世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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67人もの命を奪ったフリーウェイ・キラー 人間狩猟ドライブ旅行

本名ランドルフ・スティーブン・クラフト 通称ランディ・クラフト

「彼がフリーウェイ・キラーだったのは他の人には晴天の霹靂だったかも知れません。けど、私はそれほど驚きませんでした」
(クラフトが同性愛者でSM趣味を持っているのを知っていた学生時代の友人スティーブン・マンリー)

1970年代、コンピューター産業の目覚しい発展。
プログラマーだったランディ・クラフトは、エグゼクティブ・チーフという役職にまで出世し、年収5万ドル以上(当時のレートで1800万円以上)もの高給を得ていた。
中古車とはいえ毎年のように車を買い替え、やはり中古とはいえ庭付きの一戸建てを現金一括で購入したりと、まったく生活に困る事はなかった。
しかし、クラフトはそんな自分の地位・収入を決して鼻に掛けたりせず、部下思い、仲間思い、友人思いで知られ、物静かで礼儀正しくウソを付かない誠実な男と評判で、
(クラフトがゲイである事は知っていたが)職場の同僚も、そしてゲイ仲間も「ランディは典型的なアメリカン・ボーイだ」と認めていた。
フリーウェイ・キラーことランディ・クラフト
だが、典型的なアメリカン・ボーイの正体は、米国犯罪史上でも最悪級の同性愛連続殺人鬼「フリーウェイ・キラー」だった。

発覚:助手席に死体を乗せてドライブする男
「13日の金曜日」から日付が変わった1983年5月14日土曜日、午前1時。
サンディエゴ・フリーウェイの通称で知られるインターステート・ハイウェイ5号線をパトロールに当っていたマイケル・ハワード巡査と相棒のマイケル・スターリング巡査は、
蛇行運転している茶色い79年型トヨタ・セリカを見つけ「やれやれ、またか」とため息をついた。
本日2人目の飲酒運転者を捕まえるべく、パトカーの赤色灯のスイッチをいれ、件のセリカを追跡。セリカは70kmから50kmくらいに減速したが、停止する気配はない。
スターリング巡査がヘッドライトを点滅させ、サーチライトでセリカを照らすと、運転手は後部席からジャケットを掴み、助手席に放り投げるのが見えた。
堪忍袋の緒が切れたスターリング巡査が拡声器で停止を命じると、セリカはようやく停止した。
セリカから降りてキビキビと近づいてきた薄茶色の髪でヒゲを生やした眼光鋭き男を見て、2人の巡査はピンと来た。
普通こういう場合停止を命じられたドライバーは見つかるとマズイものでも車内にない限り、まず自分から降りたりはしない。
きっと飲みかけのビールか何か車内にあるのだろう。案の定、男は車から降りる時、半分中身の入ったビール瓶を路上に捨てていた。
もっともこの時路上で割れたビールの瓶など、あとから出てくる凄まじい『重要な証拠物件の数々』に比べたら、まったく大したものではない事を、
両巡査はのちに思い知る事になるのだが。
男はランドルフ・スティーブン・クラフトと名乗った。38歳で、コンピューターのプログラマーだという。
クラフトはビールを3、4本飲んだのは認めたが、自分は酔っていない、シラフだ、と言い張った。
それならばとスターリング巡査はクラフトにフィールド・ソプライアティ・テスト(縁石を真っ直ぐ歩けるかのテスト)を命じた。
クラフトは真っ直ぐ歩く事が出来ず、スターリング巡査は規約通りにクラフトに手錠をかけた。
そしてクラフトに身柄を拘束した事を告げている間に、セリカの助手席に同乗者がいるに気づいたハワード巡査は、何度も窓ガラスをコンコンと叩いた。
(アメリカの警察はレッカー車を呼ぶ経費と時間を節約するため、同乗者が酒に酔っていなくて車の免許がある場合同乗者に運転させて帰すのが大部分である)
まるで反応がなく、イライラしたハワード巡査は大声で怒鳴り、窓ガラスを強く叩いたが、それでも反応はない。
助手席でぐったりしている若者は膝にジャケットをかけ、眠っているようだった。
クラフトに同乗者の名を聞いても、途中で拾ったヒッチハイカーなので知らないという。助手席のドアはロックされていたため、ハワード巡査は運転席側から車内を見渡した。
床には何かの錠剤の瓶が2本、ビールの空き瓶が数本落ちていた。運転席には刃渡り13cmくらいの、折り畳み式の狩猟用ナイフが置いてあった。
逮捕時のセリカの内部
おそらく助手席の男は寝ているのではなく、薬とビールのチャンポンで酔いつぶれているのだろう。
ハワード巡査はうんざりして「ちょっとキミ…」と若者の腕を掴んだが、その瞬間思わず後ずさった。腕はダラリとして冷たく、体温がまるで感じられない。
「この若者は生きているとは思えない」ハワード巡査は薬瓶とナイフを車のルーフに置き、運転席側から手を伸ばして助手席のロックを解除した。
若者の脈をとり、瞳孔を確認した。間違いない、この若者は死んでいる。
膝のジャケットを取り除くと、ジーンズのチャックは下ろされて、性器が完全に露出していた。死んだ時に尿が漏れたらしく膝は濡れ、両手首は靴紐で縛られていた。
首には若者自身のベルトで絞めた跡が鮮明に残っていた。
その若者はテリー・リー・ギャンブレルという25歳の海兵隊員だったが、サドルバック・コミュニティ病院に搬送され、当直医が生命徴候を検査。
5分もしない内にギャンブレルの死亡が宣告された。
逮捕直後に保安事務所が発表したクラフトの顔写真
午前3時45分、ジム・サイドボトム捜査官の自宅の電話が鳴った。
サイドボトム捜査官がオレンジ郡保安官事務所に勤務してから25年、殺人事件で真夜中の電話で起こされるなど日常茶飯事だった。
電話の主は「身長178cm、体重73kgくらいの同性愛者と思われる不審な男の身柄を拘束しています」と告げた。
さらに「男は車の助手席に若い海兵隊員の死体を乗せていました」との言葉に、サイドボトム捜査官の眠気は完全に吹き飛んだ。
捜査官はついに、長年探し続けていたフリーウェイ・キラーが『御用』になったと確信した。

過去:アメリカン・ボーイの仮面
ランディ・クラフトことランドルフ・スティーブン・クラフトは1945年3月19日、カリフォルニア州のロングビーチで生まれた。
幼少時代はおとなしい子供で、3人の姉に可愛がられて育てられた。
ランディは1960年にウエストミンスター高校に入学。
明るく活発で話術も巧みな人気者、勉強もテニスも優秀な文武両道少年で、秀才の誉れも高かった。1963年に390人中10位という素晴らしい成績で高校を卒業する。
高校卒業後、クレアモント男子大学(現クレアモント・マッケナ・カレッジ=CMC)に入学。ROTC(部隊を訓練している予備役将校)に加わっている。
ランディは大学でも相変わらず典型的アメリカン・ボーイを演じ、経済学で学士号も得るが、高校時代から隠していた同性愛嗜好を押さえきれなくなり、
この頃からオレンジ郡にある同性愛者の溜まり場として知られる「ザ・マグ」という店でバーテンのアルバイトを始める。
キャンパスには「ランディはゲイだ」「ゲイのSMパーティーに出入りしている」という噂が流れ始め、1967年、ついにランディは自分が同性愛者である事を公表した。
1968年、ランディは米空軍に入隊し、カーン郡のエドワーズ空軍基地に配属された。知能テストでIQ129を持つことが判明し「非常にインテリジェンス」と評価されている。
だが1年後、ランディは「医学的理由」で空軍を退役した。
空軍時代のクラフト
軍隊から戻ったランディはバーテン業を再開しながら、カリフォルニア州立ロング・ビーチ大学の社会人育成コースで、夜間聴講生としてコンピューター・プログラムを学び、
やがて高収入の仕事を手にいれる事になる。
1975年には見習いパン職人のジェフ・シーリグと知り合い、2人は1976年初めには同棲を始めていた。

そしてランディが空軍を退役してプログラムを学び始めた1970年代初頭から、カリフォルニア州のフリーウェイ(高速道路)の脇から、
若い男性の絞殺死体が次々に発見されるようになった。
死体はいずれも狂人の所業かと思うようなむごたらしい拷問の痕があり、正体不明の殺人鬼を付近の住民はフリーウェイ・キラーと呼んで恐怖した。
1977年7月、パトリック・カーニーという男が自首をする。
パトリック・カーニー
カーニーは同性愛者を射殺し、死体をバラバラにして黒いゴミ袋に詰めフリーウェイの脇に捨てたのは認めたが、

