイムズ紙に掲載している事が分かったのだ。
アガサ失踪から11日目の12月14日の夕方、警察と共にホテルを訪れたクリスティ大佐は流行の服に身を包んだテレサと対面、妻アガサであると正式に確認。
当時は記者としてこの事件を取材していた、のちの彫刻家リッチ・コールダー卿によると、アガサは落ち着き払った様子で
「記憶喪失にかかっていたの」と答えたという。
アガサが宿泊していたオールド・スワン・ホテル

その後はクリスティ大佐も「妻は一時的な記憶喪失だった」と繰り返し、アガサを診断した医師たちもこれに同調したが、当然のように世間は納得しなかった。
特に不可解なのは、失踪時はカーディガン、ニットスカート、ベロア帽子という軽装で、数ポンドの現金しかもっていなかったはずのアガサだが、
発見された時には流行の服に身を包み、300ポンドもの大金を所持していた。
一体これらの金は、どうやって工面したのか? あの奇妙な広告はなんだったのか? 何故夫の愛人そっくりの偽名を使ったのか?
自分の失踪記事を読んでも分からないほどの記憶喪失だったのに、どうしてホテルの給仕や他の客からは正常に見えたのか?


失踪の理由としては、一時的な記憶喪失と発作的なヒステリーなどが考えられる。
大佐から離婚を迫られていたが、決して愛人の名前を公表しないようにと口止めされ、錯乱状態に陥り一時的に記憶喪失になったアガサが、
愛人の名前を公表して夫の名誉を傷つけたいという潜在意識に従った、という説である。
確かに可能性の高い仮説だが、しかし、これでは発見された時の金銭的な理由に説明がつかない。

その後、アガサはクリスティ大佐と離婚、13歳年下の考古学者と再婚し「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」といった傑作を次々と発表、
ミステリーの女王の名を欲しいままにした。
しかし、他界するまで50年以上の間、この失踪事件については語ることはなかった。
自伝でも一言も触れることはなく、自分の作品のように「事件の真相」を明かす事はなく、ついに真実を墓場まで持っていってしまった。
のちにアガサの親友となったコールダー卿によると、「あの失踪事件は彼女の作品のスタイルにもとづいて計算されたものだった」と語り、
アガサ自らがシナリオを書き、主役を演じたのだとほのめかしている。
本当ならばTVドラマで名探偵ポワロを演じたデヴィッド・スーシェ並みの役者という事になるが、真実は不明である。

参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)
世界の未解決事件53 (PHP研究所)

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無心の少年は、公国の跡継ぎではなかったのか?

1828年5月26日、聖霊降臨の月曜で祝日だったその日、バイエルン王国(現ドイツ)のニュルンベルグのウンシュリット広場に人は少なかった。
夕方に差し掛かった17時ごろ、地元で靴屋を営むジョルゲ・アイヒマンは広場の片隅にたたずむ、奇妙な少年を発見した。
少年は小汚い格好で、まるで何かに怯えたような様子だった。
不審に思ったアイヒマンは少年に話しかけると、少年は黙っているか「分からない」とだけ機械的に応答するのだった。
アイヒマンがふと少年の足を見ると、怪我を負っていたことに気がついた。靴から血が滲んでいたのである。
アイヒマンはかがんで少年の靴を脱がせ、透き通るような青白い足を眺めた。すると少年のまだ幼い足にはたくさんの水ぶくれが出来ているのに気づいた。
通常、人間の膝の裏は折り曲げるためにくぼみになっているが、少年の足はまるでこれまで一度も足を曲げた事がないようにピンとまっすぐ伸び、
むしろ反対側へとわずかに湾曲しているようにすら見えた。アイヒマンはいよいよ不審に思った。
「この少年はひょっとして、これまで一度も歩いた事さえないのではないか?」
謎の少年カスパー・ハウザー
少年は手に持っていた2通の手紙をアイヒマンに手渡した。その宛先は1通は第4騎兵隊長へ、そしてもう1通は第6騎兵連隊へと当てたものだった。
アイヒマンはとりあえずその手紙を手掛かりに、第4騎兵隊長であるヴェセニヒの元へと少年を連れて行くことにしたのである。
しかし、そこでの少年の行動はまた彼らを困惑させるものだった。
少年はまるで、それまで火というものを見たことがないかのようにロウソクの火に触れて火傷したり、部屋の隅に置かれていた古時計を異常に怖がったりした。
また少年は食べ物を与えられたが、パンと水以外は一切口にすることはなかった。それ以外の食べ物は食べてもすぐに吐き戻してしまうのである。
そこでひとまずアイヒマンたちは手紙を調べることにした。しかし、その手紙の内容はさらにまた、一層彼らを困惑させる謎めいたものだったのである。

