世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

闇に消えた名画『正しき裁き人』

1934年4月11日、ベルギーの古都ゲントにある聖(セント)バーフ大聖堂から、ヴァン・エイク兄弟が描いた祭壇画の一部が盗まれた。
その祭壇画とは12枚つづりのパネルに描かれた絵で、盗難にあったのは『洗礼者ヨハネ』と、『正しき裁き人』の2枚だった。

聖バーフ大聖堂

数週間後、コピテエール司教の元に、盗まれた絵の身代金を要求する手紙が届いた。
「100万ベルギーフラン(当時のレートで約4億円)と引き換えに絵を返す」という内容のもので、D・U・Aのイニシャルでサインがしてあった。
犯人は「取引に応じるなら、まず2枚のうち『洗礼者ヨハネ』を返す」と約束した。そして交渉は新聞の3行広告で行うよう指示されていた。
5月25日、交渉成立の文面が広告欄に載り、司教の元に手荷物預かり証が届いた。
『洗礼者ヨハネ』はなんとただの包装紙に包まれて、ブリュッセル北駅の手荷物一時預かり所に置いてあったのである。
身代金の受け渡しも行われたが、司教がD・U・Aの代理人に渡した封筒には、100万どころか2万5000ベルギーフランしか入っていなかった。
おかげでD・U・Aの信用を無くし、10月には交渉が絶たれてしまった。こうしてもう1枚の名画『正しき裁き人』は闇に消えたのである。

ヴァン・エイク兄弟の祭壇画

D・U・Aとの交渉が途絶えた約1ヶ月後。アルセーヌ・フーディルティエというカトリック党の議員が、天寿を全うしようとしていた。
彼は死の間際、専属に雇っていた弁護士に秘密を打ち明けた。

「私は『正しき裁き人』の在り処を知っていて、証拠が机の引き出しに入っている」

というのだ。
フーディルティエを埋葬した翌日、弁護士は彼の家を訪ね、机の引き出しを調べた。
すると封筒の中から、コピテエール司教宛ての脅迫状の写し13枚と、訳の分からない数字やスケッチも書いた紙切れも見つかった。
このフーディルティエという男は教会警備員からカトリック党の議員にまで出世した人物だ。
相当な美術愛好家で、休日には美術館に出かけ名画の模写をする程だったという。
そしてまた、かなりの推理小説好きでもあり、その中でも特にモーリス・ルブランの「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」シリーズの大ファンだそうで、
彼の本棚にはルパン・シリーズがズラリと並んであった。
(ルパン・シリーズを数冊読んだ事がある方ならご存知とは思うが、作品中ルパンが主に盗んだのは高級美術品である)
また、フーディルティエはアルセーヌ・フォン・ダメ(Arsene Van Damme)という偽名での証明書も使っていた。
ラテン語ではVとUは同じ文字を使う事が多いので、イニシャルを逆に読むと「D・U・A」である。
どうやら『正しき裁き人』の在り処は数字やスケッチが示しているらしかった。だが、弁護士も警察もまったく謎を解く事が出来ず、事件は意外な方向に展開する。

洗礼者ヨハネ正しき裁き人

1940年、『正しき裁き人』を除く祭壇画はナチス・ドイツの手に落ち、オーストリアのアルトアウスゼー湖畔の岩塩倉庫に隠されてしまったのだ。
祭壇画の押収命令を下したのはもちろん、自らを「美術愛好家」と称するヒトラーである。そしてヒトラーの命令により、例の紙切れの謎解きが試みられた。
どうやら数字は階段などの寸法を、スケッチはアーチや石棺を示していると思われ、聖バーフ大聖堂の地下墓地のように思われた。しかし探索は失敗。

盗まれた絵はそこにはなかったのである。

絵の存在に気づいた司教が、ドイツ軍に先回りして持ち出した、ともいわれているが……。
一方、ヒトラーの手に落ちた祭壇画はアメリカ軍を経て、無事に聖バーフ大聖堂に戻ってきた。
だが、この祭壇画を紹介している多くのサイトにも書いているように、現在はめ込まている『正しき裁き人』は完全な複製品である。

それにしても、現在では約1000万ユーロの価値、とすら言われる本物の『正しき裁き人』はどこに消えてしまったのか。
フーディルティエが残した例の数字やスケッチも、2012年4月現在、未だに解読されてはいないのである。

参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)

スポンサーサイト

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

愛に飢えた孤独な首狩り巨人

本名エドマンド・エミール・ケンパーⅢ世 通称エド・ケンパー

「彼女達は死に、僕は生きていた…僕が勝ったんだ…」(エド・ケンパー)

父、そして母にも見放された孤独な巨人。それがエド・ケンパーだった。
米犯罪史上最も話題を呼んだ殺人鬼エド・ケンパー
2m6cmの長身と、人並み外れた高い知能指数。しかし、ケンパーはそれを連続殺人以外に活かす事が出来なかった。
ケンパーは今で言う「社会の負け組」だった。その巨体に似合わず本質的に臆病で、負け組である事に打ちひしがれて暮らしていた。
やがて彼は、自分を爪弾きにする社会に対し、復讐を計画するようになる。
遺体切断、屍姦、人肉食。ケンパーは米国犯罪史上最も話題を呼んだ殺人鬼として、その名を残す事となった。

