世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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犠牲者の肉を食用に売り捌く「ハノーバーの狼男」

本名フリードリッヒ・ハインリッヒ・ハールマン 通称フリッツ・ハールマン

「こんな事はしたくなかったが、やらずにはいられなかった。恐怖よりも、バラバラにしてみたいという激情の方がはるかに強かった」
(フリッツ・ハールマン、犠牲者の遺体をバラバラに解体した事について)

我が国でも先日、長崎県佐世保市で女子高生が友人を自室で殺害後、頭部と左手首を切断したその異常な行為に世間が震撼したが───
第一次世界大戦終戦から間もない1924年、ハノーバー警察が「情報屋」だったフリッツ・ハールマンを逮捕した件は、ドイツ全土をパニックに陥れた。
ハノーバーの狼男、ハールマン
大戦直後だけあって食料はどこでも不足がちだったが、闇市の中のハールマンの屋台にはいつでも新鮮な肉があった。しかもそれは、皆格段に安い。
人々はさぞ彼は闇市で「いい顔」なのだろうと思っていた。しかし、彼の商売が、趣味と実益を兼ねたものだとは思いもしなかった。
丸顔で人懐っこい好人物を「恐怖の狼男」に変貌させた、周期的発作とは何だったのだろうか?

逮捕:子供が川で見つけたあるもの
1918年11月、第一次世界大戦は連合国側の勝利に終わり、敗戦国ドイツは想像を絶する悲惨な貧困に喘ぐ事となった。
超インフレが発生し、マルクの価値は1ドル=1億3000万マルクにまで下落した。
資産家たちも、財産を切り売りしてその日のパンやソーセージを買わなければならないような有様だった。
ニーバーダクセン州の小都市ハノーバーは他のドイツの都市よりもさらに荒廃ぶりがひどく、街にはホームレスと化した難民、売春婦、闇屋がごった返していた。
1924年5月17日、ライネ川で遊ぶ子供たちは水の中に奇妙な白い物体を発見した。それは人間の頭蓋骨だった。10代の少年の頭蓋骨のようだった。
5月29日、製粉工場の近くで、また別の頭蓋骨が発見され、さらに6月13日には、2つの頭蓋骨が市内の別々の場所から発見された。
猫の手も借りたいくらいの仕事を抱えていた警察は、当初は通報にも「医学生のイタズラでしょう」と相手にしなかった。
しかし、これが逆に市民の恐怖を煽る事となった。「狼男や巨大な蜘蛛が人間を捕らえて食したのでは?」などという噂も流れ始めた。
闇市で肉を買った主婦が「この肉、白すぎやしないかね」と警察に駆け込む事もあった。
警察は慌てて「川の上流には墓があり、墓荒らしが墓を荒らした後、骨を川に捨てたのだと思います」との推測を発表したが、頭蓋骨には肉がついているものもあり、
この推測を支持するものはほとんどいなかった。
7月24日、郊外の藪森の中から、またも肉のついた頭蓋骨が発見された。さらに同日、野原で遊んでいた子供たちが、人骨が大量に詰まった袋を発見。
さすがに警察も重い腰を上げざるを得なくなり、大掛かりな捜査を開始した。
市民ボランティア団体は、何かと悪い評判のある「『ハノーバーの中心地の旧市街地』に問題の原因が潜んでいるのでは?」と考え、日曜に川を塞き止め大捜索を行った。
結果、ヘドロの中から腐敗した人間の体の様々な部分が見つかった。
警察が調べたところ、500に及ぶ部分が見つかり、最低でも22人分の残骸であるのが確認された。
犠牲者の骨
実は警察は、すでに有力な容疑者を1名、リストアップしていた。しかし警察にとってはあまりにも都合の悪い人物だったために、逮捕出来ずにいたのだ。
その男の名はフリッツ・ハールマン。 犯罪歴のある同性愛者だが、警察のお気に入りの情報屋であり、裏捜査員の資格も与えられていた。
闇市で肉屋をしていたハールマンは悪党や闇屋連中にも顔が利くので、警察も6年以上金を払って重宝し続けた。
元警察本部長のオルファーマンと一緒に「アメリカン・ラッソ探偵社」を設立し、探偵ハールマンの名詞すら持っていたのだ。
ハールマンの情報で、悪党たちの計画を事前に知る事も多かったのだ。偽札作りの一味を一網打尽に逮捕出来た事もあった。
「ハールマン探偵」が少年の失踪に関係している、という噂は段々広がっていき、さすがに警察も、見て見ぬふりを続ける訳にはいかなくなった。
問題はどうやって逮捕に踏み切るかだったが、6月22日、そのチャンスが訪れた。
「ある警察関係者」に逆らったというカール・フロムという15歳の少年が、「この少年は偽造の身分証明書で旅をしている」と、その警察関係者とやらにより、
鉄道公安局に突き出されていた。
取り調べを受けたフロム少年は「突き出される前に、その警察関係者の下宿に4日ほど泊まったら、猥褻行為をされた」と証言した。
警察は、鉄道公安局とフロム少年からその警察関係者が「ハールマンに間違いない」という証言を得た。
「件の少年について情報を得たい」とハールマンに出頭を求め、その間に彼が借りていた下宿屋の部屋を捜索した。
男性の衣類や身分証明書が大量に見つかり、中には血のついているものもあった。そして壁やベッドにも、多くの血痕が発見された。
この事実を知らされたハールマンは、完全に自分が罠にかけられた事に気づいたが、笑顔を絶やさず、穏やかな口調でこう言った。

「皆さんも御存じの通り、私は肉屋です。血痕があってもなんの不思議もありません。服だってそうですよ。
これも皆さんご存知の通り、私は古着屋もやっていましたから。肉を捌いている時に、服に血がついたとしても、まったく不思議ではありません。
何もかも、私を拘留しておく理由にはなりませんね」


しかしハインリッヒ・ラッソ警視は、一見素直で穏やかなハールマンの態度を信じてはいなかった。
彼は目の前にいるのが間違いなく狼男だと確信していたが、問題はそれをどう証明するか、だった。

過去:怠け者のマザコン少年
フリッツことフリードリッヒ・ハインリッヒ・ハールマンは1879年10月25日、6人兄弟の末っ子として生まれた。
機関士である父のオッレ・ハールマンは気が短く、ちょっとした事で妻や子供たちに手を上げ、その上大酒飲みの最低の男だった。
家族は資産家の娘であった妻ヨハンナの持参金で持っているようなものだった。
ヨハンナはフリッツを産んでからは死ぬまで寝たきりとなった。故に夫婦仲は悪く、何かにつけて喧嘩をした。
優しいフリッツ少年は母親の肩を持ち、次第に父親を憎むようになった。
病弱だったために医者から動かないように言われていたフリッツは人形遊びを好み、粗野な遊びの一切を嫌悪した。
5番目の娘でフリッツには姉であるエマ以外、兄弟の事も嫌っていた。
とはいえ人なつっこく話術も巧みなフリッツ少年は、周囲から親しまれる存在だった。
学校の成績は悪く、2度進級出来ない事もあった。何とか小学校を卒業した時にはもう14歳だった。
卒業してすぐに錠前屋に見習いとして就職したが、仕事はつまらなく、彼はすぐに辞めた。
16歳になったフリッツはノイブライザッハの陸軍下士官学校に入隊した。
最初は成績も優秀で滑り出しも上々だったか、度々発作を起こして退学。この挫折はフリッツの心に暗い影を落とす事となる。
フリッツはどうしようもなく怠惰な人間に成長し、働く事を拒否するようになる。父がタバコ工場の経営をはじめ、そこに入社するように勧められたが頑として拒否した。
そして児童公園に出向くと幼児に猥褻行為をして逮捕され、精神病院に送られた。
この時は「危険度の高い狂人」と診断されている。この件でフリッツは生涯、精神病院を嫌悪する事になる。
のちに連続殺人で逮捕された時も「精神異常を理由にして精神病院収容」という戦術を取らなかったのは、このためである。
かつてのハノーバー駅

20歳になったフリッツには自分がまだ同性愛者だという自覚がなく、エルナ・レワートという女性と同棲を始めた。
彼女が妊娠するとフリッツは中絶を勧めた。理由は「自分のような障害者の血を残してはならない」との事だった。
そして1900年陸軍に入隊。彼は軍隊ではかなり優秀な兵だったが、それも神経衰弱に陥るまでだった。
軍の精神病院から精神障害と診断され、わずか1年半後に除隊。フリッツは再び深く傷つく事になる。
「普通の市民」に戻った彼は、働く事を徹底的に拒否。「お前はただ怠け者なだけなんだ」父親は説得したが、フリッツは自分は障害者だと主張し続けた。
ならばと1903年、父親はフリッツを精神病院に入れようとしたが、逆にフリッツはこれで父親を警察に訴えている。
その時警察が取り寄せた診断書には「『手の施しようがないほどの意志薄弱』ではあるが精神異常ではない」と記されている。
その後はフリッツは父と和解、魚屋を経営するための資金を出してもらった。しかしこれは散々な結果になり、エルナを「お前は商売の才能がない」とののしった。
するとエルナはフリッツと縁を切り、その後も魚屋の運営を続けた。名義はフリッツの知らない内にエルナに書き換えられていた。
フリッツが自分は同性愛者だと自覚するのはその直後、1905年の25歳の時である。
彼は闇市で知り合ったアドルフ・マイルという中年男と愛人関係になった。2人の関係はフリッツが刑務所に入る1913年まで続いた。
それからのフリッツは強盗、墓荒らし、強制猥褻で出入獄を繰り返し、おかげで大戦中をほとんど獄中で過ごした。フリッツはある意味、ラッキーだったとも言える。
そして敗戦後の1918年、出所した彼は刑務所仲間のアドバイスもあり、闇市で肉屋を始めた。フリッツは肉屋は繁盛し、たちまち自分の屋台を持つようになった。
そこにたむろする他の闇屋、悪党たちともパイプラインが出来て、あっという間に闇市の顔役になった。
警察に情報を売る、情報屋としての地位を確立したのもこの時期である。闇市の人間たちは、彼に尊敬と畏怖の念を込めて「ハールマン刑事」と呼んだ。

とはいえ、刑務所を出たばかりのフリッツには当然住む家などはなく、兄弟の中で唯一親しくしていた姉のエマと夫の家に転がり込み、しばらく居候する事になった。
ある日フリッツがパンを食べようとすると、エマの一番下の息子がフリッツにこう言った。「あまりパンを食べないでね、おじちゃん」
「ん? どうしてだい? おじちゃんがパンを食べちゃダメなのかな?」子供ならではのジョークだろう、くらいに思い笑顔で返したフリッツだったが、
エマの子供から返ってきた返事はショックなものだった。

「並んで買わないといけないし、ウチにあまりパンないし、僕たち病気なんだ」

「そうか………。何とかならないものかな」こんな小さな子たちがパンも腹いっぱい食べられないのか、とフリッツは不憫に思った。
その夜、フリッツはエマに「姉さん、少しでいいんだ、金を貸してくれないか?」と頼み込んだ。
エマからわずかばかりの金を借りたフリッツは、夜の闇市に直行した。闇市の顔役である彼は、ここでは文字通り水を得た魚だった。
あらゆる品物を値切りに値切り、翌朝、肉、ソーセージ、卵、魚などを、両手いっぱいに抱えて帰ってきた。
子供たちは自分の父親よりも、愛嬌のある丸顔で、どこに出かけると美味しい食べ物をいつもたくさん持って帰ってくれる、優しい「フリッツおじちゃん」に夢中になった。
フリッツも子供たちが喜んでくれるのが嬉しく、闇市に出かけたら必ず栄養のある食べ物をいつも袋いっぱいに持って来た。
当時のドイツでは非常に貴重な、チョコレートもお土産にもってくる事があった。
フリッツに関してはかなり克明に説明がなされている優れた文献と言っていい、デオドール・レッシング著の『 The Story of Werewolf 』(狼男の物語)には、
「痩せ細っていた子供たちはみるみる健康になり、皆太っていった」とフリッツは後日こう回想した、と記されている。
エマたちが住んでいた借家の大家にも肉、ソーセージ、スープのダシ用の骨を配り、大家たちからも感謝された。
しかし、平和な日々もそう長くは続かなかった。
フリッツを最初から嫌っていたエマの夫は、子供たちが自分よりもフリッツを慕っていると分かるや、さらに腹を立てた。
「あいつは違法な行為で食い物を手に入れている。あいつから食い物をもらうと警察に目を付けられますよ」と大家を焚き付け、フリッツを追い出してしまったのだ。
フリッツは人生において三度目のどん底に突き落とされてしまった。
(筆者注:この事がハノーバーの狼男を誕生させる決定的な出来事になってしまったような気がしてならない)

自供:暴かれた犯行
以前ハールマンが住んでいたツェラーシュトラーセ27番地の下宿では、彼が血がなみなみと入ったバケツをもって階段を駆け下りていくのを見た、
という他の下宿人の目撃情報もあった。
こうした事実を突きつけられてもハールマンは「私は肉屋ですから」の一点張りで、肩をすくめて笑うだけだった。
ハールマンがこのような対応をしてくるのは分かりきってはいたが、警察は完全に行き詰ってしまった。
ハールマンが最後に過ごした下宿の屋根裏部屋