「拝啓 隊長殿へ 
閣下の軍隊を志望する若者を隊長殿のもとへ送ります。この子は1812年10月7日に私の元に来ました。
この子の母親は私にその養育を頼んできたのですが、しかし、私には他に子供もおり、育てる余裕がありません。
また、私はこの子を一度も家の外に出したことがありませんでした」


2通目の手紙には以下のような事が記されていた。

「この子供は洗礼を受けています。名前はカスパー。あなたがこの子に姓を与えてください。
この子の父親は騎兵でした。彼が17になったら、ニュルンベルクの第6騎兵隊に参加させてください。
それはこの子の父親がいた部隊です。この子は1812年4月30日に生まれました。
私は貧乏で、この子の面倒を見ることができません。この子の父親は既に亡くなっています」


一体誰がこの手紙を書いたのだろうか。いや、それ以前に。この奇妙な少年は、一体何者なのか?
彼らはひとまず少年に様々な事を尋ねてみることにした。
「君はどこから来たのか?」「君の名前は?」「年齢は?」「お父さんは?」「好きな食べ物は?」
しかし、少年は全く彼らの言葉を解せない様子で、ただ機械的に「分からない」「私は父のように軍人になりたい」「ウチの馬」と答えるだけだった。
それはまるで、彼が誰かに教えられた、唯一の言葉であるかのようだった。彼はおそらく「分からない」の意味さえ、分からなかったのだろう。
そこでヴェセニヒ隊長はひとまず、少年に紙を与えてみた。ひょっとしたら筆談なら出来るのではないかと考えたのである。
とにかく何でもいい、少年と意思の疎通をしたい。すると驚くべきことに、少年は紙とペンを受け取ると、嬉しそうな様子で、何かを書き始めたのだった。
少年が紙に書いたのは Kaspar Hauser
それ以来、この不思議な少年はカスパー・ハウザーという名で知られるようになった。

広場に現れたカスパーのイラスト
カスパーは引き取り手もなく警察も困り果ててしまい、とりあえず浮浪罪の名目で警察が犯罪者を収容する目的で作られた小さな塔の中で暮らすことになった。
部屋には小さな窓が取り付けられており、その窓は公衆に面していたため、その窓の下には、さっそく話題となった少年を見に、たくさんの見物客が訪れた。
しかしカスパーは部屋の中でほとんど動くことはなく、また毎日絶え間なく訪ずれる見物客にもほとんど気に留めていない様子だった。
ある日、見物客の1人がカスパーの部屋に向かって馬のオモチャを放り投げた。カスパーはその馬の人形を見るなり、「ROSS!(馬)」と叫んだ。
(筆者注:後に明らかになることだが、カスパーはその時決して馬を識別した訳ではなく、彼は犬も猫も4本足の動物は全てROSSと呼んでいたという)
そして友達を得たカスパーは毎日その人形と飽きることなく遊び続けた。
食事の時間には必ずその人形にも餌を与え、まるで人形に命が無いことを知らないかのような素振りだった。
(実際、人間社会に慣れ教育を施されるまで、カスパーは生物と物の違いが分からなかったということである)

そしてその後、カスパーの特異な五感能力が次々と明らかになる。
まず、コーヒーやビールといったものは、それらが部屋に運び込まれただけでカスパーは気分が悪くなってしまうのである。
ワインにいたってはその匂いだけで酔ってしまうほど敏感だったという。
また鼻だけでなく、その目も明らかに普通の人間とは違っていた。彼は暗闇の中で完全に物を見ることができたのだ。
彼は真っ暗な中で聖書を読むという実験を成功させ、見事その能力が本物であることを実証したという。
またその耳も恐ろしく敏感で、隣の部屋で囁く声を聞き分ける事ができた。

