世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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欺瞞に満ちた男 悪夢のリリントン・プレイス10番街

本名ジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティ 通称ジョン・クリスティ

「最初の殺人にはゾクゾクしたよ。私自身が望んでいた道に、ついに足を踏み入れたのだから───。そう、殺人者への道だ」(ジョン・クリスティ)

ジョン・クリスティ
現在ヨーロッパの各国は、欧州人権条約などにより、死刑の撤廃が加速している。
銃殺刑があったロシアですら、1995年から死刑を廃止している。
大抵は上記の欧州人権条約からの「人道に反する」というものや、宗教上の理由であるが───
1953年にイギリスの首都ロンドンのリリントン・プレイス10番街で発覚したこの事件は、凄まじい議論を国中に呼び、やがて死刑を廃止させる原因となった。
果たして、リリントン・プレイス10番街の殺人鬼は一体何人いたのか?

発端:壁の裏の何か
1953年3月24日、ロンドンのリリントン・プレイス10番街のテラスハウス(長屋とアパートの中間のような共同住宅)。
ここの最上階に住むジャマイカ人、ベレズフォード・ブラウンは上機嫌だった。
このテラスハウスでは3年前にティモシー・エバンスという男が陰惨な殺人事件が起こした場所として有名だが、今や当時を覚えている唯一の住民であった、
前借用人だったジョン・クリスティという男は3日前に「急遽バーミンガムに転勤になった」と引越した為、1階に移り住む事を大家から許可されたのだ。
しかも、ペンキが色あせ荒れ果てた共同キッチンを改装してくれたら「今後は優先して使っていい」という承諾も得た。
鼻歌まじりに前借用人のクリスティの残していったガラクタを庭に運び出し、1階の部屋の大掃除を終えたブラウンは、いよいよキッチンの改修に着手した。
結婚して妻もいるブラウンだったが、独身貴族時代によく自炊していた彼は、今も妻の代わりに自分が料理を受け持つこともあった。
「よし、料理の際のBGM代わりのラジオを置く棚を取り付けるか」しかし、板を取り付けようとしたブラウンは、奇妙な事に気づいた。
壁を叩くと、向う側が空洞のような音がするのだ。どうやらアルコーブ(冷蔵庫や食器棚を置くための凹部分)に壁紙を貼っただけらしい。
不可解に思って壁紙を破ったブラウンはアルコーブを懐中電灯で照らしてみた。
彼の目には信じられない光景が映った。ミイラ化した人間の背中が見えたのだ。
驚いたブラウンは懐中電灯を投げ出し、他の住民を呼びにいった。そして駆けつけた住民の1人、アイバン・ウィリアムズと共に、もう一度中を覗いてみた。
ガラクタの山の上に腰掛けるようなポーズの、間違いなく女性の遺体だった。ブラウンとウィリアムズは、すぐに警察に連絡した。
遺体が発見されたアルコーブ

現場に駆けつけた警察は、キッチンの壁紙の裏のアルコーブから、毛布にくるめられた合計3体の遺体を発見した。いずれも女性だった。
1階をくまなく捜索した警察は、応接間の床下からも、1体の女性の遺体を発見した。クリスティの妻、エセルの遺体だった。
さらに翌日、裏庭を掘り返してみると、そこからも2体の白骨化した女性の遺体を発見した。合計6人である。
検死の結果、庭の遺体は約10年前に埋められたもので、フランシス・キャンプス博士は「2体とも絞殺されたものだ」と断定した。
帝都ロンドンの片隅で連続殺人が密かに行われていたことに捜査官たちは愕然とした。
マスコミに対し「ロンドン史上最もショッキングな大量殺人事件」が行われていたとの発表がされ、1階の前借用人だったジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティは、
重要参考人としてただちに指名手配された。
ホテル、映画館、サッカースタジアムにも「大量殺人の重要参考人ジョン・クリスティを見かけた方はすぐにご一報を」と記されたクリスティの人相書きが貼られたが、
その行方はようとしてとして知れなかった。

3月29日の23時20分、『 News of the World 』の犯罪担当デスクであるノーマン・レイに、電話がかかってきた。
「私が誰だかわかるかね?」レイにはそのガラガラ声が誰なのか、すぐに分かった。新聞記者、中でも犯罪担当記者の記憶力は、非常に優れているのである。
レイはティモシー・エバンスの事件で、クリスティにインタビューを申し込んだ事があったのだ。「もう耐えられないんだ」クリスティは続けた。

「奴らは犬のように私を追い回してくる。もうクタクタだ。寒いしびしょ濡れだというのに、着替える服もない」

クリスティはレイに、食事とタバコと、腰を下ろして休める暖かい場所を提供してくれたら、自分の話を『 News of the World 』に提供する、と申し出た。
レイは「申し訳ないが、その後は警察に通報しない訳にはいかない」と告げるとクリスティも理解を示した。
2人は午前1時30分にロンドン北部のウッド・グリーン・タワーホール前で落ち合う事になった。
レイを待って茂みに身を潜めていたクリスティだったが、そこにたまたまパトロール中の2人の警官が現れた。
両警官はもちろんレイとクリスティの約束など知らなかったが、レイに裏切られたと思ったクリスティは、そこを逃げ出してしまった。

3月31日、パトニー橋付近を巡回パトロールしていた若き巡査トーマス・レジャーは、堤防に寄りかかりテムズ川を眺めるみすぼらしい男に眼を止めた。

「こんなところで何しているんです? 仕事でも探しているんですか?」
「失業者カードが発行されるのを待っているんです」
「名前と住所を教えてくれませんか?」
「ジョン…ウォディントンです。住所は……ウェストボーングローブ35番地です」


苗字も住所も少し間を置いてからたどたどしく答えた男を見て、レジャー巡査はすぐに不審に思った。
自分にやましい事が何もない人間は、普通は自分の名前も住所もスラスラと答える。こんなに間を空けてたどたどしく答えたりはしない。
レジャー巡査は男の顔をまじまじと見つめてから、帽子を取るように命じた。禿げ上がったその頭を見て巡査は確信した。
指名手配中の大量殺人犯、ジョン・クリスティだ。
逮捕され連行されるパトカーの中で、クリスティはポケットの中のものを全て出すように命じられた。
細々とした物の中に、1950年に行われたティモシー・エバンスの裁判の切り抜き記事が含まれていた。
 
過去:威厳ぶったろくでなし
1898年4月8日、イングランド北部のハリフォクスのブラックボーイ・ハウスで、ジョン・レジナルド・ハリディ・クリスティはこの世に生を受けた。
アーネストはカーペット会社のデザイナーで、ハリフォクスの保守党設立メンバーの1人だった。
また、「労働者階級に清廉さを広める」プリムローズ・リーグ(桜草連盟)という組織のリーダー的存在でもあった。
母のメアリー・ハンナは演劇の世界では「麗人ハリディ」として有名な存在で、メアリーはジョンを溺愛した。
ジョンは厳格な父を酷く恐れ「話しかけるときですらいちいち許可を得なくてはいけなかった」と回想している。
父は厳しく接し母は溺愛し甘やかす、という多くの連続殺人鬼のテンプレの状況で、ジョンも育っていった。
少年時代のクリスティは成績優秀で、特に算数・数学は常に学年トップだった。
「一旦興味を持った科目はとことんマスターしないと気がすまない主義だった」という。しかし「一旦マスターするとすぐに飽きてしまった」そうである。
しかし小学校時代のジョンは父譲りの短気さと、変に威厳ぶった態度のおかげで、友達はほとんど出来なかった。

8歳の時のクリスティ
ジョンは少年時代、その後の人生を決定付ける2つの出来事に遭遇している。
まず8歳の時に母メアリーの父が死亡し、その亡骸を見た事である。この時ジョンは喜びでうっとりとしたという。

「死体には生きている肉体には決して持ち得ない美と尊厳が備わっている………。死には私を和ませる平穏がある」

死体に対する、ジョンの後年の言葉である。
さらに10代のころ、初体験の失敗している。男女グループで遊んだあと、それぞれペアになって別れたのだが、経験豊富な女子といざ体験という時に役に立たなかった。
少女はジョンを「息子のないレジー」「アレが役に立たないレジー」と散々言いふらし、この屈辱ゆえに、彼は本格的なインポテンツになってしまった。
この辺りの経緯と、無抵抗な女性に対して性的不能から開放されるというのは、アンドレイ・チカティロと非常に良く似ている。
そして17歳の時、地元の警察で事務員として働いていたジョンは、些細な盗みを見つかってクビになり、さらに激怒した父親に家から叩き出された。
仕事を転々とし、時には父親の家庭菜園の小屋で寝泊りし、母親が食事を差し入れる事もあったという。

やがて第一次世界大戦が起き、召集された18歳のジョンはフランスに送り込まれ、戦地で負傷し帰国する。
ティモシー・エバンスの裁判では毒ガス攻撃にあったと力説するが、実際はどうなのかは不明である。
とはいえ帰国後は障害年金を受け取り細々と暮らしていた。1920年5月20日、エセル・ウォディントンは不幸にもジョンと結婚する。
しかし結婚から1年後、郵便局に勤務していたジョンは仕事中に封書から金を抜き取ったところを捕まり、9ヶ月間服役する。
2年後には詐欺事件を起こし、これは「判事の寛大な裁量」のおかげで保護観察処分で済むが、1年後にはまたしても窃盗で逮捕され、今度は9ヶ月服役する事になる。
妻エセルはジョンに完全に愛想を尽かし、実家に帰ってしまう。1929年、ジョンは今度は同棲していた売春婦に暴行を働いたとして6ヶ月間服役する。
1933年には親しくしていた教会の神父の自動車を盗んだのがバレて、またもや刑務所に入る。
この間にジョンは「ヨリを戻してほしい」とエセルに手紙を書き、2人は元の鞘に納まる。
そして1938年、40歳になったジョンはエセルと共に、のちに英国犯罪史上にその名を残す事になるリリントン・プレイス10番地に移り住むのである。
10年後の1948年3月、問題のティモシー・エバンスとその妻ベリルが、リリントン・プレイス10番地に引っ越して来た。
第二次大戦の勃発が時間の問題だった1939年には、ジョンは戦時予備警察官に応募し採用される。
今までの悪事を忘れ、生まれ変わったかのように仕事に打ち込んだジョンだったが、持って生まれた卑しい性格は隠し切れず、すぐに権力を笠に傍若無人に振る舞い始め、
もう1人の同僚と共に「ネズミとイタチのコンビ」として知られるようになる。
そして1943年8月、いよいよ最初の殺人に手を染めるのである。

誤審:嘘の自供
1948年11月30日、ウェールズのマーサー・ベール警察署に1人の男が出頭し、そこにいた巡査に「妻を処分しました」と告げた。
男はティモシー・エバンスと名乗った。「どういう意味なのか?」と巡査が尋ねると、エバンスは供述を始めた。
11月10日、仕事を終えて帰宅すると、妻のベリルが死んでいた。トラック運転手用の食堂で偶然知り合った男からもらった堕胎用の薬を飲んだ事が原因だ、という。
動揺した彼は、遺体を階下に運び下水道に棄てた。そして故郷のウェールズに逃げたが、良心の呵責からこうして出頭した…というのだ。
エバンスの話を聞いた警官は狐に化かされた心境だった。
ティモシー・エバンス

「帰宅したら妻が死んでいたからといって、それを下水道に遺棄して逃げたりするものか? その時点で警察に通報すればいい話だろう」
とはいえ、イタズラの類として片付ける訳にもいかない。
念のために死体遺棄の容疑でエバンスの身柄を拘束し、その場にいた巡査と刑事がそのまま取り調べを担当する事になった。
ロンドン警察に連絡して下水道を調べさせたが、遺体はどこにもなかった。
「おい、ロンドン警察からは遺体など無い、という報告が来ているぞ」エバンスは驚き「そんなバカな」という表情をし、供述を変えた。
「妻は下の階に住むジョン・クリスティという男の堕胎手術を受けて死んだんです。このままでは私も共犯になると言われて、それで妻の遺体を処分しました」
まだ1歳の娘はクリスティに預けている、という。当日夜、共犯としてクリスティも警察に身柄を拘束された。
供述に基づき、彼が住むリリントン・プレイス10番地のテラスハウスを捜索した警察は、裏庭の洗濯場に隠されていた2人の遺体を発見した。
妻のベリルと娘のジェラルディンだった。2人とも絞殺されていた。
エバンスはすぐにロンドンのノッティングヒル警察署に移送され、本格的な尋問が始まった。

刑事は彼に1本のネクタイを見せて訊ねた。「これに見覚えはあるかね?」
それはジェラルディンの首に巻きつけられていたネクタイだった。エバンスは思わず呟いた。

「俺のネクタイだ…俺は自分のネクタイで自分の赤ん坊を絞め殺してしまったんだ……」

「2人ともお前が殺ったんだな?」エバンスは、小さく頷いた。
別の自供では、ベリルはロープを使って絞殺し、遺体を洗濯場に隠すまでを語った。
エバンスは裁判前の拘置所にてドナルド・ヒューム(のち紹介予定)という殺人犯と知り合った。
コロコロと二転三転するエバンスの話を聞いていたヒュームは顔をしかめて、「主張すべき事を一つに決めて、それを押し通した方がいい」と助言した。

ベリルとジュラルディン
娘のジェラルディン殺害の件で1950年1月11日からオールド・ベイリー中央刑事裁判所にてエバンスの裁判が始まった。
(筆者注:妻ベリル殺害の件では罪には問われなかった)
公判前は妻子の殺害を認めていたエバンスだったが、審理が始まると供述を一転させ、妻子はクリスティに殺されたのだと主張した。
しかし陪審団は、以前から虚言癖があり、また妻との喧嘩が絶えずその深夜の怒鳴り合いが近所でも有名だったエバンスには、最初から懐疑的だった。
裁判でも二転三転するエバンスの証言も、陪審団の印象を悪くしてしまった。
一方、身だしなみのいい格好で証人台に立ったクリスティは、「自分は2人の死には一切無関係である」と主張し、メリハリのある誠実な紳士であることを印象づけた。
反対尋問でクリスティは弁護団に過去の数々の犯罪を暴かれたにも関わらず、陪審団はたった35分間の協議でエバンスの有罪を評決した。
ウィルドレド・ルイス判事はエバンスに死刑判決を下し、1950年3月9日、エバンスは絞首刑に処された。