発覚:ビッグ・エドの自首
1973年4月24日、午前5時。サンタ・クルーズ警察に電話がかかって来た。電話に出たコナー巡査に電話主は「女子大生殺しだ」と告げた。
その日は電話の接続状況は悪く、それは電話主にも分かったらしい。彼はもう一度声を張り上げた。

「いいか、もう一度言うぞ。これはイタズラ電話ではない。俺が女子大生殺しの犯人だ」

電話主はエド・ケンパーと名乗った。
現在コロラド州のブエブロの町の公衆電話から電話をかけている事と車のナンバーを教え、そしてこれまで実の母を含め8人の女性を殺害した事を告げた。
コナー巡査がそこに警官を向かわせる、というと、ケンパーはヒステリックに叫んだ。

「嘘じゃないだろうな!? トランクには弾が200発以上と銃が3丁入ってるんだ。俺ですら近寄りたくないくらいだ」

どうやらこのケンパーという男のいう女子大生殺しとは、ここ一年ほどサンタ・クルーズで起きている女子大生連続バラバラ殺人事件、らしい。
ケンパーは母親の家の住所を教え、自分が殺した母とその友人の遺体があるのでマイク・アルフィ巡査部長を調べに行かせてほしい、と頼んだ。
アルフィ巡査部長は数週間前、ケンパーの銃の購入申込書について所定の質問を行う為に母親の家を訪ねてきた警官だった。
ケンパーの話がイタズラ電話の類ではない事、彼の異常に興奮した精神状態からしてトランクの銃を使ってさらなる凶悪犯罪をしでかす可能性のある事は明白だ。
「コロラド警察は一体何をモタモタしているんだっ!?」コナー巡査はハラハラしながらケンパーに極力しゃべらせ、彼との話を引き伸ばしていた。
犠牲者の遺体の隠し場所について話していたケンパーは、出し抜けに叫んだ。「やっと来やがった。おっと、こっちに向かって銃を構えてるぜ!」

ケンパーが自首したその日の内に、サンタ・クルーズからコロラドに捜査関係者一団が流れ込んできた。
その中にはアプトスのケンパーの家で母親の遺体を発見したアルフィ巡査部長、ケンパーの飲み仲間で「親父のような存在」と慕っていたシェラー警部補
ピーター・チャン地区検事も含まれていた。
彼は法的権利の全てを放棄し、テープに向かって話し始めた。言い淀んだり、躊躇したり、言葉を濁すような事は一度も無かった。
一方、ケンパーがいつもたむろっていたバー『ジェリー・ルーム』や他の飲み屋での飲み仲間は、ケンパーが女子大生殺しの犯人だとは信じられなかった。
彼は暴力を嫌がる理性的で心優しき大男というイメージがあり、ビック・エドの愛称で親しまれていたのだ。
尚、カリフォルニアからではなく、コロラドから自首の電話をした理由について、ケンパーはこう語っている。

「カリフォルニアの警察なら問答無用で俺を射殺するだろう、その暴力が俺には怖かったんだ」

刑事に手錠を直してもらうケンパー。憎き母を殺して嬉しそうな表情
サンタ・クルーズに戻ると、ケンパーは細部に関する自分の観察力と記憶力を誇示するかのように、さらに長時間かけて自白した。

過去:心をコントロール出来なくなった15歳の少年
エド・ケンパーことエドマンド・エミール・ケンパーⅢ世は1948年12月18日、カリフォルニア州バーバンクに生まれた。
父のエドモンド・エミール・ケンパー・ジュニアは身長2mを越す大男、母のクラーネル・ケンパーも180cmを越す大女だった。
父ケンパー・ジュニアは第二次世界大戦で数々の武功を上げたが、軍退役後は電気技師をしていた。
ケンパー・ジュニアは巨漢にもかかわらず気が弱く、いつもガミガミと口喧しい母に押され気味だった。
クラーネルは「アンタは大学を出てないから稼ぎが悪い」といつもケンパー・ジュニアを罵った。
ケンパー・ジュニアも大声でこれに対抗し、ケンパー家はいつも夫婦喧嘩が絶えない険悪な家庭環境だった。
クラーネルに遂に我慢ならなくなったケンパー・ジュニアは、エドが7歳の時に離婚、妻子を捨てて家を出た。
幼いながらもどちらが悪いか判っていたエドは、心の中での母への憎悪を募らせて行った。この直後からエドに、次第に奇行が目立つようになる。
猫を殺して首を切断し、その首に向かって「どうか母を殺してください」と頼み込んだり、5歳年上の姉の人形をバラバラに切り刻んだこともあった。
また、8歳の時にエドは担任の女性教師に恋を感じ、「僕、先生にキスしたいんだ」と姉に打ち明けた。
「すればいいじゃない」姉が返答すると、エドはこう答えたそうである