それから後、カスパーの元を次々と学者や著名人が訪れた。
中でも彼に格別の興味を示したダルマー教授は、ほぼ毎日に渡って彼の元を訪れ、物心が付き始めたカスパーの人生最初の「教師」といってよかった。
また当時の市長もカスパーについては特別処置を取り、熱心に彼の成長を記録し続けたという。
こうして周囲の善意、あるいは好奇心に支えられ、カスパーがニュルンベルクに現れてから数ヶ月が過ぎた頃、彼はまるで別人のように成長していた。
カスパーの知能はその年齢の通常の人並みに達し、言葉を流暢に喋るようになっていたのである。
それはまるで、新しい言葉を次々に「覚える」というよりは遠い昔に知っていた言葉を「思い出して」いるかのような凄まじい吸収ぶりだったという。
会話も出来るようになったカスパーは、周囲の勧めもあって、まず回顧録を著わすことに着手した。
そして彼の「まだ幼稚だが、しかしとても覚え立てとは思えない」言葉で書かれたその文章で、カスパーのその驚くべき過去がついに明らかになった。

彼が16歳で表に出るまで暮らしていた場所は奥行き2メートル、幅は1メートル。窓はなく、立ち上がることができないほど天井が低かった。
彼はその場所を「オリ」と呼んでいた。また床は汚れていて、寝床代わりに干し草だけがつまれていた。その部屋に唯一、白馬のオモチャが置いてあったという。
毎朝目を覚ますと、決まって床にパンと水が置かれていた。しかし彼はそれが誰かの行いではなく、自然のことだと思い込んでいた。
それもそのはず、その部屋にいた10数年の間、彼と外部との接触は皆無だった。その暗く四角い部屋だけが彼にとっての、全世界だったのである。
つまり、カスパーには自分が「閉じ込められている」という認識すらなかったのだろう。その部屋には「外の世界」を想像するきっかけさえなかったのだ。
水は時々苦く感じる事があり、その後は決まって深い眠りに落ちた。そして目を覚ますと髪の毛や爪、衣服が綺麗になっていたとされている。
(水には睡眠薬が入っていたと考えられる)
そんなある日、カスパーの部屋に突然男が現れ、カスパーに3つの言葉を教えた。
それは「わからない」「私は父のように軍人になりたい」「ウチの馬」というものだった。
さらに男は「カスパー・ハウザー」という名の書き方を教えると、カスパーは馬に乗せられ、ニュルンベルクの公園へと連れられた。
そしてその日、少年は靴屋のアイヒマンに拾われたのである。

それからというもの、カスパーは一躍有名人になった。
彼はその物珍しい存在感で社交界の貴族たちに愛され、その子供のような純粋さで、様々な場所に呼ばれる身分となった。
多くの人々は彼のことをその秘密めいた出生から面白がり、カスパーは「ヨーロッパの子」とまで呼ばれるようになった。
いずれにせよ、彼の存在は退屈な田舎町であるニュルンベルクに、一抹の話題をもたらしたことは事実なようでである。
一部の者たちはかたくなに反論したが、市はいよいよ税金の中から少年の生活費を捻出することに決めたのである。
さらに市では少年の出生の秘密を探るために懸賞金をかけて情報を募った。
カスパーの話では、ニュルンベルクに連れてこられるまでは大体馬で1日という距離であったため、閉じ込められていたのは町のすぐそばではないかと推測された。
そして、そうした手がかりを元に市では様々な場所を探索したが、結局、そのような小部屋が発見されることはなかった。
(筆者注:現在ではカスパーが閉じ込められていたのは、ノイマルクトにある小さな水城ピルザッハ城の小部屋という可能性が高くなっている。
ニュルンベルクからおよそ35キロ程の距離にあり、1924年秘密の小部屋が発見され、その広さや形はカスパーが説明したものと一致している。
1982年の改装工事で、瓦礫の下から白馬のオモチャが発見されたが、それもカスパーが説明してみせたものに正確に合っていた。
また半ばカビの生えた衣服の一部もそこで見つかっている)

