世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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暴走していった狂気 サンセット通りの殺人鬼

本名ダグラス・ダニエル・クラーク 通称ダグ・クラーク

「いいかキャロル。女はな、愛する男の為なら何だって出来るんだ」(ダグ・クラークが恋人のキャロル・バンディに言った言葉)

その男、ダグ・クラークは過剰なまでの性欲と殺人願望を持っていた。
自分を理解してくれる絶好のパートナーを見つけた男は、自身の異常なるファンタジーを実現する事にした。
そして女も、男に嫌われたくない、見捨てられたくない一心から、悪夢の世界にのめり込んでいった。
やがて─────2人は「サンセット通りの殺人鬼」(サンセット・ストリップ・キラー)と呼ばれ、米国犯罪史にその名を残す事となった。
サンセット通りの殺人鬼ダグ・クラーク
事件解決のキッカケとなったのは女、キャロル・バンディに残っていたほんのわずかの良心、人間性だった。
「100人殺すのが目標だ」とキャロルに嘯いていたクラークの単独犯なら、犠牲者は6人では済まなかっただろう。

過去:出会い
夫の暴力に耐えかねて離婚し、9歳と5歳の子供を連れてLAのアパートに引っ越してきたキャロル・マリー・バンディ(36)は、大家であるジョン・ジャック・マレーに、
たちまちお熱を上げた。
2人は愛し合い肉体関係を結んだが、不動産会社に勤務する傍ら、カントリー・ミュージック・バーで歌手としても出演しているマレーは、
キャロルを鬱陶しく思うようになり次第に無視し始めた。
キャロルはマレーが出演する日には必ずそのバーに通い詰めたが、マレーにはキャロルに対する愛は残っていなかった。
その後もしつこく“ストーキング”するキャロルに対しマレーは「キミのことは今は迷っている、その内連絡するから」と後日返事をするのを約束した。
(筆者注:これがマレー自身の命を落とす約束となっていまう)
キャロル・バンディ
ある日、いつものようにマレー目当てでバーで寂しく飲んでいたキャロルは、長身でハンサムな男に声をかけられる。
この男こそが、のちにキャロルと2人でサンセット通りで被害者を拾っていたことから「サンセット通りの殺人鬼」と呼ばれ全米を震撼させた、
ダグラス・ダニエル・クラークである。
クリーニング会社にボイラー技師として勤務する31歳のクラークに、キャロルはあっという間にマレーの事など忘れ惚れこんだ。
それまでのナンパ経験から、酒場で1人で飲んでいる太り気味の婦人が金ヅルになるのを知っていたクラークは、金目当てでキャロルに声をかけたのだが、
看護婦という職業で子持ちのせいか母性的なキャロルに、クラークも次第に惹かれていく。
最初はキャロルに売春婦を交えて3P、くらいの妄想をしていたクラークだが、キャロルというパートナーを得て妄想が次第に暴走し始めた。
殺人願望と過剰な性欲をもてましていたクラークは、ついにその残虐な妄想を実行に移す事にした。

殺人:ハンティング
1980年6月10日の夜、クラークはハリウッドの中心地を横切るサンセット大通りを車で走っていた。
この辺りには普通の売春婦に混じって、多くの家出娘たちも「たちんぼ」して身体を売っている。
やがて歩道に立っている2人の少女を見つけて声をかけ、交渉を始めた。だが少女たちは2人一緒でなければ嫌だという。
クラークはその条件を飲んで2人を車に乗せ、しばらく走った後、まわりに家が全くない草むらに車を停めた。
クラークはズボンとパンツを脱いで切り株に腰を降ろした後、少女の1人にフェラチオを命じた。少女は経験がないのか、極めて下手ではあったが一生懸命舐めている。
その時クラークは隠し持っていた拳銃を取り出し、いきなり少女の頭めがけて引き金を引いた。激しい音と共に血が飛び散り、少女は横にふっ飛んだ。
これを見ていたもう1人の少女は悲鳴をあげ、逃げ出したがクラークは追いつくと、その少女の頭にも弾丸を発射した。
即死ではなかったが、倒れてうごめいている少女の胸をもう一回撃ち、とどめを刺した。
その後クラークは、少女たちの死体を毛布にくるんでトランクに乗せ、自宅のアパートへと運び込んだ。血だらけの少女たちの死体から服を脱がせて全裸にした。
自分も裸になり、少女たちの死体を舐めまわし、その後死体と様々な性行為を行った。
カメラで少女たちの死体を撮影した後、2人の身体を69の体勢にして1人で楽しみ、一通り撮影を終えるとすぐに寝てしまった。
翌朝クラークは、2人の死体をLAから遠く離れた場所に捨てに行った。
2日後の6月12日。クラークが空き地に捨てた少女たちの遺体は発見された。
テレビでも報道され、この少女たちは16歳のシンシア・チャンドラーと14歳のジーナ・マラノで以前から家出を繰り返し、麻薬にも手を出していたことが分かった。