「自分の殺害方法はいつもピストルでの射殺だ。サディストではないから、被害者を拷問した事はない」

と絞殺死体、拷問されている死体に関しては自分は無関係だ、と主張した。
カーニーは司法取引に応じ終身刑となった。最終的に73年から77年の自首までに32人の命を奪ったのをカミングアウトしている。
1980年6月、ウィリアム・ボーニンという男が逮捕され、自身がフリーウェイ・キラーである事を認めた。
ウィリアム・ボーニン
最終的に41件の殺害を自供し、10件の第一級殺人で死刑判決を受けた。
しかし、カーニー、ボーニン逮捕後も、フリーウェイの脇や砂漠の茂み、荒地から発見される若い男性の変死体が、後を絶たなかった。

捜査:史上最悪の連続殺人鬼
サイドボトム捜査官は、ただちに行動を開始した。
まずはランディ・クラフトの自宅と車を捜査するための令状を取るため、州最高裁判所判事のリチャード・ビーコムを叩き起こした。
令状無しでも捜査は出来たが、違法な手段で証拠を集めたら裁判ではその点を必ず弁護側に突かれる。捜査官としては、その手の失策は極力避けたかった。
(筆者注:クラフトは1970年3月、当時13歳のジョゼフ・ファンチャーを自宅に監禁し、アルコールと薬で意識朦朧にしてから何度も強姦している。
隙を見てファンチャーは逃げ出しクラフトは警察に逮捕されたが、捜査令状がないまま家宅捜査したため『違法な証拠』として、結局クラフトはこの件では無罪となっている。
ファンチャーはのちにクラフトの裁判で検察側の重要証人として証言することになった)
サイドボトム捜査官とビーコム判事は「殺人事件のエキスパート」の異名をとるブライアン・ブラウン副地区検事を交えて、朝イチで捜査会議を開いた。
すぐに捜査令状が発行され、午後からジェイムス・ホワイト鑑識官と数人の係官が、クラフトのトヨタ・セリカの車内の調査を開始した。
運転席の後ろからは、ギャンブレルの皮のベルトが発見された。このベルトの幅は、ギャンブレルの首に残っていた絞殺痕と一致した。
後部座席のクーラーボックスには、開栓していないビールが数本入っていた。前夜ハワード巡査が車内で発見した空のビール瓶の他に、薬瓶が何本か見つかった。
精神安定剤のバリウム、抗うつ剤のプラプロノロール、狭心症や偏頭痛の治療に使うインデラルという鎮静剤など、合計9種類の処方箋だった。
さらに何度も読み返したらしい、ヨレヨレになったペーパー・ブックも見つかった。
タイトルは『処方薬の必須知識:安全に薬を使用する為に』で、クラフトが薬とアルコールを一度に摂取した際の副作用について、知識を得ていたのは明らかだ。
ホワイト鑑識官が運転席側のフロアマットを上げてみると、若い男性の写真が47枚入った封筒が出てきた。着衣の写真もあれば、裸の写真もある。
例外なく意識が朦朧としているような表情で、中には死んでいるとしか思えない写真もあった。多くが髪を軍隊式の短かい刈り込みにしていた。
さらにショッキングな事に、助手席に血液が染み込んでいる事が分かった。ギャンブレルの死体には外傷はなかったので、この血は彼のものではない。
車のトランクを開ける頃には、捜査員達も鑑識官達も猛烈に嫌な予感に襲われていた。
トランクから発見されたブリーフケースの中身を見て、全員悪い予感が的中した事を思い知らされる。
ブリーフケースから出てきた木目柄の表紙のリングバインダーには意味不明な単語が表記してあったが、サイドボトム捜査官をはじめ捜査員達はピンと来た。
どうやら犯行の状況を思い出すための暗号のようだ。
2 IN 1 HITCH2 IN 1 BEACH という記載は、「一度に2人を殺した」という意味らしい。
単語は全部で61あり、この2 IN 1という表現は4つあり、このスコアが本当に殺人を意味するとすれば犠牲者は65名、さらにギャンブレルと、
つい最近フリーウェイ・キラーの犠牲になったと思われるエリック・ハーバード・チャーチの2名を合わせると合計67名にも及び、
クラフトは近年最悪の連続殺人鬼という事になる。
(3番目の EDM とは20歳の海兵隊員エド・ダニエル・ムーアの事のようで、ムーアはクラフトが起訴された16件の殺人の最初の犠牲者とされた)
クラフトの殺人スコア
午後5時すぎ、サイドボトム捜査官は厳しい表情で、捜査令状を片手にクラフトの自宅に向かった。しかし彼の飼い犬のマックスが吠えるだけで、ノックをしても誰も出てこない。
警察はKEEPOUTと印刷された目隠しの幕を家の外側に張り出し、証拠の押収にあたった。やがて、未解決殺人事件とクラフトを結びつける有力な証拠が次々と見つかった。
クラフトは殺人のスコアと被害者の写真の他に、被害者の遺留品を『記念』として持っていた。
バスルームからは、つい最近遺体で見つかったエリック・チャーチの電気ヒゲ剃り機と、同じくクラフトの犠牲者と見られるマイケル・ショーン・オファロンのカメラが、
この他にもランス・タッグスのショルダー・バッグとゴムぞうり、グレッグ・ジョリーのスケッチ・ブックなど次々と発見された。
夜遅く、クラフトと同棲している愛人のジェフ・シーリグが家に戻った頃には、家中がごった返し状態だった。
続々と見つかる未解決殺人事件の被害者の遺留品に、捜査員の1人がつぶやいた。

「我々はテッド・バンディジョン・ゲイシーをも凌ぐ、史上最悪の連続殺人鬼を逮捕したのかも知れない」
(筆者注:実際クラフトは殺害数ばかりでなく、残虐性、異常性においてもバンディ、ゲイシーのさらに上を行っていると思う)

写真に写っていた花柄の長椅子、そして壁の一部も、証拠として押収された。その後の調べで壁には血痕が染み込んでいるのが分かった。
日付が変わって日曜となった15日の午前2時15分。
未解決殺人事件の被害者達の大量の遺留品を含む証拠品を引越し用トラックに満載して、捜査陣はクラフトの自宅を後にした。

クラフトの愛人のジェフ・シーリグも、ただちに身柄を拘束された。
最初は捜査陣もシーリグも共犯でないかと疑っていたが(後述の理由による)、調査を進める内にシーリグはクラフトの「裏の顔」に気づかず、
何年も一緒に同棲していたようである。
シーリグは取調べに対し「ランディにはSM趣味があったが、自分の知る限りそれ以外の悪癖はなかった」と語った。
シーリグやゲイ仲間、さらにクラフトの会社の同僚への事情聴取と並行して、クラフトの自宅はすでに3度家宅捜査が行われていた。
翌週木曜にはオレゴン州、ミシガン州、ワシントン州の殺人課の捜査官達が、自分の州の未解決殺人事件の捜査に協力するため、次々にカリフォルニア入りした。
おびただしい証拠物件にはチェーン、ベルト、靴ヒモも何本もあった。
ガレージには着古したシャツが山のように積まれていたが、その内の一着はフリーウェイ・キラーにレイプされてから体中をナイフで切り刻まれて殺害された、
クリス・シェーンボーンという若者のシャツである事が分かった。
同様にフリーウェイ・キラーの犠牲者と見られる海兵隊員エド・ダニエル・ムーアのハーモニカも、クラフトの自宅から発見された。
クラフトが持っていた犠牲者の不気味な“記念写真”

