世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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拝啓 親愛なる我が友、ミスター・レッサーへ。

「人間を更正させるには殺すしかないと、俺は信じている」 (カール・パンズラム)

カール・パンズラム
幼少の頃から過酷な虐待、裏切りを受け続けてきたカール・パンズラムは、人と社会の全てを憎み、それに危害を加え続ける事に生涯を賭けた。
拘置所に入ってもそれは変わらず、常にいざこざやトラブルを起こし、看守たちの手を煩わせ続けた。
しかし、1人の心優しき親切な看守が、パンズラムの心を開いた。
その看守の「友情」に感謝し、パンズラムが書き綴り渡した半生記には、驚くべき内容が記されていたのである。

告白:親切な看守
1928年の夏も真っ盛りな8月16日。ある大柄でがっしりとした体格の男が、ワシントンDC地方拘置所に拘留された。
8月のワシントン州は凄まじく暑く、30度を超える事もまったく珍しくない。拘置所の中は、囚人たちの汗と消毒薬の臭いが充満していた。
その囚人は20日の昼下がり、5ヶ月前にこの拘置所に赴任したばかりの若い看守、ヘンリー・レッサーに強烈なインパクトを与えた。
レッサーは房の扉の上のネームを確認すると、そこにはC・パンズラム、と記されていた。
見ると、パンズラムは鉄格子をその大きな手で握り締めている。レッサーは、何気なく訊いてみた。
「……あんたの裁判は、いつから始まるんだ?」「11月だ」パンズラムからは、そう返ってきた。
その燃えるような黒い瞳には凄みがあった。レッサーはパンズラムをきっとマフィアかギャングの大物に違いない、と思った。
「あんた、塀の外ではどんな仕事をしていたんだ?」「人間の更正だよ」すると、同じ房の2名の囚人たちが笑い出した。レッサーには意味が判らなかった。

貧しい家庭に育ったユダヤ人青年のレッサーは人当たりがよく、偏見を持たずに囚人たちに接していたため、囚人たちの評判も良かった。
そのレッサーの雰囲気が、ひょっとしたらパンズラムにも伝わったのかも知れない。
翌日、再びパンズラムが拘留されている前を横切ったレッサーは、またパンズラムに話しかけた。
「なあ、パンズラム。あんたが昨日言ってた人間の更正って、何だ?」するとパンズラムは無表情に答えた。

「人間を更正させるには殺すしかないと、俺は信じている」

だが、パンズラムの容疑は窃盗だった。歯科医の家に侵入してラジオを盗み、職務質問で堂々と「泥棒だ」 と答えて捕まったのだ。
そのことを問いただすと「そうさ。ケチな容疑さ。俺は何人も殺しているから、どおってことねえよ」
レッサーは直ちに所長のウィリアム・L・ピークに報告したが、ピーク所長も、警察も、検事も、パンズラムのハッタリだと信じていた。
「あいつはああやって他所の州での立件不可能な犯罪をでっち上げ、逃亡犯罪人引渡しで時間稼ぎしようとしてるんだろう」
実際、パンズラムは過去に何度も服役していたが、容疑はいずれも不法侵入や窃盗だった。
パンズラムの心を開いたヘンリー・レッサー
10月22日、パンズラムの房が抜き打ちで検査された。コンクリートに埋め込んでいる鉄格子の1本が緩められている。
こんなことを出来る腕力の持ち主は大男のパンズラムしかいない。
直ちに懲罰室に連行され、柱を抱く格好で縛られ殴る蹴るの暴行を加えられた上に、吊るし刑に処された。
両手を背中で縛られて手首から吊るされた状態で12時間も放置されたのだ。
心配したレッサーが様子を見に行くと、床に倒れていたパンズラムは「よぉ、お前さんかい」とレッサーに声をかけた。
見ると手首の皮膚が裂け、血が滲んでいる。「大丈夫か?」とレッサーが尋ねると「ああ、これぐらいは慣れっこよ」と答えた。
ところが別の看守が房を覗き込むと、パンズラムは口汚く罵った。たちまち4人の看守によってたかってリンチにかけられた。
不憫に思ったレッサーは、信用できる囚人に1ドルを預け、パンズラムに渡すように頼んだ。「これで何か美味い物でも買うように伝えてくれ」
1ドルあれば、追加の食料とタバコが買えるのだ。金を受け取ったパンズラムは最初、ジョークかと思った。
しかしレッサーの本心だと知った時、パンズラムの両目からは不覚にも涙が溢れた。25日、パンズラムの房の前を通りかかったレッサーに、パンズラムは話しかけた。
「ありがとうよ、他人に親切にされた事なんて、生まれて初めてだ。お前さんにだけは、俺のしてきた事を教えてやろう。
紙と鉛筆を差し入れてくれないか? そうすれば書いて教えてやれる」