しかし、思わぬ偶然から、警察は突破口をこじ開ける事に成功する。
2ヶ月前の4月26日、ロベルト・ウィッツエルをいう18歳の少年が、サーカスを見に行ったきり行方不明になっていた。
父親の熱心な捜索願を受けていた警察は、この事件がハールマンの悪事を暴くキッカケになるかもと考え、捜索願を受理した。
警察から、川から見つかったいくつかの頭蓋骨を見せられ、その内のひとつの歯並びの酷く悪い頭蓋骨が息子のものだとすぐに分かった。
ロベルトの友人、フリッツ・カールマイヤーは「ロベルトは『警察関係者の男』と一緒にサーカスにいきました」と証言した。
カールマイヤー少年にハールマンの写真を見せたところ「ええ、警察関係者と名乗っていたのはこの男です」と断言した。
カールマイヤー少年は、実は自分もロベルトも14歳の頃から同性愛者である事をお互い自覚し、いわゆる「ホモだち」の関係になり、2人で同性愛者のたむろする、
カフェやレストランに出入りしていたのでハールマンと知り合った、と告白した。
(筆者注:のちにハールマンは自供の中で、少女のような可愛い顔立ちのカールマイヤー少年を『あの子も犯して殺したかったな』とカミングアウトしている)
ハールマンの部屋から見つかった服の中に、ロベルトの服も発見された。
そして、この偶然がなかったら───警察はハールマンを、証拠不十分で釈放せざるをえなかったかも知れない。
事情聴取を受けるため、ウィッツエル夫妻とカールマイヤー少年は警察の待合室にいた。
その3人の目の前を通りかかった、痩せた中年女性と若い男性の2人連れの男性の方が、ロベルトの上着を着ているのを発見したのだ。
ロベルトの両親は急いでその男女を引きとめ「その上着はどこで手に入れました?」と尋ねた。
男性は静かに答えた。「ズボンと一緒に、ハールマンさんから買ったんです」
女性はハールマンの現在の下宿の家主のエンゲル夫人で、男性はその息子テオドールだという。
「そういえばズボンには、ロベルト・ウィッツエルって身分証明が入っていましたっけ」夫妻、カールマイヤー少年、そして駆けつけた警官は顔を見合わせた。
警官が質問した。「その身分証明はどうしました?」「ハールマンさんに返したら、破り捨ててしまいましたよ」

報告を受けた取調官は、ハールマンを厳しく尋問した。やましい事が何もないのなら、どうして身分証明を破り捨てたのか?
今までのらりくらりと追及をかわしてきたハールマンだったが、さすがに動揺しているのを隠し切れず、屈服寸前だった。
ここで警察は、お馴染みの非常に効果的な方法を用いる事にした。
1人の荒っぽい警官が怒鳴り、胸倉を掴んで脅し、ハールマンの尻を剥き出しにして、ゴムホースで殴りまくる。
そこに「そんな事はやめろよ」と「優しい警官」が入ってきて、温和に、同情を持って彼に接し、なだめすかして自白に追い込む、というものだ。
素朴な性格で同情や好意に弱いハールマンに、この作戦は的中だった。
逮捕されてから1週間後の6月29日、彼は突然涙を流しながらこう言った。
「牧師さんを呼んでください。お話します」
「何をだね?」
「人を殺した事です…」
「何人かね?」
「30人か40人か………思い出せません」
「どうやって殺したんだね」
ハールマンは静かに答えた。

「喉を食い千切ったんです………」

犯行:生々しい解体の自供
ハールマンの自供が進むにつれて、「一連の事件は狼男の仕業では?」という噂も、あながち見当外れではない事が分かった。
彼は死体の解体について、生々しい自供を始めた。

「寝ている少年の喉笛にいきなり噛み付くんだ。同時に首を絞めて殺害する。
そのあとは濃い目のコーヒーを入れて、それを飲んで一息ついてから解体を開始する。
死体を床に置いて、顔に布をかぶせて目が合わないようにする。
腹部を2箇所切り開いて内臓をバケツに入れる。次に肋骨から肩まで3箇所切れ目を入れ、肩の周りの骨が折れるまで押しつぶす。
それからこの部分を切り開く」


ハールマンの「解体作業」の説明に取調官は気分が悪くなったが、しかし彼は一旦話しはじめると饒舌になり、構わず続けた。

「もう心臓、肺、腎臓に手が届くので、それを切り取ってバケツに入れる。次に脚をはずし、そして腕を切り落とす。
………全て運び出し、便所や川に捨てるのに5~6往復くらいしなければならなかった。
頭はいつも最後に切り取った。頭はボロ布で覆って顔を下にして麦わらのマットに置き、叩き潰す音が外に漏れないようにした。
それから斧の背で叩き、頭蓋骨をバラバラに砕く。脳はバケツにいれ、砕いた骨はこれまた川に捨てた」
「よって、川から発見された4つの頭蓋骨は私の犠牲者ではない。私はいつも頭蓋骨は細かく砕いて捨てていたから」


そして彼はこう続けた。
「こんな事はしたくなかったが、やらずにはいられなかった。
恐怖よりも、バラバラにしてみたいという激情の方がはるかに強かった」

「少年たちは皆痩せていたので、私が食べてしまうと売り物になる部分はそんなには残りませんでした」
「服は大抵ハンスにやった。ハンスの事が好きだったからだ」

そしてこの「肉屋」は、最後にこのような言葉で自供を締めくくった。
「ですから、死体はいくらあっても足りませんでしたね」
このような発言の数々は、ジェフリー・ダーマー同様、ハールマンが自分だけの妄想とサディズムの世界に生きている事を示している、といっていいだろう。

ハールマンの最初の犠牲者は、1918年に失踪したフリーデル・ロッテという当時12歳の少年だと言われている。
家出したフリーデルの行方を探していた両親は、息子と思しき少年が「刑事に補導された」との情報を入手、早速警察に足を運んだ。
警察はその「刑事」がハールマンであることはすぐに判った。
大事な情報屋だが、さすがに今回は仕方がない。寝込みを襲って踏み込むと、彼は別の少年とベッドの中で戯れていた。
現行犯なので目をつぶるわけにもいかず、ハールマンは猥褻罪で逮捕され、懲役9ヶ月の実刑を受けた。
警察は問題のロッテ少年も、こうして彼に犯されて泣きながらに逃げ出したのだろう、と推測した。
だが、4年後に再び逮捕されたハールマンは「あの少年の頭部は新聞紙に包んでオーブンの後ろに隠してあった」と告白した。

ハールマンを支配していたハンス・グランツ
9ヶ月後の1919年9月に出所したハールマンは、連続殺人鬼へと変貌する事になったパートナーに出会う。
自供で「彼の事が好きだったから」と表現した、ハンス・グランスである。
友人から「おいハンス、あのおっちゃんホモでさ、この前可愛い男の子がセックスに応じたら20マルクくれたんだぜ」という話を聞き「そんなにもらえるのなら自分が」と、
ハールマンの「愛人」に名乗り出たのである。
その時家出したばかりのまだ18歳だったグランスはハールマンの更に上を行く悪党だった。強盗、恐喝、墓荒らしなど朝飯前だった。
付き合っていた女に金を盗ませ受け取り、女が逮捕されると「盗んだものなんて知りませんでした」とシラを切り通し、結局女だけが罰せられた、という出来事もあった。
美少年の彼は、ハールマンが自分にベタ惚れなのを知っており、ハールマンを完全に支配し、その殺人衝動を己れの利益に利用した。
もちろん、ハールマンの殺人衝動がグランスに向けられる事もあった。
しかし狡猾なグランスは、ハールマンに喉笛に噛み付かれる前に、両腕ごと抱きしめキスをすれば、彼がそのまま自分にメロメロになり、殺人衝動を失う事を知っていた。
中には、グランスが「あいつが着てる服が欲しい」という理由だけで殺された者もいた。
彼らの手口はいつも決まっていた。まず、ハノーバー駅で家出少年を補導するか、カフェで浮浪少年を一夜の宿や食事を餌に下宿に連れ込む。
そう、真夜中になるとハノーバー駅で家出少年を「補導」するハールマンの姿がよく見られるようになったのも、この時期からである。
その後は酒や料理でどんちゃん騒ぎのあと強姦、もしくは少年が疲れきって眠りに落ちたところで、ハールマンが喉笛を喰いちぎって殺害する。
それから上記のハールマンの自供の通り、死体を捌いて屋台で売る。余れば他のルートで売り捌く。遺留品も屋台で売る。
こんな大胆な犯行であったから、彼らは何度か危ない橋を渡っている。
ハールマンの下宿に来たグランスの愛人の売春婦2人、エリー・シュルツデルヘン・ムルツェークが、シチュー鍋に入っていた2切れの肉片を見つけた。
それは「人間のうぶ毛としか思えない毛が生えていて」2人は警察に届けた。
ハールマンを情報屋に使っていたミューラー刑事は青ざめた。ミューラー刑事は豚肉である事を保証して2人を帰した。
1918年年から逮捕される1924年にかけて、ハールマンが喰いちぎった喉笛は数知れない。
明らかに彼が関与している、と確定している失踪者は27人。しかし、実際には50人以上になると信じられている。
ハールマン自身も「48人以上は憶えていない」とカミングアウトしている。

裁判:茶番的な裁判
ハールマンの裁判は1924年12月4日から始まった。
警察とハノーバー裁判所当局はスキャンダルが広がるのを恐れた。
彼が警察の情報屋で、裏捜査員として「ハールマン刑事」を名乗る事さえも許されていたのを、バラされたくなかったからである。
そして何人かの刑事が簡単に買収に応じる事も、ハールマンは知っていた。
機嫌を損ねたハールマンに、 こうした警察の「黒い裏事情」を裁判において暴露されたら、一大スキャンダルである。
さらに上記のエリーとデルヘンが警察に持ち込んだ「豚肉」の件も、警察がちゃんと調べていれば、20人以上の少年・若者の命は救えたはずである。
そこで司法は、ハールマンのご機嫌を徹底的に取る作戦に出た。
この御機嫌取り作戦は効を奏し、ハールマンは余計な事、つまり自分の警察との関係、警察の裏事情については裁判終了まで沈黙した。
検察及び弁護団にも「ヨーロッパ全土に余計なパニックと怒りを引き起こさず裁判をスムーズに進めるために」人肉食及び人肉売買についての質問は一切せぬよう、
徹底的な指示が出された。
公判の第1日目、傍聴席を見渡したハールマンは、女性が多いことに不平を述べた。「こんな惨い事件、女性に聴かせるものではないだろう。帰ってもらってくれ」
判事は「自分には合理的な理由なく傍聴人を退席させる権限はない」と言って、ハールマンに頭を下げた。
そして検察が冒頭陳述を終えると、友人に話しかけるような口調でこう言った。「上出来だよ」
盗み撮りされた裁判。赤丸がハールマン

審理の手順はハールマンが仕切り、証人喚問もハールマン自身が行った。
「さあ、知ってる事は遠慮せずに全部話してくれ。我々は真実を知るために、こうしてここに集まったんだからな」
こんな傍若無人な態度にも判事たちはただ「うんうん」と頷くだけだった。
被害者の父親が証言台に立って証言している間、退屈した様子のハールマンが「タバコを吸わせてくれ」というと、無条件で認められた。
またある時などは、殺された少年の父親が証言台でハールマンに罵詈雑言を浴びせると、彼は尊大な態度でこう言った。
「私には私の基準がある。あんたの息子、写真で見たが何だありゃ。
私はこんな不細工な醜い生き物に興味など持たない」


陪審団が評決についての審議に向かう際、ハールマンは陪審団に向かってこう言った。
「今更刑の軽減を訴える気なんてないから、評決は手短に頼むよ。クリスマスはあの世でお袋と一緒に過ごしたいんでね!」
12月19日、起訴された27件の内24件の殺人について有罪となり、ハールマンは死刑を宣告され、グランツも2件の殺人幇助で死刑を言い渡された。
もっともクリスマスを最愛の母・ヨハンナと一緒に過ごしたいというハールマンの願いは、残念ながら1924年には実現する事はなかった。
彼がギロチン形に処せられたのは、翌1925年4月15日の事だった。
ハールマンの犠牲者の慰霊碑

余談になるが、ハールマンが死刑判決を受けてからの2ヶ月後、郵便配達人が歩道に落ちている手紙を拾った。
筆跡はハールマンのもので、宛先はグランスの父、アルベルト・グランスだった。
おそらく警察に連衡される途中で、ハールマンが車から投げ捨てたものであろう。手紙はグランスの父から、デオドール・レッシングに預けられた。
この手紙の中でハールマンは「ハンスはどの殺人にも、一切関与していない」と書いている。
「例えば『彼が欲しがっていた服を着ていた少年を殺すようハンスに命じられた』などハンスも共犯だと裁判で証言したのは警察に強要されたからであり、
私がハンスに不利な証言をすればするほど、私への待遇が良くなっていった」

さらに「私は罪を墓場まで持っていく事は出来ない」とし、グランスはまったく無実である、と訴えている。
実際にグランスは刑を不服として上訴し、懲役12年に軽減された。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.22 ハノーバーの狼男 (ディアコスティーニ)
カニバリズム―最後のタブー (青弓社)
図説 (原書房)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

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キャンディ・マン 笛吹き男の少年狩り

本名ディーン・アーノルド・コール 通称ディーン・コール

「小屋の中に足を踏み入れようとした時、彼の顔色がまるで灰のように白くなっていきました。その時、この小屋には何かあると直感しました」
(捜査員の1人、ボート小屋を捜査しようとした時のウェイン・ヘンリーについて)

1970年秋から、テキサス州のヒューストンで次々と起きた少年の失踪事件。
警察は親たちの訴えにも「家出でしょう」と真剣に捜査せず、これが犯人ディーン・コールの大量殺人を助長する原因となった。
キャンディ・マンことディーン・コール
お菓子で少年たちを誘っては殺害していた事から、犯罪史ではキャンディ・マン(お菓子男)として知られるコール。
善良な市民の仮面を被っていた彼は、どのように27人以上の少年を犠牲にしたのだろうか?