「でも、そのためには先生を殺さなきゃならないんだ」

人形や猫をバラバラにしたり、キスをする為に女性を殺すという発想。後年の殺人の下地が、もう8歳の時点で出来上がっていた。

エドの異常性は、母クラーネルも感じていた。早熟なエドの過剰な性欲も心配の種だった。
姉や妹と間違いを起こさないように、そして「根性を叩き直す」と称し、エドの部屋を二階から地下室へと移した。
エドは泣きながら「それだけは勘弁してほしい」と頼んだが、母はエドが夜地下室に入ると、キッチン・テーブルを重石にして、はね上げ戸を開けられないようにした。
8ヶ月続いたこの『隔離』は噂を聞いた父ケンパー・ジュニアが「止めないなら児童虐待相談所に訴え出る」と警告した事でようやく収まったが、
この「地下室の闇の中で過ごした日々」がのちのエドの狂気、そして復讐心をさらに増大させたことは間違いないだろう。
1963年11月、父に預けられ、一週間でまた母の元に送り返されたエドは家を飛び出し、また父ケンパー・ジュニアのもとを訪ね「一緒に住ませてほしい」と頼んだ。
父も渋々承諾するものの既に再婚しており、明らかにエドは邪魔者だった。
クリスマス休暇にエドを連れてノース・フォークにある祖父母の農場を訪ねた父は、エドを置いて1人でさっさと帰ってしまう。
彼はまたしても父に捨てられたのだ。父はさらに、エドの電話番号を電話帳から消した。息子に関わりたくなかったのは明らかだった。
翌年6月、エドは母クラーネルの元に戻るが、母もエドを祖父母の元に送り返した。
両親からは完全に見捨てられた形のエドは、何の面白みもない田舎の祖父母の家で、完全に打ちのめされていた。
絵本作家だった祖母は母クラーネル以上の毒舌家で、やれ「穀潰し、お前みたいなのがいると金がかかって仕方がない」だの、
やれ「何だいその気持ち悪い目つきは。父親に言いつけるよ」だの、口を開けばエドを罵った。

8月27日、もう夏も終わりに近かったが、その日は朝から暑かった。
エドは突然立ち上がり、祖父からプレゼントされた22口径のライフルを持って、「ウサギを撃ちにいってくる」と祖母に告げた。
書き物をしていた祖母は顔も上げずに「鳥は撃っちゃ駄目だよ」とエドに念を押した。
その瞬間、エドに「自分でもどうする事も出来ない、怒りに近い衝動」が込み上げ、その場で祖母に発砲した。
そして倒れた祖母を怒りに任せて何度も包丁でメッタ刺しにした。そして戻ってきた祖父も同じようにライフルで射殺した。
エドは母に電話で「お婆ちゃんが死んだ、お爺ちゃんも死んだ」と告げた。
最初は事故だと言い張ったが、すぐにエドの仕業と看破した母は「保安官に連絡するように」とエドを諭した。
エドはやがて来た保安官に逮捕されたが、殺害理由を聞かれてこう答えた。

「お婆ちゃんを撃ったらどんな気がするだろうと思っただけです」

祖父を撃ったのは「祖母の死体をみたら祖父が悲しむだろうから」だという。
精神科医から妄想型分裂症と診断されたエドは、犯罪者用の精神病院であるカリフォルニア州立アタスカデロ精神病院に収監された。
15歳で逮捕されたケンパー

殺人:家にも社会にも順応出来なかった身長2m6cmの大男
運び出される母クラーネルの遺体
ケンパーはここで5年を過ごす事になるが、元々130台後半という非常に高い知能指数を持っていた彼は、模範患者を「演じて」たちまち信用されるようになる。
医師やセラピストの質問に対し、どういう答えを言えば「治療が効果を上げている」と思わせるかも熟知し、その通りに答えた。
身長が15歳ですでに190cmを越えていたケンパーは、この手の施設特有のイジメに合う事もなく、レイプ犯罪者達との会話でその手の知識を吸収していった。
あるレイプ犯は「『絶対に警察には言わないから』なんて被害者の9割は約束を反故(ホゴ)にし、警察にタレこむ」という経験をケンパーに教え、
「犯行がバレないようにするには、被害者を生かしておいちゃ駄目だな」と彼は思った。
ケンパーは医師達を欺きながら、荒々しい性的空想に耽り、自由になれる日を待った。そして5年後の1969年12月、仮釈放委員会はついに釈放の断を下した。
彼をずっと見てきた医師達は、彼を母親のもとに返すべきではないと勧告した。ケンパーの心の闇に対する母親を存在がどんなものか知っていたからである。
しかし仮釈放委員会は、この勧告を無視したのかそれとも届いてなかったのか、ケンパーを母の庇護下においた。
この時ケンパーは身長2m6cm、体重127kgという、見上げるような大男に成長している。
それと同時に、彼の心の中の魔物も、彼自身がコントロール出来ないまでに禍々しく成長していたのだった。
精神病院から釈放されたケンパーは、サンタ・クルーズの母のもとへ落ち着いたが、「完治」と認められたケンパーは、以後一切の治療を受けていない。
彼は警官になりたかったが、身長制限があって無理だった。
高い知能指数をもつケンパーは地元のカレッジでも成績はオールAだったが、缶詰工場やガソリンスタンドの店員、その他日払いの半端仕事で働いた。
意思の弱い男を徹底的に軽蔑する母には、ケンパーの生活態度が我慢ならなかった。ケンパーと母の間には口論が多くなっていく。
母は近所をはばかって声のボリュームを下げる事もなく「お前みたいな人殺しの息子がいるから、私はもう5年も男と寝られないんだ」とケンパーを怒鳴る事さえあった。
ケンパーは母についてのちに精神科医にこう語っている。