殺戮:人間狩猟ドライブ旅行
1971年10月5日、警察はオルテガ・ハイウェイの脇の峡谷の底で、30歳の同性愛者でバーテンダーのウェイン・デュケッティの、バラバラ死体を発見している。
死後2週間以上経過しており死因は急性アルコール中毒で、デュケッティの衣類と所有物はまったく見つからなかった。
クラフトの殺人リストの最初の STABLE という単語は馬小屋、厩舎の意味で、デュケッティはサンセットビーチの厩舎の中のバーで働いていた事から、
デュケッティ殺害の事を指していると思われる。
(さらに当時クラフトは、デュケッティが勤めていた店の隣のゲイバーでバーテンをしており、デュケッティの店の常連客でもあった)
警察もデュケッティがクラフトの最初の犠牲者ではないか、と考えているようだ。
1975年5月8日、ロングビーチ・マリーナでロッククライミングをしていた3人の少年が、岩の割れ目に「奇妙な物体」を発見した。
まだ肉のついた人間の頭蓋骨と分かり、少年らは肝を潰した。
歯科カルテから、数週間前から行方不明になっていた19歳のキース・クロットウェルという若者のものと判明した。
クロットウェルの首から下は左腕が切断された状態で10月8日に発見された。もっとも警察がそれをクロットウェルの胴体と分かるのは1983年のクラフトの逮捕後であるが。
1975年3月29日の未明、クロットウェルはビリアードの帰りに海岸近くの駐車場で、彼女に振られて落ち込んでいた弟分のケント・メイと偶然会った。
すると2人は駐車場にいた「デニムのジャケットを着て水平帽をかぶった男」から
「何か落ち込むような事でもあったのかい、兄ちゃん? 車のクーラーボックスにビールが入っているから一緒に飲まないか?」と誘われ、
数分もせずに白黒のツートンカラーのフォード・マスタングに乗り込んだという。
メイによると、車が走り出してから2人でビールを数本空けると、例のデニムのジャケットに水平帽の男から錠剤やカプセルを手渡され、言われるままに自分は7錠、
クロットウェルは10錠ほど飲み干した、という。
その後は記憶がまったくなく、メイは気が付いたら自宅のベッドで寝ていた、というのだ。
メイの証言と目撃情報から、クラフトは何度も事情聴取を受けるが「その若者を車に乗せたのは確かだが、スーパーの前で降ろしてその後は知らない」と言い張った。
警察は重要参考人としてクラフトを逮捕するつもりだったが、検察が証拠不十分から逮捕状を発行せず、結局逮捕は見送られた。
この件がクラフトを用心深くしたらしく、また、ジェフ・シーリグと所帯をもって落ち着いたのか、クラフトは約1年間殺人のペースを緩めている。

フリーウェイ・キラーの犠牲者
冒頭に書いた通りクラフトは、1979年にはエグゼクティブ・チーフという役職にまで出世し、また「フリーランスのコンサルタント」という肩書きも持ち、
ニューヨーク、オレゴン、ミシガンなどのコンピューター会社に「技術協力のため」出張することも多く、ちょっとしたプロ・スポーツ選手並みの収入を得るようになる。
金銭的余裕が出来たクラフトは、趣味の「週末のドライブ旅行」にも出かけられるようになった。
生涯を誓い合ったシーリグとはその内喧嘩が絶えなくなり、シーリグは週末は実家に帰る事が多くなり、欲求不満を持て余すようになる。
クラフトもゲイ仲間に「週末1人残った俺はドライブ旅行に出かけて、ナンパした若者を家に連れ帰ってホモセックスを楽しむのさ」などと嘯いてた。
しかし、そのささやかなドライブ旅行こそ、まさに人間狩猟ドライブ旅行と言ってもいいものだったのである。
また、クラフトは前述の通りニューヨーク、オレゴン、ミシガンなどのコンピューター会社にドライブ旅行がてら出張したが、彼の行動範囲には海兵隊基地がいくつかあり、
クラフトの「獲物」の大部分は若い、マッチョな海兵隊員だった。
彼らの大部分も週末は実家に戻ることが多く、その手段にはもっぱらヒッチハイクを利用するのが大半である。
不幸にもフリーウェイ・キラーが運転する車に同乗した隊員たちは、例外なく無残な死を遂げた。
クラフトは車にビールを入れたクーラーボックスを置いてあり、ヒッチハイクで拾った若者にはいつも

「ずっと立ちっ放しで喉が渇いただろ。後ろのクーラーボックスにビールが入ってるから、好きなだけ飲んでいいぜ?」

とビールを勧めるのが手口だった。
若者は「車に乗せてくれるだけじゃなくビールまでご馳走してくれるなんて気前のいい人だ」と感激し、ついつい2本3本とビール瓶を空にしていく。
若者がすっかり出来上がったところで、今度は薬を飲むように勧めるのである。
酔いが回りいい気分になった若者は「お、今度は麻薬か幻覚剤か何かかい?」と言われるままに錠剤、カプセル薬を飲み干す。
そして副作用が出て意識朦朧としたところで若者の靴のヒモを奪い両手首を縛り上げ、レイプし、拷問し、そして最後に絞殺するのである。
拷問の方法も両目、両乳首をシガレット・ライターで焼く、眼球を抜き取る、狩猟用ナイフで体中を切り刻む、針金で耳の中をメッタ突きにするなど身の毛もよだつようなもので、
中には気官に土が押し込まれていた遺体もあったという。
また多くの被害者の性器は噛み千切られるか、切り落とされていた。いずれも被害者がまだ生きている内に行われたものであるのを、付け加えておく。

裁判:一切を黙秘
米国犯罪史上最悪の連続殺人鬼の公選弁護人というありがたくない役目を負う事になったのは、オレンジ郡で検事を務めた事もあるタグ・オットー弁護士だった。
オットー弁護士はこの裁判が予審から長期戦になるのを予想していた。検察が67件の殺人容疑の一括審理に出ることはありえないからである。
一括審理では無罪になる恐れがあり、必ず有罪に出来る確率の高い件から小出ししていくはずだ、と。
クラフトは裁判に備えて髪を整えヒゲも剃り落とし、自分が主人公の法廷ドラマを楽しんでいるような感じだった。
予審での検察側の証人喚問中には、薄ら笑いすら浮かべる事もあった。
しかし、クラフトは自分の事がメディアの一大イベントになっている事を、内心は非常に辛く思っていた。
恋人だったジェフ・シーリグは8年間連れ添った相手が怪物さながらの殺人鬼だった事にショックを受け、すでにクラフトの元を去っていた。
逮捕直後は元気付けようと面会に訪れた友人・ゲイ仲間も、次第に来なくなった。
フリーウェイ・キラーの67件の殺人の内、22人は身元が判明しておらず、証拠不十分で無罪にしてしまうような失態を避けたい検察は、身元が判明している45人の中から、
まず確実に有罪に持ち込める可能性のある16件の殺人容疑について、クラフトを起訴する事にした。
クラフトが留置されてから5年後の1988年9月26日、ようやく公判が始まった。クラフトと弁護側は、検察側が上げた証拠は全て状況証拠に過ぎないと無罪を主張した。
公判中の不安げなクラフト
そしてクラフトは、アメリカ合衆国憲法修正第5条「自己に不利益となる供述を強要されない権利・他4つ」を盾に、一切の証言を拒否した。
1989年8月3日、陪審員は死刑を勧告、11月29日、裁判長のドナルド・A・マッカーティン判事も死刑判決を言い渡した。
判決を言い渡す際マッカーティン判事は「被告は合衆国始まって以来5本の指に入る凶悪連続殺人犯だ」とクラフトを評した。
判決の瞬間、フリーウェイ・キラーは苦々しい表情を浮かべた。

死刑囚達が収監されるカリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所で、クラフトは他の3人の死刑囚と、朝のトランプゲーム(ブリッジ)を楽しんでいた。
5件の強姦殺人を犯し、被害者の首に針金を巻きつけプライヤーで締めて絞殺していた事から「ザ・プライヤー」の異名をとったローレンス・ビッテイカー(のち紹介予定)、
「サンセット通りの殺人鬼」ことダグ・クラーク、「もう1人のフリーウェイ・キラー」ウィリアム・ボーニンである。
他の3人の被害者数の合計を上回る命を1人で葬ったクラフトは、ブリッジでも圧倒的な強さを誇ったという。
2度の再審請求も棄却され、2000年8月11日、クラフトは死刑が確定。
2007年6月時点でのクラフト

尚、警察が当初ジェフ・シーリグを共犯者として疑った理由として

・いくつかの死体の周りにあった足跡が、クラフトと被害者以外のものもあった
・被害者の海兵隊員の何人かは200ポンド(90kg)前後の体重の者もおり、誰にも見つからずクラフト1人で死体を遺棄するのは困難ではないか?
・クラフトの家には暗室もないし、彼自身も写真の現像知識はない。
よってあの47枚の不気味な『記念写真』はクラフトではなく別の人間が現像したという事になるが、もし写真屋なら不審に思って警察に届けるのではないか?
・1988年からDNA鑑定が導入されたが、死体に残っていた精液からクラフト以外のDNAも検出された

以上の点であり、何件かはクラフトの単独犯ではなく『写真現像の技術がある共犯者がいたのでは?』という説が、かなり有力になってきているようだ。
検察側もクラフトを有罪にするのが最優先だったため「共犯者がいた可能性のある殺人の起訴は見送った」と認めている。
(1986年7月にエイズで死亡したため起訴される事はなかったが、かつてクラフトが2年間同棲した事があるジェフ・グレイヴスも共犯の疑いが持たれている)