発端:善良な青年の知られざる素顔
1973年8月8日午前8時24分、朝から凄まじい暑さとなっていたテキサス州ヒューストンのパサデナ警察に、若い男からの通報があった。
冷房の効いた署内の中に入ってホッとしていた電話交換主任のベルマ・ラインズが急いで電話を取ると、その声は少年のようで、テキサス訛りがあるところから、
地元の人間と見て間違いなかった。

「すぐに来てくれませんか。たった今、人を殺しました。住所はラマー・ドライブの2020番地です」

ラインズ主任はただちにラマー・ドライブ2020番地に急行するように指示。2台のパトロール・カーが現場の木造平家建ての民家に到着した。
コールの一軒家。
玄関前のポーチに、2人の少年と1人の少女が腰を下ろしていた。少女の服はボロボロで、3人とも先ほどまで泣いていたらしく、目が真っ赤だった。
3人はそれぞれエルマー・ウェイン・ヘンリー・ジュニア(17歳)、ティモシー・カーリー(16歳)、ロンダ・ウィリアムズ(15歳)と名乗った。
通報したのはニキビ面が特徴的なウェインで、彼の案内で家に入ると、全裸の男が壁にうつぶせで倒れていた。
34歳になる家主のディーン・アーノルド・コールで、ウェインによると、撃ったのは自分で、自分とディーンは以前から知り合いだ、という。
家具の調達具合からして、コールという男がこの一軒家に引っ越してきたのは、つい最近のようだった。
3人は事情聴取のためパサデナ警察に連行され、ウェインは供述を始めた。

その晩、ウェインとティモシーはコールに「ペイント・パーティーをしよう」と呼ばれていた。
トルエンの入ったアクリル塗料のスプレーを紙袋の中に噴きつけ、その揮発成分を吸引する、早い話が我が国でいう「アンパン」である。
午前3時頃、家出したばかりで行く所のないロンダを連れて行くと、コールは怒って怒鳴り散らした。

「何で女なんか連れて来たんだよ! お前らのせいで何もかもぶち壊しだ!」

しかし、その後コールは機嫌を直し、4人でペイント・パーティーを始めた。そして1時間後、全員が意識を失った。
やがてウェインが意識を取り戻すと、手錠をかけられて、足首を縛られていた。ティモシーとロンダも縛られていた。
コールはウェインの腹部に22口径のリボルバー式拳銃を押しつけながら囁いた。

「お前たちを殺してやる。だが、その前にたっぷりと楽しませてもらうぞ」
 
さっきは機嫌を直したふりをしただけで、コールはずっと怒ったままだというのだ。コールは悲鳴や叫び声が外に聞こえないように、ラジオのボリュームを最大に上げた。
ウェインはなんとかコールの怒りをなだめようとした。必死に命乞いをし、許してくれたら他の2人を殺すのを手伝うと申し出た。
最初は拒否していたコールもやがて了承し、ウェインの手錠を外し「お前はロンダを犯せ」と命じた。
ウェインがロンダに馬乗りになると、コールもティモシーを犯しにかかった。ティモシーは必死に抵抗した。
ウェインは「ロンダを別の部屋に連れて行っていいかな。彼女はこんな行為は見たくないといっている」とコールに尋ねたが、ラジオの音声にかき消され、
行為に夢中だったコールの耳には届いていないようだった。
コールが拳銃を手放し床に置くと、ウェインは素早くそれを拾い上げ、銃口をコールに向けた。
「やめろディーン、やめるんだ!」ウェインはラジオの音声に負けない大声を上げてコールを威嚇したが、しかしコールは怯える事なくウェインを挑発した。
「ほう。殺れるもんなら殺ってみな、ウェイン。ほらどうした? 殺ってみろよ!」ウェインは無我夢中で引き金を引いた。
コールはうつぶせに床に崩れ落ちた。更に倒れた背中に向けて、ウェインは残りの弾丸を全て撃ち込んだ。
6発全てを撃ち尽くしたところで、鍵を見つけ出し、2人の手錠を外して通報したという。

けたたましいサイレンを鳴らしながらコールの家に次々に到着するパトカーに、近隣住民たちは大騒ぎになった。
「犯罪などとは無縁の善良な好青年」というのが、近所の住民たちのコールに対するイメージだったからだ。
コールの家を捜索した警察は2枚の合板を張り合わせ、四隅に手錠とビニール紐で四肢を固定出来る「拷問台」と、その傍らには鞘に収められた狩猟用ナイフ、
そして、40cm以上もある張り形を発見した。
コールの「拷問台」
この家で「サディスティックな異常性行為」が常習的に行われていたのは明らかだった。
「拷問台」の用途について追求されたウェインは、コールは同性愛者でが幼い少年を好んだ事、コールに少年を紹介する度に金をもらっていた事を告白した。
何故コールを殺す気になったのか、と質問されたウェインは、「ディーンが『人を殺すのは初めてじゃない』と言ったからです」と答えた。
「ディーンは『これまでに何人もの少年を殺して、ボート小屋に埋めた』と言っていました」ウェインの供述をとっていた捜査員2人は、顔を見合わせた。
「コールが3人を殺すと言ったのはただの脅しでは?」程度に思っていた。ところが、これは遥かに恐ろしい事件である可能性が出てきた。
捜査員たちはまだ半信半疑だった。ひょっとして昨日のアクリル塗料のせいで、ウェインの頭はまだ「ラリったまま」なのではないか、と。
とはいえ、一応供述内容の裏づけを取る必要はある。捜査員は質問をした。「君はそのボート小屋に行く道は分かるか?」
「1度しか行った事はありませんが、分かると思います。ハイアラム・クラーク・ロードの近くです」「よし、行ってみよう」
しかし捜査員たちは、これが当時の米国犯罪史上最悪の猟奇的連続殺人事件の幕開けになるとは、思いもしなかった。

過去:邪悪なパートナーとの出会い
1939年のクリスマス・イヴにディーン・アーノルド・コールはインディアナ州ウェインズデイルで、アーノルド・コール妻メアリーの長男として生まれた。
「子供に興味はない」と公言していたアーノルドはメアリーとは性格が合わず、2人はディーンが6歳の時に離婚した。
以後は弟のスタンリーと共に、母メアリーに溺愛されて育った。
1950年には心臓に先天的な疾患がある事が判明し、以後学校での体育の授業に出るのは控えるように医師が指示されている。
1964年、ディーンは軍隊に徴兵された。彼が「自分は同性愛者だ」と自覚したのはこの時である。
彼は「母の経営する菓子製造会社が人手不足で、手伝いたい」と早期除隊希望を申請し認められ、わずか11ヶ月半で名誉除隊となった。
除隊後はメアリーがテキサス州ヒューストンで経営する菓子製造工場を手伝っていた。
ディーンは工場で余った菓子を近所の子供たちにタダで配って歩いたので「キャンディ・マン」(お菓子男)の愛称で親しまれた。
特にザ・ハイツと呼ばれる貧民街では、お菓子をねだる子供たちがディーンの後ろを大勢ついて回るその様から、童話「ハーメルンの笛吹き男」にならい、
「ザ・ハイツの笛吹き男」とも呼ばれた。
母の菓子工場を手伝っていた頃のコール

のちにディーンの共犯者となる、当時12歳だったデヴィッド・オーウェン・ブルックスも、ディーンに菓子をもらっていた1人だった。
工場内でディーンを「誘惑した」アルバイトの少年を、「ディーンを守るため」と称してメアリーはクビにした。
が、アルバイトの少年にはディーンの性癖に気づいている者もいて、「ディーンとは絶対に2人きりにならないようにしている」と断言する少年もいた。
ディーンはデヴィッドにフェラチオを教えた。してくれるたびに5ドルを与えた。
しかし、両親が離婚したデヴィットは母についたため、ポーモンドに引っ越す事になり、2人はしばらく疎遠となる。

メアリーは1968年に菓子工場をたたみ、そしてヒューストンに1人残りフリーとなったディーンは電気工に転職した。
電気工になっても、ディーンは真面目に仕事に打ち込み、たちまち会社や同僚から信頼されるようになる。
父には疎ましがられ、母には溺愛され、心臓に欠陥があり少年時代は同年代と同じ行動が出来ず、仕事は優秀で同僚たちから信頼され、そして同性愛者である事を自覚し、
尚且つ女性との普通の結婚を夢見ていた、犯罪史に残る殺人数を記録する同性愛連続殺人鬼───
ディーンの死から5年後に、米国での最多殺人数を更新するジョン・ゲイシーとディーンには、多くの共通点がある。(ゲイシーは実際に女性と2度結婚している)

1970年、ディーンは15歳になったデヴィットと再会する。今度は父親と暮らす事になったデヴィットは、ヒューストンに戻ってきたのだ。
父親とギグシャグした関係の続くデヴィットは、次第にディーンのアパートで過ごす時間が多くなっていく。
両親が離婚して、当時思春期だったデヴィットが一番飢えていたもの───愛情をコールは与える事によって、デヴィットはますますコールに心酔していった。
「ディーンは本当にいい兄貴分だった………頭も切れるし、気前も良かった」デヴィットがコールを評して言った言葉である。
働き者で、子供たちにも親切なディーンを、近所は誰もが善良な好青年、だと思っていた。

惨劇:床一面を埋め尽くす死体
その日の午後、ウェインはパサデマ警察の捜査官はまずヒューストン市警察に立ち寄り、13日前に行方不明になっている2人の少年の写真をチェックした。
ウェインはその2人がチャールズ・コブル(17歳)とマーティ・ジョーンズである事を確認した。2人ともウェインがコールに「紹介した」少年である。
ヒューストン南西部ハイアラム・クラーク・ロードのボート小屋に到着した捜査陣一行は、11号の小屋の賃借人が死んだ事を大家のメイム・メイニア夫人に説明。
コールが独自にかけた南京錠を破壊する許可を得た。
小屋の中はサウナ風呂のような暑さだった。小屋の中には案の定、ボートは一隻も置いてなく、半分解体した車、そして子供用の自転車などがあった。
土が剥き出しの床には、細長いカーペットを2枚を敷いてあった。何より捜査員の不安を駆り立てたのは、2袋の生石灰だった。
小屋の隅の大きなビニール袋には、男物の衣服がたくさん詰め込まれていた。
入り口にいたウェインはやがて、パトカーを停めてある場所まで戻ると地面に座り込み、両膝を手を抱え込む、いわゆる体育座りをしたまま、完全に黙り込んでしまった。
小屋の中の物を外に運び出した捜査員たちは、車と自転車の登録番号の照合をし、車は中古車販売店から盗まれたもの、自転車は数日前から行方不明となっていた、
ジェームス・ドレイマラという13歳の少年のものであるのを確認した。
小屋の隅の一角が盛り上がっているのを発見したマリカン捜査官は、刑務所からボランティアで来た2人の模範囚人に、そこを掘るように命じた。
15cmほど掘ると、土に白い粉が混じってきた。「生石灰だ、いいぞ、もっと掘れ」さらに掘り下げると凄まじい異臭が漂った。
囚人がゆっくりと土を掘ると、出てきたのは人の顔だった。彼は悲鳴を上げてスコップを放り出すと小屋の外に飛び出し、激しく嘔吐した。
その囚人だけでなく、小屋にいた全員が凄まじい吐き気に襲われたが、1人の捜査員が勇気を振るい、放り投げられたスコップを持ち、作業を続けた。
数分後、捜査員たちはついに透明なビニールに包まれた少年の遺体を掘り出した。年齢は12か13歳くらい、全裸で、殺されてから数日しか経っていないようだ。
ビニールに包まれた少年の遺体は、まさに巨大で邪悪なキャンディのように見えた。
捜査員の1人がすぐにパトカーの無線機に飛んでいき、警察本部に鑑識班の派遣を要請した。

ボート小屋の発掘状態
やがて小屋の周りに、野次馬と報道陣が次第に集まり始めた。ウェインは取材に来ていたラジオ局に頼んで、自動車電話を貸してもらい、母に電話をした。
「ママ、俺ディーンを殺してしまったんだ」「ウソでしょウェイン、あなたがそんな!?」ヘンリー夫人の叫びは、ラジオ局のレポーターにもはっきり聞こえた。
ヘンリー夫人は自分もボート小屋に行きたいと希望したが、これは警察には認められなかった。
2人目の遺体が発見され、さらに2体の少年が遺体が掘り出された。
電話をし終えたウェインは、明らかに動揺していた。「全て、俺のせいだ…」「どうしてだい?」捜査員の1人が尋ねると、ウェインはこう答えた。
「あの子たちをディーンのところに連れて行ったのは、俺なんです…」22時、ウェインは警察本部に呼び戻された。
掘っても掘っても少年の死体が出てくる状況に、捜査官、そして作業員たちは戦慄した。
あるTV局は「床一面に死体が埋まっています」と表現した。最終的に8体の遺体が掘り出され、その日の作業は打ち切られた
捜査員は大家のメイニア夫人に「コールがこのボート小屋をレンタルしたのはいつからです?」と質問すると夫人は「70年の11月からです」と答えた。
夫人から顔を顔を背けた捜査員は「何てこった……」と呟いた。70年以降、ヒューストンで行方不明になっている若者は42名に及んでいるのだ。
その死から16時間も経っていないのに、コールは最悪の連続殺人鬼として、世界中にその名前を知られる事になった。

翌朝、母親と面会したウェインは、取調室でマリカン捜査官と向かい合っていた。
「君がコールのところに連れて行った少年たちについて話してくれないか」と捜査官は切り出した。
ウェインによると、彼がコールと知り合ったのは2年前で、「誰でもいいから少年を自分の家に連れてきたら、1人につき200ドル払う」と持ちかけられた。
しかし、金に困っていなかったウェインは1年は何もしなかったが、その後どうしても金が必要になり、コールの申し出に乗る事にした。
「最初の少年の時ですら全額払ってくれず、その後はパッタリと払ってくれなくなった」そうだが、マリカン捜査官はウェインの話を真に受けなかった。

「だったら、その後も君はコールに少年たちを紹介し続けたのは何故かね。
そもそも、君は最初に『少年を紹介して金をもらった』と言ってるじゃないか。行方不明者には君の友人や幼馴染もたくさんいる。
『俺はホモの性犯罪者に友人たちを200ドルで売った最低の男』という事実を認めたくないから、
金はもらってないなんて言い出し始めたんだろう?」


マリカン捜査官に追求されたウェインは、どんどん供述の辻褄が合わなくなっていき、そして重大な事実を認めた。
「ディーンが少年を殺した時、何件かは自分もその現場にいた」というのだ。これは警察が想像していた事件の状況を180度変えるものだった。
当初はウェインは半分無理やりにコールの「少年狩り」を手伝わされていた、という構図だった。
ところがこの供述により、どうやらウェインは積極的な殺人の共犯者だったのではないか、考えられるようになった。
ボート小屋から出てきた少年の遺体は、最終的に17体に及んだ。1体のかたわらには、切り取られた性器をつめたビニール袋も発見された。
ウェインによると、コールは被害者の少年がまだ生きている内に去勢する事もあったらしい。
コールの犠牲者