殺人:紅茶は死の香り
逮捕されたクリスティは良心の呵責を感じている様子もなく、むしろ「殺すギリギリまで被害者に自分の意図を悟らせなかった」事を自慢するかのように、
被害者を自宅におびき寄せ、殺害した様子を語りはじめた。
1943年8月、妻エセルがシェフィールドにいる姉妹の家に遊びにいっている間、クリスティは自分の管轄で商売をしていた17歳の売春婦、ルース・フュアストを、
リリントン・プレイス10番地に招待した。
以前もルースはクリスティに「10シリングほど貸してほしい」と頼み、そしてクリスティも金を貸す条件にルースを10番地の下宿に連れ込んでおり、
ルースをここに呼ぶのはこれが2回目である。

「モーゼの十戒の一つ、『汝、殺すことなかれ』に私は魅せられていた───いつの日か、自分がそれに逆らうのが分かっていたからだ」
「妻を殺した事で、10年間私を押さえつけていた障害を取り除く事が出来た。妻が死んで、自分の運命を達成するための道を阻むのもは何一つ無くなった」
「何年もの間、『10人の女を殺すまで自分の仕事は終わらない』と考えていた」


取調べでこのような異常な発言を平然とするクリスティを、弁護人のデレク・カーティス=ベネットは精神異常だとを主張したが、陪審団を納得させる事は出来なかった。
「クリスティは人格異常、性格異常であっても精神異常ではない」というのが陪審団の結論だったが、これは正しい判断だと思う。
それはルースの殺害が、ベッドの横に絞殺するための紐をあらかじめ用意していた点でも分かる。
おそらくルースは特別警察官だったクリスティに、半分脅されて10番外の下宿に来たのだ。クリスティから金を受け取るつもりすらなかった筈だ。
8歳の時に祖父の遺体を見て「震える程の衝撃を受けた」クリスティは、最初から計画的にルースを殺害し、その遺体を屍姦し何度も楽しむつもりだったのだろう。
しかし、妻から予定を早めて帰るとの電報が届いたため、慌ててルースの遺体を一旦床下に隠し、妻の隙を見て裏庭に埋めた。

1943年の暮れに特別警察官を御役御免となったクリスティは、ロンドン西部のラジオ工場の事務職に就き、そこで2人目の犠牲者となるミュリアル・イーディーと出会う。
鼻カタルに悩んでいた彼女にクリスティは「いい治療法がある」と持ちかけ、1944年の10月のある日、リリントン・プレイス10番街に招いた。
クリスティは前回以上に用意周到だった。耳鼻科にある治療用の吸引機をわざわざ拵えていたのだ。2本の管の1本はガス管に繋がれていた。
2人で紅茶を楽しんだ後、これを吸引して意識朦朧となったミュリアルと「愛を交わし」絞殺したのである。

「2番目の殺人は、実に巧妙なものだった。最初の殺人よりも、ずっと巧妙だった。綿密に計画を立てておいたんだ」

死刑囚監房から、クリスティが知人に宛てた手紙の一文である。ミュリアルの遺体は、ルースと同様に裏庭に埋められた。

1948年3月、問題のティモシー・エバンスとその妻ベリルがリリントン・プレイス10番街に引っ越して来た。
10月にはジュラルディンが生まれて夫婦仲は円満だったが、翌年の夏に妻ベリルが再び妊娠してからは、険悪になって行った。
先天的な知的障害があり、字も読めないエバンスは、収入の高い仕事に就くことが出来ず、家賃も滞納し、ベリルとは連日大声で怒鳴り合うようになっていた。
そんなエバンス夫妻の相談相手が、10番街の「ヌシ」と化していたクリスティだった。「元警官」という肩書きも、2人を信用させた。
経済的に困窮したエバンスは、クリスティにベリルの中絶手術を依頼した。しかし、結果的には妻子を殺害され、自らも絞首刑に処せられる羽目になるのである。
(筆者注:但しクリスティはベリル殺害は認めたが、娘ジュラルディンの殺害は最後まで否定した)

クリスティと妻エセル
1952年12月12日に庭で洗濯物を干している姿を最後に、妻エセルは2日後に夫に殺害されている。
クリスティに自身の供述によると、妻のエセルが「関節炎にもがき、夜も寝れないくらい苦しんでいた妻に安息を与えるために」殺害したという。
しかし、エセルは死亡する数週間前から何らかの不安を抱えていたのは誰の目にも明らかで、不眠症のため、かかりつけの医者に睡眠薬を処方してもらっている。
エセルがクリスティの何らかの秘密を知っている、もしくは疑っているために、そんな精神状態に駆られたエセルが秘密を暴露する事を恐れたクリスティが、
口封じで殺害した可能性は大いにある。
彼女の遺体は床下から発見された。

裁判:絞首刑台への道
本人が「妻を殺してからは自分の道を行く障害が無くなった」と語っているように、クリスティがかろうじて付けていた「真人間の仮面」は完全に外れた。
狂乱したように殺人のペースが速くなり、1953年1月から3月にかけて3人も殺した。
26歳のサウサンプトンの売春婦、キャスリーン・マロニーはロンドンのパブでクリスティと知り合い、10番街でガスを吸わされ絞殺された。
ベルファスト出身の25歳の売春婦、リタ・ネルソンもカフェで知り合ったクリスティに10番街に招待され、ガスを吸わされ絞殺された。
26歳のヘクトリナ・マクレナンは恋人と一緒に宿を探していたところをクリスティと知り合い、恋人が職業安定所にいる時に10番街に誘われ、絞殺された。
治療用吸引機を不審に思ったヘクトリナはクリスティともみ合いになったが、女の力ではさすがに男には勝てなかった。
3人の遺体はいずれもキッチンのアルコーブに隠された。
経済的に逼迫していたクリスティは、数少ない財産である家具を処分したが、それでも家賃を滞納し、完全に行き詰っていた。
クリスティにとっては「殺し納め」的な意味もあったのだろう。
そして3月21日、アパートの部屋を無断で又貸ししたかどで追い出され、大量殺人が発覚するのだ。
連行されるクリスティ

1953年の6月22日よりオールド・ベイリー中央刑事裁判所にて、フィネモア判事を裁判長として、クリスティの裁判は始まった。
25日まで4日続いた裁判では、上記の通りベネット弁護士が精神異常を主張したが、これは認められなかった。
検察側の証人であるセント・ジョージ病院のデズモンド・カラン医師「被告は非常に思い上がりの強い人間だが」いかなるヒステリー、
混乱状態にも侵されてはいない、と弁護側の主張を切って捨てた。
陪審団は4日目の16時5分に席を立ち、約1時間の協議でクリスティの有罪を評決し、フィネモア判事は死刑を宣告した。判決に対し、クリスティは押し黙ったままだった。

「一つの建物に絞殺魔が2人も同時期に存在したりするのか?」しかもクリスティは、ベリル殺害を正式に自白しているのだ。
「エバンスは無実の罪で絞首刑台に送られたのでは?」この事件に関心を持った国民はほとんどこう思った。
内務省はただちにエバンスの事件の再調査を命じたが、たった7日間で「ベリルとジュエラルディンを殺害したのはエバンスで間違いない」という報告書が提出された。
しかし、この事がさらに国民の疑惑を深める事になり、イギリス各地でエバンスの恩赦を求めるキャンペーンが起った。
1953年7月15日午前9時5分ペントンピル刑務所内にてクリスティは絞首刑に処された。54歳だった。

1965年から労働党政権下において、死刑が試験的に5年間停止する事が決まり、そしてその後、イギリスでは2度と死刑が復活する事はなかった。
エバンスの亡骸は1965年11月、遺族に返還され、エセックス州のセント・パトリック墓地に改めて埋葬された。
そして1966年、ダニエル・ブライビン判事の指揮の元、エバンス事件の再調査が行われ、「ジュエラルディンはクリスティが殺害した」という結論が発表された。
彼は娘を殺害した容疑で死刑になったのだから、事実上無罪を証明されたという事になる。
同年10月、エバンスはエリザベス2世女王陛下から恩赦を与えられた。
現在リリントン・プレイスは住所名をラストン・クローズからさらにバートル・ロードと変え、9番地の次は11番地となっており、10番地は無くなった。
しかし、リリントン・プレイス10番街は犯罪史にいつまでもその名を轟かす事だろう。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.12 礼儀正しい殺人鬼 (デアコスティーニ)
愛欲と殺人 (扶桑社)
恐怖の都・ロンドン (筑摩書房)
参考サイト
殺人博物館

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性的興奮が忘れられず「死体に帰る」峡谷の殺人鬼

本名アーサー・ジョン・ショークロス 通称アーサー・ショークロス

「彼にとって殺人は彼自身が語っているように『いつもの仕事、日課』に過ぎないのです」(チャールズ・シラグサ検事)

青年時代に幼き少年少女を殺害して刑務所に服役したアーサー・ショークロスは模範囚人として過ごし、仮釈放後はニューヨーク州ロチェスターにて静かに過ごし始めた。
それから間もなく、ロチェスターのジェネシー峡谷から、女性の死体が次々に発見され始めた。
ジェネシー川の殺人鬼アーサー・ショークロス
容疑者として逮捕されたショークロスは連続殺人を自供したが、動機はあまりに些細なものだった。
更生して収まったかに見えた彼の殺人願望が15年の時を経て、再び蘇ったのはどうしてだろうか?
ジェネシー川の殺人鬼(ジェネシー・リバー・キラー)は、一体どのように生まれたのだろうか?

発見:死体に帰る男
ニューヨーク州警察とロチェスター市警察は、連続殺人事件の犠牲になった可能性のある3人の女性を発見するため、クリスマス休暇も新年会も返上して、
サーモン・クリープと呼ばれる鮭釣りの名所の川や、近接の沼地などを必死で捜索していた。
ロチェスターのジェネシー峡谷は、1988年3月24日にドロシー・ブラックバーンの遺体が発見されて以来、殺人鬼の「死体置き場」と化していたのだ。
しかし捜査は難航し、1989年の暮れには3人の売春婦、ジューン・シセロ、ダーリーン・トリッピ、フェリシア・スティーブンスの3人が、次々に行方不明になっていた。
1990年1月4日。ジョン・マキャフリー上級捜査官マーク・ワドビン巡査ケネス・ハント巡査を乗せたニューヨーク州警察のヘリコプターはついに、
サーモン・クリープに浮かんでいる人間の遺体らしきものを発見した。
それはフェリシアのジーパンが発見された場所から3キロ、ドロシーの遺体が発見された場所から800メートルほど離れた場所だった。
さらに現場を見下ろすと、橋の上にグレーのシボレーが止まっており、そこから運転席の男が身を乗り出してペプシコーラの瓶に排尿をしているように見えた。
双眼鏡でその異様な光景を観察していたマキャフリー捜査官は、動き出したシボレーを追跡。約10キロ先で男に職務質問をした。
男はアーサー・ショークロスと名乗った。クララ・二ールという女友達を迎えにいくところだという。
連絡を受けた連続殺人事件の特捜チームのリーダーでもあるロチェスター警察のテレンス・リッカード副本部長は、ショークロスの経歴を調べて仰天した。
1972年、10歳の少年と8歳の少女を強姦した末に殺害し、有罪となっているではないか。
もっともリッカード副本部長だけでなく署内がもう一種のパニックのような「上を下への大騒ぎだった」という。
(リッカード副本部長は『あの時の衝撃と騒ぎは警察を引退しても、おそらく生涯忘れる事はないだろうね』と回想している)
シボレーは押収され、ただちにショークロスとクララは個別に事情聴取を受けることになった。
発見された遺体はフェリシアではなく、ジューンと判明。ジューンの近くに落ちていたサラダの容器は、ショークロスが橋の上から投げたものだと認めた。
ショークロスは免許を失効していた、いわば無免許の状態なのでシボレーは押収されたままだったが、クララとショークロスは一旦は釈放され、帰宅を許された。
シボレーからはジューンのイヤリングの片方が発見された。
さらにショークロスの写真をもってロチェスターの売春婦街、ライエル・アベニューに聞き込みに出かけた刑事たちは、ショークロスがかなりの「常連客」であること、
売春婦たちには「ゴート」や「ミッチ」と名乗っていることも分かった。
一度、ある売春婦から「ゴートという男が怪しい、調べてみたほうがいい」という通報の電話があったのだ。
その時は「参考程度」くらいに聞き流していたが、こうなると俄然ショークロスは怪しく思えてくる。
捜査は難航し、ロチェスター警察は以前FBIに協力を求めた事もあった。FBI特別捜査官は事件を検討し、犯人像をプロファイリング。それは次のようなものであった。
 
「20代後半から30代前半の白人男性。車を持っており、行動範囲が広い。
女性たちが安心して車に乗り込むような、『透明な』雰囲気の人物である」


髪はかなり白髪が混じり、でっぷりと肉のついた顎と腹、43歳の年齢よりも遥かに老けて見えるショークロスは、FBIのプロファイリングとはあまりにかけ離れていた。
しかし翌5日の午前10時50分、リッカード副本部長は特捜チームについにショークロスの逮捕を命じた。
ロチェスター警察のゴードン・アーレイチャー本部長は記者会見を開き「被疑者をジェネシー川売春婦連続殺人事件の容疑者として正式に逮捕した」と発表。
最初ショークロスは「自分は保釈中の身だし、エイズが怖いから金を払ってまで売春婦と関わりを持ちたいとは思わない」と徹底して容疑を否認していた。
しかし、警察を訪れた妻のローズマリーに「私はどんな時もあなたを愛しているし、あなたの味方よ」と説得され、ついに遺体で発見された13人の女性のうち、
11人を殺害した事を認めた。(残る2名に関しては『自分の犯行ではない』と頑として否定したという)
アーサー・ショークロス

のちの自供で、この男には逮捕のきっかけとなったジューンの遺体を見に行った以外にも、殺人を犯しては度々現場に戻り、そして遺体を見て性的興奮に浸るという、
不気味な癖があることが分かった。
このためマスコミはショークロスを「死体に帰る男」「ジェネシー川の殺人鬼」としてセンセーショナルに報道した。

過去:母に疎まれ、愛されず
1946年6月6日、メイン州のキタリーにてアートことアーサー・ジョン・ショークロスは生まれた。
アートが生まれてからショークロス家は、間もなくニューヨーク州ウォータータウンの郊外、ブラウンビルという小さな村に引っ越した。
アートは幼児の頃から空想癖があり、内向的な性格で、ずっと夜尿症が治らなかった。
それでも小学校2年までは成績はトップクラスだったが、3年からは成績も急激に悪くなり、言語発達の遅れ、家出などの問題行動が多く見られるようになったという。