2012年3月20日、1974年にロングビーチで発見された身元不明死体155号が海兵隊員オーレル・アルフレッド・スチュアート・ジュニアと判明。
当時18歳だったスチュアート・ジュニアはペンドルトンでのキャンプからデューティに戻る途中に行方不明となり、以後海兵隊は37年間脱走兵としていた。
海兵隊は脱走兵扱いを取り消し「ミスター・スチュアート・ジュニアを名誉除隊とし、彼の葬儀を執り行う」と発表した。
兄のカール・スチュアートは「弟はランディ・クラフトの餌食になったのではないか」と指摘し、警察もこの意見には同調している。
しかし、クラフトは未だに「司法のミスによって無実の人間が死刑になろうとしている」「メディアは何一つ真実を報道していない」という主張を続けている。
そして、この記事を書いている時点で─────フリーウェイ・キラーの死刑が執行されたという話は、まだ聞かない。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.61 地獄のフリーウェイ・キラー 人間狩りドライブ (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
殺人博物館
LosAngeles Times 『ランディ・クラフトのスコアカード?』 

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テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

33人の少年を殺害した「死の道化師」

本名ジョン・ウェイン・ゲイシー 通称ジョン・ゲイシー

「砂金堀りをしてるみたいだったよ。土を掘ってはふるいにかけ、何かが出るのを待つ作業さ。出てくるのは人骨なんだけどね」
(ゲイシーの家の床から死体発掘作業にあたった捜査員)

政治活動にも積極的に参加、青年商工会議所ではNo.2の地位を務め、地元では名士的存在だったジョン・ゲイシー
道化師(ピエロ)に扮しボランティア活動にも熱心で、「道化師のポゴ」は子供達の人気者だった。
道化師のポゴ
しかし、道化師のポゴのそのペイントメイクの下に隠されていたのは、恐るべしサディストの素顔だった。
彼は少年を拷問、レイプ、殺害しては、遺体の多くを自宅の床下に埋葬していた「死の道化師」ともいうべき、同性愛連続殺人犯だったのだ。

疑惑:消えた少年
1978年12月11日。
エリザベス・ピーストはドラッグストアのカウンター席に腰掛け、15歳の息子ロバート・ピーストを待っていた。
ロバートは姉と一緒にこのドラッグストアでアルバイトをしていたが、

「今日はある建設会社に来年の夏休みのバイトの登録にいくので、ママはドラッグストアで待ってて」

と母に伝言していたのだ。しかし、まったく姿を見せる気配がない。
真冬のシカゴは米国で一番寒い都市といってよく、しかもその夜は0度を下回る凍てつくような寒さだった。
エリザベス夫人は息子を徒歩で家に帰させる気にはとてもなれず、辛抱強くまっていた。
しかし、ついに待ちきれなくなった夫人は、その店で働いている娘に「ロバートが戻ったら電話をするように伝えて」と伝言し、ストアを後にした。
車を運転しながら夫人は腑に落ちなかった。家族を待たせて外をいつまでもうろつくなど、とてもロバートらしくない行動である。
しかもこの日は夫人の46回目の誕生日で、父も兄も姉もロバートが戻ってからバースデー・パーティーをはじめるのを知っていた筈だ。
帰宅した夫人は夫のハロルドに「ロバートに何かあったに違いないわ。私はそんな気がするの」と告げている。
21時45分、ロバートはまだ戻らず、夫人はドラッグストアの店主に電話で「息子がどこの会社に面接にいったかご存知ですか?」と尋ねた。
店主は答えた。「ええ、知ってますよ。ジョン・ゲイシーという男の建設会社です」
23時30分、ピースト夫妻はついにデス・プレーンズ警察に捜索願を出す。その日は夫人にとって人生最悪の誕生日となってしまった。

翌日8時30分、デス・プレーンズ警察はロバート・ピースト少年の捜索に着手。
ジェームズ・ピックウェル刑事は、早速シカゴ警察にジョン・ゲイシーという男の人物照会を行った。
回答は数分で戻ってきたが、ピックウェル刑事は内容を聞いて不吉な胸騒ぎを覚えた。
かつて未成年男性への同性愛行為で服役した事があり、しかも「非常に暴力傾向が強い」というのだ。
1975年7月にこの男が経営している建設会社PDMコントラクターズの従業員だった若者ジョン・ブツコビッチが行方不明になった件では、
警察から100回以上の事情聴取を受けている事も判明した。
9時30分、ジョセフ・コゼンクザック警部補はゲイシー宅に向かった。中から背が低く丸顔で太った家主、ジョン・ゲイシーが現れた。
ゲイシーは最初「そんな少年は知らない」と言い張った。
ジョン・ゲイシー
だがゲイシーはロバート少年のバイト先のドラッグストアで、ロバート少年に声をかけているのを、店主や店員達に目撃されていたのだ。
「ああ、あの少年のことですか」ゲイシーは二言三言言葉を交わしたのは事実だが、アルバイトの話などを持ちかけてはおらず、
面接の約束もしていない、との事だった。
コゼンクザック警部補はゲイシーに任意での出頭を丁寧に求めたが、ゲイシーは叔父が死んだばかりで、今は母からの電話を待っているから、と拒否した。
結局押し問答の末、母からの電話があり次第すぐに出頭するという約束を取り付けたが、コゼンクザック警部補は
「家出はない。絶対にこのゲイシーという男が少年の行方不明に関係している」と直感した。
警部補はこの時点で、ゲイシーの捜査令状を取る事に決めていた。

過去:父の不吉な予言
ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日、イリノイ州シカゴに生まれた。
高圧的な父、ジョン・スタンリー・ゲイシーは息子を決して愛する事はなかった。ゲイシー・シニアはジョンの姉と妹を可愛がったが、病弱なジョンは虐待し続けた。
それどころかジョンの病弱を同情を誘おうとしている演技だと決め付け「女々しいガキ」「このままだと、将来はホモになる」と罵った。
彼は成人するまで父から謂れなき非難を浴び続け、その云い逃れをしながら生きてきたのである。
ジョンは父に認められる為、父の為に傷つけられた自尊心を取り戻すために一生を捧げた、といっても言い過ぎではないだろう。
しかし、ゲイシー・シニアは彼のことを決して認めようとはしなかった。

ジョンはハイスクール卒業後、一時家を出てラスベガスで働き、その後実家に戻りノースウェスタン・ビジネス短期大学に入学、無事卒業する。
卒業後はナン・ブッシュ・シューカンパニーに入社、マネージャー見習いとして働き始めた。
話好きで仕事熱心なジョンはたちまち出世し、大きな紳士用品店の店長を任されるようになる。
ジョンは「自分の仕事に対する熱意の前には小太りでチビという肉体的欠陥など何の障害にもならない」とすっかり自信をつけ、
1964年9月、同僚の美人社員マリリン・マイヤーズにプロポーズし、ゴールイン。マリリンの父親は地元ではかなり成功した実業家である。
この一帯のケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズを買収した際、やる気に満ち溢れたこの義理の息子に店の経営を任せたのは当然だった。
青年商工会議所でも積極的に活動し、息子、娘にも恵まれ、名士への道を着々と歩みはじめていた。
あんなにジョンを罵っていたゲイシー・シニアも、ジョンの事を認め始めていた。
若き日のゲイシー
ところが、そんな或る日のこと、彼は少年に性行為を強要したかどで逮捕されてしまう。
ジョンを尊敬していた同僚達や地元の人間達は驚いたが、彼はこれまでも同性愛嗜好があるのを隠そうとしてはいなかった。
マネージャー見習い時代に酔った勢いで同僚と男色関係を結び、以来そっちの世界にのめり込んでいたのだ。
ケンタッキー・フライドチキンの店長になってからは、アルバイトの少年達にも常習的に手を出すようになっていた。
ジョンは懲役10年の禁固刑の判決を受ける。判決が出た次の日妻マリリンは離婚訴訟を起こした。
ジョンは全てを失い、彼を認めつつあったゲイシー・シニアも、失意のうちに死亡した。
しかし、男性矯正施設内では極めて礼儀正しく模範囚人として過ごしたジョンは、わずか一年半で保釈される。
(施設内では『自分は同性愛者ではない』と強調していた為『ジョンは仕事のライバルの罠にかかりデッチ上げで有罪にされた』と信じる者も大勢いたという)
1970年、出所したジョンは地元シカゴに戻り、デス・プレーンズでPDMコントラクターズという建設・リフォーム業の会社を始めた。
かつてのやり手ビジネスマンの腕前は健在で、会社は順調に売り上げを伸ばして行った。
そして1972年6月1日、高校時代のクラスメイト、キャロル・ホッフと再婚したが、またしても離婚。
(実はキャロルと結婚する7ヶ月前にすでに最初の殺人を犯し、死体を床下に埋めている)