「お袋は男以上にデカイキンタマを持った女だった。俺はお袋に少しづつ去勢されたようなもんだ」
「お袋は何でも支配したがる牝犬だ。一度俺の歯を治療する、しない、の事で口論になった事もあった」
「他の誰ともあんな凄まじい口論なんてした事はなかった。男だったらマジでブン殴ってる。でも相手はお袋なんだ」


悩みを打ち明けられる友達も出来ず、社会にも順応出来ない。家に帰れば待っているのは母親との口論。ケンパーの『居場所』はどこにも無かった。
内心はいつも怯えて暮らし、孤独と無力感に打ちひしがれる日々。
ケンパーは徐々に「自分をのけ者にする社会に対する復讐」を計画するようになる。
18ヶ月の母親の保護監督期限が切れるやいなや、ケンパーは一人暮らしを始める。彼は地元の道路局に勤め、抜け道に精通し、ナイフの収集を始めた。
その間にケンパーは父と会っている。ケンパーはまだ、父と和解し親子らしい関係を築く夢を捨てきれていなかったのだ。
彼はレストランで父と食事を共にし、いざ支払いの段階になると父は白々しく「スマン、財布を忘れてきた」と薄笑いを浮かべて言った。
ケンパーも「親父の方が食事の量が少ないし」と父の分まで勘定を済ませた。父とのこの会食について後年ケンパーは
「懸案は綺麗に決着を見た。親父は全て許してくれた。祖父母の事も、一切合切だ」と皮肉を込めて振り返っている。
どの時間帯のどのルートが人目につかないかを徹底的に調べ上げ、どう振舞えば女性が安心出来る「愛嬌のある大男」を演じられるか、も身につけた。
そうした約1年間の「予行演習」の末……1972年5月7日。彼はついに行動を起こした。

決別:奈落へ転がり落ちる岩
ケンパーはヒッチハイクをしていたカリフォルニア州立大学の学生、メアリー・アン・ペスチェアニータ・ルチェッサを拾った。
ケンパーは1年間の訓練の間に身に付けたセリフで、2人がこの地域の地理に疎い事を聞き出した。
車を人気のないところに停めると、2人に仕事仲間から借りた銃を突きつけた。
恐怖で抵抗する気の無くなったアニータをトランクに押し込み、メアリーを手錠をかけシートベルトに繋いだ。
ところが、メアリーは動じず、ケンパーにこういった。「なにか悩みがあるのなら打ち明けなさい。聞いてあげるわ」
ケンパーはメアリーの落ち着き払った態度に感服し、手錠を外してやろうか、とも考えた。
しかし、アタスカデロ精神病院でのレイプ犯から「こういう場合は被害者は犯人を落ち着かせ、その間に逃げるケースが多い」と教えられたのを思い出し、
手錠を外すのは思い直した。
メアリーを黙らそうと二重にしたビニール袋を被せたが、メアリーも必死の抵抗を見せ、苛立ったケンパーは気がついたら彼女の背中を2度ナイフで刺していた。
ナイフで喉を切り裂いたら、メアリーはその後ピクリとも動かなくなった。仕方がないので、トランクの中のアニータもナイフで何度も突き刺し殺した。
そして遺体をアラメダのアパートまで運ぶと、まず首を切り落とし、首の無いメアリーの遺体を心ゆくまで陵辱した。
バラバラ死体をポラロイドカメラで写真に収め、太ももの一部を切り取って冷凍保存した後、山に捨てた。
2人の首は記念品として持っていたが、これも数日後、近くの谷へ放り捨てたという。
尚、ケンパーは切り取った太ももの肉を「後にキャセロール(グラタンみたいな料理)にして食した」と告白している。
(これは逮捕後精神科医が、いわゆる自白剤を使って聞き出したものである)

ケンパーが「記念」に持っていた犠牲者の遺留品
前回のジェラルド・スタノの記事でも「多くの連続殺人鬼が1回目の殺人から2回目の殺人まで間隔が空く」と書いたが、ケンパーも例に漏れず、
2度目の犯行まで4ヶ月の間隔が空いている。
その間ケンパーはメアリーとアニータを殺害した時の一部始終や、遺体を切断したり、首無し死体と性交した時のことを思い出し、空想に耽って過ごしていた。
そして次の犠牲者にはパークリーに住む15歳の韓国系女性アイコ・コーを選んだ。
アイコに手錠をかけ自由を奪ったあと、首を絞めて気絶させ強姦し、彼女のスカーフでそのまま絞殺した。
遺体を持ち帰ったケンパーは、首と腕を切断し、サンタ・クルーズの山中に捨てた。
アイコ殺害後、バイク事故で骨折して仕事を長期休んでいたケンパーは、少年時代の前科の記録の封印を申請し、11月受理された。
これで彼は自分で銃を購入出来るようになり、ますます「狩り」がしやすい状況になった。
ただ、仕事を休んだせいでアパートの家賃が払えなくなったケンパーは、仕方なく母クラーネルの元に戻った。例によってまた母との口論の日々が始まった。
年が開けての73年1月8日、家族や友人からシンディと呼ばれていた18歳の美少女ベビーシッター、シンシア・ショールがケンパーの犠牲になった。
シンシアはケンパーの銃での最初の犠牲者で、至近距離から頭部を撃たれての即死だった。
その時間帯、母が外出しているのを分かっていたケンパーは、シンシアの遺体を家に持ち込み、バスルームで遺体の首と腕を切断。
またも首無し遺体を存分に犯すと、首以外の部分はモントレイの高さ90mを越す断崖からビニール袋に詰めて捨てた。
首だけは取っておき自分の部屋の戸棚にしまい、時々話しかけたという。シンシアの遺体が発見されると、母の寝室の窓の下に首を埋めた。
2月5日、またも母と口論になり家を飛び出したケンパーは、23歳のロザリンド・ソープと20歳のアリス・リューを車の中で射殺。
翌日、頭部に打ち込んだ弾丸を抉り出し、遺体を切断し遺棄したが、ケンパーはこの遺体切断作業にもうスリルを感じなくなっていた。