原因は9歳のときに始まった両親の不和と、それによる家庭の崩壊だったと言えるだろう。
軍人であったアートの父が赴任先のオーストラリアにも妻子を持っているのが発覚したことである。
この一件により両親の仲は冷え、母親は子供たちに対する愛情を完全に捨て去った。
幼いアートには事情は分からなかったが「パパとママの間に何かあった」ことは察した。そして彼らがもはや、自分を愛していないことも。
母親はアートに暴力をふるうようになり「お前はいらない子なんだよ」と面罵した。
父親はたまに帰ってきては「お前さえいなきゃ、こっちで結婚することもなかったんだが」と言って溜息をつき、睨みつけた。
愛情のない家に帰るのが嫌で、アートは近所に住むウェイトレスの誘いにのり、ほとんど性的虐待とも言える交渉を持つようになる。彼はこの行為に耽溺した。
だが我に返ると自分の行為に恥じ入り、肉体的欲求と罪の意識の板ばさみになって混乱した。
この関係が終わるとほとんど同時に、人間の女に対する反発もあってか、彼は獣姦にのめりこむようになる。
家畜の山羊や羊を襲っては、犯しながらナイフで切ったり突いたりして快感を得るのである。
夜遅く、家畜の返り血を浴びて帰ってくる息子を見ても、母親は何も言わなかった。
この頃からアートは学校でも「問題児」として教師たちも手を焼く存在になった。スクールバスで鉄パイプを振り回し、暴れたこともあった、という。
(筆者注:ただ、多くの連続殺人鬼が大抵高知能を備えているが、彼は学校の知能テスト判定では後ろから数えた方が早いくらい、知能は低かったという)
夜尿症は悪化し、独り言は前よりも頻繁になり、大声になった。弟妹たちをはじめとする小さい子へのいじめ行為も見られ、幾度か憤怒の発作も起こしている。

ある日、アート少年が学校から帰る途中、赤いコンバーティブルに乗っ男が話しかけてきた。身なりも普通で、話し方もまともに見えた、という。
男に道を尋ねられ、アートは懸命に説明したが、男は「ちょっとわからないな」と首をひねり、「一緒に乗って案内してくれないか」と言った。
アートが車に乗り込むと、男は人気のない道に入り込み、アートを殴りつけ首を絞め下着を剥ぎ取るとレイプした。
男は欲望を遂げると、少年を路上に置き去りにして消えた。出血した体を引きずって、アートは歩いて家に帰らねばならなかった。
家には母親がいたが、彼女は息子の顔が腫れあがり、シャツもズボンもぐしゃぐしゃにされているのを見ても、なんら注意を払わなかった。

「家に帰ったら、母がキッチンにいた。俺は傷ついてたし、慰めが欲しかったから『ママ、ぼく、ひどいことされたんだ』って小さな声で言ってみたんだ。
そしたらあの女、『そうね。お前を見たら誰だってムカつくだろうからね』って言いやがった。そのまま振り向きもせずに、料理を続けていやがった」


また、2006年には「これとほぼ同時期に母親にも性的な虐待を受けたこと、妹や叔母とも性的関係を持った」とアートは証言している。
ただ、彼をレイプした「赤いコンバーティブルの男」は発見されていないし、母親が彼に性的暴力をふるったかどうかも証拠はない。親族側も完全否定している。
だがアートが裁判前に弁護側証人の女性学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、母親に箒を肛門に挿入されて痛めつけられた記憶を呼び覚まされて、
「痛い、痛い、ママ。僕にそんなことしないで」と啜り泣くさまがCBSテレビで放映された。
そして、直後に「母親の人格」に豹変し、「あたしとあの子の間を邪魔する奴は殺してやる。淫売ども、雌豚」とわめき散らすさまも。
これが演技だったのかは、アートが死去した今となっては誰にも分からない。
(筆者注:少なくとも裁判では検察側はこれを『下らない演技、茶番』であると決め付け、陪審団も同意したが)
ともあれアートによれば、このレイプ事件以来「性的嗜好が完全に一変してしまった」という。暴力的なセックスでなければ、満足できなくなってしまったのだ、と。

上の右から3番目、高校時代のショークロス
中高一貫校を留年を1年留年し7年で何とか卒業。家宅侵入で保護観察処分を受けるなどしながらも、アートは18歳で結婚、一児をもうけた。
幸せの絶頂のはずの状況で「自分でも得体の知れない欲望」に突き動かされて、アートは女遊びにのめりこむ。やがて家庭は崩壊し、離婚。
その後再婚したが、新婚生活を楽しむ暇もなく、1968年ベトナムに従軍した。

殺人:連続殺人への序曲
アメリカの黙示録───ベトナム戦争がいかにアメリカを打ちのめしたかについては、今更いうまでもないと思う。
非戦闘員であるはずの女子供からもゲリラ攻撃を受け、片時も油断ならない日々。不安はデマを呼び、ふくれあがったデマはまた新たな不安と緊張を生む。
結果、ベトナム戦争はそれまでの戦争とは比べものにならないほど多くの「戦争神経症患者」を生みだし、「ベトナム後遺症の典型例」とされた。
ジョエル・ノリス著の『ARTHUR SHAWCROSS:THE GENESEE RIVER KILLER』によると、彼はここでカニバリズムに目覚めたのだという。
彼は2人の少女を捕らえて木に縛りつけ、1人が見ている前でもう1人の首を切断し、腿の肉を切り取って食べたと証言した。
それを見ていた少女は発狂寸前になったそうだが、この話に裏付けはなく、ショークロスが主張したのみである。
(筆者注:FBIプロファイラーとして有名なロバート・K・レスラー氏は公判前にショークロスと会見をした。
そして後年自著の中でショークロスが戦闘部隊所属でなかった事を交えて『彼のベトナム時代の遺体切断、人肉食の話は100%ウソ』と断言している)
確かに、人殺しが当たり前になる戦場では、どんなおぞましい、残酷な光景でも毎日のように見ることができるものだ。
しかし、ショークロスの場合、獲物の解体を覚えたのは鹿狩りで、生肉の味を覚えたのは食肉加工工場で働いていた時、というのが真相のようである。
ベトナムから戻ったばかりのショークロス
ショークロスは1969年に帰国。彼はまっさきに母親のもとへと向かったが、彼女にとって息子が邪魔者であることに変わりはなかった。
むしろ彼女は息子が五体満足で帰ってきたことを見るや、恩給が手に入らない事を嘆いた。
そして戦争でM16ライフルで倒した敵の数は確認しただけで39人にのぼるだの、大軍に包囲されたが部隊でただ1人生き残っただの苦労話を大げさに続ける息子に
「いい加減黙りなよ。お前のホラ話に興味なんてないよ。それをさっきから女みたいにいつまでもベラベラ、ベラベラと……お前はオカマかい。
まさか尻で軍隊にご奉仕してたんじゃないだろうね」
と吐き捨てた。

ショックを受けたショークロスは家を飛び出し、我が家へ戻った。家には従軍前に再婚した妻が待っていた。
だがベトナム後遺症による幻覚や悪夢に悩まされるようになったショークロスは、精神科医にかかりカウンセリングを受ける羽目になった。
クリスチャンサイエンスの信徒であった妻が神様の教えに反する、としてショークロスが入院するのは拒否した。
1970年、ショークロスが働いていた製紙工場は彼が勤務して間もなく火事になり、28万ドルもの被害を出した。この時最初に通報したのはショークロスだった。
4ヶ月後、干し草を貯蔵した納屋が出火、これも真っ先に通報したのは彼だった。
その3日後、ショークロスが勤務して間もない乳製品工場から出火。またしても、通報者はショークロスだったのはいうまでもない。まるで「くまえり」である。
その後、ガソリンスタンドへの強盗に加担し逮捕され、3件の火事も自分の放火だった事を自供した。
ショークロスは5年の実刑判決を受け、服役。収監中に妻には離婚を言い渡された。ショークロスによると、彼はここで3人の黒人囚にレイプされたという。
そんな折、刑務所内で受刑者たちの大暴動が起きる。ここでショークロスは偶然に怪我した看守と行き会い、彼を助けることになる。
これが功績として認められ、また、模範囚人として過ごしていたこともあり、ショークロスは2年で仮釈放となった。
1972年、出所したショークロスは26歳。4月22日に3度目の結婚をする。今度の相手は幼馴染みで、妹の元クラスメイト、ペニー・シャビーノ
 
1972年5月7日の日曜日、ショークロスはその日もまた「ベトナム戦争の後遺症による幻聴、フラッシュバックと闘っていた」という。
ショークロスの近所に住む10歳の少年、ジャッキーことジャック・ブレイクが行方不明となり、両親のアレン・ブレイクと妻のメアリーは警察に駆け込んだ。
物置からはジャッキーが大切にしていた釣りセットが無くなっており、どうやら釣りに出かけたようである。
いつもジャッキーと弟に釣りを教えているアートという20代の男のところにいったのだろうか?
夫妻は「アートという男が息子の行方不明に関係していると思う」と警察に話したが、まともにとりあってはくれなかった。
警察は「アート」という男がアーサー・ショークロスという男であるのは突き止めたが、5月10日「彼は息子さんの失踪とは関係ありません」と夫妻に連絡している。
しかし、その後の目撃証言により、グレーのTシャツを着た少年(ジャッキーもその日はグレーのTシャツだった)が、20代の男性と一緒に森に入っていた事が判明。
さらに9月6日、今度は8歳のカレン・アン・ヒルという少女が絞殺死体で発見された。少女はレイプされたあと、無残に絞殺されて川に遺棄されていた。
カレン殺害の件でも「金髪の幼き少女が20代くらいの男性と一緒に歩いているのを見た」「遺体発見場所近くのフェンスを越えようとしている男がいた」と、
やはり“20代の男”が続々と目撃情報として寄せられた。
裁判所に入る26歳のショークロス
警察は少年の行方不明も含めショークロスの身柄を拘束、彼を尋問した。6時間に及ぶ取調べの末、ようやく彼は容疑を認めた。
ジャッキー少年も殺害したことを認め、遺棄現場を自供した。3日後、ブレイク家から3キロほど離れた森の深い部分で、ジャッキー少年は変わり果てた姿で発見された。
ほぼ白骨化しており、激しく殴打されたらしく、歯が抜けて散乱していた。レイプされたようで、服は全て脱がされていた。
司法取引によりショークロスは2件の第二級殺人罪で起訴され、ミルトン・ウィルツ裁判長は第二級殺人罪では最高刑の懲役25年を言い渡した。
ウィルツ裁判長は「被告が服役中に自身の問題を解決する何らかの手助けを得ることが出来ると信じています」と説論したが、ショークロスは無表情だった。
妻ペニーはショークロスに有罪判決が出た次の日に離婚訴訟を起し、10月17日、凶悪犯専用の刑務所と悪名高きアッティカ刑務所に収監された。

衝動:「だから、殺してやった」
刑務所内では問題のない模範囚人として過ごし、14年半後の1987年についに仮釈放許可が下りた。
42歳の誕生日を約1ヶ月後に控えた4月30日に出所したショークロスは、服役中に文通で知り合った看護婦、ローズマリー・ウォリーが一緒についてきてくれた。
服役するまでは長身でスリムなショークロスだったが、出所後はかなり白髪が混じり、体に贅肉もでっぷりとついていた。
ショークロスは事件を犯した土地に戻ることを禁じられていたため、各地を転々とした。
住んで4週間で地元紙が彼の経歴をスッパ抜き、地元警察署から「あなたのような凶悪犯罪の前科がある人間はこの街にふさわしくない」と引越しを命じられることもあった。
打ちひしがれた彼は髪を染め名前を変えることも考えたが、保護監察官から「ニューヨークのロチェスターなら都会なので目立たず暮らせるのではないか」と説得された。
ショークロスは都会は好きではなかったが、ロチェスターのジェネシー川では大好きな釣りが出来るので、渋々応じた。6月29日、彼はここに越してきた。
そして野菜の仕分けの仕事につくのち、クララ・二ールと知り合い、愛人関係になる。
ローズマリーにはクララを「女性だがクララは友人、それ以上の関係はない」と紹介し、ロースマリーもそれを信じることにした。

ショークロスがロチェスターに住んで約9ヶ月後の1988年3月24日。
ロチェスター北西部の郊外を流れる鮭釣り名所の川サーモン・クリープに、女性の死体が浮いているのが発見された。
ドッツィーこと27歳の売春婦、ドロシー・ブラックバーンだった。ドロシーは15日に姉妹と市内のレストランで昼食をとったあと、行方不明となっていたのだ。
半年後の9月11日、28歳の薬物中毒の女性アンナ・マリー・ステファンの死体がジェネシー峡谷でゴミ袋に詰められて遺棄されていた。
この頃ショークロスはローズマリーにプロポーズ、彼女はショークロスの4番目の妻となる。
10月21日、同じくジェネシー峡谷で鮭釣りにきていた男性が頭の無い白骨死体を発見、慌てて通報。
これはのちに7月29日を最後に行方不明になっていた59歳の浮浪者、ドロシー・キーラーのものと判明する。
その6日後、今度はパティこと25歳の売春婦、パトリシア・アイブスが絞殺死体で発見された。激しく殴打され、肛門を犯されていた。
11月初旬、今度は22歳の売春婦、マリア・ウェルチが行方不明となり、11日、フラニーこと25歳の売春婦フランセス・ブラウンがこれまた無残な姿で発見される。
ここで警察はようやく一連の女性殺人を「同一の連続殺人鬼による犯行」と確信したのである。
11月23日にはショークロスとローズマリーの友人で軽度の知的障害がある30歳のジューン・ストットが、ジェネシー川で死体で発見された。
ショークロスは彼女を1ヶ月前に殺害しており、数日して彼女の死体を見に「帰ってきた」という。そこで死体の腹を割き、内臓を取り出して、性器を抉り取り食べた。
「自分が体から抜け出て、死体を切り刻んでる自分を空から見下ろしてるみたいな気がした」という。
27日には29歳の売春婦、エリザベス・ギブスンが殺害される。
その年の暮れにはさらに前述の3人の売春婦、ジューン、ダーリーン、フェリシアがショークロスの手にかかり、行方不明者リストに名を連ねることになる。