犠牲:「笛吹き男」の少年狩り
ヒューストン市警察からマリカン捜査官に電話が入り、ブルックスという男性が、息子のデヴィット・ブルックスを連れて出頭しており、そのデヴィットが、
「ディーン・コールについて話したい事があります」と申し出ているという。
さらにデヴィットは「事件の何件かはウェイン・ヘンリーが関与しています」と供述している、というのだ。
その話をマリカン捜査官から聞いたウェインは動揺するどころか、むしろホッとした様子で「良かった、これで何もかも打ち明けられます」といった。
マリカン捜査官はボート小屋以外にコールが遺体を埋めた場所を知らないか、と尋ねると、ウェインは「あります」と即答した。
サム・レイバーン湖のほとりと、ハイアイランド・ビーチにも、死体をたくさん埋めた、という。

サム・レイバーン湖からも次々に発見される遺体
デヴィットは「殺人に関わったのはウェインのみ、僕はディーンとは2年前に喧嘩別れになってそれっきり連絡もとっていません」という主張をかたくなに続けていた。
そこでマリカン捜査官は、デヴィットが拘置されているヒューストン市警察にウェインを連れて行くことにした。
デヴィットにショックを与えたら、洗いざらい白状するのでは、と思ったからだ。
ウェインは1歳年上のかつての友人を睨んでいった。「俺は全て白状したぞ。デヴィット、お前もそうした方がいい」
「一体何の事だいウェイン? 俺にはお前の言っている事が分からないな」デヴィットは探りを入れるかのごとく用心深く返答したが、しかしウェインはさらにデヴィットを脅した。
「いいや、お前は分かっているはずさ。あくまでとぼけるつもりなら『実は今までの自供は全て嘘で、関与しているのはデヴィットのみです』と言ってやるぞ」
するとデヴィットはマリカン捜査官の期待通り、見る見る顔色を変え泣き出してしまった。
一方ウェインは腹をくくったのか観念したのが、実によくしゃべった。そして合計で9件の殺人に関与し、内2人は自分が殺したのを認めた。

コールが初めて殺人を犯したのは、デヴィットと再会したそのすぐ後と思われる。
1970年9月25日、テキサス大学の学生である21歳のジェフリー・アラン・コーネンが、ヒッチハイクをして行方不明になった。
3年後、彼の遺体はハイアイランド・ビーチで発掘される事になる。鑑識医も死因を特定出来ないくらい遺体は腐敗しきっていたが、手足はロープで縛られていた。
また、ある日コールの部屋に無断で入ったデヴィッドは、2人の少年が裸で、例の「拷問台」に縛りつけられているのを目撃した。
コールは「何勝手に入ってきてるんだ、出て行け!」と激怒し、デヴィッドを追い払った。
後にコールはデヴィットに「あの2人は殺した」と打ち明け、そして口止め料としてグリーンのシボレー・コルベットを買い与えた。

コルベットをもらったデヴィッドは今や、立派なコールの共犯者だった。コールと共にコルベットで街を流し、気に入った少年を見つけると誘い込む。
デヴィッドがウェインをコールに紹介した頃には、殺人は慢性的になっていた。そもそもウェインは、1971年にデヴィットがコールに「獲物」として紹介したのだ。
しかしコールはすぐに、ウェインがいい手下になるだろうと考えた。ウェインには友達が多かったし、金のためにはなんでもしそうに見えたからだ。
ウェインが手下になってからも、犠牲者を見つける方法は変わらなかった。コールとウェインがワンボックスワゴンで街を流し、気に入った少年がいると声をかける。
声をかけられた少年は、ワゴンに自分と同じくらいの少年が乗っているのでまったく不審に思わず、コールのワゴンに乗り込んでいく。
あるいは、コールの近所に住む、いわゆるコールとは顔見知りの少年も多数犠牲になった。上記のジェームズ・ドレイマラを誘ったのも、その手口だった。
食料品店の側にワゴンを停車し、そこにジェームズ少年が通りかかると、コールが声をかけた。
「よう、ジミー。ガレージに山ほどコークの空き瓶があるんだ。なんだったら取りに来ないか? 店に持って行けば、空き瓶代が稼げるぜ」
ワゴンの後ろに自転車を積んで車に乗ったジェームズ少年は、ラマー・ドライブのコールの家に行き、強姦され、拷問され、そして絞殺された。
行方不明の少年がコールと知り合いだった親にとって、もはや息子の生存は絶望的だった。
親たちは「どうしてコールを善良な青年だと思っていたのか」としきりに悔やんだ。

捜査に協力しているウェイン(左)とデヴィット
サム・レイバーン湖のほとりからは、計6体の遺体が発見された。衝撃的な事件にサム・レイバーン湖には世界各国から取材記者が訪れた。
ウェインは「ハイアイランド・ビーチには8人の遺体が埋まっている筈だ」と証言した。しかし見つかった遺体は4体のみで、残る4体はついに発見されなかった。
ハイアイランド・ビーチで発掘作業の協力の最中に記者たちから「どのような拷問が行われたのか?」と質問されたデヴィットだったが、
「あれはアンタたちの言う拷問ではなかったと思います」と答えたきり、口をつぐんでしまった。
ここまでで合計27人の犠牲者が確認され、世界がキャンディ・マンに驚愕した。

裁判:終結のない悪夢
冒頭で、コールがウェインを怒ったのは、ロンダが女性だったから、が大きな理由ではない。
コールは、婚約者が行方不明になり悲観していたロンダが、ウェインと結婚したがっているのは知っていたし、近い内に母が住むコロラド州に引っ越そうと考えていたが、
その際にウェインとロンダも一緒に連れて行ってやろう、と考えていたそうである。
(筆者注:ちなみにロンダの婚約者だったフランク・アーギーアレイは、皮肉な事にコールの27人の犠牲者の内の1人である)
コールが、ウェインがロンダを連れてきて怒ったのは、ティモシーを殺せなくなったからである。そう、ウェインはティモシーを獲物としてコールの家に連れてきたのだ。
ティモシーは事情聴取で「警察を待っている間、ウェインが僕に『お前が俺の友達じゃなかったら、1,500ドル儲かったのにな』と呟きました」と証言している。
警察は何人かの他の少年からも事情聴取をし、ウェインとデヴィットは第一級殺人罪で起訴される事になった。
裁判に出頭するウェイン

新たな事実が発見される度に、世界中からガルベストン捜査当局に対する批判が相次いだ。
確かに、行方不明になった少年たちの捜索願を「単なる家出でしょう」と捜索に全く尽力していなかったのだから、無理もない。
これ以上の失態と無能ぶりを晒す訳にはいかないガルベストン当局は、事件の終結を急いだ。
「ハイアイランド・ビーチの残り4体の遺体を捜索したい」というヒューストン市警察の要請をあっさり却下し、コールの犠牲者の発掘は27人で打ち切られた。
菓子工場時代に、工場内の個室や工場裏でコールが穴を掘っていたのを、当時パートで働いていたルビー・ジェンキンス夫人が目撃している。
もしこれが遺体を埋める穴だったとすれば、コールの最初の犯行は1970年前に遡ることになる。
ところが捜査当局は、ジェンキンス夫人の指摘した場所をほんの少し掘っただけで「奥さん、これは古いセメントですよ。ここに死体が埋められている訳ありません」と、
捜査をすぐに打ち切ってしまっている。
警察のまとめによると、コールの連続殺人には約半年の謎の空白がある。
1972年の最後の犠牲者っぽいマーク・スコットの殺害が12月下旬、そして1973年の最初の犠牲者とされるビリー・ローレンスが姿を消したのは6月11日だ。
コールの殺人への欲求を考えると、これはかなり不自然である。あと6人か7人は殺されている、と見ていいだろう。
こう考えると、コールの犠牲者は27名には留まらず、最大で35人にまで達している、と考えた方が自然なように思える。

予審を経て1974年6月から始まった裁判は翌7月まで続いた。弁護団は精神異常を主張したが認められず、ウェインとデヴィッドは陪審団に有罪の評決を下された。
ウェインは起訴された9件の内、6件について殺人(マーク・スコット殺害)、殺人幇助などで99年の終身刑の6連続遂行、合計594年の禁固刑を宣告された。
デヴィットは1件の殺人(ビリー・ローレンス殺害)で有罪となり、99年の終身刑1回が言い渡された。

5年間を刑務所で過ごしても、まだ23歳のウェイン
1979年5月、23歳になったウェインは、有罪判決と重過ぎる刑罰を不服とし、再審請求をしたが訴えは実らず、再び有罪判決を受けただけだった。
1980年、ウェインとデヴィットには仮釈放権が発生し、以後2人は3年毎に仮釈放の申請をしているが───申請の度に却下されている。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.64 キャンディ・マンの少年狩り 仮面の下の連続殺人鬼 (デアコスティーニ)
世界殺人者名鑑 (タイムライフ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

世界を震撼させた食人鬼 ミルウォーキーの怪物

本名ジェフリー・ライオネル・ダーマー 通称ジェフリー・ダーマー

「なんてこった! 人間の頭が入っているぞ!?」(ダーマーの冷蔵庫の中を見た野次馬の1人)

ミルウォーキーの怪物ジェフリー・ダーマー
人間の歪んだ想像力が爆発したらどうなるか。前々回紹介のエド・ゲインと、このジェフリー・ダーマーはその最たる例、と言えるだろう。
1991年7月に逮捕されたダーマーは17人の若者の殺害、遺体切断、人肉食を自供し、全世界を震撼させた。
「ミルウォーキーの怪物」「ミルウォーキーの食人鬼」と恐れられたダーマーは、何に憑りつかれてこのような蛮行の数々をしでかしたのだろうか?
一見物静かでハンサムな青年を歪ませたのは、一体何だったのだろうか?

発覚:ミルウォーキーの食人鬼
「ビールの街」として知られるウィスコンシン州のミルウォーキー。
1991年7月22日のその日は、五大湖から吹く風が天然のクーラーとなり、夏だというのに肌寒かった。
ロバート・ローズラルフ・ミューラーの両巡査がパトカーで巡回していた25番街付近は、ストリップ小屋やゲイバーなどの風俗店が密集するいかがわしい場所で、
超ミニスカートの売春婦や辻強盗もあちこちにたむろしており、住人も8割近くが有色人種であった。
23時30分ごろ、パトカーの前に左手首から手錠をぶら下げた黒人の青年が金切り声を上げて飛び出して来た。
かなり興奮していて、叫びに近い大声でまくし立て、話にまとまりがない。両巡査は「落ち着いて事情を話すように」黒人青年を諭した。
黒人青年はトレイシー・エドワーズと名乗った。
白人の青年と知り合いアパートまで着いていったら、酒に酔ったところでいきなり手錠をかけられ、包丁を突きつけられ、
「少しでも抵抗したらその心臓を抉り出して食ってやる」と脅されたという。
服を脱ぐように命じられたが、隙を見て命からがら逃げ出してきたところを両巡査に出くわした、というのだ。
半信半疑だった巡査たちだが、エドワーズはあまりにも真剣で演技をしているとも思えない。一応そのアパートに行ってみることにした。

案内されるままにオックスフォード・アパートメントに着いた両巡査はパトカーから降りると、2階の213号室のインターホンを鳴らした。
部屋の中から出てきたのは、一見物静かな白人青年だった。
ジェフリー・ダーマーと名乗るその男性は、落ち着き払った様子で2人の巡査に対応した。
両巡査は何故エドワーズに手錠をかけ包丁で脅したのか説明を求めた
するとダーマーは「彼と酒を飲んでいて、失業中な事もあり、酔いが回りイライラも重なってあんなことをしてしまいました」と答えた。
一応説明に納得した両巡査が手錠の鍵を出すように云うと、ダーマーは途端に顔を強張らせ、言い逃れをしようとした。
尚も鍵を渡すように要求すると、ダーマーは突然暴れて逃げようとした。両巡査とダーマーは掴み合いの乱闘をはじめ、そのまま室内に雪崩れ込んだ。
「いてて、コイツ引っ掻きやがって!」巡査の叫びに他のアパートの住民たちがゾロゾロと213号室の入り口付近に集まってきた。
ダーマーは後ろ手に手錠をかけられ、ローズ巡査は携帯無線で本署に応援を求めた。
ダーマーに被疑者の有する権利を説明し終え、冷静になった両巡査はやがて、部屋を飛び回るおびただしい数のハエと、凄まじい異臭に気がついた。
巡査たちには臭いの原因が何となく判り始めていた。恐る恐る冷蔵庫を開けると、様子を窺っていた玄関先の野次馬の1人が叫んだ。

 「なんてこった! 人間の頭が入っているぞ!?」

その瞬間、ダーマーはこの世のものとは思えない、獣のような叫び声を上げた。

冷蔵庫の中には3つの頭部と肉片が、ビニール袋に入れられて保存されていた。
ファイリング・キャビネットの上段には灰色に塗装された3つの頭蓋骨、下段には各部の骨が、箱の1つには2つの頭蓋骨とおぞましい写真のアルバムが収納されていた。
キッチンの鍋の中からも煮えて崩れかけた頭部が2つ発見され、その他の鍋も切断された腕が数本、男性器が1本入っていた。
玄関に置かれた樽状の青いポリ容器は塩酸で充たされ、中では3つの胴体が溶解されている。
冷蔵庫の中には人肉の他に食料らしいものは冷凍のフライドポテトくらいで、あとはステーキソースとマスタードソースが1瓶づつあるだった。
塩酸入りの樽を運び出す捜査員
日付けが変わって23日になるころ、本署から次々に応援のパトカーが到着した。その間ダーマーはずっと「ミャオ、ミャオ!」と猫の鳴き声を真似していた。
手錠と、さらに拘束具をつけられたダーマーは、そのまま警察に連行された。
取調べに対しダーマーは冷蔵庫の肉片について「1990年から被害者の肉を食用にしていた」と自供。担当した刑事を青ざめさせた。