「汚らしい、頭の悪いヒッピーギャルを殺したところで、社会はちっとも困らない。
でも、将来社会の重要なメンバーになるであろう上流階級、中流階級の娘を殺せば、社会の損失は大きい。
それに、家族に深刻な絶望感を味あわせる事が出来る」


こんな理由から始めた女子大生ヒッチハイカー狩りだが、彼は自分の犯罪人生にクライマックスが近づいている事を悟っていた。
しかし、どうしてもやらなければならいない事があった。

「あの女は殺すしかない。あの女がこの世から消えない限り、罪もない女がこれからも死ぬことになる…
選ぶのは前者しかなかった」


リンク先の+ M O N S T E R S +様のケンパーの項目にも書いているが、正しく冷静な自己分析、自己認識である。
多くの連続殺人犯が「本当に殺したい相手の代役として、多数の犠牲者を選ぶ」ように、ケンパーも母の代役として女子大生達の命を奪っていたのを、
自分でうっすらと気づいていたのだ。
4月20日の聖金曜日、ケンパーは母の自宅を訪ねた。翌朝4時になり母は戻り、ケンパーが寝室に様子を見に行くと、母はベッドに潜り込むところだった。

「どうしたの?何か話したい事でもあるの?」
「いや、別に。お袋が戻ったかどうか見にきただけさ」
「話があるなら、私が起きてからにしましょう」

クラーネルは眠りに入り、ケンパーは安堵した。母とは嫌な気分で別れたくなかったからだ。
1時間ほどして、ケンパーはハンマーとナイフを手にして再び寝室に入った。そして母のこめかみ目がけ、ハンマーを打ち下ろした。
続いてナイフで喉を切り裂き、今まで彼を苦しめ続けた根源である母の声帯を抉り出し、ディスポーザーに放り込んだ。
「ガキの頃からお袋の罵声と金切り声にはどれだけ苦しめられたか分からない。声帯がなければもう俺に罵声を浴びせる事はない」
しかし、スイッチを入れたら機械が詰まり、ディスポーザーは血塊を吐き出した。「あの女、死んでまでも俺に悪態を突きやがった」

「とうとう最後まで、お袋を黙らす事は出来なかった───」

この後ケンパーは母の首を切断。母ではなくただの肉の塊と化した遺体を陵辱。そして母の首をサンドバッグのように殴りながら、涙ながらに罵詈雑言を浴びせた。

「俺はずっとお前と対話をしたかったんだ。でもお前はいつも悪態を突くだけで一度として応じてはくれなかった。
それなのにお前はさっき何といった?『何か話したい事でもあるの?』だと?冗談じゃない、それが出来てればこんな事にはならなかった」


ケンパーの母クラーネル
その後、母は旅行で出かけた事にする偽装工作を思いついた。
「2人連れで旅行に出かけた」という事にして、母の同僚であるサラことサリー・ハレット夫人を呼び出し絞殺。
しかし思い直し、4日後にコロラドから自首の電話をするのである。
前述の通りその日は電話回線の状況が悪く、イタズラ電話でないと分からせるため、ケンパーは数回電話をし(電話に出たコナー巡査に)「やっと信じてもらえた」という。
逮捕されたケンパーの顔は、吹っ切れたかのように晴れ晴れとしていた。

審判:最後の「聖戦」
連行されるケンパー
ケンパーは拘置場に拘置されている間、サンタ・クルーズでケンパーより数ヶ月遅れで連続殺人を始めたハーバード・マリン(のち紹介予定)と隣同士になった。
精神分裂症で「震災からカリフォルニアを救う為に生贄を捧げた」という理由で13人を殺害したマリンをケンパーは「下品な低脳、ただのキチ○イ」と罵り、
実の母の首無し死体を犯したケンパーをマリンは「不道徳なケダモノ」と壁一枚を隔てて罵り返した。(どちらの見解も正しいと思う)

捜査官、ジャーナリスト、精神科医が巨体に似合わぬ明晰な頭脳、話術といったケンパーのキャラクターに魅了された。
ケンパーも持ち前の分析力、記憶力、観察力を持ってこれに応じた。調書作成にも全面的に協力的な姿勢を見せた。これは彼にとって最後の聖戦だった。
淀みなく、冷静で客観的、整然としたケンパーの自白は、そのまま調書に丸写ししても問題ない程だった。ある検察官は苦笑いを浮かべて言った。