発覚:悪夢の床下
その日はゲイシーは出頭せず、結局コゼンクザック警部補は丸一日待ちぼうけを食らせられた。
警部補が翌日署に出勤すると「ゲイシーが泥だらけの服で午前3時30分に出頭してきましたよ。警部補が帰ったあとだったので、ゲイシーも帰りましたが」と聞かされた。
翌々日再出頭したゲイシーは「雪に車が埋まってしまい行くのが遅れた」と詫びた。しかしロバート少年については相変わらず知らぬ存ぜぬ、の態度を貫いていた。
ゲイシーは別に急ぐ様子もなく「自分の会社は200万ドル以上(当時のレートで7億2000万円以上)の年収がある」「民主党の有力議員に懇意にさせてもらっている」
などと身振り手振りで自慢話を始めた。
ピックウェル刑事がゲイシーの会社の繁栄ぶりやボランティア活動などおだてて話を聞いている間に、コゼンクザック警部補はゲイシーの家の捜査令状を手にいれた。
15時30分、ゲイシーに捜査令状が出た事を告げ、自宅の鍵の提出を求めた。
動揺した様子もなく落ち着き払った態度で鍵を渡すゲイシーに、警部補は「ロバート少年の遺体はコイツの家にはないな」と感じた。
確かにゲイシーの家に少年の遺体はなかった。しかし踏み込んだ捜査陣はゲイシーの家中を見て、疑惑が完全に確信に変わった事を実感した。
家中のあらゆるところにゲイのSM関連の写真集やポルノ雑誌やロープ、手錠、巨大な張型が散乱していたのだ。
ゲイシーの部屋に、例のドラッグストアのレシートがあった。捜査陣はこれを証拠として押収した。
これはロバート少年のガールフレンド、キムことキンバリー・ベイカーズがフィルムの現像を頼んだもので、キンバリーは
「そのレシートはロバートから借りたジャケットのポケットに入れておいたものに間違いありません」と断言した。
彼女はレシートの上にふられる2桁の番号までも記憶していたのである。
これで少年がゲイシーの家を訪れた事は立証され、同時に少年の生存の可能性は非常に厳しいものになった。
おそらく、警部補が尋ねた時はまだ少年の遺体は家にあったのだろう。「自分が引き返した後、どこかに遺棄したに違いない。いつ?」
日中に死体を遺棄するなんて危険な真似をするとは思えない。夜になってからどこかに運んで捨てたのだろう。
だとしたら約束をすっぽかし、午前3時になって泥だらけで出頭したのもうなずける。
ヘリコプター、警察犬を使って山狩りが行われたが、少年の遺体は発見されなかった。ひょっとして、デス・プレーンズ川に捨てられたのだろうか?
一方、自分が重要参考人としてマークされていると分かったゲイシーは、次第にイラつきを見せ始める。
会社の共同経営者である友人ドナルド・クザーナに「麻薬の不法所持を疑われている、警察が自宅前で張り込んでないか見てくれないか」と頼むこともあった。
捜査を進める内、ゲイシーはシカゴ界隈の同性愛者を相手にする、いわゆる「男娼」達の間では、非常に評判が悪い事も判明した。
手錠をかけて殴りつけられたり、レイプまがいのプレイをするなど、相手に苦痛を与える事で快感を得るタイプだというのである。

一週間ほどして、ゲイシーはあてもなく長距離ドライブに出かけ、帰ってくると尾行していた警官2人を自宅に招きいれた。
ゲイシーにとって、この行動は完全に命取りになった。ロバート・シュルツ巡査は暖房の効いた部屋に入った瞬間、異様な甘酸っぱい臭いに気がついた。
明らかに死体の臭いである。
前回の家宅捜査では暖房が入っていなかった為に、捜査陣はこの臭いに気づかなかったのだ。
報告を受けた警部補は、今こそゲイシー逮捕の時だと確信した。異臭は暖房ダクトから出ており、死体が家の地下に隠されているのは間違いない。
12月21日、警察はゲイシーの車を囲んで包囲し、マリファナ所持の容疑で身柄を拘束した。
尾行している警官の前で、駐車場の係員にマリファナを手渡すところを目撃されたのだ。
(ゲイシーは何故こんな自殺にも等しい事をしたのか。前回のテッド・バンディ同様殺人を止めたい、捕まりたいという無自覚な願望が、ゲイシーにもあったのだろうか?)
自宅に連れてこられたゲイシーは「今から床板をめくって床下を捜索する予定だ」と聞かされ、「そんな事をする必要はない!」と血相を変えた。
捜査チームをガレージに案内し「以前正当防衛で男を殺してしまい、床下に埋めコンクリートを打った床に十字架を書いた」と告白したのである。
しかしゲイシーの言葉を真に受ける程警察は甘くなく、技官の到着と同時に床下の捜査を開始した。
(実際はガレージの床のコンクリートの下からも死体は発見されたが。しかも前述のジョン・ブツコビッチの遺体を含め1体ではなく3体も)
床下から凄まじい異臭のする黒い水をポンプで吸い出し、掘削機で泥をかき回した。やがて人間の腕の部分と思われる骨が掘削機の先端に引っかかった。
掘削に当たった技官ダニエル・ジュンティはコぜンクザック警部補を呼び、こう告げた。
「これでゲイシーに殺人容疑を追加出来ますよ」
死体置き場と化していた床下

捜査:増え続ける犠牲者
ゲイシー宅に次々と到着するパトカーに、近所の住民は大騒ぎとなった。
ゲイシーが警察から嫌疑を掛けられているのは本人も語っていたが、それはあくまで麻薬所持の疑いであり、ゲイシーも「一切身に覚えがない」と憤慨していたからだ。
だが、PDMコントラクターズの共同経営者のドナルド・クザーナは、ゲイシーが少なくとも麻薬所持よりも重罪を犯したのは分かっていた。
逮捕される直前にクザーナを尋ね

「もうお終いだ、男を30人くらい殺してしまった…でも仕方なかったんだ。全員死んで当然の奴らだったんだ…」

とクザーナの肩を抱いて泣き出したからである。
遺体からでる有毒ガスと汲み上げても汲み上げても湧き出てくる地下水、シカゴの冬の寒さのせいで、遺体の採掘作業は凄惨を極めた。
採掘チームにはガスマスクと使い捨ての作業着が渡されたが、それでも気分が悪くなったり、倒れたりする作業員があとを絶たなかった。
傷口から有毒ガス、細菌が入って感染するのを防ぐため、電気ヒゲ剃り機を持っていない作業員は、ヒゲは作業を終えてから夜に剃るように厳命された。
(夜だとウッカリ切っても朝には切り傷が治っているからである)
作業終了後は、消毒薬で体を清めるのが義務付けられた。
しかしそれでもデス・プレーンズ警察は「遺体が見つからなくなるまで堀り続ける」との声明を発表した。
5年前、テキサス州ヒューストンで、やはり同性愛者のディーン・コールという男のボート小屋から、次々に少年の遺体が発見され最終的に27人に及んだが、
ゲイシーの殺害記録はコールを上回る勢いだった。
10体の遺体が発見され、次の日には6体、という具合である。
前述の通りゲイシーはキャロル・ホッフと結婚する7ヶ月前にすでに最初の殺人を犯していたが、キャロルと離婚してからは殺人のペースが異様な勢いで早くなっている。
ゲイシーは被害者の多くの身分証明や運転免許書をそのまま持っていた為、大部分の犠牲者の身元を確認する事が出来た。
おかげで11月にデス・プレーンズ川から全裸遺体で発見され、指紋を頼りに身元が判明したヒゲの若者フランク・ランデンギンも、ゲイシーの犠牲者である事が判明した。
ゲイシー宅の床下、ガレージ、庭から計29名の遺体。そしてデス・プレーンズ川からは事件発覚のきっかけとなったロバート少年を含む計4名の遺体。
(ロバート少年の遺体は翌年1979年の4月末、イリノイ川のドレステン・ダムで発見された)
合計33人にも及ぶ、前代未聞の殺人が明るみになった。
被害者の少年たち
ゲイシーによると、最初の犠牲者は彼が「グレイハンド・バス・ターミナルの少年」と呼んでいた、18歳くらいの身元不明の少年だそうである。
この少年と「ロマンチックな夜」を過ごした翌朝、目を覚ますとその少年がナイフを持って立っていた。驚いたゲイシーは乱闘になり、その少年を逆に刺してしまう。
台所にいったゲイシーは、サンドウィッチが作られていたのを見て愕然とした。
少年はゲイシーの為にサンドウィッチを作ったあと、たまたまナイフを持ったままゲイシーを起こしにいった為、
恐るべき誤解を生んでしまった─────というものらしい。
死体を床下に隠したのは、性犯罪の前科があったので偶発的な事故だといっても警察は信じてくれないだろうと思ったから、だという。