過去:陰気で無口で孤独だった少年時代
父ライオネルと当時の妻ジョイスとの初めての子として1960年5月21日、ジェフリー・ライオネル・ダーマーはこの世に生を授かった。
当時ライオネルはまだマーケット大学の学生だったため、2人はライオネルの母親と同居していた。
ジェフリーの誕生後、ライオネルは学業に専念し、やがて1962年には電子工学の学士号を、さらに4年後には分析化学の博士号を取得した。
このようにライオネルは大変は「努力家」であったが、反面家庭を気にすることはほとんどなかった。研究に忙しく、息子をほとんど構ってあげられなかったのだ。
その間、1人で育児を受け持つジョイスの精神状態は次第に悪化して行った。夫婦仲はどんどん険悪になり、常に口論が絶えなくなった。
ジェフリーにとって、それは見慣れた光景になっていった。彼は次第に「親から無視されている」と感じるようになった。
母の精神も次男を産んでからは悪化の一途を辿り、1970年には精神科に入院してしまう。そして1977年、ジョイスとライオネルは離婚する。
そんな中でジェフリーは、1人で近所の森の中で過ごすことが多くなっていた。森の中でジェフリーは動物の死骸を集めては、自分で墓を作っていた。
ウサギを殺して死骸から塩酸をかけて肉をはぎ取って骨だけにしたり、杭に犬の頭を刺したりしていたという。
よくジェフリーを英国史上最悪の猟奇連続殺人鬼、デニス・ニルセンと似ていると主張する方が多いが、ここら辺のエピソードとのちに続く殺人の流れなどは、
犠牲者が男と女の違いはあれど、筆者はむしろ非常にエド・ケンパーと共通するものを感じる。
崩壊して愛情の欠落した家庭環境、死体への妄想、幼少期の動物虐待、大人になってからの「自分は社会の負け組で心を許せる友人もいない」と思っていた部分。
さらにつきつめていうなら、犯行後の病的な死体損壊行為、「被害者と一体になりたい」と行った人肉食なども。
高校時代のダーマー
10代半ばにして、ジェフリーは授業中にこっそりコーヒー用の紙コップでウイスキーを飲んでいることがよくあった、という。
だが、誰もそのことについては何も言わなかった。そう、陰気なジェフリーには忠告してくれるような友人が少なかったのだ。
知能テストではかなり高い数値が出たが、学校の成績はよくなかった。(ここもケンパーと良く似ている)
だが、そうかと思えば注目を集めるための奇行もしばしば行なった。
癲癇の発作を起こしたふりをしたり(自分の母親がしばしば起こした発作を真似たものと思われる)、他のクラスの卒業写真にちゃっかり並んで写ったりした。
そんなジェフリーを快活とみる者もいたが、たいていの仲間は彼を「厄介な、子供っぽいやつ」だと思っていた。
両親の離婚が成立して父に引き取られた頃には、彼はアル中になっていた。
やがてジェフリーは己の中にひそむ性癖に気づき、悩みはじめていた。自分が同性愛者だ、という悩みである。
「友達も出来ない僕に、男の恋人など出来るだろうか?」ジェフリーは日々この疑問に悩んでいた。

ジェフリーは18の時、初めて殺人を犯す。
1978年6月18日、高校を卒業してブラブラしていたジェフリーは、コンサートの帰りに町外れでスティーブン・マーク・ヒックスという少年と出会った。
同じコンサート会場から出てきたヒックスは、ヒッチハイクするための車を待っていたところだという。
一目惚れしたジェフリーは自分の車にヒックスを乗せると、酒とマリファナを餌に自宅へ誘った。ちょうどいいことに両親は別居中で、家には誰もいなかった。
友達が家に来る、などという経験がまったくなく、しかも音楽の趣味も合うジェフリーは大喜びしたが、時間が経つとヒックスはそろそろ帰ると言い出した。
帰したくないジェフリーは泊まっていくように懇願したが「今日はパパの誕生パーティーがあるから」とヒックスはあくまで帰るという。
ジェフリーは咄嗟にバーベルで殴り、そのあとは首を絞めて殺害した。ヒックスの死体を床下に運んで、肉切り包丁でバラバラにした。
大変な作業に感じるかも知れないが、ジェフリーは子供のころから動物を殺してバラバラにするという経験をしていたのである。
そして肉を骨から剥ぎ落とし、骨はバラバラにして自宅と隣の家の敷地の境にバラまいた。
(13年後、ダーマーの供述からその場所を捜索した警察は、骨の欠片数個と歯を3本採集した。歯科カルテから歯はヒックスのものであるのが確認された)
殺人を犯してしまった後悔の念から、ジェフリーはますますアルコールに溺れた。
18歳にしてアル中となった息子を何とか更生させようと、ライオネル・ダーマーはジェフリーを大学に入れてみたがダメだった。
高校時代同様、講義中に酒を飲むような有様で、結局1年で退学した。
軍隊に入れてみてもダメだった。ジェフリーは酒浸りの毎日で、まったくやる気がみられなかった。軍隊も3年間で「不適格」として除隊処分になっている。
(筆者注:尚、立件こそされなかったがジェフリーはドイツ駐軍時代にエリカ・ハッシーという地元の女性を殺害した疑いももたれている)

息子を持て余したライオネルは、母に預けてみることにした。やがてジェフリーはチョコレート工場に職を見つけ、転地療養は奏功したかに思われた。
しかしこの頃のジェフリーは夜になると足繁くゲイ・バーや同性愛者専用のポルノショップに通っていた。
少し経ってジェフリーはハルシオンなどの睡眠薬を相手の酒に混入するようになった。
医者に不眠を訴えて睡眠薬を処方してもらい、気に入った男に酒を奢り、隙を見て睡眠薬を盛るのである。
この頃のジェフリーには相手にいかがわしい事をしようという目的はなく、あくまで睡眠薬の効き目がどの程度か試すのが狙いだったようである。
とはいえ、遂には意識が戻らず、救急車で病院に運ばれる者まで現れた。
他にもジェフリーに薬を盛られたという苦情が店に殺到し、「クラブ・バス・ミルウォーキー」のオーナーはジェフリーに出入り禁止を言い渡した。

殺人:歯止めの利かなくなった魔性
1987年9月15日、出入り禁止となった店とは別のゲイバー「クラブ219」で、ダーマーはスティーブン・トゥオミという24歳の黒人青年と出会い、ホテルへ入った。
朝、目が覚めると、トゥオミは口から血を流して死んでいた。首には絞めつけた跡があった。
泥酔していたダーマーは何があったのかまるで覚えていなかったが、自分が絞殺してしまったことだけは確かである。
慌てた彼はクローゼットに死体を隠し、一旦外出してスーツケースを買い求めると、死体を詰めて改めてチェックアウトし祖母の家へと運んだ。
(この行動はパニック状態にあっても冷静に最善の策を思いつく、高知能殺人鬼特有のものである)
そして、地下室でバラバラに切断して、黒いゴミ袋に詰め、燃えるゴミの日に出した。
トゥオミ殺害の証拠は事実上残っておらず、ミルウォーキー警察は止むを得ずこの件の起訴を断念することになった。
年が変わって1988年1月16日。
ダーマーはまたもクラブ219付近のバス停留所でジェームス・ドクステイターという、ネイティブ・アメリカンの血を引く若い白人の男媚と出会った。
そこで写真のモデルになってほしいと頼み、祖母の家へと連れて行った。
そして、睡眠薬を砕いて混ぜたラムコークを飲ませて、意識を失わせてから絞殺した。屍姦した後、地下室で死体の解体を行い、頭蓋骨は記念として保存した。
さらに3月24日、ダーマーはクラブ219からさほど離れていないフェニックス・バーでリチャード・ゲレロというヒスパニック系の青年と出会い、祖母の家へと連れて行った。
その後は前回と同じである。この頃にはダーマーは解体用のナイフ一式を揃えていた。
祖母のキャサリンは地下室から漂ってくる異臭に悩まされていた。そこでライオネルに電話し、地下室を調べさせた。
床にどす黒い液体がこぼれている以外は、特に変わったところはなかった。
ダーマーは「子供の頃やっていたように動物の死骸を酸で溶かしたんだ」と苦しい弁明をしたが、ライオネルはこれをそのまま信じてしまった。
しかし、キャサリンは孫の深酒と、地下室の異臭にはウンザリしていた。ライオネルはダーマーに、独立するように促した。
9月25日、北24番街808番地のアパートに引っ越したダーマーは、翌日の午後にケイソン・シンサソンフォンというラオス人の少年を部屋に連れ込んだ。
睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて猥褻行為をしたが、彼は殺さずにリリースした。ケイソンは自宅に戻るや否や昏睡状態に陥り、病院に運ばれた。
この件でダーマーは逮捕され、未成年者に対する強制猥褻の罪で起訴された。しかし、ライオネルが1万ドルの保釈金を払ったため、1週間後に釈放された。
1989年3月25日、ケイソンに対する容疑が係争中であるにもかかわらず、ダーマーはモデルのアンソニー・シアーズを祖母の家に連れて行き、殺害した。
自分の部屋に連れて行かなかったのは、警察に監視されているのではないかと思ったからである。そして、いつものように解体し、頭蓋骨と性器を保存した。
5月23日、ダーマーはケイソンに対する容疑で有罪となったが、裁判では心から反省した態度を見せたため、5年間の保護観察処分と1年間の刑務所外労働で済んだ。
おかげでミルウォーキー刑務所からチョコレート工場に働きに出ることができた。たまにはゲイバーにも寄ることもできた。これで更正など無理な話である。
そして1990年3月3日に仮出所となり、北25番街924番地にアパートを借りた。
後に「ジェフリー・ダーマーの神殿」として世界にその名を轟かすことになるオックスフォード・アパートメント213号室である。
部屋そのものが証拠物件として押さえられた
新たにアパートを借りたダーマーは1990年5月末、凶行を再開した。
20代中盤から刑務所を出たり入ったりしていたレイモンド・スミスは、5月からミルウォーキーの姉妹の家に居候することになった。
「今度こそ人生をやり直し、まっとうに生きるんだ」と誓っていたスミスは29日、クラブ219で知り合った「ジェフ」と名乗る白人青年から、写真のモデルを頼まれた。
「ジェフ」も2週間前にミルウォーキーに越してきたばかりだという。
アパートについていったスミスは睡眠薬入りラムコークを飲まされ、そのままダーマーに解体されてしまった。
ダーマーは6月14日、頭にターバン状のものを巻いていたことから「シャイフ」というニックネームで呼ばれていた黒人青年エディ・スミスを、写真のモデルを口実に、
またしてもアパートに連れ込むことに成功した。
ダーマーは約束を守り、ちゃんと写真は撮った。もちろん例によって睡眠薬入りラム・コークを飲ませて意識を失ったところで殺害後、解体してからだったが。
7月8日にヒスパニック系の少年リッキー・リー・ベックスを殺害しようとしたが、逃げられてしまったためにダーマーは殺人を自粛する決意をする。
(ベックスは『養父母に自分が同性愛者であるのを知られるのは困る』と警察に被害届を出さなかった。のちにダーマーの逮捕を聞き、改めて被害届を出した)

蛮行:想像を絶する悪魔の儀式
そして9月3日、ダーマーの蛮行は8人目の犠牲者によって新たな局面を迎える。人肉食である。
書店で知り合った黒人ダンサーのアーネスト・ミラーを「写真のモデルになって欲しい」と口説き、家に連れ込み睡眠薬入りラムコークで眠らせた。
ミラーはハンサムで筋肉質、バネのような体つきをした黒人ダンサーで、まさにダーマーの好みにぴったりだった。
ベックスの件で自粛していたダーマーは欲求不満が募り、殺人衝動がピークに達していたのだろう。絞殺する代わりにミラーの首をかき切って殺害した。
ダーマーは大喜びで死体のあらゆる写真を撮り、肉をそぎ落として骨だけにし、さらに白骨化したミラーをバスルームでシャワーのノズルにひっかけて、また写真を撮った。
その内にダーマーはミラーのバネのような肉体を思い出し、そぎ落とした肉の残骸を、このまま処分するのはあまりに惜しい、と考え始めた。
ダーマーは残骸から心臓と上腕二頭筋(力こぶを作る筋肉)を回収すると、キッチンで肉叩きハンマーで叩いて柔らかくし、
サラダ油で焼いてステーキソースをかけて食べた。
彼によると二頭筋はビーフのような味がしたが、心臓はふわふわしていて味がなかったそうだ。
ダーマーはミラーの一部を胃に収めると、これで彼は俺と一緒になった、と大きく安堵した。
同じく9月にまた犠牲者が出、同じ道をたどった。22日にはデビッド・トーマスが、翌1991年2月18日にはカーティス・ストローダーがダーマーの胃袋に納まった。
この頃アパートの住人が「ダーマーの部屋から悪臭がする」と苦情を言いにいったことがある。
その時ダーマーは「冷蔵庫が壊れて、中の肉が腐ってしまった」と説明している。確かに「肉が腐っていた」というのは嘘ではない。

この後、ダーマーの蛮行はさらにとてつもない方向に向かう。ロボトミー手術を施した「ゾンビ」の創造を企てるのである。
ダーマーが相手を殺害するのは、同性愛行為を拒否されるのを恐れているからである。
しかし裏切らず、口答えせず、逃げ出すことのない恋人が永遠に隣にいれば、彼は殺害を繰り返す必要はないのだ。
そこで思いついたのが「ゾンビ」の創造、すなわち「ロボトミー手術」である。前頭葉白室を切り離してしまうと無抵抗な人間になってしまう。
かつては前後の区別もつかないような凶暴な狂人の治療法として広く行われていたが、あまりにも非人道的ゆえに現在ではほとんどの国で禁止されている。
1991年4月9日、エロル・リンゼイに睡眠薬入りラムコークを飲ませたダーマーは思った。