ショークロスは犯行を重ねながらも、精神的には混乱のきわみにいた。
死体からえぐり出した内臓を袋に詰め、ハンドル片手に袋の中身をいじくりながら帰途をたどるうち「俺は一体何をしているんだろう」という思いに、
涙が止まらなくなったこともあったという。
ジューンを撃ち殺した後、彼は「この女の部品をロバート(クララの息子)におみやげに持って帰ったら、きっと喜ぶぞ」という思いに取り憑かれ、
内臓と性器をタオルでくるんで袋に詰め、家に帰ることにした。
しかし信号待ちをしている間に、彼はいつものように袋に片手を突っ込んでそれをいじくり出し、我慢できなくなってついに食べてしまう。
それを噛み砕きながら彼はマスターベーションし、ふと我に返ると、バックミラーに血まみれの自分の顔が映っているのが見えた。
彼は自分が完全に駄目になってしまったことを今更ながら悟った。
逮捕されてから彼は、マリアとダーリーンの遺体遺棄現場に刑事たちを案内した。「彼女はここにいます」3ヶ月に及ぶマリアの捜査は終わった。
たとえ戦闘部隊所属ではなかったとしても、ショークロスはベトナムで憶えた殺しのテクニックを有効活用していたようである。
それは以下の刑事とのやりとりでも垣間見える。

「アート、あんたは『夜のタフな女たち』をいとも簡単に殺せている。何故だ?」
「刑事さん、俺は彼女たちの『常連』だから、俺にひどい目に合うなんて考えてもいない。だからまず顔面をガツン、とやってやるんだ。
女たちは俺に殴られるなんて予想もしていないから驚いて呆然とする。そこをすばやく絞め殺すのさ」
「………そんな事をどこで習った?」
「刑事さん、あんたベトナムで戦ったことはないね?」
「ジューンの死体を切り裂いたのは何故だ?」
「死体の腐敗を早めるには、腹を切り裂いて内臓を引きづり出すこと。ベトナムで戦った経験のある奴なら誰でも知っているさ」


事実、ショークロスの犠牲者には抵抗したあとがほとんどなく、検死にあたったニコラス・フォーブス博士も死体が運ばれる度に犯人の「殺しのテクニック」に驚き、
「犯人はスタンガンを使ったか、麻酔薬でも注射したのか?」と火傷か注射痕がないか毎回調べたという。

ショークロスの犠牲者
また殺害理由をそれぞれ自供したが、ほとんどが「そんな理由で殺したのか?」と取調べをした刑事たちが呆れるくらい、些細な事だった。
最初の犠牲者であるドロシー殺害について「あの女、俺の大事なものを噛みやがったんだ。血が出たんだぜ。『噛むのが好きなのよ』ってヘラヘラ笑ってやがった」
ショークロスは激昂してドロシーを絞め殺し、死体をサーモン・クリープに捨てて立ち去った。
フラニーはショークロスとのカー・セックスの最中にギアレバーに足が挟まり、レバーのノブがとれた事に腹を立て、殴り殺したという。
「俺は頭にきて彼女の喉を殴り続けたら、動かなくなった」
59歳の浮浪者ドロシー・キーラーはショークロスのアパートから盗みを働こうとしてショークロスを激怒させた。
さらに盗みを追求されたドロシーは「あんたがクララと愛人関係なの、ローズに言ってやる!」と開き直ったため、殺されることになった。
「『仲直りして、ジェネシー峡谷に釣りに行こう』と誘った」しかし釣りはせず、落ちていた丸太で首を思いっきり殴ったら死んだ、という。
アンナは川で遊んでいたところ、ふざけてショークロスを突き落とした。激怒したショークロスがアンナを殴りつけたら、アンナは「警察に言ってやる!」と騒ぎ始めた。
「仮釈放でまだ保護観察中の俺にとって、警察への通報は命取りだと思った。次に警察沙汰になったら、下手したら一生刑務所から出られなくなる」
「………それで、どうしたんだアート?」
「絞め殺してやった」


前述の通りショークロスは遺棄現場に何度も赴き、殺害した女性の遺体を見ては興奮に浸っていたことから「死体に帰る男」としてセンセーショナルに報道されたが、
これはショークロスだけでなく、今まで紹介した快楽連続殺人鬼に非常に多く見られる特徴である。
殺害現場に何度も赴く、被害者の遺留品を記念にとっておく、あるいは犠牲者の変わり果てた姿を写真に収める………
彼らはそうやって、殺人を「性的な思い出」とするのだ。

裁判:トラウマか、演技か
ショークロスはエリザベス・ギブソン殺害の件を除く10件の殺人で起訴された(エリザベスは隣のウェイン郡で殺されたため)。
裁判の前に弁護側は検察側の「殺人を認めれば死刑になる第一級殺人では起訴しない」という司法取引に応じた。
検察側のリーダーは、ここまで40回連続で有罪を勝ち取っている敏腕検事、「凄腕チャック」ことチャールズ・シラグサ検事が担当することになった。
10月24日から全米が注目する中ショークロスの裁判がはじまり、殺人を認めた弁護側は、ショークロスの精神異常を訴えた。
裁判が始まるとショークロスは弁護側が呼んだ女性精神医学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、幼い日「赤いコンバーティブルの男」にレイプされた記憶、
母に性的にいたぶられた記憶を呼びさまされ、許しを乞うて啜り泣いた。
さらには13世紀にイギリスにいた食人鬼「『アリーメス』の霊に取り憑かれている」と言い、奇妙な声でまくしたてた。
これが演技だとすれば、文字通りショークロスは「迫真の演技」ということになるのだろうが………
残念ながらこの弁護団の「戦術」は失敗に終わり、経験豊富なシラグサ検事に徹底的に矛盾を突かれる事になった。
裁判の終わりの方ではシラグサ検事が矛盾を突く度に、法廷は傍聴席や記者団からもドッと笑いが沸き起こり、ウィスナー裁判長は度々静粛にするよう一括し、
シラグサ検事含め検察側にも「被告や弁護側証人を茶化すような物の言い方、態度を慎むように」警告した程だったという。
最終弁論でシラグサ検事はショークロスを指差し、陪審団に訴えた。

「陪審員の皆さん、冷酷で計算高く、まったく反省の態度を見せないこの男にどうか殺人犯の烙印を押してください。
彼の殺人はベトナム戦争のトラウマや精神異常からの情緒不安定の結果などではありません。
彼にとって殺人は彼自身が言っているように『いつもの仕事、日課』にすぎないのです」


退行催眠によるショークロスの奇態も、陪審団は「全て演技」というシラグサ検事の意見に全面的に同意した。
1990年12月13日、エドワーズ陪審員長は10件の殺人全てに第二級殺人罪で有罪の評決を下した。
年が明けて湾岸戦争では多国籍軍の砂漠の嵐作戦が始まろうとしていた1991年1月2日、判決前にウィスナー裁判長は、ショークロスを自分の前に立たせてこう尋ねた。

「ミスター・ショークロス。発言を許します。何か言いたい事があるのなら言いなさい。
この裁判に集まった人間は私も含めて皆、一体どうしてこんな事が起きたのか、理解したいと思っているのです」


一体彼は何と答えるのか。ショークロスの言葉を聞き逃すまいと、法廷内は水を打ったような静けさとなり、全員が耳を澄ませた。

「今は何も申し上げることはありません」

ショークロスは短く淡々と答え、25年の服役刑の10連続遂行、合計250年の終身刑を宣告するウィスナー裁判長を、無表情に見つめていた─── 
まるで他人事であるかのように無表情である。

FBIのプロファイラーをはじめ、犯罪学者たちは事件解決後も、プロファイルと犯人であるショークロスとの年齢差に首をひねるばかりだった。
しかし一部の専門家の説によれば、刑務所で過ごした15年間、彼の殺人衝動は「仮死状態」になっていたのだろう、ということである。
その眠りは1987年の釈放によって破られた。だから現実の年齢は40代であっても、殺人衝動そのものは26歳のままだったのではないか、と。
26歳だったショークロスは16歳以上年齢の離れたジャッキーとカレンを殺害した。そして40台となってから、16歳前後年齢の離れた売春婦たちを殺害したのだろう。

エリザベスの裁判のため法廷入りするショークロス
1991年5月8日、ショークロスは11人目の犠牲者エリザベス・ギブソン殺害の件でさらに25年の服役刑を宣告された。
ただ、前述の通りエリザベスの件は裁判担当地区が違ったため、先の10件の殺人とは別とされた結果、250年の終身刑と「同時スタート」という事になった。
「これで正義が成されたと言えるのか! ショークロスは娘を殺した罪で刑務所に入った事にならないじゃないか」
とエリザベスの父ブルーノ・スタニスキーは猛抗議したという。

ショークロスの家族は妻のローズマリーと娘以外は面会を一切拒絶し、接触を断ったという。
ニューヨーク州立刑務所のサリバン更生施設にて、250年の終身刑に服していたショークロスだったが、2008年11月10日の午後、激しい足の痛みを訴えた。
アルバニー大学医療センターに運ばれたが、21時50分に心不全で死亡。63歳だった。
ショークロスは刑務所から何100通もの手紙を母親に出したというが、返事が帰って来たことはついになかった。
彼は生前、服役中のインタビューでこんな発言をしている。

「1枚でいいんだ、家族全員で写ってる写真が欲しいな。
それさえあれば、自分が騒ぎを起こすことはもうないような気がするんだがなぁ」


参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.65 峡谷の殺人鬼 早すぎた仮釈放 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

女がほしくなると墓場から連れてくる「月夜の屠殺狂」

本名エドワード・セオドア・ゲイン 通称エド・ゲイン

「エド・ゲインは2つの顔を持っていた。1つは隣人たちに見せていた顔。もう1つは死体にだけ見せていた顔だ」(デイリー・ジャーナル)

アイツに人殺しなんて恐ろしいことが出来る訳がない───それが地元プレーンフィールド住民たちの、エド・ゲインに対する印象だった。
頭は弱い変わり者だが気のいい男。誰もがそう思っていた。
月夜の屠殺狂エド・ゲイン
しかし、2人の中年女性を殺害し、おぞましい墓荒らしまでして15の遺体を切り刻んでいた狂人。それがゲインの正体だった。
そしてこのプレーンフィールドの屠殺狂は、恐怖映画『サイコ』『羊たちの沈黙』のモデルともなった。

失踪:よろず屋の男
アメリカの中北部、ウィスコンシン州の中央に位置する広大な平原の真ん中に、プレーンフィールド(何もない平原)という人口600人程度の小さな町がある。
「何もない平原」というその名の通り、本当になんにもなく、視界に映るのはどこまでも続く広大なライ麦畑のみ。
そんな寒村での住民の娯楽といえば鹿狩りと、そして仕事が終わってから飲む酒ぐらいだった。

クリスマスを2週間後に控えた1954年12月8日、この町で「メアリー酒場」という飲み屋を営むメアリー・ホーガンという体格のいい中年女性が行方不明になった。
シーモア・レスターという農夫が仕事を終えての一杯をやろうと店に立ち寄ったが、中には女将のメアリーがいなかった。
いくらメアリーを呼んでもまったく返事がない。不審に思ったレスターはカウンターの中を覗いて仰天した。床が血の海となっているではないか。
レスターは慌てて保安官事務所に通報。駆けつけたハロルド・S・トンプソン保安官は、床に転がる32口径ライフルの薬莢と、引きずられた血の痕を発見した。
どうやら何者かがメアリーを射殺し、その遺体を持ち去ったらしい。しかし、何のために?
現場には争った形跡はないし、レジの中の現金も手つかずのままだ。動機がまったく不明である。事件発生から1ヶ月が経過したが、解決の糸口はまるで掴めなかった。
もとより娯楽の少ないこの町は「メアリーに何が起こったのか?」の話題で持ちきりになった。
メアリーはこの町に来るまではシカゴに住んでおり、いわゆるマフィア、やくざ者とも付き合いがあったので、その関係で「消された」という噂も、真しやかに流れた。
製材所を営んでいるエルモ・ウィークも、塀を直しに来ていた、よろず屋(何でも屋)をして生計を立てている中年男にこの話題を振った。

「エディー。お前がもし本気でメアリーを口説いていたら、彼女は行方不明にならず、今頃お前の家で夕食を作ってくれていたかも知れないなぁ、ははは。
まあ、おそらくメアリーは殺されちまったんだろうが……」


ウィークはこの男がメアリーに気のあることを知っていた。たいして酒も飲めないクセに、メアリーの店に通い、しきりに彼女の様子を窺っていたのである。
すると、よろず屋の男エド・ゲインは笑いながらこう答えた。

「彼女はいなくなってなんかいないさ。今も俺ん家にいるよ。俺が軽トラで彼女を家に運んだんだ」

ウィークは「エディーが珍しくジョークをいった」と笑ってすませたが、3年後にそれはジョークでも何でもなかった事を思い知ることになる。
よろず屋ゲイン
このエド・ゲインは、プレーンフィールドの西の外れの一軒屋に住む、40代後半の無口な男だった。
9年前の1945年末に母が死んでからは天涯孤独となり、農作業もせずに町のよろず屋、なんでも屋としてブラブラしていた。
少々頭のネジが弱いところがあるが、柵や屋根の修理から農場の雑草むしり、さらには留守の時の子供たちの相手と頼んだ仕事はイヤな顔一つせずに手伝ってくれるので、
住民たちは重宝していた。
つまり住民たちにとってはゲインは「ボンクラだけどいい人」であり、そんな彼がメアリーの失踪に関わっているなどとはウィークを含め誰1人として夢にも思っていなかった。

過去:育まれた狂気
1906年8月27日、父ジョージ・ゲインと母オーガスタ・ゲインの2人目の子供として、エド・ゲインことエドワード・セオドア・ゲインはこの世に生を授かった。
ゲインについて語る場合、まずこのオーガスタについては触れない訳にはいかないだろう。
(筆者注:多くの書籍、サイトにも書いてあるように、月夜の屠殺狂エド・ゲインを作り出したのはオーガスタだと私も思っている)