裁判:精神異常か、性格異常か
アメリカ中が注目する中、米国屈指の裁判官として知られるルイス・B・ギャリッポ判事を裁判長として、1980年2月6日にゲイシーの裁判は始まった。
ゲイシーは多くの殺人は正当防衛だ、少年達は望んで性行為をしたと言い張ったが、弁護側は「そんな主張は陪審員の神経を逆撫でするだけだ」として、
精神異常を訴える作戦に出た。
ゲイシーが刑務所内で書いたピエロに扮した自分の自画像
ゲイシーは2人目からは全て絞殺しているが、多くの殺害方法は「少年達が首にかけていたロザリオにボールペンをいれゆっくりねじって窒息させていく」というもので、
証人喚問での捜査員の説明を聞いて、気分が悪くなり退廷する陪審員もいた。
一ヶ月間、検察はゲイシーは悪人、弁護団は精神異常という主張をずっと続けたが、ゲイシーが精神異常という弁護団の主張には、精神科医ですら同意出来なかった。
陪審団はわずか2時間の協議で検察の主張を支持し、ゲイシーに有罪の評決を下した。
3月12日、ギャリッポ判事はゲイシーに死刑を言い渡し、法廷内は拍手喝さいに包まれたという。
ゲイシーも必死に抵抗を見せ「事件は自分の成功を妬む人間と警察のでっち上げ」として何度も再審請求をしたが棄却され、死刑が確定した。
1994年5月10日、ゲイシーは薬物注射にて処刑された。
その際薬物の分量に手違いが生じたのか、ゲイシーは窒息するまで意識を失わず、約18分間苦しみ抜いてから絶命したのである。
14年前の裁判で検察側のリーダーを務めたウィリアム・カンクル検察官はこの事について

「被害者の多くはもっと苦しんで死んだのだ。それに比べたらゲイシーの苦しみなんてまだ足りないね」

と冷淡にコメントした。
尚、ゲイシーが最後の晩餐として希望した食事はケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、イチゴ、コーラと、若き日の成功を象徴するものばかりだった。

後で明らかになったが、いかなる事においても常に自分を正当化したがるゲイシーは、弁護団が無罪に繋がる弁護をせず精神異常で切り抜けようとした戦法に、
いたく憤慨していたそうである。
再審請求が却下され死刑が確定した後、彼はこんな台詞を吐いている。

「俺はとんでもなく恐ろしい事をやったけど、いい事だってたくさんやっているんだぜ」 

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.3 シカゴ連続少年殺人事件 (デアコスティーニ)
連続殺人者 (タイムライフ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

アメリカ横断女子大生連続殺人事件

本名セオドア・ロバート・バンディ 通称テッド・バンディ

「テッドは大人びた若者で、責任感が強く、とても落ち着いています。欠点らしい欠点は見当たりません」(1972年、バンディを診察した心理学者)

女子大生連続殺人犯テッド・バンディ
洗練された態度と物腰、ハンサムな顔立ち。
ワシントン州立大学に在学中には「トップ1%に入る知能の持ち主」とも評価された事もある、IQ160以上とも言われるその卓越した頭脳。
テッド・バンディはまさに「他の男たちがうらやむような、模範的な好青年」だった。
しかし彼の本性は、アメリカ大陸を横断しながら美しい女子学生を次々に強姦・殺害していった、稀代のシリアル・キラー(連続殺人鬼)だった。

過去:「ここじゃない、どこかへ」
1946年11月24日、ペンシルバニア州のフィラデルフィア。
信心深く、周囲からも尊敬を集めていた若き21才の秘書のルイーズ・コーウェルの私生児として、テッドはこの世に生を授かった。
セオドア、というのは「神の贈り物」という意味だそうで、父親の素性は今なお不明である。ルイーズも父親については口をつぐんだままだそうである。
(テッドの本当の父は祖父、つまりルイーズの父という説もある。テッドの衝動的な殺意は祖父から受け継いだ、というのだ。もちろん仮定の話でしかないが)

テッドはかなり大きくなるまで、祖父母を本当の両親、実母を姉と思っていた。(最初はそうだと教えられたのである)
彼の育った家庭はお世辞にも健全とは言いがたいものだった。
祖父は短気で癇癪持ちで、家中の誰もが恐れていた。祖母はつねに夫の暴力の被害者で、ひどい鬱病の発作にひんぱんに苦しんでいた。
テッドは1969年、自分の出生証明を取るためにバーモンド州に出向き、そしてついに自分の出生の秘密を知るのである。

テッドが4歳のとき、ルイーズは人生をやり直そうと海軍を除隊したばかりのジョン・バンディ結婚することになった。
テッドは新しい姓「バンディ」を与えられ、同時に正式に彼女の「息子」となった。
垢抜けなく、退屈な性格の義父をうとんだが、父に対しても、のちに生まれる異母兄弟に対しても、敵意を見せる事なく幼少期を過ごしている。
ただ、テッドはこの年齢からすでに功名心と自意識が強く「頼むから自分を裕福な家に養子に出してくれ」と再三母親に頼んでいる。
西部劇のスター俳優だったロイ・ロジャースの養子になる事を夢見ていたし、タコマで音楽教授をしていた叔父のジャックに「養子にしてくれ」と頼んだ事もあった。

ハイスクールでのテッドは成績は優秀だったが、どちらかというとあまり目立たぬ存在だった。
ガールフレンドもいることはいたが、純情だったテッドは手を握ることさえできなかった。しかし、その内面ではどす黒い情念が形成されつつあった。
彼は夜になると自宅を抜け出し、女子寮に出向くと着替えを覗き見しては自慰に耽り、下着を盗んだ。
そして普段は冷静でおとなしいが、怒ると手がつけられないジキル博士とハイド氏のような二面性は小学校の頃から覗かせており、
通信簿には成績よりも「攻撃的な性格は改めるように」という担任教師の指摘が書かれている。
さらにこの頃から虚言癖が出始め、窃盗に手を染め始める。彼はスキーの腕を自慢していたが、その高価なスキー用品の大半は盗品だったと思われる。
ともかくテッドは「父無し子」「私生児」である劣等感を押し隠すためか、必要以上にプライドの高い人間となった。

そして奨学金を得てワシントン州立大学に進学したテッドはここで、のちの人生そのものを決定付ける女性に出会う。ステファニー・ブルックスである。
サンフランシスコの裕福な家庭に育ったステファニーは、その容姿・家柄・学歴、まさにテッドの理想とする女性であった。
テッドは彼女に夢中になった。そして、早々に婚約を交わした。
しかしステファニーは、表面上は穏やかで理性的な態度を取っていても、内面はワガママで子供っぽく粗野で自尊心が異常に高いテッドに嫌気がさしていた。
そしてついに、──────テッドとの婚約を破棄してしまう。
テッドのショックはあまりにも大きかった。学業も手につかず、遂には退学を余儀なくされる。ホテルの調理室で下働きをし、麻薬中毒者とも関わるようになった。
弟のグレン・バンディはこう語っている。

「兄をおかしくしたのは、間違いなくステファニーだ。それまであんな風な兄を僕は見たことがなかった。
ステファニーにさえ会わなければ、兄は殺人鬼になどならなかったと思う」


その後のテッドの心の中は「ステファニーのようなロングヘアを頭の真ん中で分けた女」への憎悪、支配欲、征服欲が渦巻く事になる。
テッドはステファニーを見返すために、例によって虚構の自画像、「洗練された理知的な青年」の外見を、コツコツと積み重ねていった。
食事や礼儀のマナーを身に付け、ファッションにも常に注意を払い、社交的となった。
そして共和党員となり、黒人の共和党副知事候補アート・フレッチャーの選挙活動を、フルタイムのボランティアで手伝ったりもした。
慈善団体で精神カウンセラーとしても働き、ビュージェット・サウンド大学で法律の勉強も始めた。
共和党員の上級議員の中にも、テッドの知性的な物腰、行動に感銘を受けた者は少なくない。
「テッドならば必ず知事にまで登りつめるだろう」人々は口々にこう噂した。
そしてテッドはスティファニー・ブルックスと7年ぶりに再会する。ステファニーはテッドの変わりように驚き、再び付き合うようになり、2人はまた婚約を交す。
ところが、テッドは週末を2人で過ごしたあと、突然ステファニーに連絡をしなくなった。
彼女が電話で釈明を求めても、「君は一体何の話をしてるんだ? 僕にはさっぱり分からないな」そう言ってテッドは一方的に電話を切った。
ステファニーへの復讐を遂げたテッドは、心のタガが外れ、冷酷無比なパワーを身につけたかのように、最悪の連続強姦殺人鬼へと変貌するのである。