「また僕は殺人を犯すのか? 殺してどうなる? 死体の写真と頭蓋骨のコレクションが増えるだけじゃないか」

そう考えたダーマーは、リンゼイの頭部に電気ドリルで穴を開け、調理用の注入器を用いて脳に塩酸を注入した。
しかし余りの激痛にリンゼイを目を覚ましのたうち回った。ダーマーは隣の部屋の住民に感づかれるの阻止するために、やむなく彼を絞殺した。
ダーマーの犠牲者たち
5月24火、今度は31歳でダンス好きのトニー・ヒューズがダーマーの犠牲になった。
睡眠薬で眠らせたものの、ヒューズはあまりダーマーのタイプではなかった。しかも聾唖者で、ダーマーは何か良心が咎めた。
とはいえ目を覚ますと怒り出して、警察に訴えられる可能性がある。ダーマーはそのままヒューズを絞殺した。
2日後の26日、ヒューズの遺体をベッドの上に放置したまま、ダーマーは次なる獲物を探しに出掛けた。
そしてショッピング・モールでまだ14歳のラオス人、コネラク・シンサソンフォンに声をかけた。
彼は3年前にダーマーに睡眠薬を飲まされあやうく犠牲になるところだったケイソン・シンサソンフォンの弟である。
コネラクをアパートにつれてきたダーマーは、睡眠薬で眠らせると、彼の頭に穴を開けて塩酸を注入した。
夜になり、ビールを買い忘れていたことに気づいたダーマーは、コネラクをそのままにして出掛けた。
そしてアパートに戻ると、コネラクが外に出て全裸のままで2人の黒人少女に助けを求めているではないか。
ダーマーは慌ててコネラクを少女たちから引き離そうとしたが、少女たちは応じず警察に通報。
駆けつけた警官たちに対しダーマーは「彼は僕の恋人なんです。ちょっとした痴話喧嘩でこんな騒ぎになったんです。もう19歳です」と必死になって弁解した。
不運なことにコネラクは英語がうまく喋れない。しかも「警察が来て助かった」と思ったのか、コネラクはソファーでおとなしくしていた。
「事件性なし」と判断した警官は、そのままダーマーの部屋を少し見渡しただけで去ってしまった。(この時、寝室にはまだヒューズの遺体があった)
警官が帰った直後にダーマーはコネラクを絞殺、バラバラにして頭蓋骨コレクションに加えた。
このコネラクの件は「警察は有色人種のコネラクにはロクに事情も聞かず白人のダーマーの言い分だけを信じた」とミルウォーキーの有色人種住民が怒り、
さらに「ホモの痴話喧嘩に出くわしたww」とこの件を笑い話にした警察官の会話がそのまま記録用テープに録音され、これが外部に漏れTV・ラジオで放送され、
「彼らの有色人種と同性愛者への偏見、無能ぶりとお役人仕事のせいで14歳の少年は犠牲者になった」
とミルウォーキー警察は世界中から批判を浴びる事になった。

終結:怪物を待っていた皮肉な最期
コネラク殺害あとは6月30日にマット・ターナー、7月5日にジェレミア・ワインバーガー、7月12日にオリバー・レイシー、7月19日にジョセフ・ブレイドホフトと、
ほぼ1週間に1人のペースで殺人を重ねている。
この時期、ダーマーはチョコレート工場をクビになり、家賃滞納のため7月いっぱいでアパートを追い出されることが決まっていた。
本人にしてみればいつかは訪れる「逮捕」に備えての殺し納めのつもりだったのだろう。
アパートを追い出され居場所を失った彼が、仮に大量の頭蓋骨コレクションや人体の残骸を荷作りして、一体どこへ行けたというのだろう?
ブレイドホスト殺害から3日後の22日、トレイシー・エドワーズがあやうく難を逃れた事により逮捕されたが、ほとんどためらいもせず警官たちを招き入れたことからも、
ダーマーがこの「破滅の日」を予感していたことは間違いなかった。
事実、取調室でのダーマーは、自分の凶行に終止符が打てたことに安堵しているようにすら見えたという。

裁判中のダーマー
ダーマーはスティーブン・トゥオミ殺害を除く16件の殺人などで起訴され、ローレンス・グラム判事を裁判官として1992年1月30日から裁判は始まった。
すでにダーマーは全面自供していたために弁護団は精神異常を主張したが、陪審団はこれを退け、16件の殺人の内15件を第一級殺人で有罪であるとの評決を出した。
判決前にダーマーは「自分は刑の軽減など望んではいない、死刑だけを願っている」と語ったが、ウィスコンシン州では死刑がかなり前に廃止されているため、
グラム判事はダーマーの希望を叶えることは出来なかった。
ダーマーは15件の第一級殺人とベックスへの殺人未遂などで、15回連続の終身刑判決が言い渡された。
これは合計957年の禁固刑に相当する。
食人鬼が生きてシャバに戻れる可能性が0%になったことに、犠牲者の遺族たちはインタビューで「ホッとした」と答えた。

しかし、ダーマーがこの終身刑を全うすることはなかった。
1994年11月28日、ウィンスコンシン州立刑務所であるコロンビア医療更生施設の、浴室の清掃作業を他の2名の囚人と共に命じられていたダーマーは、
頭から血を流して倒れているのを、通りがかった看守に発見された。
すぐに近くの病院に搬送されたが、その途中に救急車の中でダーマーは息を引き取った。34歳だった。
犯人は同じく浴室の清掃作業を命じられていた、25歳の黒人で精神異常者クリストファー・スカーバーで、凶器は運動部屋のトレーニング機材の一部分だった。
スカーバーは「自分は神の子であり、父である神の命に従いダーマーを殺害した」と主張したという。
ダーマーを殺害したクリストファー・スカーバー

父、ライオネル・ダーマーは息子の事を書き上げた自伝著『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』を発売し、売り上げ金の一部を遺族への慰謝料に充てた。
「もう少し息子を何とかするべきだった…」という悔恨の念がひしひしと伝わる内容である。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.9 ミルウォーキーの食人鬼 (デアコスティーニ)
息子ジェフリー・ダーマーとの日々 (早川書房)
死体しか愛せなかった男 ジェフリー・ダーマー (原書房)
続・連続殺人者 (タイムライフ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

拷問が趣味の怪物 もう1人のフリーウェイ・キラー

本名ウィリアム・ジョージ・ボーニン 通称ウィリアム・ボーニン

「1度でも殺しの味を知ったら、麻薬みたいに止められない。感覚が麻痺して簡単に殺せるようになる」(ウィリアム・ボーニン)

1970年代、LA郊外を恐怖のドン底に陥れた連続殺人鬼、フリーウェイ・キラー
フリーウェイ・キラーとして連続殺人を開始したのはランディ・クラフトが先だが、しかしフリーウェイ・キラーとして有名なのは、このウィリアム・ボーニンの方である。
これはボーニンが自分の殺人を自白し、インタビューなどでもその残虐な手口、異常極まる嗜好を積極的に話しまくったからなのに対し、
クラフトは今でも黙秘を貫いているのが理由と思われる。
もう1人のフリーウェイ・キラー、ボーニン
ただ、どちらも被害者を狂人的な方法で拷問するのが趣味の「怪物」である事に違いはない。
ボーニンは実に41人もの若者の命を葬り去り、高速道路の脇にゴミのように死体を捨て去っていた。

発端:トラック運転者の前科
1979年に入り、LA警察はカリフォルニア州高速道路沿いやその近辺に遺棄された、少年や若者の死体の数に目を見張らされる羽目になった。
犯人はまるで週末の殺人をノルマにして生きているかのようである。
死体はいずれも殺害される前にレイプされ、そして頭蓋骨に釘を打ち込まれる、針金を耳から鼓膜まで差し込まれる、塩酸を飲まされるという、
鬼畜の所業かと思えてくる手口で拷問されていた。
正体不明の同性愛殺人鬼をメディアは「フリーウェイ・キラー」と呼びセンセーショナルに報道したが、被害者と犯人を結びつける接点がほとんどなく、
しかも偽装した証拠(拾ったアカの他人のタバコの吸殻など)を現場に残すという狡猾さから、捜査は難航していた。
1980年6月11日深夜、警察は1人の男をソドム(肛門強姦)罪未遂で逮捕した。きっかけは数日前、窃盗で捕まった少年のこのような供述からだった。

「数日前、LAの安酒場で飲んでいるとある男に声をかけられ、家までついていった。
そいつの名はボーニンというトラックの運転手で、頑丈な体つきで青白い顔をしていた。奴は金を払うからホモ・セックスをしないかと言ってきた。
キッパリと断ったら、奴は殺人の話を始め『これまで何人も人を殺したことがある。人殺しを手伝ってくれないか』と真顔で頼んできた。
僕は身の危険を感じて、トイレにいくフリをして窓から逃げ出した」


警察が調べたところ、確かにウィリアム・ジョージ・ボーニンというトラックの運転手がLA郊外に住んでおり、しかもこの男にはソドム罪の前科がある。
さらにこの男が刑務所から釈放された1978年10月以降、高速道路の脇から男性の変死体が発見されるケースが急激に増えているのだ。

「もしかしたら、この男がフリーウェイ・キラーでは?」

警察はただちに、24時間体制の監視をボーニンにつけることにした。
(筆者注:もっともマークがついたその初日にボーニンは少年の命を奪っている。この少年はボーニンの最後の犠牲者となった)
数日後、徹底マークされているとは知らないボーニンはLA市内で少年を拾って郊外に向かった。
人の立ち寄らないような場所にライトバンを停めたボーニンは、裸にした少年にソドムレイプを始めた。
この瞬間を待っていた数人の刑事たちは、一斉にボーニンの車に突入した。「警察だ、動くな!その少年から離れてゆっくり手をあげろ!」
拳銃を突きつけられたボーニンは、ゆっくりと両手を上げた。刑事の1人がすかさずボーニンに手錠をかける。
ボーニンの目はまるでサメのようにドンヨリとしていた。
それは凶悪犯罪者の目を見慣れているLAのタフな刑事(デカ)たちですら、たじろぐような不気味な目つきだった。
少年は下半身裸のまま、肛門から鮮血をしたたらせ苦痛にうめいていた。
逮捕されたボーニンは少年へのソドム罪は認めたが、フリーウェイ・キラーについては一切知らない、と言い張った。
当局はすぐにボーニンの家に同居している25歳のバーノン・バッツを共犯の疑いで逮捕し、取調べを始めた。
ボーニン同様同性愛者でもあるバッツは人のいいなりになりやすい性格で、自作の棺桶の中で寝たりしていることから、仲間内では変人として知られていた。
「進んで自供したら刑の軽減もありうる」と警察にほのかされたバッツは、背筋も凍るような自供を開始した。
ボーニンの自宅

殺人:背筋も凍るバッツの供述
バッツによると、最初の殺人を手伝ったのは1979年7月のある日だそうである。
ハリウッドの近くで獲物を物色していたボーニンは、薄暗い路地裏でほっそりとした少年を拾った。
50ドルで話はまとまり、バッツに運転を任せて後部座席に移ったボーニンはナイフで少年を脅して手錠をかけ、口をガムテープでふさいだ。
そのままライトバンを走らせ人気のない郊外で車を停めさせ、ボーニンは少年をレイプし、次にバッツが少年を犯した。
そしてボーニンは少年の首までTシャツを上げると、そこに鉄パイプを差し込んで両手でパイプを回してギリギリとTシャツを絞り始めた。
少年は殺されると感じたらしく暴れたが、バッツが体を押さえ込んだ。
たちまちTシャツは少年の首に食い込み、少年は苦悶の表情と共に、口を金魚のようにパクパクと開けたり閉じたりした。
ボーニンがTシャツを緩めると、空気を吸い込んでいる少年の胸が大きく上下していた。ボーニンは笑いながらまたTシャツを締め始めた。
これを繰り返し、ボーニンは時間をかけて少年を殺害した。このあと少年の遺体をフリーウェイの路肩に投げ捨て、その場を去った。
こうしてバッツは、ボーニンの殺人を手伝う羽目になったという。バッツの供述はさらに続いた。

「最初の殺しのあと、まるで催眠術にかけられたようにその後も殺しを手伝った。何故か奴には逆らえなかった。
Tシャツを首まで上げて、少年を絞め殺す。ボーニンはこの殺し方を非常に気に入っていた。
好きなように少年を何度も苦しめてから殺すことが出来るからだ。
少年が喉をゴボゴボ鳴らしながら息を引き取ると、その時はサメのような奴の目が不気味に光っていた」


連行されるボーニン
少年の体を手術用のメスで切り裂くこともあったという。また、アイスピックを何度も耳に突き刺したりもしたそうである。
少年は凄まじい悲鳴を上げ、ボーニンは慌ててアイスピックを抜いたが、再びアイスピックを少年の耳に差し込んで死ぬまでいたぶったという。
バッツの恐怖の供述はさらに続いた。

「休日に家でビールを飲みながらTVを見ていたら、ボーニンが少年を連れてきた。
ステファノという18歳の少年で、LAの歓楽街で会って100ドルで話を決めたという。ボーニンはもう100ドル払う、という事で人でのプレイを承諾させた。
『SMプレイの真似ごとをしよう』とステファノの両手を縛り上げた。自由を奪うとボーニンは途端に本性を表し、ステファノに何度も平手打ちを喰らわせた。
ステファノの顔にはしまった、という驚きと恐怖の表情が浮かび上がった。
震えているステファノのTシャツを脱がしたボーニンは背後からソドムした。続いて俺が少年をソドムした。
そのあとボーニンは雑巾を絞るようにステファノを絞殺した。彼のジーパンから財布を取り出し、現金だけを抜き取った。
ボーニンと俺は車で出かけ、フリーウェイの脇にステファノの死体を投げ捨てた。
腹が減ったので途中でコンビニに立ち寄り、盗んだステファノの金でジャンボ・ハンバーガーを買った。
ハンバーガーを食いながら、ボーニンはこんなジョークを言った。
『ありがとうよステファノ。お前が今どこにいようと、俺は感謝しているぜ』
そしてそんな面白くも何ともない自分のジョークに、奴はいつまでも笑いこけていた」


ランディ・クラフトが被害者の遺留品を記念として持っていたように、ボーニンは事件の記事の新聞の切り抜きを記念として持っていた。
また、トラックの運転手とはいえクラフト同様、知能指数は非常に高かったそうである。
ボーニンは死体が見つかるたびに、会社の詰め所(休憩所)で同僚たちとこんな会話を交わしている。
「またフリーウェイの脇から拷問された絞殺死体が見つかったそうだね」と声をかけてから