オーガスタは勤勉で敬虔なキリスト教の大家族に生まれた。彼女の父親は狂信的なまでのキリスト教徒で、厳しい躾に加え、子供たちに躊躇無く体罰をおこなった。
その甲斐あってか、オーガスタは父親そっくりの娘に育った。
限りなく厳格で、独善的で、支配的。融通がきかず、自分の考えこそ絶対の正義だと信じ込み、それを他人に押し付けることにも躊躇がなかった。
ジョージと結婚後、オーガスタはすぐにゲイン家の女暴君と化した。彼女は人前でも家の中でも、夫を平気で嘲笑い、怠け者とののしった。
それ以外では夫と口を利くことなどなく、ゲイン家から明るい笑い声や軽口が聞こえてくることは皆無だった。
酒が入っているときのジョージはオーガスタの言葉の暴力に我慢することなく、オーガスタに手をあげることもしばしばだった。
殴られたオーガスタは夫に悪態の限りをつきながら泣き叫び、そのあとは一心不乱に夫の死を祈った。
オーガスタは「子供」という自分の人生への慰めが欲しい一心で、夫をベッドに入れることを許した。
性行為を心の底から嫌悪していた彼女にとって、それは我慢ならないことだったが、彼女はこれを出産のための義務として、歯を食い縛って耐えた。
結果、彼女は長男ヘンリーと次男エドワードの2人の息子を授かることになる。娘を望んでいたオーガスタは酷く落胆したが、くじけはしなかった。
彼女は恐るべき精神力の持ち主であり、そのときもこう誓うことで絶望を乗り越えた。
「この子たちだけは、堕落しきって汚れたよその男どものようにさせはしない」

ウィンスコンシン州のラクロスで、ゲイン家(といってもオーガスタだが)は雑貨屋を始めた。
怠け者で大酒飲みの夫を相変わらず侮蔑し、牝牛のように頑丈な体のオーガスタは、朝から晩まで身を粉にして働いた。
やがてゲイン家はプレーンフィールドに移り住み、農場をかまえた。
人里離れていたことがさらにオーガスタを満足させた。彼女にとっては、もはや世間の全てが堕落し、汚れきったものでしかなかったのだから。
だがさすがに子供たちを隔絶させたまま育てることはできず、学校にはやらなけらればならない。だがオーガスタは子供たちに友達を作るのを禁止した。
エド少年が誰かと遊びたい、とオーガスタに打ち明けると、オーガスタは目を吊り上げ反対した。

「あの子の親父は女癖が悪いって噂さ。この子の母親は誰にでも色目をつかうって評判だよ。あんた、そんな家の子と付き合いたいのかい!?
ここの子供たちなんてあんたの父親と一緒の堕落しきった罪深い存在なのさ!」


声は次第に高くなり、やがて絶叫となる。こうなるとエドも、母親に再度懇願する気力などまったく無くなっていた。
こうして同年代の子とまともに付き合ったことがないエドは、卑猥なジョークを聞くと真っ赤になって逃げ出し、
些細なからかいの言葉にも女の子よりたやすく泣き出す子供に成長した。
エドは「ここにはお前が付き合うようなまともな子供なんていやしない」という母の言葉にウソはない、と思い込むようになった。
エドの中で母オーガスタは唯一の友人であり、全能の女神、聖母となっていた。
オーガスタにとって自分以外の女性もまた、全て堕落し、汚れた存在だった。息子たちに自分の名にかけて、女には関わらないように誓わせた。
しかしエドは忠誠を誓う一方で母の目を盗み、ポルノ雑誌やホラー雑誌を読み耽るようになった。
ゲインの家
1940年、「名ばかりの父親」だったジョージが66歳で死亡。そして1944年、兄ヘンリーは42歳のとき、近所の山火事を食い止めようとして死んだ。
エドは「兄を火事の最中に見失った」と言っておきながら、捜索隊を迷わず「ある場所」まで案内した。そこにはヘンリーの死体が横たわっていた。
それを指摘されるとエドは平然と「不思議なこともあるもんだ」とだけ言った。
ヘンリーの体にはほとんど火傷のあとはなく、頭部には殴られたようなアザが出来ていたという。
実はこの事件の直前に、オーガスタの「洗脳」が浅く社交性のある人間に育ったヘンリーは、エドの前で母の態度や思想を散々非難し
「お前はいつまでお袋にベッタリくっついているんだ」とオーガスタから離れるように助言したという。
だがヘンリーの死因は煙にまかれた窒息とされ、有耶無耶の内に事件は忘れ去られ、エドがオーガスタのもとを離れることはなかった。
ヘンリーの死の直後に、今度はオーガスタが父が死亡した時と同じ66歳で脳卒中で倒れた。エドは母を1人占めできることに半ば狂喜しながら付きっきりで看病した。
その甲斐あってかオーガスタはリハビリできるまでに回復したが、エドに対し感謝の念を表すことはなかった。
しかし1年後、オーガスタは再び倒れた。今度は彼女の鉄の意思をもってしても、回復は不可能であった。1945年12月、オーガスタ死亡。
唯一の友であり、唯一の愛する人、唯一の尊敬出来る人を失ったエドは、葬儀の席で人目もはばからず棺にとりすがって
「母のような人はどこを探してもいない」と泣きじゃくった。
マザコン男エド・ゲインはまともに生きる気力を失い、現実と妄想の区別がつかなくなっていく………。

殺人:吊るされていたもの
3年後の1957年11月16日の土曜午前。またしても殺人の可能性が高い失踪事件が発生した。
鍋、包丁からライフルまで金属製品ならなんでも扱うウォーデン金物屋の女主人、バーニス・ウォーデン夫人が今度は行方不明となったのである。
夫人もメアリー同様に太った気の強い中年女性で、やはりメアリーの時と同様に、カウンターの中には夫人の生命が危ぶまれるような、血溜りがあった。
「アイツの仕業です、アイツがお袋に何かしたのは分かっているんだ」息子のフランク・ウォーデンは駆けつけた新任の郡保安官のアート・シュリーに語気を強めて言った。
「アイツ?誰です?」シュリー保安官が尋ねると、フランクは答えた。「エド・ゲインですよ」
フランクは数日前からゲインが軽トラを店の前に止めて、店の中を窺っていたことを保安官に伝えた。さらにカウンターから手書きの領収書が見つかった。
血が飛び散った一番新しいその領収書はゲイン宛てのものだった。
シュリー保安官はゲインを見つけ次第身柄を拘束するよう、無線で各方面に連絡を取った。
その頃、製材商のエルモ・ウィークはゲインの所有する農場で迷い込んでいた鹿を仕留めた。
車のフロントに鹿を縛り付けて帰ろうとしたら、ゲインが運転するフォードのセダンがこちらに向かってきている。
ゲインの土地に勝手に入り込んで鹿狩りをしていたウィークは「ヤバ、見つかった、エディーに怒られる」と焦ったが、ゲインは愛想よく手を振り何を急いでいるのか
「いつもよりも速い運転スピードで」そのまま走り去っていった。
午後になって近所に住む、ゲインの数少ない少年時代からの友人でいつも親切にしてくれるボブ・ヒルとその妹のダーリーンが、ゲインの家を訪れた。
車のバッテリーが切れたので、新しいのを買いたいので大きな町まで乗せていってほしいと頼みにきたのだが、ドアを開けて現れたゲインの両手は血まみれだった。
ゲインは「鹿を捌いてハラワタを抜いていたんだよ」といってニヤニヤと笑ったが、兄妹は不審に思った。
ゲインは日頃から「屠殺は嫌いだ。血を見るだけで気を失いそうになる」と言っていたからだ。事実、ゲインは鹿狩りに参加したことはない。
「でもまあ、当のエディー本人がそう言っているんだからそうなんだろう」とボブは納得し、ゲインに町まで送ってもらった。
そして、御礼としてボブの母アイリーンはゲインに夕食を食べていくように勧めた。
ゲインがメインディッシュのポークチョップに舌鼓を打っている最中、バーニス・ウォーデン夫人失踪のニュースがヒル家にも届いた。
ボブの母アイリーンがゲインにからかい半分でこんな質問をした。「誰かが頭を吹き飛ばされたり、いなくなったりする時、どうしていつもあなたが近くにいるの?」
その時ゲインは、肩をすくめてニヤニヤと笑っただけだったという。
腹いっぱいになり、満足して帰路についていたゲインを、ダン・チェイス交通巡査ポーク・スピーズ保安官代理が発見。ゲインに今日1日の行動を質問した。
2度の供述には明らかに食い違いが見られ、そのことを指摘されるとゲインは慌てて「誰かが俺を陥れようとしたんだ」と答えた。
「陥れようとしてる?何のことで?」チェイス巡査が質問すると、ゲインは答えた。「ウォーデン夫人だよ」

「だってあの人、死んだんだろう?」

「死んだって!?」チェイス巡査は叫びに近い金切り声を上げた。
「我々は今日1日のアンタの行動を聞いただけだ! 『ウォーデン夫人が死んだ』なんて一言も言ってないぞ!?」ゲインは重要参考人として身柄を拘束された。
ゲイン身柄拘束の連絡を受けたシュリー保安官は、隣接するグリーンレイク郡保安官事務所のロイド・シューフォースター所長と共にゲインの家に到着。
台所の増築部分のドアを破壊し踏み込んだ2人は、懐中電灯のスイッチを入れた途端恐怖に息を飲んだ。
懐中電灯に照らし出されたのは、逆さにY字で吊るされた女性の首無し死体だった。
さらに女性の死体は胴の部分がポッカリと空洞で、狩猟された鹿肉のように内蔵を抜かれ、血抜きされ、皮を剥がされていた。
シューフォスター所長は言葉を失い、そしてシュリー保安官は家を飛び出し雪上で激しく嘔吐した。
汚らしく散らかったゲインの家の内部

捜査:吐き気を催す家宅捜索
何とか冷静さを取り戻したシューフォスター所長は、無線で警察に応援を要請。逃げ出したい気持ちをこらえ、2人は再び探索を続けることにした。
ゲインの家は、ゴミと汚物にまみれていた。広い屋敷の中で、実際に使われていたのはせいぜい3部屋ほどであった。
ゴミの山に混じり、コーヒー缶にはガムが大量に吐き捨てられていた。ホラー雑誌や殺人書籍が大量に山積みされており、暖炉の上には入れ歯がずらり並んでいた。
死体の存在を別にしても、こんな空間で生活出来る人間がいるなど、信じられかった。
やがて応援の警察の捜査班も駆けつけ、家の中に小型バッテリーを持ち込んでアーク灯に照らし出された光景に、捜査員たちは絶句した。
テーブルには頭蓋骨をノコギリで半分に断ち割ったものがスープ椀として置かれていた。椅子の座板には、人間のなめした皮が張ってあった。
その他にもランプの笠、ブレスレット、タムタム太鼓、狩猟用ナイフの鞘、足の皮膚で作ったレッグウォーマーなど、人間の皮を加工して作った様々な小品が見つかった。
さらには、女の上半身の皮を丁寧に剥がして作られた、乳房付きのベストがあった。
床の靴箱の中には、女性性器が9つコレクションされていた。
ほとんどは乾いて干からびていたが、ひとつはごく新鮮で、陰毛の生えた外陰部に性器と肛門が付いているのが肉眼でも分かった。しかもそれは塩漬けにされていた。
(これはのちの鑑識でウォーデン夫人のものであるのが確認された)
頭蓋骨を半分に割って作ったスープ椀
だが、中でも一番捜査陣を戦慄させたのは、ゲインの干し首コレクションだった。
捜査陣も、未開部族の伝説の話くらいに思っていた人間の干し首を、まさかその目で見ることになるとは、思いもしなかった。
いずれも慎重に女性の頭蓋骨から頭髪のついたまま皮を剥がされ、紙やボロ布を詰めてオイルを丹念に塗られて、表面の滑らかさを保たれていた。
その内の1番新しいものは、3年前に行方不明となっていた酒場の女将、メアリー・ホーガンのものだった。
捜索に当たった保安官、警官たちは恐怖で顔面蒼白になりながらも、ゲイン宅をかきまわし、探りまわし、様々な「人間のパーツで作った日常品」を発掘した。
ウォーデン夫人の心臓はビニールに詰められて、内蔵は古いスーツに包まり発見された。
頭部は干し首にするつもりだったのだろう、耳に紐がついた状態で台所から発見された。

そうして彼らは、ついに一階の母屋の奥へと突き当たった。ドアが厳重に板張りで封じられた、その部屋へと。
釘が抜かれ、板が外され、彼らが見たもの―──それは壮麗な「墓場」だった。
そこはオーガスタの部屋であった。彼女の生前の状態そのままに、その部屋は「聖域」として12年間強固に守られ続けていたのだ。
家具類も暖炉の上の飾りものにも、分厚いホコリがかかるまで。

取調べに対し、ゲインはウォーデン夫人の死を「銃の暴発による不幸な事故だ」として故殺でないと主張した。
それにしても、メアリー・ホーガンとバーニス・ウォーデン以外の干し首などの人体コレクションは一体誰のものなのか───
この疑問に対し、ゲインの回答は再び捜査陣に恐怖を植えつけた。

「彼女たちは、墓を掘り起こして連れてきました」

母が死んで5年後くらいから墓荒らしを始めたという。新聞の死亡欄を常にチェックし、中年女性が死ぬとその遺体を盗んだ、というのだ。
ゲインの供述通り、2つの墓の内1つは死体が入ってなく、もう1つは人間のわずかな残骸が残っていただけだった。
ゲインの自供は真実なのを確認した捜査当局は、墓の捜索を打ち切った。

公判:精神病院へ
ゲインに命を奪われた被害者2人は、ともに体格のいい気丈な中年女性で、彼にとって全能の女神であるオーガスタに非常に似ていた。
母親オーガスタが死ぬまで崇拝し続けたゲインは、オーガスタの死を受け入れられなかった。墓から「彼女に似た」中年女を掘り起こすことで、母を死から救おうとした。
それと同時に、その死体を解体し、ありとあらゆる損壊を加えることで、彼は復讐をも試みていたのだ。
メアリー・ホーガンとバーニス・ウォーデンを殺害したのも、おそらく無意識に母オーガスタを殺害していたのだろう。
友達を作ることさえ許してくれず、常に威圧的で彼の一生分の幸福を奪った償いとして。
(もっとも、ゲインはまったくそれを自覚してはいなかったと思うが)

ゲインは殺人以外の供述には至極協力的で、捜査員の言葉に迎合して「彼らを喜ばそうと」子供のように無邪気だったという。
尚、死姦と人肉食は頑として否定した。「臭いが酷くて耐えられなかったので」と答えた。