囚人に紙を鉛筆を差し入れるのは、厳密には規則違反だった。囚人は書ける手紙の枚数には規制があり、そして必ず検閲される。
しかしレッサーには、そうすることでこの男が救われる、と思えたのだ。
翌日、レッサーは房の中のパンズラムに話しかけるふりをして、鉄格子の隙間から紙と鉛筆を差し入れた。パンズラムはそれをそっとマットレスの下にしまい込んだ。
10日ほどたった11月のある夜、レッサーはパンズラムの房にこっそりと近づいた。パンズラムはレッサーの姿を確認すると、鉄格子の間から1束の原稿を渡した。
そして少し会話をしたレッサーは、パンズラムが粗暴だが知的な精神の持ち主である事を悟った。愛読書はドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウエルの本だという。
パンズラムの裁判が始まるころ、レッサーはパンズラムの手記を一心に読みふけっていた。
だが、まさかパンズラムのいう「俺のしてきた事」が恐るべき大量殺人だとは、レッサーはこの時は夢にも思わなかった。

過去:典型的な厄介者
カール・パンズラムは1891年6月28日、ミネソタ州で小さな農家を営んでいたジョン・パンズラムの4人目の子供として生まれた。
父親のジョンは暴力的な男で、カールが7歳の時に家出した。
カールが初めて警察のお世話になったのは僅か8歳の時だった。酒を飲んで補導されたのだ。そして11歳で少年院に入れられた。
「俺はそこで、人が人に対して行ういたぶりについて、徹底的に教わることとなった」
体罰と称して殴つ蹴るの暴行を受け、裸で縛りつけられたこともあった。社会に対する激しい憎悪の萌芽がこの時に芽生えた。
その後も窃盗を繰り返し、シャバと刑務所を何度も往復することになっったカールは、1910年の釈放時に自身を「典型的な厄介者」と評した。
そして1915年、カールはその生涯を決定づける出来事に遭遇する。
サンフランシスコで逮捕された時、担当検事から「盗品の隠し場所を自供すれば求刑は最低刑の懲役1年にする」という司法取引を持ち掛けられたのだが、
それに応じても検察側は裁判で最高刑の7年を求刑してきたのだ。

「俺はちゃんと約束を守った。でも、判事も検事も約束を反故にし、たっぷり7年もの懲役を喰らわしやがったんだ。
ブタ箱に戻った時、看守どもは俺を嘲笑った。堪忍袋の緒が切れたとはこのことだぜ。
俺は房から抜け出すと、他の房の鍵穴をすべて埋めてから、辺りのものを手当りしだいにぶち壊した。
そして、ガラクタを積み上げてバリケードにすると火を放ったんだ。だが、奴らが突入してきたんで消されちまった」