殺人:消えた女子大生達
子供じみた「復讐」でステファニーを捨てたバンディの狂宴は1974年1月、シアトルから始まった。
リンダ・アン・ヒーリー、21歳。1月31日に失踪。
ドナ・ゲイル・マンソン、19歳。3月21日に失踪。
スーザン・ランコート、18歳。4月17日に何者かに誘拐される。
ロバータ・カスリーン・パークス、22歳。5月6日に失踪。
ブレンダ・ボール、22歳。6月1日に何者かに誘拐される。
ジョージアン・ホーキンス、18歳。6月11日に何者かに誘拐される。
ジャニス・オット、23歳。7月14日に何者かに誘拐される。
デニーズ・ナスランド、19歳。7月14日に何者かに誘拐される。

犠牲になったと思われる女学生たち

7月14日、ピクニックにはうってつけの避暑地と言われるワシントン州サマミッシュ湖畔。
ドリス・グレイリング(22歳)は夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊ったハンサムな男が近づいてきた。
「車にボートを積むのを手伝って欲しい」というのだ。彼女は駐車場までついて行った。
そこには茶色いフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。
待ち合わせの時間が迫っていたし、これ以上知らない男と遠くに行く気がしなかったドリスは丁寧に断わった。
それから1時間もしない内に、ドリスは先ほど自分に声をかけたハンサム男が、今度はブロンドのロングヘアの女の子を伴って歩いているのを目撃した。
その女性がジャニス・オットである。
数メートル先に腰を下ろしていた目撃者は、その男が「テッド」と名乗っていた事、カナダ人か英国人のようなアクセントがあった事、
ボートをどうとか言っていたと記憶していた。
「ははぁん、これがあの男のナンパの方法か。うまい事やるものね」ドリスは内心苦笑いをしたが、ジャニス・オットは再び生きて姿を現わすことはなかった。
ジャニスが消えた約2時間後、同じ湖畔で今度はデニーズ・ナスランドもトイレに行ったきり戻らなかった。
翌日、捜査に乗り出した警察は、この「ナンパ」でテッドという男が若い女性に声を掛け捲っていた事を突き止めた。
(ちなみに、ドナ・ゲイル・マンソンとジョージアン・ホーキンスの遺体は悲しい事に未だに発見されてない)

目撃談から容疑者の似顔絵、モンタージュ写真も作成された。警察には「似顔絵、モンタージュに似ている男がいる」という通報電話が3,000件以上届いた。
そしてそのうちの4件は「セオドア・ロバート・バンディという男にそっくりだ」という内容だった。
この時期のバンディはワシントンの法律事務所に勤めていた。
同僚の女性キャロル・ブーンはバンディの顔がモンタージュ写真にそっくりだとからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。
しかしバンディと同棲していた当時の恋人メグ・アンダース「彼があの『テッド』では?」と疑い始めていた。
彼の机の引き出しを探すと中からギブスと包帯が発見された。メグはすぐに通報したが警察の相手にもされなかった。(4件の通報のうちの1件はメグのものである)
前科もなく選挙運動やボランティアに熱心な若者であるバンディは、最終的に3,500人以上もの名がつらねられたリストの一番下に、名が記載されただけだった。

暴走:止まらない殺人衝動
2ヶ月後の1974年9月6日、ジャニス・オットとデニーズ・ナスランド、さらに身元不明の遺骨が一度に同じ場所から発見された。
シアトルでの女学生連続殺人はその後、ピタリと止んだ。しかし時同じくして、今度はユタ州で類似の連続殺人事件が発生するようになった。
そう、バンディはユタ大学のロースクール(法学を学ぶ3年間の専門課程。日本の大学院に相当する)に進学するため、ユタ州に引っ越していたのである。

ナンシー・ウィルコックス、16歳。10月2日に失踪。
メリッサ・スミス、17歳。10月18日に失踪。
ローラ・エイミー、17歳。10月31日に何者かに誘拐される。
デビー・ケント、17歳。11月8日に何者かに誘拐される。

いずれもロングヘアの女学生な事を付け加えておく。さらに、ナンシー・ウィルコックスの遺体は未だに発見されていない事も。

11月8日、ショッピング・センターの駐車場でキャロル・ダロンシュという女性の誘拐に失敗したバンディは、同日の夕方にすぐにデビー・ケントを誘拐しているのである。
この時、間一髪で難を逃れたキャロルは

「最初はハンサムで優しそうだった犯人が、私を車に連れ込んだ途端にジキルとハイドのように凶暴な表情になった」

と警察に告げている。
また、バンディはコロラド州にも「出張」していた。
新年の1975年1月11日、23歳の看護婦カリン・キャンベル失踪。彼女は2月17日、変わり果てた姿で発見された。
もちろん、新本拠地となったソルトレイク・シティでも、「真ん中から髪を分けたロングヘアの若い女性」が大量に行方不明となっていた。
しかし思いもかけぬ事から、バンディは破綻していく事になる。
飲酒運転取締りでパトロールしていたボブ・ヘイワード巡査部長のパトカーと出くわしたバンディのワーゲンは、慌てて逃げ出したのだ。
結局男は逃げ切れないと分かって無人ガソリンスタンドにワーゲンを止めて投降した。
しかし自分から車を降りてつかつかと歩み寄ってきた長身のハンサムな運転手を見て、ヘイワード巡査部長はピンときた。
このように運転者から警察に近寄ってきた場合、車に見られちゃいけないものがあるのが常である。
男が見せた運転免許書には「セオドア・ロバート・バンディ」と記されていた。
車のバッグの中から見つかったのは、目だしスキー帽、女性用のストッキングに目用の穴を開けて作った覆面、アイスピック、鉄棒が出てきた。
さらにトランクからは手錠も見つかった。ヘイワード巡査部長は運転手に近寄ってこう宣言した。「ミスター・バンディ。貴方を逮捕します」

バンディは一旦自分で保釈金を払って釈放されるが、5日後キャロル・ダロンシュへの誘拐未遂容疑で再び逮捕された。
以前、彼の魔手から逃たキャロル・ダロンシュ、デビー・ケントの担任教師ジーン・グラハム、クラスメートらが、バンディの首実験(面通し)に呼ばれた。
バンディは髭を剃り落とし、髪の分け目も逆にしていたが、彼女たちはいずれもバンディを一目で見抜いた。
だが実際に裁判が始まると、出頭したバンディを見て陪審員たちは「警察は誤認逮捕をしたのでは?」と不安になった。
ハンサムで上品で礼儀正しく、知性的な物腰。ナンパしたら9割の女性はバンディの誘いに応じるだろう。どう見ても女に飢えているタイプではない。
こんな男が誘拐強姦などする必要があるだろうか?
バンディも調子に乗って自分を罪人扱いしている警察やマスコミを猛批判したが、しかし被害者の証言が決定打となり、陪審員たちは有罪の評決を下す。
無罪を確信していたバンディにはこの評決は晴天の霹靂だったようで、彼は泣きながら「刑務所には送らないでほしい」と頼んだが、
裁判官は1年~15年の禁固刑を言い渡した。

脱走:カイ・オメガ女子寮での惨劇
バンディが使用していたのと同型のワーゲン
もちろん、警察がこれだけでバンディへの追求の手を緩めるはずがなかった。シアトル、ユタ、コロラド、一連の女子学生連続殺人事件で告発する準備を進めていた。
特にコロラドでは目撃情報が続々と寄せられており、カリン・キャンベルの髪の毛もバンディのワーゲンから見つかっている。
一方、裁判においてバンディは自ら弁護の指揮をとると主張し 国選弁護人に対しては鼻持ちならない傲慢な態度で接した。
フランク・タッカー検察官はその様子をこう語っている。

「テッドは私が今まで見てきた中で一番生意気で傲慢な奴だ。あんなヤツは初めてだね。弁護人に対してあれこれ指示してるんだから」

もっとも、バンディが自分で弁護をし出すと言い出したのには、もう一つ理由があった。
アメリカでは自分で自分の弁護を行う被疑者にはある程度の行動の自由が認められている。
例えば図書室での判例集の閲覧などが許される。バンディはこの自由を利用して、脱走を企てたのである。
19977年6月7日、バンディは予審のためにコロラド州アスペンの裁判所に護送された。
彼は午前休みになったところでバンディはいつものように図書室に入って行った。手錠と足かせは外されていた。
数分後、一人の婦人が裁判所に入ってきてこう尋ねた。