「いつまでも捕まらないところを見ると、犯人は相当に利口な奴だね」

過去:育まれた異常性
ウィリアム・ボーニンの異常なまでのサディズムは、その少年時代と深く関わっている、と見ていいだろう。
1947年1月8日、コネチカット州で3人兄弟の次男として生まれたウィリアムは他のシリアル・キラー同様、父に虐待された過去を持っていた。
ウィリアムの父はギャンブルが三度の飯より好きな大酒飲みで、酔っ払うとすぐに家族に暴力を振るう最低の男だった。

「俺たち兄弟と母は酒を飲んでは暴れて酷い暴力を振るう父を恐れていた。
病気になって死んだ時も全然悲しくなんかなく、むしろホッとした。あんな奴は死んだ方がマシだ」


ウィリアムは父についてこう回顧している。
ウィリアムは10歳から窃盗を働くようになり、ついには捕まって少年鑑別所に送られた。
その日の夜にウィリアムは年上の少年たちに力づくでレイプされた。犯人たちは分かっているが、怖くて仕返しなんて出来なかった。
その後も少年鑑別所を出たり入ったり、を繰り返していたウィリアムは18歳になるころにはすっかり古顔になっていた。

「ブルブル震えてる少年を無理やりソドムするのが楽しみだった。施設では強い奴には黙って従うしかないのだ」

1969年、少年に対するソドム罪で22歳で逮捕されたウィリアムは精神鑑定で精神病質者(サイコパス)と診断され、
1971年にカリフォルニア州立アタスカデロ精神病院に収容され、そこで5年を過ごした。
しかし、精神病院を釈放された1年4ヶ月後にはまたもあるパーティーで知り合った14歳の少年に目を付け、少年がヒッチハイクをしていたところを拾って、
そのまま誘拐しソドムした罪で逮捕された。
この時少年に「いつもは殺すんだ。だけど、お前はパーティーで一緒だったところを誰かに見られているかも知れないからな。今回は殺しはしないよ」
という脅し文句を吐いている。
今度は禁固1~15年という不定期刑を受けるが、1978年に仮釈放される。釈放されたウィリアムは、こう誓ったという。

「もう絶対に刑務所はゴメンだ。今度捕まったら10年か20年はブチ込まれるだろう。下手したら一生出てこれないかも知れない。
今までの失敗は殺さなかったことだ。これからはレイプした少年は生かしておくべきじゃない


尚、被害者の少年は、当時の様子をこう振り返っている。

「アイツの目ほど怖いものはない。まるでサメのようにドンヨリとして濁っているんだ」

こうしてウィリアムはもう1人のフリーウェイ・キラーとして、実に41人の少年の命を奪い去ることになる。

結末:反省なき怪物
ランディ・クラフトもウィリアム・ボーニンも自分の覚えがない変死体がフリーウェイ沿いから発見されるニュースを新聞やTVで見るたびに
「へー、俺の他にどうやらもう1人フリーウェイ・キラーがいるんだな。会ってみたいもんだ」と感心していたという。
(筆者注:2人の対面は死刑囚専用刑務所のサン・クエンティン刑務所で実現することになる)

さらに警察はここ4ヶ月の共犯として、知能障害の2人ジェイムス・マンローグレゴリー・マイリーも逮捕した。
バッツ、マンロー、マイリーは、ボーニンに不利な証言をすれば死刑を求刑しないという検察との司法取引に応じた。
8件への殺人の関与を認めたバッツだが、裁判が始まる前に拘置所内で首を吊って自殺した。
ボーニンは12件の殺人と強姦罪で起訴され裁判にかけられ、10件の第一級殺人罪と強盗罪、死体遺棄で死刑判決を受けた。
マンローとマイリーにはそれぞれ25年の懲役刑が言い渡された。
クラフトは殺人そのものが目的だったのに対し、口封じのために少年達を殺害していったボーニンだが、次第にクラフト同様殺人が快楽になったようである。
反省の態度を見せることはなく、メディアとのインタビューで連続殺人についてこう語っている。
裁判から退廷するボーニン

「ひとつ殺しをやるたびに平気になっていった。捕まってなかったら今でもやってるだろうな。
1度でも殺しの味を知ったら、麻薬みたいに止められない。
感覚が麻痺して簡単に殺せるようになる」


逮捕から16年後の1996年2月23日、ボーニンはサン・クエンティン刑務所内で薬物注射により死刑となった。49歳だった。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.61 地獄のフリーウェイ・キラー 人間狩りドライブ (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
殺人博物館
+ M O N S T E R S +

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

「一緒にいてほしかった」死体を友とした孤独な公務員

本名デニス・アンドリュー・ニルセン 通称デニス・ニルセン

「私は自分のした事で眠れなくなる事もなければ、悪夢にうなされることもありません」(デニス・ニルセン)

「彼」は真面目で、とても仕事熱心な公務員だった。
職場である職業安定所に仕事を探しにきた人に、常に真摯な態度で接し、就職を斡旋していた。
しかし、同性愛者である彼は、常に孤独感に苛まれていた。
英国史上最悪の殺人鬼デニス・ニルセン
孤独だった彼、デニス・ニルセンはやがて───新しいルームメイトを見つけた。それは死体だった。彼は死体と同居生活を始めたのだ。
そして英国犯罪史上最悪と言われる猟奇連続殺人鬼が誕生。犯行はどんどんエスカレートしていった。

発覚:下水に詰まっていた物
1983年2月8日。ロンドン郊外北部のマスウィル・ヒルにある閑静なフラット(アパートと共同住宅の中間のような賃貸宅)は、5日前からトイレが詰まって使えなくなっていた。
知らせを受けて呼ばれた配管工マイケル・キャトランは、住民達から状態を聞いて「ああ、それは下水の詰まりですね」とすぐに原因を特定。
フラットの住民の1人ジム・オールコックが協力を申し出て、2人でフラットの横にある下水の蓋を開けた途端、凄まじい悪臭に思わず顔を背けた。
トイレ関係といえば排泄物の詰まりも付き物だが、この臭いはそれとは明らかに違う。まるで何かが腐っているかのような悪臭だ。
キャトランは下水をオールコックに上から懐中電灯で照らしてもらいながら、恐る恐る下まで降りてみた。
ドロリとしたオートミールのような大量の肉片が、まるでヘドロのように浮いて強烈な腐臭を放っている。
そして横の排水管からは、ドロドロのピンク色の肉汁のようなものが滴り落ちていた。
キャトランは吐き気を堪えて上司に連絡した。その際「詰まっているのは人肉かも知れません…」と報告している。
キャトランはオールコックや他の住民に『これまで自分が経験した通常の詰まりとは明らかに違う』と説明し、翌朝一番に作業員数を増やして対応すると回答した。
ところが、である。翌朝9時15分、キャトランらが下水の蓋を開けてみると、例の不気味な「オートミールのような肉片」はきれいになくなっていたのだ。
どうやら何者かが夜中にこっそり処分したらしい。それでも横の排水口を探ってみると、いくつかの細かい骨と、肉片が残っていた。
キャトランらと大家は、大至急警察に通報。午前11時、ホーンジー警察からピーター・ジェイ警部マホンジー警部補バトラー巡査を引き連れ到着。
警察の鑑識で細かい骨は男性の指の骨、肉片は男性の首の部分であるのが確認された。
フラットの住人の証言によると、夜中に足音が階段を何度も往復しているのを聞いた、という。その足音は最上階の屋根裏部屋にまで続いたというのだ。
「最上階の屋根裏部屋に住んでいるのはどなたです?」「デニス・ニルセンという、37歳になる公務員です」
午後5時40分ごろ。ニルセンは職場から帰宅した。
「はじめまして、ミスター・デニス・ニルセン。私はホーンジー警察署のピーター・ジェイ警部です」ジェイ警部はニルセンを引き止め、下水管を調べている旨を告げた。
「下水管が詰まったぐらいで警察が来るとはおかしいですね。警部の隣のお2人は保健所の方ですか?」
ジェイ警部は2人も警官だと答え、4人はニルセンの部屋の前まで向かった。そして昨日の夜に下水から解体された人間の死体の残骸が発見された事を告げた。
「まさかそんな事が…なんという恐ろしい事でしょう……」ニルセンの態度にピンと来たジェイ警部は落ち着くようになだめながら、しかしキッパリと言った。
「………ミスター・ニルセン。つまらない芝居でとぼけるのは、もうそこまでにしていただけないだろうか。
我々は死体の残りが何処にあるのかを教えていただきたいのです」

この瞬間、ニルセンは「警察は自分のした事にとっくに気づいている」と悟ったのだろう。顔を上げると、表情を変えずに答えた。

「ポリ袋2つに詰めて洋服ダンスにしまってあります。お見せしましょう」

玄関を入ってすぐ隣の部屋に入ると洋服ダンスを指差し、ニルセンはジェイ警部に鍵を手渡した。
部屋には防臭剤を置いてあったがまったく効果はなく、腐敗臭はむせ返りそうになるほどだった。扉を開けることを躊躇った警部は、ニルセンに尋ねた。
「死体の残骸の他に、何かあるのかね?」この言葉を待っていたかのように、ニルセンは答えた。
「はい。しかし長い話になります…。ここではなく、警察内部でお話したいのです」
件のタンス。買い物かご4つにバラバラ死体が入っていた。

同行していたマホンジー警部補とバトラー巡査は規約により身柄を拘束するとニルセンに伝え、彼に手錠をかけた。
署に向かうパトカーの中でジェイ警部は、これからのあなたの発言は全て証拠として採用される旨、黙秘権を行使出来る旨をニルセンに告げた。
連行されるニルセン
パトカーは署に到着し、取調べはジェイ警部とマホンジー警部補がそのまま担当することとなった。まず、マホンジー警部補が質問をした。
「まずこれを確認しておきたい、ミスター・ニルセン。あなたが殺害したのは1人か? それとも2人か?」
ニルセンから返ってきた答えはジェイ警部、マホンジー警部補の予想をはるかに上回るものだった。

「1978年から数えて、15人か16人になります」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あなたは何か? 今まで15人か16人殺した、という事なのか?」ジェイ警部は驚愕し、今度は自分が質問した。
「そういう事です」ニルセンは再び答えた。「今のフラットで3人、以前住んでいたクリックルウッドのメルローズアベニューのフラットに住んでいた時に12、3人です」

過去:死の世界に憧れていた内気で孤独な少年
デニス・アンドリュー・ニルセンは1945年11月23日、スコットランド東部のフレーザーバラという漁村に生まれた。
父親オラフ・マグナス・ニルセンはノルウェーの元兵士で、デニスが3歳の時に母べティと離婚している。
また、母方の親類に精神異常者や自殺者が多いことも指摘されている。閉鎖的なこの漁村では、近親婚が当り前のように行われていたらしい。
(筆者注:この事が彼のその後の連続殺人と因果関係があるかは不明である)
6歳の時、父親代わりだった祖父アンドリュー・ニルセンが他界した。母親はデニスに祖父の遺体を見せ「おじいちゃんに最後の挨拶をしなさい」とだけ告げた。
この時、デニス少年の中で、初めて愛と死が結びついた。大好きな祖父に会うために、自分も死にたいと願う程だった。
元々内向的だったデニスは、ますます孤独になっていった。1人海を見つめながら、ぼんやりと過ごす毎日だった。
しかし、小学校では動物の世話を進んで買って出る、心優しい少年だったという。

若き日のニルセン
デニスは15歳で軍隊に入隊し、調理担当となった。調理用ナイフや肉切り包丁で上手く肉を捌くのを憶えたのは、この頃である。
そしてすでに自分が同性愛者である事を自覚し、自己嫌悪に陥っていた。
デニスは退役近くの年の夏、部下の青年に恋をした。その青年もデニスを兄のように慕い、2人で映画作りに熱中した。
青年を死体に見立てた戦争映画を良く撮影した。
その後、「血の日曜日事件」がきっかけで軍に不信感を抱き、1972年、27歳で軍を退役した。
除隊したデニスは、ロンドン警視庁のヘンドン警察学校に入学。16週間の訓練で適正とみなされ、無事にウエルスデン・グリーン警察に巡査Q287号として配属された。
ところが、軍隊と警察では勝手は違った。軍隊は若者ばかりで強固な連帯意識、仲間意識があったが、警察は年寄りばかりでそれがなかった。
デニスはまたも警察内部で孤独感に襲われ、しかも同僚警官の容疑者に対する手荒な扱いにもなじめなかった。
左翼的思想のデニスには、警官は向かない職業だったのだ。
ただ、警察では新米警官を死体に慣れさせるために死体置き場に連れて行くものだが、解剖途中の死体をみて密かに興奮を覚えたという。
そしてこの頃からデニスは、自らの裸身を鏡に映し、自分の肉体を死体だと空想するという、奇妙な真似を始める。
これらの事は彼が内気な反面極度のナルシストであり、死体愛好者(ネクロフィリア)であった事を示している。
結局わずか1年あまりで警官を辞職して、職業安定所の職員になった。
1975年の中頃からメルローズ・アベニューのフラットでデヴィッド・ギャリハンという若者と同居生活を始めた。デニスは10歳年下のこの若者と暮らすだけで満足していた。
ところが、ふとしたことから口論になり、1977年5月にギャリハンが出て行くと、デニスは圧倒的な孤独感に打ちのめされた。
以後、自分には他人と暮す資格がないと思い込み、孤独感と絶望感に支配されていった。

殺人:寂しいから殺した
スティーブン・シンクレアのバラバラ死体
ニルセンによると、彼が最初の殺人を犯したのは1978年12月31日だという。
クリスマスも寂しく1人で過ごしたニルセンは、せめて大晦日と新年は誰かと一緒に過ごそうと、夜の街に繰り出した。
パブで知り合った18歳のアイルランド人少年(氏名不詳)と意気投合し、一緒に部屋に帰ってきた。
2人とも酔っぱらっておりベッドに入って眠ったのだが、3時間もするとニルセンは目が覚めてしまった。