「長い事この仕事をやってるが、あんなヤツは初めてだよ。もう2度と御目にはかかれないだろうね」

ケンパーは8件の第一級殺人罪で起訴され、10月25日からハリー・F・ブラウアー判事を裁判長として、全米が注目する中ケンパーの裁判は行われた。
ケンパーは公判中、万年筆のカートリッジで手首を切ったり、未遂に終わったが4度も自殺を企てている。
彼は数々の異常行為を淡々と認めたが、父にも母にも愛されなかった幼少期の頃の話になると、さめざめと泣いた。
最終弁論ではジェームス・ジャクソン弁護士が精神異常による無罪を熱弁したが、それも実らず陪審員達はわずか5時間の協議で、
8件の殺人全てに有罪の判決を下した。
当時のカリフォルニア州は実験的に死刑を禁止していた為、ブラウアー判事は11月8日、終身刑を言い渡した。
「被告は生涯釈放されるべきではない」との勧告に対し、ケンパーは静かに答えた。「貴方の仰る通りです、判事」

有罪判決を受け退廷するケンパー
ケンパーは上訴せず、現在もバカビルにあるカリフォルニア州立医療刑務所にて、終身刑に服している。
1978年以降、2年毎に仮釈放の申請をしているが、その度に却下されているそうである。今後も仮釈放される見込みはないだろう。
しかし、アメリカでは囚人1人あたりを養う費用は年間約3万8000ドル、と言われる。
2012年4月現在、38年間を獄中で過ごしたケンパーには、すでに約144万4000ドルの税金が投入されている事になる。
もしケンパーが仮に73歳まで生きるとすると、合計約182万ドルの経費が必要になるのだ。
ケンパーは社会に損害を与えるという復讐を、今も続けている事になる。

余談だが、犠牲者の何人かの肉を口にした事について、どうしてそんな事をしたのかと裁判で尋ねられたケンパーは、こう答えている。

「彼女達と本当の意味で一つになりたかった。彼女達を自分だけのものにしたかった。そして現実にそうなった。
今はもう…俺だけのものだ」

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.62 愛に飢えた殺人鬼 ヒッチハイカー連続殺人事件 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
続・連続殺人者 (タイムライフ)
現代殺人百科 (青土社)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

42人の女性を殺害!? パラノイア症の売春婦憎悪者

本名ジェラルド・ユージン・スタノ 通称ジェラルド・スタノ

「体を売って稼いでいるような汚らしいメス豚どもは我慢ならない。全員殺すしかない」(ジェラルド・スタノ)

逆恨み系男の典型、ジェラルド・スタノ
哺乳類の中でも特に人間という生き物は「生まれてすぐに愛情を注がれないと、一生愛について理解する事はない」と言われる。
生後6ヶ月で売春婦だった母に捨てられたスタノは以後、売春婦を憎悪するパラノイア症に取り付かれた。
そんなジェラルド・スタノ42人の女性を殺害した恐るべき連続殺人鬼になったのは、ある意味当然だったのかも知れない。

過去:悲惨な幼少時代
ジェラルドは1951年9月23日、ニューヨーク州の下町シャネクタディに生まれた。生まれた時の名前はポール・ゼニンガーといった。
母親は売春婦、そして父親は不明だった。生まれたばかりのジェラルドは母親にずっと放置されたままだった。
心配した隣人達の通報を受けて保護に当たった担当者は「あまりに酷い、動物レベルの状態」にショックを受けたという。
赤ん坊だったジェラルドは、半年もの間ほぼ放置されていたのだ。
食べ者はほとんど与えられなかったと見えて痩せこけて栄養失調、何週間も垢まみれで汚れたままの服をまとい、オムツは大小便にまみれている状態だった。
赤子は便を玩具にして遊んでいるという、目を背けたくなる状況だった。この後赤子はスタノ夫妻の養子となった。
父母となったスタノ夫妻は赤子の養育に最善を尽くしたが、ジェラルドと名付けられた赤子は、便で遊ぶのを一向に止めようとしない。
夫妻の愛情に対してまったく反応を示さず、魂を失ったかのように感情のない乳児だった。

幼稚園では先生のいう事に集中出来ず、他の園児に噛み付いたり殴ったりと、乱暴な行為が多かった。
小学校に入っても問題児である事には変わりなかった。クラスメイト全員に嫌われているから友達は1人もいない。
話し方はゆっくりでぎこちなく、しかし注意深い性格で、そして赤子時代の反動か、異常なまでに清潔好きになっていた。
その上に整頓癖がある。どんなものでもあるべき場所にないと、怒って癇癪を起こしてしまう。家具の場所が変わるだけで落ち着きがなくなる。
そして9歳になるまでおねしょが治らなかった。
中学に進学すると太った体と度の強いメガネをからかわれ、虐められるようになる。IQは平均以上だったが、成績は音楽以外は最低だった。
(IQは高いが一部の認識能力が低いために成績全般が低迷するのはよくあることで、シリアル・キラーにはかなり多いタイプである)

高校時代
高校からは、ジェラルドは養父の財布から、現金を盗むようになった。21歳でやっと高校を卒業するが、いつまでも定職に付こうとしない。
アパートを借りて一人暮らしを始めるが、他人の部屋から現金を盗んだのがバレてしまい、掏ったもんだの挙句大家から退去を命じられる。
どんな仕事についても、いい加減で適当な勤務態度からすぐにクビになってしまう。

ガソリンスタンドの巡業員、ホテルの清掃員、レストランの皿洗いなど、各地を転々としながらジェラルドは、有名なストック・カーレース、
デイトナ500マイルレースで有名な、フロリダ州のデイトナビーチに流れ着いた。