「月夜の晩に女の顔から剥がした皮をかぶったり、乳首付きのベストを着て、皮張りの太鼓を叩いて……」

そして彼は自分の性器を切断したいと思ったこと、死体から切り取った女性器で己の性器をくるみこんで隠してみたこと、女性の下着を身に着けたことがあること、
などをごく控えめに認めた。
精神鑑定の結果、ゲインは性転換願望がかなり強いのが確認された。彼は女になりたかったのだろうか?
いや、ゲインはおそらくオーガスタになりたかったのだろう。この世で彼の唯一認める、全知全能の存在に。

12月18日、ゲインを精神鑑定したウィンスコンシン州立中央病院の医師団は「被告が法廷に立つことは不適切」との見解を提出、
ゲインはそのまま州立中央病院に無期限で収監されることになった。
約11年後の1968年11月14日に行われた裁判でゲインは有罪判決を受けたが「重度の精神病患者」として刑務所送りにはならず、再び州立中央病院に入れられた。
彼はそこで模範患者として静かに過ごしていたが、1974年2月、突如として「精神障害を克服した」として釈放の嘆願を提出、周囲を仰天させた。
法廷での傍聴前にゲインは記者たちに「これからは人生を有意義なものにしていきたいし、世界一周旅行の計画も練っているんだ」と愛想よくしていた。
しかし、ゲインのこの嘆願は却下された。医師の1人の「彼を長年蝕んできた精神異常は、すぐに再発する可能性がある」という診断結果が致命的だった。
退院を求めて傍聴席に座るゲイン
1978年、ゲインはメンドータ研究所付属精神病院に移送され、ついにそこから退院することはなかった。
1984年7月。ゲインは癌による呼吸不全で息を引き取った。78歳だった。彼の死体は、最愛の母親の墓標のすぐ隣に、墓標なしで埋葬された。
ゲインのその異常、邪悪にして純真で無垢な魂は、後世に凄まじい影響を与えた。
『サイコ』の溺愛していた母をもう1つの人格としてもつノーマン・ベイツも、『羊たちの沈黙』の乳房つきチョッキを着るバッファロー・ビルも。
ゲインなくしては生まれてくることはなかったのだ。
事件が起こったプレーンフィールドには、今でもこんな小話が残っている。

「昔、ウィンスコンシンの片田舎にエドという小男が住んでいた。
女を口説いて誘う術(すべ)を知らなかったエドは、女がほしくなると墓場からつれてきた」


参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.72 プレインフィールドの屠殺人 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
オリジナル・サイコ 異常殺人者エド・ゲインの素顔 (ハヤカワ文庫NF)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

人の命を弄ぶ氷の心のサイコ毒殺魔

本名グレアム・フレデリック・ヤング 通称グレアム・ヤング

「僕は、いえ、もっと正確にいえば、僕の一部は、彼らを人として見ることをやめてしまったんだと思います。彼らはモルモットになっていたんです」
(グレアム・ヤング、家族や会社の同僚に毒を盛ったことについて)

サイコ毒殺魔グレアム・ヤング
生まれながらの殺人鬼───そう評価すべき人間がいるとしたら、グレアム・ヤングこそがまさに当てはまるだろう。
彼が愛の対象、友人としたのは毒薬のみだった。その魅力に取り憑かれた彼にとって、周囲の人は毒薬実験のモルモットに過ぎなかった。
ヤングに近づいた者は誰であろうと、会社の同僚であろうと、家族であろうと、全て殺人ゲームの標的にされたのだった。

初犯:毒薬に魅せられて
13歳のクリス・ウィリアムズは、クラスメートのグレアム・ヤングと喧嘩をした1週間後、激しい嘔吐に襲われていた。
それはグレアムから貰ったサンドウィッチを食べた直後のことだった。
しかしウィリアムズだけでなく、ヤング家の面々もまた、ウィリアムズと同じような症状を訴えていた。
最初は後妻のモリーだった。やがて夫のフレッドと、長女のウィニフレッドも激しい嘔吐に襲われた。叔母のウィニーまでもがヤング家で紅茶を飲んだ後に嘔吐した。
誰もがグレアムの「化学実験」を原因と考えた。彼はよく実験にポットや鍋を実験に使っていたので、よく洗わなかったのだろうと考えたのだ。
フレッドはグレアムに家で化学実験をする事を禁じたが、モリーの症状は日増しに悪くなって行く一方だった。
まだ38歳だというのにすっかり老け込み、背中の痛みのために前屈みで歩くようになった。
体重も急激に減り始め、数ヶ月もするとすっかり老婆のようになってしまった。
1962年4月21日、復活祭の土曜日。モリーが目を覚ますと、いつも以上の痛みに加えて、首が硬直し、両手足に刺すような痛みを感じた。
昼食の時間にフレッドが帰宅すると、グレアムが台所でみじろぎもせずに窓越しに何かを眺めていた。
何を眺めているのか覗いてみると、裏庭の芝生でモリーが痙攣を起こし、悶え苦しんでいるではないか。
フレッドは慌ててモリーを病院へと運んだ。しかし、原因は判らず、その日の夕方にモリーは死亡した。
モリーの遺体は検視解剖されることなく火葬された。土葬でなく火葬すべきだと主張したのはグレアムだった。
今では火葬技術が進んでいるので、土葬よりも遥かに魂の安らぎが得られるというのがその理由だ。気が動転していたフレッドは、助言通り火葬を受け入れた。
後にグレアムが語ったところによれば、それまでモリーにアンチモンを投与していたのだが、次第に効かなくなってしまった。耐性ができていたのである。
そこで、新たにタリウムを夕食に混入したのだ。しかも12人分の致死量を。効果はてき面だったのだ。

有罪判決を受けた13歳のヤング
モリーの葬式から数日後、今度は父のフレッドが再び腹痛に見舞われ始めた。
それは月曜日の朝に始まり、週末が近づくにつれて治まった。そして、月曜日になるとまた発作が起こる。
後になって気づいたのだが、彼は日曜日の夜になるとグレアムとパブに出掛けていたのだ。あまりに痛みが酷いので入院したが、原因は判らなかった。
少し回復したので退院したが、すぐに具合が悪くなって再入院した。
さらに医師からの「砒素、もしくはアンチモンによる重金属中毒が原因」との診断に、完全に戸惑ってしまった。
グレアムが通うジョン・ケリー中学の理科の教師ジェフリー・ヒューズは、彼が毒薬に夢中になっている事に頭を痛めていた。
そして彼の母が原因不明の死亡、今度は父が入院。疑念を抱いたヒューズがグレアムの机を調べると、毒薬の瓶が数本出てきた。
さらにノートには苦しみながら死んで行く男の絵、毒薬と殺人を題材にした小説などが書かれてあった。ヒューズは慌てて校長にその旨を伝えた。
グレアム・ヤングの言動を以前から気にしていた校長は直ちに精神科医を呼んで、グレアムの検査を依頼した。
精神科医が進路志望の相談員を装った面談は5月20日に行われた。グレアムは毒薬に対する自分の知識と情熱、そして数々の実験の成果を語って聞かせた。
精神科医は感心し、君にはもう大学に行けるだけの知性があるよと褒めそやした。グレアムは得意げに帰宅したが、精神科医はすぐさま警察に通報した。
翌5月21日、ヤング家を訪問したエドワード・グラップ警部は、グレアムの部屋からアンチモン、タリウム等、ゆうに300人は殺せるだけの毒薬を押収した。
学校から戻るとハールスデン警察署に連行されたグレアムは容疑を一貫して否認していたが、面会に訪れた叔母ウィニーに説得され、翌朝になって全てを自供した。
精神鑑定によれば「道徳観念が著しく欠如している」。つまり、グレアムの行動原理は「科学者特有の超然とした客観性」だった。
彼がモルモットとして家族を選んだのは、実験を観察し、記録するのには身近にいる家族の方が都合がよかっただけなのだ。
しかし正式な鑑定以外でも、グレアムの異常性は突出していた。「アンチモンが恋しいよ」グレアムは精神科医に向かって続けてこう言った。

「あいつが僕に与えてくれたパワーがないと、僕も寂しいんだ」
 
1962年7月6日、英国中央刑事裁判で行われた裁判で、グレアムは父と姉、そして同級生のクリス・ウィリアムズに毒を盛った件で責任があると判断された。
(筆者注:継母のモリー殺害に関しては、火葬してしまっているので調べようがなく、責任は問われなかった)、
メルフォード・スティーブン判事は15年間釈放されないことを条件にブロードムーア精神病院への収監、釈放後の処遇はその時の内務大臣に委ねる、
との判決を言い渡した。

過去:毒殺魔の誕生 
グレアム・フレデリック・ヤングは1947年9月7日、ロンドン北部の街のニーズデンで生まれた。
母親のマーガレットは妊娠中に萎縮性胸膜炎を患い、グレアムの出産の3ヶ月後に結核で死亡した。
幼いグレアムは機械工をしていた父フレッド・ヤングの妹、ウィニーに預けられた。
グレアムはウィニーとその夫ジャックのジュビナット夫妻にすっかりなつき、夫妻の娘でいとこにあたるサンドラとも仲良くなった。
ジュビナット夫妻もぽっちゃりした顔の幼少期のグレアムを「プリンちゃん」と呼んで、大層可愛がった。
しかし3年後、父が前妻マーガレットよりも若いモリーと再婚すると、グレアムと祖母に預けられていた長女のウィニフレッドは、一つ屋根の下で暮らすようになった。
実の子でなくても、それ以上の愛情をもって接してくれたジュビナット家から引き離される事になったグレアムの悲しみは、想像に固くない。
プリンちゃん
グレアムは極めて聡明な少年だったが、何かにつけ不器用で、あまり友達を作れなかった。図書館で1人本を読むことを好んだ。
しかし、学校での成績は芳しくなかった。好きなこと以外にはまったく関心を持たなかったからである。
9歳になるころに、グレアムは化学、とりわけて薬品に興味を持つようになる。継母モリーのマニキュアの除光液にも異常なまでの興味を示し始めた。
それどころか、塩酸やエーテルまで持っていたこともある。グレアムは「薬局のゴミ箱から拾ったものだ」と言い張った。モリーと姉のウィニフレッドは彼を心配しはじめた。
11歳なったグレアムは私立中学に合格、フレッドは合格祝いに化学の実験セットを買い与えた。
グレアムはこの頃から異常性が増していった。読む本も化学関連ばかりでなく、犯罪、黒魔術、ナチズムと増えていった。ヒトラーに憧れ、その演説を真似したりもした。
尊敬する人物としてヒトラーの他に中世の毒殺魔ウィリアム・パーマーの名を挙げ「僕も彼のように有名になるんだ」などと公言して憚らなかった。

グレアムと継母モリーとの関係はあまり良好ではなかった。クラスメートにはモリーを「口うるさく、ケチな女」と触れ回っていた。
ある日、「化学実験」で服に穴を空けてしまったグレアムを、モリーは叱りとばした。
翌日グレアムは1枚の絵を居間に置いて登校した。それは墓石の絵で、碑銘には「憎むべきモリー・ヤング、ここに眠る」と記されていた。
また、父フレッドも前妻マーガレットの死をグレアムのせいにしていたふしがある。2人は実の親子とは思えないほどよそよそしかった。
そして、独学で化学を、犯罪を、ナチズムを学んだ。彼はたった1人で毒殺を学び、実行し、希望通りに「有名人」になったのである。
13歳になる頃には、E・M・エバンスの偽名で薬局でアンチモンを買い、それを小さな薬瓶に入れて肌身離さず持ち歩いていた。

収監:若すぎる収容患者
古めかしいヴィクトリア調の建物であるブロード・ムーア精神病院で、ヤングは3本の指に入る若い患者だった。
叔母のウィニーと姉のウィニフレッドは、治療のためには彼を見捨てないことが重要だと考え、定期的に面会に訪れた。
父のフレッドも息子への嫌悪感、怒りを押し殺して何度か訪れたが、親子の会話はまるでなく、間が持たないのでやめてしまった。
しかし、モリーの兄であるフランクは面会を続けた。グレアムはフランクが訪れるたびにマッチをせがんだ。
彼は云われるままに差し入れていたが、やがてマッチには燐が含まれていることを知り、差し入れをやめた。燐は毒にもなるのである。
グレアムが収容されて1ヶ月後の1962年8月6日、ジョン・ベリッジという患者が痙攣を起こし、数時間後に死亡した。
検視解剖の結果、死因は青酸カリによる中毒死であることが判明した。直ちに院内の調査が行われたが、青酸カリ及びそれを含んだものは何処からも見つからなかった。
結局、事件は迷宮入りになったのだが、事件直後「自分が犯人だ」と名乗り出た患者が数人いた。
この手の精神病院ではよくある事なので医師たちはまともに取り合わなかったが、その中の1人にヤングもいた。
彼は月桂樹の葉から青酸カリを抽出する方法を語って聞かせた。病院の周辺には月桂樹が繁茂していた。
ヤングの叔母ウィニーと姉のウィニフレッド
ヤングがブロード・ムーアで受けた具体的な治療は、鎮静剤を飲まされることだけだった。
それ以外はほとんどフリーで、彼は部屋の中をナチスの戦犯たちの写真で飾りたてた。紅茶や砂糖などを入れる缶には髑髏マークと毒薬名を書き入れた。
図書館への出入りも自由であり、読む本も制約されていなかった。彼は化学と毒薬の知識を益々広げて行った…。
ヤングの若さが医師たちを油断させたのだろう。彼らはグレアムが近いうちに社会復帰できると信じていた。
そこで、彼を調理場で働かせてみることにした。冒険だったが、自分たちが彼を信頼しているという態度を見せることが必要だと考えたのだ。
しかしその淡い期待は見事なまでに裏切られた。彼が入れたコーヒーが異常に黒ずんでいたのだ。検査の結果トイレ用洗剤が混入されていた。
看護婦たちはヤングをまったく信じていなかったので飲む者はいなかったが、それ以来、患者が面倒を起こすと、
「おとなしくしないと、あなたのコーヒーはグレアム・ヤングに入れさせますよ」と冗談を飛ばすようになった。
1965年の暮れにヤングは退院許可の嘆願書を提出する権利を取得した。しかし父のフレッドは「絶対に退院させるべきではない」と申し入れた。
嘆願を棄却された事に腹を立てたヤングは、ティーポットの中にひと袋分の浴槽用洗剤を混入した。
これがバレてヤングは「ブタ箱」と呼ばれる集中監視棟に移されることになった。
この経験によりヤングは「治療が効果を上げているように振舞わないと、いつまでも退院できない」と思い知った。
毒薬への興味を封印したように見せかけ、エド・ケンパーのように治癒している演技を始めた。
1970年には主治医は「完治」を内務省に報告した。歓喜したヤングは、すでに結婚していた姉ウィニフレッドに「吉報」を手紙で知らせている。
1971初頭、内務省は引き続き治療を受けることと、一定の場所に住むことを条件に、ヤングの退院を許可する決定を下した。
2月4日、ヤングは8年間を過ごしたブロード・ムーアを退院した。しかし退院前の数週間前に、看護婦の1人にこのような本音を明かしていた。