「この辺じゃ男の人が窓から飛び降りるなんて当たり前なの?」

警察官は「まさか!?」と思い急いで二階の図書室に駆け込んだが、すでにバンディの姿はなかった。「バンディ脱走」のニュースは全米を駆け抜けた。
街を抜けた彼はアスペン山に入り、そこの空き家の山小屋で2日間過ごした。しかしバンディの逃走劇はあっけなかった。
キャデラックを盗み、シアトルに向かう途中で地元の保安官に呼び止められ逮捕された。わずか8日間の脱走劇だった。
続く半年間、延々と法廷闘争が続いた。検察はユタでの女学生失踪事件の証拠提出を試みたが、バンディも牛歩戦術でこれに対抗した。
1977年12月31日、バンディはガーフィールド郡刑務所の独房の天井に穴をあけ、二度目の脱走。
フロリダ州の州都タハラシーは、アメリカの南東部に位置している。
シアトルからは4,000km/hも離れていたが、美しい町並みとたたずまいは、シアトルを思わせるものがあった。
バンディが脱走してから2週間経っていたが、このニュースはまだタハラシーではほとんど知るものはいなかった。
年明けころ、タハラシーのオークハウス(こちらでいうゲストハウスのようなもの)にクリス・ヘイゲンという流れ者が住み着いていた。
1978年1月15日日曜の午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは彼氏に別れを告げると、キャンパスの外れに位置するカイ・オメガ女子寮に帰宅した。
すると正面玄関から急いで出て行こうとする一人の男の姿を見かけた。黒い毛糸の帽子をかぶり、棍棒を握りしめているように見えた。
不審に思ったニタは2人のルームメートを叩き起こし、寮長に相談しようと部屋を出た矢先、カレン・チャンドラーが血みどろで部屋からよろめき出てきた。
驚いた3人は部屋に飛び込むと、カレンのルームメートのキャシー・クライナーも血の海の中で倒れていた。
さらに他の2人の女学生、マーガレット・ボーマンリサ・リービーも倒れていた。
マーガレットは既に事切れており、リサも病院に運ばれる途中の救急車の中で絶命した。

2人を死亡させ、2人に重症を負わせたにも関わらず、バンディの衝動はまだ終っていなかった。
カイ・オメガの惨劇から1時間半後、数ブロック離れた別の女子寮に住むデビー・チカレッリは、隣室からの激しい物音で目を覚ました。
時計を見るとまだ午前5時前、太陽も出ていない。デビーもまたカイ・オメガのニタ同様ルームメートを叩き起こして2人で聞き耳を立てた。
何かを叩くような音に続いて、慌ただしい足音が聞こえてきた。数分後、カイ・オメガから急行してきた警官にこの女子寮も取り囲まれる。
シェリル・トーマスが頭を割られて瀕死の重症を負っていたが、幸いにも一命は取り留めている。
2件の女子寮での暴行殺人に全米は騒然となったが、この時点ではバンディの犯行と考えるものはほとんどいなかった。
シアトル、ソルトレイク・シティでの犯行に比べ、あまりにも杜撰でいくつもの証拠を残していたからだ。
「誘拐から死体遺棄まで綿密に犯行に及んでいた、あのテッド・バンディの所業とはとても思えない」と考えられても無理はなかった。
これについては当ブログのリンク先である殺人博物館様のバンディの項目にも書いているが───
ひょっとしたらバンディの心の奥底には「もう殺人を止めたい、捕まりたい」という心理が働いていたのかも知れない。
(リサ・リービーのお尻に残した歯型が、バンディにとっての致命傷となり、有罪となっている)
白いバンを盗んだクリス・ヘイゲンことバンディは、ジャクソン・ビル方面に向かった。
バンディの最後の公式な被害者は12歳の少女キムことキンバリー・リーチである。2月9日、学校から行方不明となった。
その6日後、バンディは盗難車のナンバーから足がつき逮捕された。
キムは2ヶ月後、スワニー・リバー州立公園近くの古びた小屋から変わり果てた姿で発見された。
遺体は激しい性的暴行を受けた事を物語っていた。直接の死因は「頚部に加えられた致死的な激しい力」だそうである。
12歳の少女をも手にかけたバンディに、警察官の1人は怒りにかられ、記者に向かってこう言っている。「警察は必ずバンディを電気椅子に送ります!」

終結:下された審判
女性弁護士とバンディ
マイアミでのバンディの公判は、世界中の注目を集めた。
ここいら辺は犯罪ドキュメンタリー映画「アメリカン・バイオレンス」にも収録されているので、機会があればご覧いただきたい。
弁護士チームはバンディに対し、リサ・リービー、マーガレット・ボーマン、キム・リーチの3件の殺人を認める代わりに死刑を求刑しない、
いわゆる司法取引を受け入れるようにバンディに強要していた。
これに腹を立てた彼は弁護士チームを解任し、なんと自らの弁護をかって出たのである。彼は被告であり、弁護士であり、弁護側証人でもあった。
(しかし、バンディはこの『イチかバチか賭け』に見事に敗れる羽目になる)
公判のたび「テッド・グルーピー」と呼ばれた彼のファンの女性たちが裁判所に詰めかけた。
バンディは傍聴席の彼女たちに笑顔で手を振る余裕まで見せ、あげくかつての同僚キャロル・ブーンと婚約を交わすというパフォーマンスまでやってのけた。
しかし、前述の被害者リサ・リービーの遺体に残された歯型が決定的な決め手となった。
こればかりはいくらバンディが天性の話術の才能を発揮しても、公選弁護人のマーガレット・グット女史が見事な弁論を展開しても、言い逃れはできなかった。
「米国のデス・ベルト」と呼ばれる地帯がある。死刑宣告が他の州より頻繁に出ることからそう呼ばれているのが、フロリダもその州の一つだった。
バンディ裁判で裁判長を務めたエドワード・D・カワード判事は、死刑宣告をバンディに言い渡した後、こう付けくわえた。
この時期に出版されたバンディ関連の書籍は、大抵カワード判事のこの言葉で締めくくられている。
カワード判事
「私は君に対し、何の敵意も持っていません。この事は信じてほしい。
これほどの人間性、才能の無駄な浪費は、本裁判においても悲劇でした。君は優秀な青年です。立派な法律家になれたかもしれない。
君が殺人犯としてでなく、弁護士としてこの裁判にいたら、どれほど幸福だったでしょうか。しかし、君は道を誤った……。
自分の過ちは自分で償うように。今後(電気椅子に座るまで)、体に気をつけなさい……」


バンディはカワード判事のこの言葉を、どんな思いで聞いていただろうか。
再審請求も棄却され、死刑が確定。それでもバンディは「死刑を延期してくれるなら、まだ発見されてない遺体の捜索に協力する」と最後まで足掻いた。
のちに彼はこのような感情に突き動かされていた事も、カミングアウトしている。

「僕は人間の生死を支配したかったんだ。地上から1人2人消えたからって、それが一体何だっていうんだい?」 

フロリダでの3件の殺人で死刑となったバンディだが、死刑執行の数日前、彼はシアトルやソルトレイク・シティでの殺人を含めて他に27件、
合計30件の殺人を犯したことを告白している。
しかしバンディが暗躍していた時期、バンディの好みの「真ん中で髪を分けたロングヘアの女学生」が……100人以上行方不明になっているのだ。
本当の犠牲者数は、一体何人だったのか。シリアル・キラー(連続殺人鬼)という言葉を生み出すきっかけにもなった稀代の殺人犯は、真実を墓場まで持っていった。
誰にも「本当の殺害数」を明かすことなく、1989年1月24日午前7時7分。テッド・バンディの命は、電気椅子の露と消えた。
そしてその遺体は、笑みを浮かべていた。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.4 アメリカ横断女子大生連続人 (デアコスティーニ)
連続殺人者 (タイムライフ)
テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (上) (原書房)
テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (下) (原書房)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

はじめまして。

唐突にですが、FC2さんよりスペースをレンタルして、ブログを始めてみることにしました。
更新は不定期ですが、どうかよろしく。
日本・そして世界で起きた残虐、猟奇的な殺人事件の数々。
1970年代から急増し始めたシリアルキラー(連続殺人鬼)と呼ばれる人間たち。
そして科学的にも想像もつかないようなミステリー、オカルト現象
そういったものを、細々と紹介していきたいと思います。

尚、当ブログは犯罪を助長・幇助する目的で運営しているものではない
というのを、あらかじめお断りしておきます。

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