発覚:ある売春婦の証言
1980年3月、ドナという売春婦がポリスボックス(交番)に駆け込んできた。「『客』にナイフで切りつけられた」という。

「ヒッチハイクをして赤い車を運転した男に拾われたのよ。私はクスリを決めてハイになってたから、なんでもしてあげるって言った。
でもその男、私をナイフで殺そうとしたの!」


と太腿の傷跡を見せた。傷は深く、27針も縫ったという大怪我だった。
ドナは麻薬を服用していたが、犯人の顔と車の特徴はしっかりと覚えていた。車は2週間ほどで見つかり、同時に車の持ち主もすぐに判明した。
男の名はジェラルド・ユージン・スタノ。過去に売春婦に対する傷害事件を何度も起こしている。
異常なまでの潔癖症であるスタノにとって、汚い靴で自慢の車を汚されるのは我慢のならない事だった。

「売春婦ごときが俺の車にビールの一滴でもこぼすなど許さない」

もう一つ、ベストドレッサーを気取っていたスタノは、自分のファッションセンスを馬鹿にしたり否定されるような事を売春婦に言われると、
「体を売って金を稼いでるような牝豚が俺のファッションにケチをつけるとは何事だ」と逆上したという。
その前月にはメアリー・キャロル・メイハーという20歳の女性水泳選手が、フロリダ空港近くのゴミ捨て場で全身をメッタ刺しにされた状態で、遺体で発見されている。
腐敗が相当進んでいたが、奇妙な事に犯人はメアリーの遺体を折った木の枝で覆い隠すようにしていたのだ。
連行されるスタノ
スタノの首実検(面通し)に呼ばれたドナはスタノを見て「絶対にコイツよ、間違いないわ」と断言した。
スタノは売春婦を良くヒッチハイクで拾っているという話を聞きつけた捜査官は、「メアリー・メイハー殺害もひょっとしたらコイツが?」と疑惑を持った。
もちろんメアリーは水泳選手であり売春婦ではない。しかし捜査陣は「メアリーはよくヒッチハイクを利用していた」という証言を得ており、どうも引っかかるものがあった。
とりあえず捜査官達は事情聴取に立ち会う事にした。
メアリーの写真を見せられたスタノは、彼女を車に乗せた事とはあっさり認めたが、捜査官がいざ尋問をはじめると奇妙なボディ・ランゲージを交えて、のらりくらりと返答した。
(スタノのボディ・ランゲージに興味のある方は当ブログのリンク先である殺人博物館様のスタノの項目をご参考いただきたい)
しかし捜査官の1人から「スタノ、アンタは彼女に手を出そうとしたんだろ?でも彼女はその気にならなかったんだな?」という質問を浴びせられた時、
スタノの顔は怒りであっという間に真っ赤になった。

「ああ。その気になりやがらねぇ! それどころかあのアマ俺をぶん殴りやがった。ふざけやがって!
だからグッサリ殺ってやったのさ!」

警察はスタノの気の短さを利用して、ついにメアリー殺害を自供させる事に成功した。スタノはその後タガが外れたのか、恐るべき連続殺人を自供する事になる。

殺人:車と音楽だけが生き甲斐の男
デイトナビーチに着いたスタノは、相変わらず友人も作れず、ガールフレンドもできなかった。

「俺の顔は決して悪くない。体だってガッチリしている。精力抜群のイタリア系アメリカ人だ。どうして俺はもてないんだ。
俺の良さを理解出来ない馬鹿女が多すぎる」


スタノは女性への身勝手な憎悪を滾らせ、アルコール、麻薬に手を出していた。
欲求不満の解消はドライブと音楽しかなかった。スタノの休日はまず洗車から始まる。ピカピカに磨き上げた自慢の愛車を、1日に300キロ近くもドライブする。
たまに若い女性をナンパして車に乗せる事に成功しても、大抵は喧嘩別れになってしまう。
一流ドライバーを自認しているスタノに、ドライブテクニックに文句をいうのは厳禁だった。
運転している時もビールを放さないので危険なハンドルさばきが多くなるが、女性がその『飲酒運転』に文句をいうと烈火の如く怒ったという。
またスタノはカー・ステレオにも拘っていた。大音響の高性能カー・ステレオは、彼の誇りでもあった。
ドライブしながら自慢のステレオで音楽を大音響で楽しむ。同乗している女が「うるさい」と文句をいうと、これまたスタノは激怒する。
殺害現場のスケッチ

1973年春、スタノは例によって自慢の車で音楽をガンガン響かせながら、休日のドライブを楽しんでいた。
たまたまヒッチハイクをしていた2人の家出少女、アンとジェニーを乗せた事が、殺人という最悪の結果となってしまう。
アンナ・フラワーズの『BLIND FURY』には、8年後のスタノのこんな供述が書かれている。