「少年が目を覚ましたら、この部屋から帰ってしまう」

「もう孤独は、1人ぼっちは嫌だ…」ニルセンは手元にあったネクタイを少年の首に巻きつけ、馬乗りになって思い切り絞めあげた。
目を覚ました少年は必死に抵抗し、2人ともベッドから転がり落ちたがニルセンがなおも絞め続けると、やがて少年はグッタリとし動かなくなった。
しかし手を離したと思った途端、少年は息を吹き返し始めたので、今度はバケツに水をくんできて少年の顔を水の中に突っ込んだ。
少年は手足をバタつかせてもがいたが、1分ほどすると完全に動かなくなった。ニルセンはついに殺人を犯してしまったのだ。

少年の死体を抱えて風呂まで連れて行ったニルセンは、死体の服を脱がせて浴槽に入れ、洗い清めた。
石鹸とシャンプーで綺麗に洗い、タオルで拭き、ベッドに横たえた。
ニルセンはこの後、遺体を切断して処分することを考えた。金物店にいき電動包丁と大きな鍋を買ってきたが、そんな事は出来ないと分かった。

「部屋に戻ってあの素晴らしい肉体を見た時、そんな真似は出来ないと思った」

死体に衣服を着せ、共にテレビを見て、夜になると添い寝し、時には愛の行為さえ試みた。
そう、ニルセンの新しいルームメイトは、死体だったのだ。
どこの世界でも、生と死は明確に区別されている。しかし、ニセルンは人類のタブーを破ったのだった。彼の中に、生と死の境は存在していなかった。
一週間死体との同棲生活を楽しんだニルセンは、部屋の床の板を剥がして、少年をその中に押し込んだ。
ニルセンは、今日にでも警察が自分を捕まえにくるのではないか、と内心心配だったが、そのまま8月になった。
どうやら少年には行方不明になっても、身を案じるような人間は1人もいないのであろう。
さすがに腐臭が凄まじく、床板を剥がして死体を庭に運び出し焼却した。ニルセンは、これでようやく安心した。

それから約1年後の1979年12月3日。ニルセンは2度目の殺人を犯す。
今度の犠牲者はカナダからの旅行者ケネス・オッケンデンだった。1年前の少年と同じように夜の街で出会い、彼の部屋へと連れて来た。
すでに明日でカナダに帰国する事を宣言していたオッケンデンに対し、ニルセンは1年前の少年を殺害した時と同じ心境になっていた。
2人で一緒に酒を飲んだ後、ヘッドホンで音楽を聴いていたオッケンデンを、ヘッドホンのコードを使って絞め殺した。
殺害した後は、またもや服を脱がせ、下着を取り替えたり、いろんなポーズを取らせてカメラで撮影したり、自分の上に乗せたり、一緒にテレビを見たりもした。
死体の隠し場所はまたもや床の下だった。2週間に渡り、何度も床下から死体を引っ張り出しては、一緒に生活を楽しんだ。
3人目も、同じく夜の繁華街で誘って、部屋に連れこんで正気を失うほど酒を飲み、頃合を見計らって首を絞めたがそれだけでは死ななかったので、
台所に連れていって水の中に顔を突っ込んだ。
後は同じように服を脱がし、死体に口付けし、抱きしめ、一緒にシャワーを浴びたりした。
しばらくしたら死体が膨れてきたので、またも床板をはがし、先に殺していたのオッケンデンの横に押し込んだ。
その後ニルセンは、台所で2人の死体の解体作業を始めた。バラバラに切断し、それを2個のスーツケースに入れて庭の物置小屋に隠した。
死体の強烈な腐臭が漏れるのを防ぐために、夏の間はひっきりなしに消毒液を吹きかけた。

前居住の庭の捜査。「少なくとも8人の遺体がある」と確認された。
この後もニルセンは殺人を続け、犠牲者も6人まで増えていった。死体の取りあえずの置き場所は床の下である。だが、だんだんここもいっぱいになってきた。
死体は腐敗がどんどん進み、床の下ではハエが大量に発生し、ウジ虫もはいずりまわっている。物置のスーツケースの中からはドロリとした液体がしたたり落ちている。
さすがにそろそろ焼却処分せざるを得ない。

「死体を丸ごと燃やしても見つかって通報される恐れがある。
バラバラにした方が燃えやすいだろうし、見つからないだろう」


かくしてニルセンは、腐乱した死体をバラバラに解体するという、世にも恐ろしい作業を開始した。
ラム酒を2杯飲んで気を大きくしてから床板をはがした。もう何度も床板をはがしていたので釘穴がゆるくなり簡単にはがせたという。
一番近くにあった死体の足を掴み、引っ張りあげた。まずは頭を切断し、手、足、と切り取っていく。腹を切り裂いて内臓を取り出す。
それぞれ適当な分量に分けてカーペットの切れ端に包んだ。
次の死体にはウジ虫が湧いていたので、まずは塩を振りかけて金ブラシでこすり落とした。そして最初と同じように次々と切断していく。
いかに死体慣れしたニルセンといえどこの作業は流石に苦痛だったようで、作業中には何度も吐き気を催し、ラム酒を大量に飲みながら作業を続けたという。
結局4体の死体全てを解体し終えて、更に浴びるようにラム酒とウイスキーを飲んだ。
目が覚めてからまだ朝日の昇らないうちに、裏庭で焼却作業を開始した。ポプラの丸太を積み重ねて、キャンプファイヤーの要領で火をつける。
火の勢いが増してきたところで、カーペットやカーテンの切れ端に包んだバラバラ死体を徐々に焚き火に放り込んでいった。
先ほどの4人分の死体と、最初のころに解体してスーツケースに詰めておいた2人分の、合計6人分の死体である。
死体を焼く臭いを誤魔化すために古タイヤも投げ込んだ。朝から夕方までかかって、何とか焼却を終えることが出来た。
燃やしている最中、近所の子供たちが面白がって寄ってきて焚き火を囲んで歌まで歌い始めた。ニルセンは内心ヒヤヒヤしたが、バレることはなかった。
燃やし終わると頭蓋骨が丸のまま残っており、ニルセンは慌てて火掻き棒で砕いた。
内蔵の方はフラットと隣の家の塀の間にブチまけたところ、2、3日でなくなった。虫、野良猫、鳥などの「夜の住民達」がキレイに食い尽くしてくれたようだ。

転落:死体を友とした男
ニルセンは、これで殺人から足を洗い、まっとうに生きる気でいた。だが、そう思い殺人を止めたのはつかの間だった。
もはや殺人は常習となり、純粋に「生きる上での目的」となっていた。
気がつくと部屋の床下に、8人、9人とまた死体が増えている。そしてニルセンの解体の腕も上がってきた。
それに伴い、床下もいっぱいになり、12人目を殺害した時にはとうとう床に入りきらなくなり、解体した部分を台所の戸棚にしまい込んだ。
ある日、ニルセンは引越しをすることになった。
ニルセンは大家にとって、家賃を値上げしようとする度に抗議してくるうるさい賃借人であって、大家は以前からニルセンを追い出したがっていたのだ。
もちろん大家にしても自分のフラットで、ニルセンがこれだけの大量殺人を行っていたとは、もちろん知る訳がない。
不動産屋を通じて「1000ポンドを引越しの手数料として払うから、よそへ引っ越さないか」ともちかけると、ニルセンは快く応じた。
もちろん、引越し前に床下に隠した死体を焼却することは忘れなかった。

1981年9月、かくしてニルセンはマスウェル・ヒルのクランリー・ガーデン23番地のフラットの最上階の屋根裏部屋に引っ越してきた。
屋根裏部屋といっても1フロア全てが使われており、居間、衣服部屋、寝室、台所、トイレ&バスは全て独立して、男1人で住むには十分すぎる広さだった。
新しいフラットは、死体を燃やせる庭もなければ、床板をはがして死体を収納することもできなかった。
ニルセンは、今度こそ殺人と手を切り、ここで新しくやり直す決意をした。
実際にニルセンは親切心で若者たちを自分の家に泊め、翌日無事に送り出している。「あの時は間違いを起こさなくて本当に嬉しかった」と語っている。

しかし─────またも孤独に耐えられずルームメイトが欲しくなったニルセンは、ここに引っ越して半年もしないうちに再び殺人に手を染めた。
ジョン・ホーレットという少年が13人目の犠牲者となった。彼は以前もゲイバーでニルセンに認識があり、ニルセンも「近衛兵のジョン」と記憶していた。
パブで再びニルセンと知り合い、彼のフラットについてきたために命を落とす羽目になったのだ。
首を絞めても何度も息を吹き返し、ニルセンも激しい抵抗にあったという。最後は風呂の中に顔を突っ込んで溺死させた。
14人目の犠牲者、グレアム・アレンはニルセンが作ったオムレツを食べている時に殺された事から、ニルセンは「オムレツ・マン」と記憶していた。
犯行時のことはまるで憶えていないが、殺したのは間違いなく自分だと認めている。
ニルセンはアレンの死体を一旦バスルームに置いておき、その後細かく切断してトイレに少しづつ流していくという、非常に根気のいる作業を始めた。
冒頭に書いた、下水を詰まらせた大量の肉や骨の残骸は、このアレンのものである。
頭部は大きな鍋で頭蓋骨だけになるまで煮込んだ。

ニルセンが書いたシンクレアの下半身のスケッチ
そして15人目の犠牲者がスティーブン・シンクレアだった。
シンクレアはニルセンの部屋で酒とドラッグを一緒に摂取し、気を失っているところをネクタイで殺害されたのだ。

「私は殺害後、彼にこう語りかけました。
『スティーブン、全然苦しくなかったろう? もう嫌な事なんて何もないからね』
私は彼の脱色したブロンドの髪をなでました。彼の死に顔はとても穏やかでした」


警察がニルセンの部屋の衣装部屋から、解体されたシンクレアの遺体を発見するのは、それから一週間後のことだった。

裁判:正常と異常の狭間で
ニルセンの犯行が4年以上もバレなかった理由には、犠牲者の大部分が宿も身分証明もないホームレスだった点にある。
彼らはある日ひょっこりと現れ、ひょっこりと消えていく。いなくなっても誰も気にかけない。大部分がニックネームで呼び合って、本名は本人しか知らない。
そのような事もあり15人中9人は身元を確認する事が出来ず、ニルセンは立証可能な6件の殺人と2件の殺人未遂で起訴される事となった。

裁判中のニルセンのスケッチ
1983年10月24日、クルーム・ジョンソン判事を裁判長として、ニルセンの裁判は開始された。
ニルセンは連続殺人について警察で全面的に協力姿勢で自供しており、裁判では責任能力の有無が焦点となった。
弁護側の用意した精神科医の主張は検察側が用意した精神科医に論破されてしまった。
しかし、検察側の精神科医も、弁護側の精神科医の指摘に反論をする事が出来なかった。
ピーター・ジェイ警部も証人として「彼は穏やかな態度で、調書作成には全面的に協力してくれた」と証言した。
また、彼が親切心から部屋に泊めた若者達が弁護側証人となり、陪審団をさらに悩ませる事となった。
(もっとも、検察側が証拠として提出した鍋や凶器のネクタイなどは、陪審団を恐怖させることとなったが)

裁判を終え陪審団が評決に入る際、ジョンソン判事は

「私の見る限り被告は精神異常などではない、邪悪な魂を持った人間だと思う」

とかなり偏った「助言」を行っている。
にも関わらず、陪審団の意見は一致せず、ジョンソン判事は多数決評決を宣言した。
結局ニルセンは6件の殺人と2件の殺人未遂全て有罪となり、最低収容期間25年の終身刑判決が言い渡された。
(筆者注:このジョンソン判事の『助言』については『陪審員に先入観を持たせようとする個人感情が丸出しのあんな助言が許されるのか』と、
のちに相当な批判を受けたそうである。こういうところは、イギリスはアメリカとは違う、と思ってしまう)

英国では刑務所に入る前に、10分間だけ希望する人間との談話が許されているが、ニルセンは逮捕時から自分を取材にきて非常に親しい間柄になった、
犯罪ジャーナリストのブライアン・マスターズを面会人に選んだ。
(筆者注:マスターズがニルセンへのインタビューなどを元に執筆した、この事件を題材にした著書『KILLING FOR COMPANY』(寂しいから殺した)は、
世界中でベストセラーとなった。日本では『死体と暮すひとりの部屋』というタイトルで販売されている)
マスターズ著『KILLING FOR COMPANY』
ニルセンはマスターズに、以下のような事をカミングアウトしている。
「ブライアン、あなたにだけは本当の事を言おう。本当は私は人殺しをするのが楽しかったんだ。
もし65歳まで捕まらなければ、100人くらい殺していたかもしれない

「いや、それはインタビューをしてて薄々気がついてたよ。問題はなぜ、キミが人殺しに幸せを見出せたか、ということさ」

するとニルセンはこう答えたという。

「それを解き明かすのが犯罪ジャーナリストであるあなたの仕事だろう」

そこで面会時間がタイムアップとなり、ニルセンはワームウッド・スクラブズ刑務所に入った。

2003年、ニルセンは獄中で書き上げた手記を自伝として出版しようとして差し止められ、この件が「事件について反省していない」とみなされ、
2006年、当時の内務大臣が「デニス・ニルセンの量刑を仮釈放権無しの終身刑に変更する」との決定を下した。
余談だが2005年某新聞が「デニス・ニルセンが仮釈放権を申請した場合、認めるべきか?」というアンケートを行ったが、アンケート回答者の80%以上が
「認めるべきではない」と回答したという。
かくして2008年11月に発生するはずだった仮釈放の権利は消滅した。もっとも当のニルセン本人は、どっちにしろ申請する意思はなかったようである。
(筆者注:ニルセンは自伝について『売り上げは犯罪被害にあった人を支援する団体に全額寄付するつもりだったのに』と憤慨してるという)

彼は獄中で書いた手記に、あの狂気の連続殺人についてこう記している。

「出来ればやめたかった。でもやめられなかった。他に何の喜びも幸せもなかったのだ」

参考文献
週刊マーダーケース・ブック No.24 英国史上最悪 孤独な連続殺人鬼 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
連続殺人者 (タイムライフ)
死体と暮すひとりの部屋 (草思社)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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