23歳の時のパンズラム
それからのカールは事あるごとに反抗し、その度に「穴ぐら」と呼ばれる懲罰室に放り込まれて殴る、蹴るの暴行を受けた。
しかし、それでも彼は反抗を止めたりはしなかった。
看守の顔に便器の中身をぶちまけたり、食料庫に侵入して盗んできたアルコールを囚人に振るまって騒ぎを起こした事もあった。
囚人仲間の脱獄を手助けをし、その追跡の際にミント刑務所長が銃撃されて死亡した。カールは狂喜したが、新任の所長は彼を「消火ホースの刑」に処した。
(筆者注:我が国でも2001年、名古屋刑務所の刑務官4人が受刑者を死亡させた体罰である)
それでもカールは耐え抜いた。そして、この体罰が州知事の耳に入り、新所長は免職された。

1917年、チャールズ・A・マーフィーがオレゴン州立刑務所長が就任した。
彼は元陸軍大尉にしては珍しくリベラルな人物で、凶悪な囚人でも人として対等に接すればそれに応えてくれる筈だと信じていた。
彼と出会ったことでカールの人生に陽が射したかに思えた。ところが、結果としてこのことが裏目に出てしまうのである。

転機:リベラルな新所長
マーフィーの方針はそれまでとはまったく違っていた。これまでの所長と違い、残虐さなど微塵もない。懲罰も独房に入れられるだけで、ベッドと3度の飯が与えられた。
ある日、鉄格子を切っているのを見つかったパンズラムは捕まった。報告を受けたマーフィーは看守に訊ねた。
「パンズラムはこれまで何度穴ぐらに入れられたんだね?」
「8回です」と看守が答えると「ふむ、では穴ぐらに入れても効果はない、という事だな」そしてマーフィーは次のように指示を出した。
「明日からパンズラムの食事の量を増やしてあげなさい。それから、字が読めるようだったら、本も差し入れなさい」
「は、はあ…分かりました」

懲罰室
数週間後、パンズラムはまた脱獄を試みようと糸のこを持ち込んだのを見つかってしまった。
報告を受けたマーフィーは、所長室にパンズラムを呼んだ。
「君はこの刑務所で一番の厄介者だそうじゃないか」パンズラムは黙って頷いた。ここでマーフィーは信じられない提案をしてきた。
「君がもし『脱獄しない』と名誉にかけて約束するならば、君は刑務所の外に出て何処に行ってもいい。但し、夕食の点呼までには戻ってくるんだ」
パンズラムはしばらく考え、そして、名誉にかけて脱獄しないと誓った。もちろん、内心は脱獄するつもりでいた。
ところが、夕食の時間が近づくにつれて、後ろ髪を引かれる思いに駆られた。気がついたら、パンズラムは刑務所に戻っていた。
「ムショに戻ると、仲間たちから『どうかしてる』と口々に云われた。
俺もそう思ったから『俺が狂ってないかどうか診察してくれ』と刑務所医に頼んだが、狂ってはいなかったそうだ」

あんなに凶悪だったパンズラムが模範囚になって行った。着実に刑務所改革が進められた。
体罰はなくなり、食事は改善され、囚人による自主管理も行われるようになった。
全てが好転したかに思われたが、それをすべて御破算したのは他ならぬパンズラム本人であった。

事が起こったのはその年の9月のことである。いつものようにぶらりと外に出掛けたパンズラムは近所の病院へと向った。
今や模範囚の彼はそこの看護婦たちと文通をしていたのだ。ところが、その晩はいささか飲み過ぎて、夕食の点呼の時間を過ぎてしまった。
パンズラムの脳裏にふたたび「脱獄」の文字がよぎった。
パンズラムは1週間後に捕まったが、その際逮捕しようとした保安官代理を殺そうとしたため、マーフィーの面目は丸潰れだった。
彼の采配は全米からの注目を集めていたというのに、結局ダメだということが実証されてしまったのだ。
散々批判されたマーフィーは更迭され、刑務所も元のような豚小屋レベルに戻ってしまった。
パンズラムはこれまで他人と社会は憎んでいたが、己れは憎んでいなかった。
ところが、今回はかつて自分との約束を反故にした判事や検事と同じ事を、自分がマーフィーにしてしまったのだ。
「マーフィーは理想主義者だった……彼は俺を信じてくれたのに、俺は彼の信頼を裏切ってしまい、抜き差しならない状況に追い込んでしまったんだ」
マーフィーの信頼を裏切ってしまったパンズラムは自分自身を嫌悪し、完全に自暴自棄になった。