そしてそれから間もなくして、カスパーがいよいよ塔を出て市民として暮らすことが決まると、ダルマー教授が彼の里親として名乗りをあげた。
ダルマー教授はカスパーの磁力や金属に対する能力に興味を持っていたからである。カスパーは、人生で最も幸せな時期を送ることになった。
しかしそのころから、カスパーがこの町にきた当初から囁かれていた噂が、また再浮上しはじめたのである。
カスパーの容姿が当時の貴族バーデン王室カール大公にそっくりなことから、「カスパーは王室の血族なのでは?」と噂されたのだ。
「カスパーは元々王の後継者であったが、何らかの理由により隔離され、小部屋に幽閉された」といったものである。
事実、そうした噂を裏付けるようにカスパーが生まれたとされる1812年ころ、バーデン王室で子供2人がいなくなるという騒ぎがあった。
そんな騒ぎをよそに、カスパーはダルマー教授の元で幸せな日々を送っていたが、事件は突然訪れた。
ニュルンベルクで拾われた日から17ヶ月が過ぎようとしていた1829年10月17日のことである。
ダルマーの家の中で、カスパーがシャツをビリビリに破かれ、頭から血を流して倒れている姿で発見されたのだ。
何とか一命を取り留めたカスパーは、ダルマー教授に事件のいきさつを話した。覆面をつけた男が突然現れ棍棒のようなもので殴られたというのである。
そして事件を受けた市ではカスパーに特別に24時間態勢で警護をつけることにした。
町の多くの人々はそうした市の計らいを妥当なものだと考えていたが、一部では既にカスパーに対する猜疑心が広まりつつあったのも事実である。
カスパーは既に失われはじめた自分への注目を取り戻すため、自作自演でそうした暗殺未遂劇をでっちあげたのではないかという噂が流れ始めたのである。

しばらくして、英国のスタンホープ卿がカスパーに興味を示した。スタンホープはカスパーが王室の末裔であるという噂に注目していたのだ。
しかし、そんなスタンホープの思惑を知らずに、すっかり彼の事を気に入ったカスパーは、その後しばらくの間スタンホープと共に過ごすことになった。
だが、そのような関係もおよそ長くは続かなかった。スタンホープはすぐにカスパーに嫌気が指した。
カスパーはそのころから徐々に自己中心的に、そして傲慢に振る舞うようになってしまったと伝えられている。
カスパーがうっとうしくなったスタンホープは、カスパーを友人であるメイヤー博士のもとに住まわせることにした。
メイヤー博士の家はニュルンベルクから遠く離れたアンスバッハという町にあり、そこでヒッケルという名の護衛をつけたのだ。
しかし、カスパーはそこでの生活とヒッケルを激しく嫌い、ニュルンベルクでのダルマー教授との充実した日々を思い出し、たびたび涙を流していたという。

クリスマスを目前にした1833年12月14日。その日、カスパーはメイヤー博士のリビングルームで多量の血を流して倒れているのが発見された。
カスパーは右胸を刺されており、重傷だった。途切れ途切れのカスパーの話は以下のようなことだった。
その日、彼はある男に面白い話があるから、と公園に呼び出された。(護衛なしでと言われたかどうかは定かではない)
そして公園に向かったところ、黒づくめの男が現れ、「カスパー・ハウザーか?」と訪ねた。
カスパーがうなづくと男はカスパーに財布を手渡し、それと同時にいきなりナイフでカスパーを突き刺したということだった。
その後警察とヒッケルがすぐにカスパーが刺された公園に向かうと、そこには「逆書き」でメッセージが書かれた財布が落ちていたのだ。
(逆書きとは犯行声明などの際にあえて利き手とは逆の手で書く事で筆跡を崩し、筆跡からの犯人特定を鈍らせる方法である)
メッセージは「自分はカスパーのことを知っているし、カスパーも自分のことを知っている。俺の名はM・L・Oだ」という内容のものだった。
しかし、ヒッケルはさらに奇妙な事実に気がついた。その日は雪だったが、そこには不思議と1人分の足跡しか残されていなかったのである。
そしてヒッケルは推測した。おそらく事件はカスパー自身の狂言による自傷なのではないか。そして軽く刺すつもりが誤って深く刺し過ぎたのではないか。
結局、カスパーはそれから3日後に死亡した。享年21歳の彼の最後の言葉は「自分でやったんじゃない」というものだったという。
カスパーは闇からふらりと現れ、また闇に消えた。本当に王族の血縁者だったのか、それとも稀代の詐欺少年なのか。ついにその正体が明らかにならないままに。