「人気のない場所に連れてから、2人の少女に『セックスしよう』といったら、あっさり断られた。たかが家出少女じゃないか。
こんないい車に乗せてやったのに断るとは何事だ。いつも体で稼いでいるクセに許せない。
懲らしめてやろうと、俺はナイフで少女たちの顔や手足をメッタ斬りにしてやった。痛みと飛び散る血で、少女達はパニックになった。
泣き叫びながら逃げようとするジェニーの首を絞めて失神させた。血を流しながら逃げるアンを捕まえて、メッタ刺しにして殺してやった。
意識を取り戻したジェニーは出血が酷く逃げる事が出来ない。
『慌てる必要はない、ゆっくり殺してやる』そう思った俺は、泣いて命乞いをするジェニーを、何度もメッタ刺しにした。
翌日、俺は車についた血痕を、時間をかけて洗い流した」


こうしてスタノは、連続殺人鬼への道を歩み出した。
普通、連続殺人犯というのは、1回目の殺人から2回目の殺人までの期間が数ヶ月から1年と長い。
これは逮捕される事の恐怖が、次の殺人を抑制するため、と言われている。スタノの2回目の殺人も、1回目から5ヶ月の間隔が空いている。
ジェニー、アンの殺害から5ヶ月経った9月、スタノはまたも17歳の少女を殺害した。
親切を装って車に乗せてやり、人気のないところに連れて行ってからナイフをちらつかせて脅し、両手を縛り上げた。
スタノは首を絞めては何度も失神させた、という。

「殺さないでと泣いて頼む少女を何度も首を絞めて失神させたよ。しまいにゃゾンビみたいになって何でも俺のいう事を聞いたね」

女性からまったく相手にされなかったスタノは、どうすれば女性を支配出来るかを知った。
スタノの多くの犠牲者は家出少女か、道端で客を捕まえようとしてる売春婦だった。
彼女達をビールやマリファナで誘っては人気のないところに連れて行き、殺害して遺棄した。
そして前述の通り、被害者の多くには、木の枝を被せて覆うという儀式めいた事をしていた。

「俺の人生に欠かせないモノが3つある。車、オーディオ、そして女を殺すことだ」

こうしてスタノの生活に、女殺しが組み込まれていった。

終結:悪夢の終わり
連続殺人者は殺人を重ねる内に次第に感覚を麻痺させ、より強烈な刺激・快楽を求めるようになる。
それはサディズムであったり、ネクロフィリア(死体愛)だったりと、倒錯した性行為と結びつく事が多い。
スタノは「俺は女が死んでいくプロセスに興味がある」と告白している。このため刺殺、絞殺、射殺、溺殺等、色々な方法で女を殺したという。
(この様々な殺害方法のおかげで同一人物の犯行とは思われなかった事件も多数あったという)

「誰にでもペースというものがある。俺は出来るだけゆっくり殺すのが好きなんだ

スタノのサディズムは次第に異常性、猟奇性を増していった。
17歳の少女に散々殴る蹴るの暴行を加え絞殺した後、死体にまたがって自慰をし、さらにその死体を犯した事もあった。
23歳のウェイトレスにオーラルセックス(フェラチオ)をさせている最中に、こめかみに銃を突きつけ殺害した事もあったという。
そして8年間に渡り殺人を続けたスタノは、前述の通り売春婦ドナの証言から、1980年4月に逮捕された。
開き直ったスタノは、刑事の尋問に対して恐るべき連続殺人を自供した。

「スタノ、お前さんは73年から80年までに一体何人の女を殺したんだ?」
「そうだな、年に4人から6人は殺していたから、30人か40人は殺している事になるな」

信じられないという表情をしている刑事に対し、スタノはまだ発見されていない死体を埋めている場所に案内する、と言い出した。
スタノと刑事達を乗せた数台のパトカーは、フロリダ空港近くの人の来ないような荒地に向かった。
そしてスタノの指示する場所を掘り起こしてみると、供述通り、女性の腐乱死体が見つかった。
スタノは34人の殺害を自供した。その後の捜査で、スタノに殺害された22人の女性の身元が判明した。
当初は司法取引が行われ、3件の第二級殺人で25年の懲役刑の3連続遂行、合計75年の刑が命じられた。
しかし、身元の判明した22人の殺人で次々に起訴され、その後3件の死刑判決を受ける事となり、フロリダ州立スターク刑務所の死刑囚監房に収監された。
尚、彼はそこで自分と同じ連続強姦殺人鬼の大物ともいうべきテッド・バンディと89年まで同僚だったという。
刑務所内でのスタノ
そして1988年「実は18歳の頃から殺人を始めている。その時の少女たちも含めれば41人の女を殺した事になる」とカミングアウトした。
事実、スタノが18歳の頃に彼が居住していた地域及びその周辺では、10代の少女が多数行方不明になっているという。
(20年前の件ということで、結局起訴は見送られたが)
バンデイ同様に命が惜しくなったのか、スタノはさらに42人目の殺害を告白し「死刑を延期するならこれらの遺体の発見に協力する」と足掻いた。
これに対し、当時のフロリダ州知事の言葉は非常に有名である。

「いや、もう結構だ。我々の望みは、一日でも早く被告が死刑になることだから」

スタノが処刑されたのと同型の電気椅子

1998年3月23日、スタノは電気椅子にて処刑され、48年間の生を終えた。
被害者女性の体内に残っていた精液のDNAがスタノのものとは違った、警察が自供を強要した、などから何件かは免罪なのでは?との声もある。
確かにそうかも知れない。それでも、スタノが凶悪な強姦連続殺人鬼だったことに、疑いの余地はないだろう。

参考文献
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
殺人王 世界殺人鬼ファイル (太陽出版)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。