殺人:モンスターへの変貌
自分を含め、地球上のあらゆるものを憎悪するモンスターと化してしまった彼は、殺人にのめり込むようになる。
1918年5月、まんまと脱獄に成功したパンズラムは、ニューヨークで船員の免許を取った。
南米からヨーロッパに入り、英国で盗みを働いていたが捕まって、グラスゴーにある拘置所でしばらく過ごしている。
ニューヨークに戻った彼は、従軍時代に懲役3年の刑を命じた当時の陸軍長官、ウィリアム・ハワード・タフト(のちの第27代アメリカ大統領)の家に入り、3000ドルを盗んだ。
その3000ドルでヨットを買うと、船乗りの追い剥ぎ稼業を始めた。
船乗りを雇って沖に繰り出し、夜に酒をたっぷり飲ませ前後の区別もつかないくらい酔わせると、殺害して所持金を巻き上げるのだ。
これで少なくとも10人は殺した。さらに2名を雇ってまた殺そうとしたが、ヨットが座礁してしまったため、この2名にはちゃんと金を払って解雇した。
その後ベルギー領のコンゴに渡り、6人の現地人を雇うとワニ狩りに出掛けた。
「ワニは腹ペコだったみたいだから、俺はエサをやることにした。6人の黒人全員を撃ち殺して海に投げ込んだ。死体はきれいに平らげてくれたよ」
現地の少年を強姦して、頭を砕いて撲殺したこともあるという。(パンズラムは両刀使いだった)。
どこまでが本当なのかは判らないが「ヘンリー、お前さんにだけは教えてやる」という手記なのだから、嘘やハッタリを書くとは考えがたい。
おそらく、全てが真実なのだろう。最後の中国人を含め、犠牲者は20人にも及んだ。
その後、ニューヨークに戻ったパンズラムは運送会社に侵入して逮捕された。
尚、この件の裁判でもパンズラムは検察に司法取引の約束を反故にされている。
有罪を認めれば求刑は最低刑にする、と約束していたにも関わらず、裁判では最長刑の5年を求刑されたのだ。
そして5年後、出所した彼は歯科医の家に忍び込んでラジオを盗み逮捕され、ワシントンDC地方拘置所に拘留されたところでレッサーと知り合う事になる。

パンズラムの手記をすべて読み終えたレッサーは、戦慄を覚えたが、同時に深い感銘を受けた。刑務所の現在の制度を痛烈に批判する行には、知性すら感じた。

「俺がどうしてこんな人間になってしまったのか、知りたきゃ教えてやろうか?
俺は好き好んでこんなケダモノになったわけじゃない。奴らは俺を捕まえて、ムショで散々虐待してから釈放するんだ。それの繰り返しだった。
例えば、お前さんが虎のベイビーを飼っていたとしよう。こいつを虐待して獰猛で血に餓えた怪物にしてから、世に放ったとする。
そいつは手当たり次第人間に襲いかかり、町はたちまち地獄絵図を化すだろう。それと同じことがこの国のムショでは行われているんだ」


1928年11月12日、パンズラムに判決が云い渡された。
何とこの裁判での検察は、パンズラムに司法取引の申し出を断られた事に怒ったのか(パンズラムにしてみたら当然の対応なのだが)、
25年という窃盗では有り得ないような懲役刑を求刑してきたのである。
怒り狂ったパンズラムは検察、判事、陪審団に怒鳴り声で悪態を突きまくり、判事や陪審団に「俺はもう何人も殺してるんだ!」と言い放った。
結果、判事と陪審団の心象をこれ以上ないくらい悪くしてしまい、パンズラムは国内で最も過酷と云われているカンザス州リーブンワース刑務所に、
求刑通り25年間服役する事になってしまった。
レッサーはパンズラムになんと声をかけていいのか分からなかった。少なくともパンズラムが怒り狂った理由は、レッサーには理解できた。
確かにパンズラムは窃盗犯だ。とはいえラジオを盗んで懲役25年はあんまりだと思った。
レッサーはパンズラムにタバコを1箱余分に差し入れることで、自分の気持ちを表した。