1996年、シュピーゲル誌が依頼し行われたDNA鑑定によると「カスパーはバーデン家とは何も関係がない」という判定が出て、
また、2002年ミュンスターの法医学研究所は「生物学的な観点から、カスパーはバーデン家の一員(血縁者)である」という鑑定を出した。

彼は生前のある日、最も信頼していたダルマー教授と美しい見晴らしの丘に出かけ、大喜びした後に、こう語ったという。

「私はあの小部屋から出てこなければ良かった。
(自分を小部屋から連れ出した)あの男はどうして私を外へ連れ出したりしたんでしょう。
あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。
もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、
経験しないですんだのに……」


参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)
世界不思議物語 (リーダースダイジェスト)
謎のカスパール・ハウザー (河出文庫)
参考サイト
1828年独、闇の中から現れた少年カスパー・ハウザーの謎

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レンヌ・ル・シャトーの財宝の謎

時は1885年6月1日。
フランス南部のピレネー山脈の北側ラングドックにある住民200人程度の、レンヌ・ル・シャトーという小さな寒村。
この村にベランジェ・ソニエールという名の、端正な顔立ちをした33歳の新しい教区司祭が赴任してきた。
ソニエール司祭
ソニエール司祭は非常に知的で熱心で、このような小さな村よりももっと大きな街の司祭が似合うと思われたが、彼はレンヌ・ル・シャトーに就任する前に
『政府から給料をもらう立場の司祭』でありながら政府への批判演説をして1年間の停職処分を受けており、言い返せば重要なポジションへの昇進を絶たれ、
このような「閑職」に追いやられたとも考えられた。
ソニエール司祭は大変貧しかったが、熱心なために村人の信望は厚く、村人たちからの寄付金で慎ましく暮していた。
やがて彼はマリー・デナルノーという18歳の少女を家政婦として雇い入れ、男女ながら2人に友情が芽生えるほど深い仲になったという。
とはいえ、人口200人の村ではさすがに司祭も暇をもてあます事が多かったようで、時間を語学や歴史の研究に費やし、6年が過ぎた。

1891年。ガッシリとした体格で体力的に恵まれて精力的だったソニエール司祭は、1059年に建てられたと伝えられる荒れ果てた教会の修復をはじめた。
そして柱の一本が空洞になっているのに気づいた彼は、中から木製の筒に入った古い4枚の羊皮紙を発見。
4枚の羊皮紙に書かれていた文章は何やら暗号のようなものらしかった。
苦心惨憺の末司祭は暗号を解読。どうやら「この宝物は、王ダゴベール2世とシオンに属する。その人はここで死ぬ」という文章が読み取れる。
興味を持った司祭は上司のビヤール司教にこれを見せ、司教も大いに興味をそそられ、司祭に暗号の専門家に相談する事を薦めた。
何とか旅費を工面した司祭はパリへ飛び、戻ってくると教会の修復作業を再開(その際雇っていた作業員を全員解雇している)。
この日を境に、貧しかった司祭の生活は一変する事になる。
祭壇の下の石板を外し、純金や純銀のメダリオンや延べ棒がギッシリと入った壺を掘り当てたという。これを現金に換金したらしいのだ。
その金額はいかほどかは今では知る由もないが、当時銀行の無かったこの村では、パリの銀行が司祭との連絡の為だけに駐在員を派遣した程だ。
相当のものと見ていいだろう。
金に困る事のなくなった司祭は、村へ繋がる泥道を舗装し、村中に下水を完備させ、豪華な庭付きの別荘も建て、教会も新たに建て直した。
(ただ、新しい教会の外見は非常に奇天烈で、悪魔アスモデウスの絵も飾っている。この教会は今も残り観光名所となっている)
また、著名な人々が定期的に司祭の元を訪れるようになった。
歌手エンマ・カルヴェやオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフの従兄弟であるヨハン・フォン・ハプスブルグ大公などである。
司祭の客人には、家政婦マリーがとびきりの料理とワインを振舞った。
しかし、急に羽振りが良くなった司祭を不審に思った教会当局は、彼を呼び出し詰問したが司祭は
「実はこれはある富豪の方からの献金なのですが、その人の名は決して口外しないという約束なのです」
と断固として金の出所についての弁明を拒否したという。