「退院したら、ここで過ごした年数と同じだけ人を殺してやる」

開放:解き放たれた怪物
ブロード・ムーアを退院したヤングは、その足でヘルム・メンプステッドにある姉の家へと向った。
弟が退院するのは手紙で知っていたが、今日がその日だとは知らされていなかったウィニフレッドは、玄関先に弟が立っているのを見て驚いた。
父のフレッドに至っては、退院することさえ知らされていなかった。彼はウィニフレッドからの手紙で、初めてあの忌々しい息子が退院したのを知ったのだ。
1ヶ月後、ブロード・ムーアの職員がフレッドの家を訪れて「ただいま息子さんの退院が審議されているところです」と告げた。
「息子はとっくに退院しておる!」フレッドはブロード・ムーアの「お役人仕事」的な無能ぶりと、わざわざ誤報を携えてきた職員に呆れ果てた。

しばらくウィニフレッドの家に居候することにしたヤングは、スラウにある職業訓練所へと通った。ここでトレバー・スパークスという青年と友達になった。
3日後、トレバーは激しい腹痛に襲われた。誰と関わったせいでこうなったかは言うまでもない。
4月、ヤングは高速度撮影機や光学機器を扱っているジョン・ハドランド社の求人広告を眼にした。この手の会社では化学薬品を扱っている。それに、姉の家の近くにある。
ヤングは早速応募した。履歴書の「特記事項」の欄には「当方、有機化学、無機化学、薬学及び毒物学を10年以上に渡って研究した経験があり…」と記した。
冒頭の顔写真を貼ったのだが、これは自動撮影機で撮ったもので、なかなか撮影されず、ムッとしたところが写真となった。こんな仏頂面となったのはその為である。
ヤングは4月23日、ハドランド社の面接試験を受けた。面接を担当した取締役のゴッドフリー・フォスターに対し、例によって化学、薬物に対する知識を披露した。
しかし、それよりもフォスターが気になったのは履歴書の「空白の9年間」だった。ヤングはこのように説明した。

「母が急死した後、神経衰弱になってしまい、精神科の治療を受けていました。しかし、今では完治しています」

フォスターは確認のために職業訓練所を通じて主治医アドウィン博士に診断書を届けるよう連絡した。
ヤングの社会復帰への機会を奪うべきではない、と考えたアドウィン博士はヤングの精神障害は完治していると報告し、前科については一言も触れなかった。

ヤングは5月10日からスーツにネクタイ姿で午前8時半に出勤、ハドランド社の倉庫係として働き始めた。同僚たちはみな気さくで、一風変わった新人を歓迎した。
特に倉庫管理部長のボブ・イーグルと、非常勤出荷担当のフレッド・ビッグスはヤングを可愛がった。ヤングもそれに応えるかのように、手巻きの煙草を2人にあげた。
そして、それまでは事務員のバートレット夫人の仕事であった紅茶をワゴンで配る係を買って出た。
6月3日、ボブ・イーグルが激しい腹痛に見舞われて、しばらく寝込むことになった。
6月8日、倉庫係のロン・ヒューイットが、ヤングが運んできたお茶を飲んだ直後に激しい腹痛に襲われた。
医師の診断は食中毒だったが、症状は一向に治まらなかった。出勤しては吐いて休み、出勤しては吐いて休みを3週間も繰り返した挙句に退社してしまった。
(しかし、ヒューイットは退社したおかげで命だけは取り留めることになる)
6月25日、イーグルは職場に復帰したが、翌日から指が痺れ、背中が痛みだし、遂には動けなくなってしまった。
直ちにウエストハーツ病院に運ばれたが、容態は悪くなるばかりだった。2度の心肺停止など苦しみ抜いた挙句、妻ドロシーに看取られながら7月7日に死亡した。
9月初頭に入って、今度はフレッド・ビッグスが腹痛に襲われ始めた。
9月20日、輸出入部長のピーター・バックが、ヤングと共に紅茶を飲んだ直後に激しい腹痛に襲われた。
10月8日、今度は事務員のデヴィッド・ティルソンが紅茶を飲んだ直後に具合が悪くなった。足に針で刺したような痛みを感じた。
重金属液体タリウム
10月15日、ヤングと一緒に残業していたジェスロ・バットに、ヤングがこんなことを話し掛けてきた。
「知っているかいジェス?誰かに毒を盛って、それを病気のように見せかけるのはとても簡単なことなんだよ」
休憩中に、ヤングがバットにコーヒーを入れた。バットは一口飲んで、妙に苦いと感じた。バットは残りを捨てた。それを見ていたヤングが尋ねた。
「どうしたんだいジェス?僕が毒でも入れたと思ったのかい?」
2人でその場では大笑いしたが、20分後にバットは具合が悪くなった。バットは後にこのように語っている。

「少し変わった奴だとは思っていたが、当時は一連の出来事を繋ぎ合わせて考えることが出来なかった。あの時、気づくべきだった」

バットの両足は激しい痛みに襲われ、次第に麻痺していった。
10月18日、遂にデヴィッド・ティルソンが入院した。この頃には頭髪が抜け始めていた。
10月19日、事務員のダイアナ・スマートが、ヤングとコーヒーを飲んだ直後に嘔吐した。手に刺すような痛みを感じ、やがて痙攣が襲った。
一方、バットの容態も悪化していた。彼もまた頭髪が抜け落ち、幻覚などにも苛まされ、あまりの苦痛に妻に「死にたい」と漏らす程だった。
11月6日、土曜出勤していたヤングは、4日に入院し、復帰したビッグスと休憩時間に紅茶を飲んだ。その直後、ビッグスの症状がぶり返した。
11日に再び入院、そしてロンドンの国立神経科病院に移されたがそして11月19日、皮膚がむけるなど苦しみ抜いて死亡した。
ヤングはダイアン・スマートに向かっていった。「何がいけなかったんだろう」

「フレッドが死んでしまうなんて。僕、あのおじさんが大好きだったのに」

逮捕:暴かれた証拠
社内はもはやパニック寸前だった。経営者のジョン・ハドランドは嘱託医のイアン・アンダーソン博士に調査を依頼した。
タリウムという重金属系の化学薬品が高屈折率レンズの製造過程で使用されることがあるが、ハドランド社ではタリウムは使用していなかった。
(筆者注:ヤングもそれを知っていたが、ハドランド社では使用されていないことを知り、わざわざ独自に入手したのである)
そこで、伝染性のウイルスが原因ではないかと考えた。その旨を社員を集めて説明し、平静を保つように求めた。ハドランドは、社員たちの質問を受け付けた。
すると「どうして重金属による汚染が可能性から排除されたのですか?」という質問が後方から上がった。質問の主はヤングだった。
「彼らの症状は重金属中毒の症状と合致しているじゃないですか」ヤングは得意げに患者たちの症状に対する質問し続けた。
ようやく集会が終わり、社員は皆自分の仕事場に戻った。
ヤングの重金属中毒や毒物の知識が気になったアンダーソン博士は、何気ないふりをしてヤングの持ち場である倉庫に向かった。
博士が先ほどのヤングの知識を褒めちぎると、ヤングはまたも有頂天となり、ここぞとばかり毒物に対する知識をひけらかした。
博士はハドランドにヤングの様子を報告した。最初はためらっていたハドランドだったが、ついに意を決して警察に通報。
通報を受けたヘメル・ヘンプステッド警察のジョン・カートパトリック刑事部長は、ハドランド社の社員が前科者リストに載っていないか、ロンドン警視庁に問い合わせた。
最初は「誰もリストには載っていない」という回答だったが、「グレアム・フレデリック・ヤングという男を、再度調べてくれませんか」と要請。
警察からの回答を受けたハドランドは、ヤングの恐るべき前科を知り仰天した。警察はすぐさまヤングが住んでいた下宿に直行。
部屋を捜索した警察は、様々な薬瓶や試験管の他に『学生と警察のためのケースブック』と題された一冊のルーズリーフを押収した。

10月21日
「Jを傷つけた僕の行為はとても恥ずかしく思う。彼は本当にいいやつだし、ハドランド社の中では最も友人に近いと思っている」


11月1日
「Fは今日、出社しなかった…」


11月3日
「Fは意識不明の重体だ。脳疾患が進み、皮膚もむけてくるだろう。彼は死んだ方がいいだろう」


11月3日
「Dの脱毛はほぼ頭部全体に及んだ。もし僕の犯行と見抜かれたら、僕は自殺しなければならない」


11月17日
「Fの治療が効果を上げている。何という粘り強い奴だ」


どうやら、ハドライド社の社員に毒を盛ったことの、いわば「毒殺日記」らしい。17日の記述の2日後、Fことフレッド・ビッグスは死亡している。
週末ヤングが父や叔母と過ごすことを聞いた警察はヤングの実家に直行。2人の警官がチャイムを鳴らした。
「警察です。グレアム・ヤングはここにいますか」警官の1人が尋ねた。フレッドは何も言わず、キッチンでサンドウィッチを作っていた息子を指差した。
広間にいた叔母ウィニーは、手錠をかけられたヤングに言った。「グレアム、あなた今度は何をやったの?」
彼は肩をすくめ「分からないよおばさん、この人たちがなんで僕にこんな事をするのか」と答えた。
しかしフレッドはヤングが連れ去られる際、警官の1人に「どっちの件なんですか?」と尋ねているのを聞いてしまった。
パトカーが去ったあと、フレッドは2階に駆け上がり、出生証明から名刺に至るまで、息子に関する書類全てを引き裂いてしまった。
連行されるヤング

11月23日、フレッド・ビッグス殺害が立件された。
それまでは全面的に犯行を否認していたヤングだったが、翌日、ロナルド・ハーヴェイ警視に全てを打ち明けた。
何故、家族や親切にしてくれる人たちにも平気で毒を盛ることができたのか。それについてヤングは以下のように語ったという。

「僕は、いえ、もっと正確にいえば、僕の一部は、彼らを人として見ることをやめてしまったんだと思います。
彼らはモルモットになっていたんです」


有罪判決を受けたヤング
1972年6月19日から始まった裁判では、ヤングは「食事と睡眠を確保するために警察の自白強要を受け入れた」として一転して全面無罪を主張。
毒殺日記に関しても「あれは会社で起きた変死事件をモデルに、自分で楽しむために書いた空想の小説に過ぎない」と開き直った。
ヤングの高慢な態度は公判中に頂点を極めた。メディアの関心を煽り、裁判を楽しんでいるのは明らかだった。
陪審団はヤングに即有罪を評決し、2件の殺人、2件の殺人未遂、2件の違法薬物投与で終身刑を宣告された。
退廷後、彼はウィニフレッドとウィニーに面会させてほしい、と頼んだ。そこでの言葉は、彼に残っていたほんのわずかの人間性だったのかもしれない。

「僕のことは全て忘れて下さい。色々と迷惑ばかりかけてごめんなさい」

1990年8月初旬、43歳の誕生日を2週間後に控えたグレアムは、誕生日を迎えることなくバークハースト刑務所で心臓発作で死亡した。
のちにウィニフレッドはグレアムの回想として、自著『OBESSIVE POISONER』(魅せられた毒殺者)の中で、このようなエピソードを披露している。

「1971年の冬、弟が逮捕される数週間前の事。グレアムは夜、突然私を訪ねてきた。
私が『コーヒーでも入れるわね』というと、グレアムは突然体を震わせて泣き出した。こんな弟を見るのは初めてだった。
私もどうしていいのか分からず、黙ってグレアムを見ているしかなかった。
立ったまましばらく泣いていたグレアムは、やがて意を決したように私に話しかけた。それは計り知れない程ショックな告白だった。

『僕は寂しい、どうしても他人とは仲良くできない、誰とも親しくなれない、孤独で寂しい』

私は懸命にグレアムを慰めようと努めた。『夜間大学に通ってみたらどうなの?』と勧めた。グレアムは首を振って悲しげに言った。『駄目なんだ!』
そのあとの弟の言葉は生涯忘れることはできない。

『誰にも助けることは出来ないんだ。僕の心の中に恐ろしく冷たく暗いものがあるからなんだ。
それはね、誰にも溶かすことは出来ないんだ』


しばらくして弟は帰っていった。私は何もしてやる事が出来なかった」


参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.73 毒薬への情熱 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
グレアム・ヤング 毒殺日記 (飛鳥新社)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

52人もの命を奪った恐怖の「ロストフの切り裂き魔」

本名アンドレイ・ロマノヴィチ・チカティロ 通称アンドレイ・チカティロ

「私は生まれてくるべきではなかった。死刑になって当然だ」(アンドレイ・チカティロ)

かつてロシアがまだ共産国であるソビエト連邦だったころ
「連続殺人などというものは国民の貧富の差が激しい資本主義国特有の現象であり、国民が平等な幸福、生活を享受出来る我が国とは無縁の物である」
と宣伝していた。
しかし、それは完全に誤った認識だった。ロシアにも犯罪史上に残る恐るべき連続殺人鬼が跳梁跋扈していた。
ロストフの切り裂き魔チカティロ
ロストフの切り裂き魔と名付けられたこの男は52人もの少年少女を殺害し、しかもその肉を食していた最悪の殺人鬼だった。

過去:失意の日々
アンドレイ・ロマノヴィチ・チカティロはスターリン政権のまっただ中の1936年10月16日、ウクライナのヤボロチノエという農村に生まれた。
それはウクライナ大飢饉の直後のことだった。
スターリンは農民たちの抵抗を抑えて農地の共有化を実現するために、穀物を押収し、人為的に飢餓を作り出したのだ。
農民たちは食料をめぐって殺し合い、そして飢えを凌ぐために人肉を食べた。アンドレイの兄も餓死して「食料」になったという。
アンドレイはこの話を4歳の時に聞かされた。その衝撃は彼の生涯に少なからず影響を与えた。