パンズラムが入っていた房
年が明け、パンズラムが移監される日が近づいてきた。レッサーは上司からパンズラムの独房の鉄格子の点検を命じられた。
レッサーは鉄棒を手にパンズラムの独房へと向った。鉄棒を確認したパンズラムは全身に緊張をみなぎらせてレッサーを見据えた。
レッサーは「大丈夫、何もしやしないよ」という意味を込めて微笑み、パンズラムの背後にある鉄格子の窓を指差した。
「なあ、カール。あんたはあんなに綺麗な夕日を見たことがあるかい?」その瞬間パンズラムは後ろに飛び退き、そしてレッサーに訊ねた。
「どうして俺を振り向かせようとするんだ?」レッサーは鉄棒に眼をやりながら云った。「ああ、これかい? あの窓の鉄格子を点検しなきゃならないんだ。ただそれだけさ」
パンズラムはレッサーの真意を吟味しているようだった。そして、結論が出たのか、次第に緊張が解れていった。
「以前俺を振り向かせて、振り向いた瞬間に鉄棒で殴った奴がいたんだ。だからお前さんもそうするのかと思ってな」
「ははは、私はそんなことはしないよ、絶対に」レッサーは窓に近づくと、鉄格子を1本ずつ鉄棒で叩いてグラついていないかを調べ始めた。
その背後でパンズラムがにじり寄ってくる気配を感じた。それでもレッサーは点検を続けた。
「夕日なんかに関心を向けようとしてすまなかった。あんたは今、とてもそんな気分になれないよな」レッサーはゆっくりと歩いて房を出ると、ドアに鍵をかけた。
「お前さんは勇気があるな」パンズラムが低い声で云った。「だがな、あんな風に俺に背中を向けちゃいけない。もう2度とするな」
レッサーは微笑みながら答えた。「勇気とかじゃないよ。あんたが私に手を出さない事を知っているだけさ。友達じゃないか」少し沈黙が続いた後、パンズラムは答えた。
「ああ。お前さんだけは殺したくはないぜ。だがな、気をつけろよヘンリー。今の俺はひどく不安定で、どんな事でもしてしまいそうなんだ」

死刑:最初で最後の公平な正義
1929年2月1日、リーブンワース刑務所に移監されたパンズラムは、その後もレッサーと文通を続けていた。
しかし6月20日、彼を虐待し続けていた作業監督のロバート・ウォーンクを金てこで撲殺、1930年4月15日、死刑を宣告された。
ウォーンクは地元のKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーだった。
KKKは白人至上主義有色人種差別の他に「刑務所に入る奴は悪い事をしたからだ、酷い目に合って当然。優しくしてやるなど言語道断」という超保守思想団体でもあり、
そのメンバーでもあるウォーンクが、パンズラムのような男とはソリが合う訳がなかったのだ。
拘置されている間、パンズラムはまた看守たちにリンチを受けるんではないかと思ったが、しかし、そのような事は一切なく、単に反省室に閉じ込められただけった。
パンズラムはレッサーへの手紙に「驚いたぜ、まさか何もされないとはね。最初からこういう扱いを受けていたら、俺は歪まなかったかも知れん」と書いている。
この手紙を読んだレッサーは「私はあんたが根っからの悪人じゃないと思っている。あんたは更正出来る筈だ。必ず減刑を勝ち取って見せる」と返事を書き、
そしてそのために尽力したが、パンズラムからの返事の手紙は以下のようなものだった。