ここで疑問なのは。一体、司祭は祭壇の下に財宝があるとどうして分かったのか。掘り当てた財宝は、誰のものなのか。誰が埋めたのか、という事だろう。
有力なのは、この財宝はテンプル騎士団の残党で結成された秘密結社、シオン修道会のものだ、という説である。
(世界中でベストセラーとなり映画にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』で一躍メジャーとなった、あの秘密結社である)
テンプル騎士団とはキリスト教巡礼者を警護する為に結成された自警団で、信者達からの寄付により莫大な富を蓄えたという。
その管理権の一切は、シオン修道会が持っていたというのだ。
シオン修道会の財宝説を唱える人々は、司祭がパリを訪れた際の以下の3点の行動に注目している。

1.音楽の教科書でもおなじみの作曲家、クロード・ドビュッシーに会っている。 
2.パリを去る際にルーブル美術館に立ち寄り、3枚の絵の複製を購入。その内の1枚はニコラス・プーサンの『アルカディアの牧童』であった。 
3.パリから村に戻った司祭は、教会内にあるマリー・ブランシュフォール侯爵夫人の墓の碑文を削り取るという行動に出た。 

暗号を解く鍵?

侯爵夫人の墓に刻まれていた碑文は、暗号を解くキーワードが隠されていたという。
その言葉とは『剣』と『死』で、プーサンの絵と絡み合わせると『レンヌ・ル・シャトーにお宝あり』的な意味合いになるらしい。
しかし、いくら司祭が勉強熱心だったとはいえ、素人の司祭にこうも易々と解かれるような暗号では、暗号の意味は無い。
むしろ「司祭は誰かから暗号解読の助言をもらったのでは?」と考えるのが自然だろう。
それが上司のビヤール司教が薦めた「暗号解読の専門家に会え」という助言でもあり、そしてその人物こそが作曲家ドビュッシーである。
ドビュッシーもまた、シオン修道会のメンバーであった、という。

また、この財宝はキリスト教カタリ派のものではないか、という説もある。
実際シオン修道会のものにしろカタリ派のものにしろ、レンヌ・ル・シャトーは今でも金の延べ棒や黄金のキリスト像の一部が見つかるという。

大金を手にしてからの司祭の行動を見て見ぬふりが出来なくなったカトリック教会は司祭を聖物販売罪で告発、地位を剥奪するが、
司祭はバチカンに出向いて処分の不当性を直訴、無罪を勝ち得ている。
まるでバチカンは司祭に弱みを握られているとしか思えないような対応をしている事から、

「司祭は財宝ではなく、キリスト教にとってまずい秘密を発見したのでは?
それを元に多額の口止め料をもらい続けていたのでは?」


という説を唱える人もいる。
いずれにせよ、司祭が重大な秘密を発見したのは想像に難くない。

司祭は1917年にこの世を去るが、息を引き取る直前に隣の教区の神父を呼び、最後の告白をしたという。
その内容があまりに衝撃だったのか、部屋から出てきた神父は顔面蒼白。以後2度を笑うことはなかった、と記録に残っている。
尚、司祭から資産を受け継ぐ形となった家政婦のマリーも死ぬまで沈黙を守り、司祭の金の出所について口にすることはなかったそうである。

参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)
レンヌ=ル=シャトーの謎 - イエスの血脈と聖杯伝説 (柏書房)

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

闇に消えた名画『正しき裁き人』

1934年4月11日、ベルギーの古都ゲントにある聖(セント)バーフ大聖堂から、ヴァン・エイク兄弟が描いた祭壇画の一部が盗まれた。
その祭壇画とは12枚つづりのパネルに描かれた絵で、盗難にあったのは『洗礼者ヨハネ』と、『正しき裁き人』の2枚だった。