1941年、ドイツ軍の侵攻によりアンドレイはたくさんの「死」を目撃する事になる。
手足を吹き飛ばされた屍体を目の前にして、彼は初めて性的な興奮を覚えたという。
その時に芽生えたサディズムは『若き赤軍兵士』という小説によりさらに助長された。
アンドレイは小説内のドイツ軍兵士を拷問する赤軍兵士と己れを重ね合わせ、嗜虐な空想に耽った。
しかし、アンドレイは現実には極めて内向的な少年だった。極度の近視にも拘らず、馬鹿にされるのを嫌い、眼鏡をかけないでいた。
そのために間抜けな失敗を数々やらかして、余計に馬鹿にされ、虐められた。
異性に対しても奥手で、まともに話すことさえ出来なかった。そうしたハンディキャップを乗り越えるために勉学に勤しんだが、モスクワ大学の受験には失敗した。
3年の兵役を経て帰郷したアンドレイは、その後の生涯を決定づける出来事に遭遇することになる。
どうにかデートに誘って恋愛関係に持ち込んだ女性に「あいつはインポテンツなのよ」と土地の女たちに云い触らされてしまったのだ。彼は逮捕後に苦々しく述懐している。

「恥ずかしくて町も歩けなかった。はらわたが煮えくり返る思いだった。
あの女を出来るだけ残虐な方法で拷問し、殺して八つ裂きにすることをあれこれと想像した」


この時、彼の内なるサディズムとセックスが明確に融合したのである。
24歳になったアンドレイは、忌わしい思い出しかないウクライナを棄ててロシアに移り、ロストフで電話修理工の職に就いた。
しかし、新天地でも相変わらず惨めだった。頭の中はセックスのことでいっぱいだったが、恋人は疎か友だちさえも作ることが出来なかった。
そして勤務中に自慰をしているところを同僚に見つかり、職場で笑い者になった。
見るに見かねた妹の紹介で、3歳年下のフェオドーシャと結婚した。しかし、初夜は大失敗。
のちに何とか2人の子供をもうけたがアンドレイ曰く、「妻とのセックスは子供を作るためのものであり、楽しんだわけではない」
彼が妄想したセックスとは、女を制圧し虐待することだった。しかし、それは妻にはできない。欲求不満は次第に募っていった。
若き日のチカティロ
1971年、アンドレイが通信教育を通じて教師の資格を得た時は、妻は鼻高々だった。共産圏では教職の社会的地位は高いのである。
しかし、この「職業選択」は結果として大失敗だった。
このブログを見ている方々にも記憶があるかも知れないが、子供というのは「情けない教師」はすぐに分かるものである。
そう、アンドレイは「子供になめられる教師」の典型だったのだ。初日から生徒に野次られ馬鹿にされた。同僚の教師からも疎んじられた。
それでも彼が教職を辞めなかったのは、可愛い生徒たちがいるからだ。女子寮に忍び込むと、覗き見しながら自慰に耽った。
そして1973年5月、遂に居残りを命じた14歳の女子生徒に襲い掛かったのである。
しかし、世間体を気にした学校側が事件を揉み消してしまったおかげで転任されるに留まったアンドレイは、そこでも今度は男子寮に忍び込んだ。
またも生徒たちに見つかって、冷やかされ「ホモ教師」などと馬鹿にされるのであった。

殺人:赤き切り裂き魔の誕生 
この頃のチカティロは、既に空想だけでは満足できなくなっていた。町の外れにあばら屋を買い、そこに売春婦や浮浪者を誘い込んでは、いろいろと頑張っていた。
しかし、インポテンツは相変わらずで、生徒を襲った時のあの興奮を懐かしく思った。
1978年12月22日、仕事を終えたチカティロは帰り道でレナ・ザコトノーバ(9歳)に声をかけた。そして例のあばら屋に誘い込んだ。
ナイフでメッタ刺しにし、血まみれで泣き叫ぶレナを見てチカティロは興奮し、何度もレナにナイフを突き立てた……。
レナの死体は2日後に近くの川で発見された。これが彼の最初の犯行である。ところが、警察が逮捕したのはアレクサンドル・クラフチェンコという前科者だった。
自白を強要された彼は有罪となり、1984年に処刑された。
遂に殺人を犯してしまったことへの後悔と警戒心から、チカティロはしばらくは静かにしていた。
しかし教職をクビになり、已むなく工場の補給担当者の職についてから半年後の1981年9月3日、ラリサ・トカチェンコが2人目の犠牲者となった。
森の中でラリサを絞殺し、屍体を切り裂きながら射精した。そして、我を忘れて屍体の回りを踊り狂い、雄叫びをあげた。

「パルチザンになった気分だった」

かくして、ソビエトが生んだ最悪の連続殺人鬼「ロストフの切り裂き魔」がここに誕生した。
以後、12年に渡り52人以上の女性や子供を手にかけた。犠牲者は刃物でめった刺しにされ、眼球をくり抜かれることも度々あった。
そして内臓や性器を切り取られた。食べるためだった。その場で生のまま口にすることもあれば、持ち帰って調理することもあった。
チカティロの犠牲者
この恐怖のロシア版切り裂きジャックが12年もの間、逮捕されずに野放しにされていたのには様々な理由があった。
まず、冒頭に書いた通りソ連共産党の「連続殺人は資本主義国特有の病理現象であり、我が国では無縁のもの」とする宣伝がその1つとして挙げられる。
連続殺人が理論的にあり得ない社会において、子供たちは大人に対する警戒心をまったく教えられていなかったのだ。
そして警察も、連続殺人犯の犯行とは想定していなかった。同一犯による連続殺人事件であることに気づいたのは、犠牲者が30人を越えてからである。
チカティロの職業も理由の1つである。補給担当者という仕事は物資を探し求めて移動する。チカティロはその先々で犯行を繰り返していたのだ。
当時のソ連警察はいわゆる縦型組織で、全貌を把握することは不可能だった。
また、当時のソ連警察にはコンピューターが導入されていなかった。ファイルはすべて手書きによるカード式で、捜査ミスがあれば容易に隠蔽できた。
警官自体も、犯人よりも自分たちが今日食べるべき食料を探すことに熱心だった。警察がこれでは無差別の広域連続殺人事件など解決できる筈がなかった。
更に、チカティロの特殊な体質も災いした。彼の精液は別の血液型だったのだ。
1984年9月14日、挙動不審のチカティロが連行されたが、血液がA型だったので釈放された。現場に残されていた精液はAB型だったのである。
(筆者注:もっとも、現在では男性の20%、ようは1/5が血液と体液が別の型なのが判明している)

捜査:KGBの介入
1985年、チカティロは出張先のモスクワ市郊外でイリーナ・グリヤエーバという18歳の女性浮浪者を残虐な手口で殺害する。
この事件をきっかけにKGB(カーゲーベー)の国内部門が捜査に乗り出し、国内屈指の犯罪捜査官であるイーサ・コストイェフ大佐が派遣され、
警察とKGBで合同特捜チームが結成される事になった。
多数のバス停と駅で制服姿の警官隊による巡回が実施された。狭くて小さなせわしい駅では、諜報活動員による巡回が行われた。
この巡回の目的は、大きな鉄道駅やバス停へ犯人を行き来させないためであった。
これにより、チカティロは警察がいないことが明らかな小さな駅で犠牲者を探すことを余儀なくされた。
警察は若い女性捜査員に売春婦かホームレスのような格好をさせ数多く参加させた。
彼女らは死体発見現場に沿って広範囲を旅するのと同様に、駅周辺を目的もなく歩き回り続けた。
チカティロの毒牙にかかった数多くの犠牲者が、警察による大規模な作戦につながったのである。
主にロストフ地域周辺のほかの公的な場所と同様に、鉄道駅やバス停において陸軍まで加わり、数多くの大規模なパトロール隊が動員された。
なおチカティロは1986年・1987年の約2年間、一切犯行を行なっていない。
このころにはペレストロイカの一環としてゴルバチョフが推進していたグラスノスチによる情報公開により、それまで秘匿されていた連続殺人事件の全容が一般に公表され、
警察の捜査もそれまでの方針を改め、民間からの情報提供を広く募ることとなった。
チカティロはずうずうしくもこの間に殺人犯の捜索にボランティアで協力している。
1988年に入り、チカティロは殺人を再開する。主にロストフから遠く離れた地域で活動した。1990年の1月から11月のあいだに少年7人と女性2人を殺害している。
1990年11月6日、スヴェータ・コロスティックという22歳の女性を殺害し、体をズタズタに切り裂き、切断した。ズヴェータはチカティロ最後の犠牲者となった。
殺害後、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたチカティロがパトロール巡回中の警察官の目にとまる。
警察がチカティロの勤務記録を調べた結果、犯行日時と出張記録が完全に一致した。チカティロはただちに特捜チームの監視下に置かれる事になった。
事件のあとでさえ警察にはチカティロを逮捕・起訴するだけの十分な証拠がなかったが、チカティロチは24時間体制で諜報員から行動をチェックされ、
ビデオテープに撮られるなどして、常時マークされていた。
逮捕され写真にとられるチカティロ

逮捕:情報公開政策の成果
チカティロが遂にお縄になったのは1990年11月20日のことである。
証拠が乏しいためチカティロを泳がせて殺害寸前に現行犯逮捕するつもりだった特捜チームだが、タイミングを間違えればまたも犠牲者が出る恐れがある。
そう判断した特捜チームは同日午後3時44分、職場から帰宅しカフェに立ち寄ったところを逮捕した。
それはゴルバチョフ政権下におけるグラスノスチ(情報公開)政策と、警察機構の立て直しの賜物であった。
「連続殺人犯がいる」という情報が行き渡り、警察がちゃんと機能していれば、遥か以前に逮捕できたのである。
事実、チカティロはこれまで何度も職務質問を受けていた。そして最終的な逮捕も、上記の殺害現場付近での職務質問がきっかけであった。
我が国でも先のPC遠隔操作事件での自白の強要、ズサンなサイバー犯罪捜査能力、相次ぐの現職警察官のワイセツ行為により警察に対する批判が高まっているが、
それでも我が国の警察は「他国に比べたらまだまだマシ」だと思う。
警察がまったく機能していない社会が如何に恐ろしいか。チカティロの事件はそれを雄弁に物語っていると思う。(ここは殺人博物館の館長岸田氏と同意見である)
連行されるチカティロ
証拠不十分だった警察は、自分は病気持ちで医者の治療を必要とすると主張するチカティロに対し、「我々はキミの味方である」と思わせる作戦に出た。
この作戦はまんまと的中し「素直に自白した方が精神異常という理由で起訴されずに済む」という希望をチカティロに抱かせた。
チカティロの尋問には、最終的に精神科医の手助けが依頼された。
チカティロは警察がまだ発見できない死体の埋葬場所を明らかにして、自分から証拠を提供した。これにより当局は、チカティロを起訴するのに十分な証拠を得た。
11月30日から12月5日までの間にチカティロは56件の殺人を自白した。
チカティロの自白は特捜チームの予想を12件も上回っており、捜査員たちに強い衝撃を与えた。
上記の通り犠牲者のほとんどがチカティロと接点がなく、しかも彼は犠牲者を居住の土地から遠く離れた場所で殺害したため、チカティロが警察を先導するまで、
埋められた犠牲者は発見されなかった。
56人の犠牲者のうち3人が埋められた場所は沼を干上がらせたりしたがついに遺体が発見出来ず、警察はこの3件については起訴は断念することにした。
さらに、53件のうちの最初の犠牲者レナ・ザコトノーバの件で処刑されたクラフチェンコは完全な免罪という事になり、捜査陣は青ざめた。
批判を避けたい捜査陣はレナの件を起訴から外し、チカティロは合計52件の殺人、遺体損壊などで起訴されることとなった。

裁判:見世物的な裁判
1992年4月14日、レオニード・アクブジャノフ判事を裁判長として、ロストフ地方裁判所にて半年におよぶ裁判が始まった。
この裁判はソ連崩壊後のロシアのトップニュースとして国内外で大きな関心を集め、海外からも多くの報道陣が取材のため連日法廷へ詰め掛けた。
出廷したチカティロはシラミ除けのために頭を完全に剃り上げ、モスクワオリンピックのロゴ入り開襟シャツを着て法廷に現れた。
裁判では、法廷の中央で鉄の檻が設置され、チカティロはその中に入れられた。これは被害者の家族からチカティロを守るためである。
裁判中のチカティロ

法廷でのチカティロは、精神異常をアピールするため、殊更奇天烈な行動を繰り返した。ポルノ雑誌を持ち込んで、これ見よがしにはためかせた。
傍聴席に座っていた被害者の家族からは「ケダモノ!」「キチ○イ!」「人殺し!」という怒声が飛んだが、チカティロは声のした方へ笑いながら手を振った。
時には「テメエの息子? とっくに食っちまったよ!」などと遺族を挑発することさえあった。
ズボンを下ろして自分の性器を露出し、自分は同性愛者ではないと叫び、自分が今までに自白した殺人を否定するかと思えば、逆に犠牲者の数が少ないと言い出したり、
挙句の果てに「俺は実は女で妊娠している」「俺の脳はチェルノブイリの放射能に汚染されているんだ」などと支離滅裂なことを口走り、
激怒したアクブジャノフ裁判長に何度も退廷を命じられた。

1992年10月14日、チカティロは52件の殺人罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。
アクブジャノフ裁判長は「被告が犯した途方もない犯罪を考慮すると、被告は死刑という刑罰を受けるに値する」と判決理由を説明した。
判決を受けたチカティロは「イカサマだ! お前の嘘なんか聞かねぇぞ!」と裁判長を罵倒したという。
一方で判決を聞いた聴衆や犠牲者の遺族は拍手喝采を送った。
チカティロは判決を不服として上告するも、当時の大統領ボリス・エリツィンはチカティロの「寛大な措置の請願」を土壇場で拒絶した。

1994年2月14日、ロストフの刑務所内にある防音措置を施された部屋に連れて行かれたロストフの切り裂き魔は右耳上を拳銃で撃たれて処刑された。57歳だった。
死刑以降、ロシアのメディアにチカティロの名前が出ることは一切ないという。国民の誰もが事件を忘れたがっているのだろうか。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.5 史上最悪52人 ロシア連続殺人 (デアコスティーニ)
子供たちは森に消えた (ハヤカワ文庫KK)
続・連続殺人者 (タイムライフ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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