「坊や、いい加減に目を覚ませよ。俺は善人になろうなんてこれっぽっちも思ってないんだぜ。俺がこうなるまでに30年以上もかかったんだ。
それなのにどうしてお前さんは俺が善人に生まれ変わるなんて信じているんだい? 黒はいきなり白になったりしねえんだよ。
しかし不思議なもんだな、ヘンリー。お前さんほどの善人が、俺みたいな極悪人を好いてくれるなんて。俺ですら、俺自身を心から憎んでいるってのによ!」


パンズラムは死刑判決に「不満はない」と答え、上訴はしない事を公選弁護人に伝えた。
折しも米国では死刑反対運動が高まっており、カンザス州はその流れをいち早く汲んで死刑を廃止していた。にも関わらずパンズラムには死刑判決が出たのだ。
当然のように死刑反対論者たちは激怒し、パンズラムに面会を申し入れ助命請願者への署名を求めた。
だがパンズラムは怒鳴り、卑猥な言葉を浴びせて彼らを追い返すだけだった。
死刑反対団体からの「どうして死刑を逃れたいとは思わないのか?」という質問に対し、以下のように答えている。

「今回の俺に対する死刑判決は、俺が生きてきて初めて見た、
最初にして最後の『公平な正義』だと思っている」


時の大統領ハーバード・フーバー「どうか俺の死刑を延期したり中止しないようにしてくれ」と直訴の手紙も送った。
パンズラムの意思が固いと知るや、レッサーにはもうどうする事も出来なかった。
今、彼に出来ることは手記を世間に広め、現在の刑務所制度が抱える問題とその改善を促す事だけだった。
1930年9月5日、早朝6時になろうとするころ、パンズラムの死刑は執行されようとしていた。
立会い人に2名の牧師がいるのを見て彼は激怒し「聖書を盾にした偽善者なんて追っ払ってくれ」と刑務所長に訴えた。
抗議が認められると晴れ晴れとした表情をし、こう言った。「さあ、さっさとやろうじゃないか。何をもたもたしてやがんだ」
絞首刑台の上で死刑執行人に「最後に何か言い残すことはあるか?」と聞かれると、彼はこう答えた。

「ああ、あるね。さっさとやれよこの田舎者、お前がノロノロしている間に俺なら10人は絞め殺してるぜ!」

その数秒後、絞首刑台の床板が開き、パンズラムの首の骨が折れた。
パンズラムの裁判で精神鑑定を担当したカール・メニンガー博士は、数年後、パンズラムをこう語った。
「彼はその獰猛さと気性の激しさ、そして激しい憎しみをもっているという点で、非常にまれな男だった。
我が合衆国の刑務所制度が抱える問題から今後も第2の彼が生み出されるかも知れない。その意味でも私は生涯、パンズラムを忘れることはないだろう」


パンズラムがレッサーに宛てた半生記
パンズラムの手記には多くのジャーナリストや作家が感銘を受けた。
しかし衝撃的な内容と、KKKのような超保守思想派の反対により、その出版は困難を極めた。
パンズラムが処刑されてから40年後、この手記は『 Killer, A Journal Of Marder 』というタイトルで1970年、ようやく発刊に至った。
その間、看守の職を辞め衣服品のセールスマンに転職したレッサーは、亡き「親友」のため、ずっと尽力し続けたのである。

『 Killer, A Journal Of Marder 』は日本では扶桑社より『全米メディアが隠し続けた第一級殺人』というタイトルで発売されている。
残虐ではあったが、実は高い知性の持ち主でもあった大量殺人者の心理を研究したこの本は、犯罪研究家の必読の書である。
興味を持たれた方は、ぜひ一度目を通すことをお勧めする。

参考文献
全米メディアが隠し続けた第一級殺人 (扶桑社)
週刊マーダー・ケースブック31 憎しみの殺人者たち(デアゴスティーニ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

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テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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