聖バーフ大聖堂

数週間後、コピテエール司教の元に、盗まれた絵の身代金を要求する手紙が届いた。
「100万ベルギーフラン(当時のレートで約4億円)と引き換えに絵を返す」という内容のもので、D・U・Aのイニシャルでサインがしてあった。
犯人は「取引に応じるなら、まず2枚のうち『洗礼者ヨハネ』を返す」と約束した。そして交渉は新聞の3行広告で行うよう指示されていた。
5月25日、交渉成立の文面が広告欄に載り、司教の元に手荷物預かり証が届いた。
『洗礼者ヨハネ』はなんとただの包装紙に包まれて、ブリュッセル北駅の手荷物一時預かり所に置いてあったのである。
身代金の受け渡しも行われたが、司教がD・U・Aの代理人に渡した封筒には、100万どころか2万5000ベルギーフランしか入っていなかった。
おかげでD・U・Aの信用を無くし、10月には交渉が絶たれてしまった。こうしてもう1枚の名画『正しき裁き人』は闇に消えたのである。

ヴァン・エイク兄弟の祭壇画

D・U・Aとの交渉が途絶えた約1ヶ月後。アルセーヌ・フーディルティエというカトリック党の議員が、天寿を全うしようとしていた。
彼は死の間際、専属に雇っていた弁護士に秘密を打ち明けた。

「私は『正しき裁き人』の在り処を知っていて、証拠が机の引き出しに入っている」

というのだ。
フーディルティエを埋葬した翌日、弁護士は彼の家を訪ね、机の引き出しを調べた。
すると封筒の中から、コピテエール司教宛ての脅迫状の写し13枚と、訳の分からない数字やスケッチも書いた紙切れも見つかった。
このフーディルティエという男は教会警備員からカトリック党の議員にまで出世した人物だ。
相当な美術愛好家で、休日には美術館に出かけ名画の模写をする程だったという。
そしてまた、かなりの推理小説好きでもあり、その中でも特にモーリス・ルブランの「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」シリーズの大ファンだそうで、
彼の本棚にはルパン・シリーズがズラリと並んであった。
(ルパン・シリーズを数冊読んだ事がある方ならご存知とは思うが、作品中ルパンが主に盗んだのは高級美術品である)
また、フーディルティエはアルセーヌ・フォン・ダメ(Arsene Van Damme)という偽名での証明書も使っていた。
ラテン語ではVとUは同じ文字を使う事が多いので、イニシャルを逆に読むと「D・U・A」である。
どうやら『正しき裁き人』の在り処は数字やスケッチが示しているらしかった。だが、弁護士も警察もまったく謎を解く事が出来ず、事件は意外な方向に展開する。

洗礼者ヨハネ正しき裁き人

1940年、『正しき裁き人』を除く祭壇画はナチス・ドイツの手に落ち、オーストリアのアルトアウスゼー湖畔の岩塩倉庫に隠されてしまったのだ。
祭壇画の押収命令を下したのはもちろん、自らを「美術愛好家」と称するヒトラーである。そしてヒトラーの命令により、例の紙切れの謎解きが試みられた。
どうやら数字は階段などの寸法を、スケッチはアーチや石棺を示していると思われ、聖バーフ大聖堂の地下墓地のように思われた。しかし探索は失敗。

盗まれた絵はそこにはなかったのである。

絵の存在に気づいた司教が、ドイツ軍に先回りして持ち出した、ともいわれているが……。
一方、ヒトラーの手に落ちた祭壇画はアメリカ軍を経て、無事に聖バーフ大聖堂に戻ってきた。
だが、この祭壇画を紹介している多くのサイトにも書いているように、現在はめ込まている『正しき裁き人』は完全な複製品である。

それにしても、現在では約1000万ユーロの価値、とすら言われる本物の『正しき裁き人』はどこに消えてしまったのか。
フーディルティエが残した例の数字やスケッチも、2012年4月現在、未だに解読されてはいないのである。

参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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