数日経ってクラークは、キャロルに全てを打ち明けた。話を聞いたキャロルは恐怖に震えた。

「今の話、本当なのダグ?前に言ってた妄想じゃないの?嘘みたい…」

「2人の家出娘の死体が見つかったとテレビのニュースでもやっていただろう。俺が殺したんだ。
よし、今度俺が殺しをするところを見せてやるぜ。驚くなよ」


凶器の銃
6月20日の夜、クラークは後ろの座席にキャロルを乗せて、またもやサンセット通りを走っていた。
何人かの少女売春婦に声をかけたが、みんな後ろのキャロルの姿を見ると敬遠した。しかし、一人の少女が引っかかった。
フェラチオで40ドルと話もまとまり、少女はクラークの車の助手席に乗りこんだ。
人気(ひとけ)のない道路に車を停めると、少女はクラークにフェラチオをし始めた。
しばらくしてからクラークが、後ろ座席のキャロルを振り向いて片目をつぶって合図すると、キャロルは拳銃をクラークに渡してしまった。
クラークは少女の即頭部めがけて引き金を引いた。弾丸の発射の音が響き渡り、少女が崩れ落ちたが、即死ではなかった。
少女は苦しみながらうごめいている。キャロルは悲鳴を押さえて震えながら見ていた。
クラークは少女を車の外へ引きずり出し「キャロル、このメス犬を裸にするんだ」と命じた。
全裸にされ、地面に横たわって苦しみもがく少女を残して、クラークたちは立ち去った。
この少女はこのまま死亡し、遺体が発見されたのは数ヶ月後である。場所はLA郊外のチュナ峡谷付近。発見された時には白骨化していた。
身元は今も不明のままである。

狂気:歯止めのかからぬ殺人願望
6月23日の夜。前回の殺人からまだ3日ほどしか経っていないが、この日もクラークはハリウッドの大通りで、前と同じようにキャロルを後ろに乗せたまま、
エクシー・ウィルソン(20)という売春婦を拾った。
寂しい駐車場に車を停めて、再びエクシーにフェラチオをさせる。そして隠し持っていた拳銃を取り出し、キャロルに目で合図した後、
少女の後頭部に拳銃を当てて引き金を引いた。響音と血しぶきが飛び散る。
が、その瞬間クラークも悲鳴をあげた。エクシーは撃たれた瞬間、激しくクラークの性器を噛んだのだ。

「このくそったれアマが!俺の大事なモノに噛み付きやがって!!」

クラークはエクシーの死体を車から引きずり出すと、トランクに入れていた狩猟用ナイフで首を切断した。
慣れない経験であり、ナイフで人間の首を切断するというのは簡単にはいかないが、何とか切り落としてプラスチックの袋に入れてトランクに詰め、
キャロルと共に現場から逃走した。
途中カーブにさしかかるたびに、トランクの中からゴロゴロと頭が転がる音が聞こえた。クラークはそのたびに大笑いした。キャロルも一緒になって笑っていた。
その時の様子をキャロルはこう回顧している。

「車がカーブを曲がるたびに、トランクから生首がゴロゴロと転がる音が聞こえました。
それを聞くと、ダグは大声で笑い出しました。私も釣られて笑いました。
今思えば、あの頃の私は正気を失っていたと思います。ダグの為ならどんなに恐ろしいことも平気だったのです」


この少女は翌日、使用されていない駐車場から全裸で首のない状態で発見された。持ち帰った首はアパートの冷蔵庫に保存した。
そしてクラークの部屋にキャロルが来ている時、クラークは冷蔵庫から首を取り出し、キャロルに「この首を思いっきり綺麗に化粧してくれ」と頼んだ。
キャロルは化粧道具を持って来て少女の顔に化粧をほどこした。この時にはキャロルは怖いとか気持ち悪いとかいう感情はなかったという。
綺麗になった少女の首をクラークは大層気に入り、何度もキスを繰り返した。
しばらくしてクラークは首を持って風呂の中へ入り、当分出て来なかったので、「何をしてたの?」と聞くと、どうやら生首にフェラチオをさせていたらしい。
一通り弄(もてあそ)んだ後、クラークは、生首を木製の箱に詰めて死体発見現場からそれほど遠くない場所に捨てた。
これは、首なし死体が発見された3日後の27日にたまたま通行人が見つけ、何だろうと思って箱を開けてみて仰天した。
この首は3日前に発見された死体の頭部であることが判明し、被害者はエクシーだったことが分かった。

暴走:ついに犯した殺人
7月の下旬、クラークの殺人を何度も見ていたキャロルは自分にも出来るのではないかと思い始めた。しかもちょうど殺したい相手がいる。
そう、その相手こそ自分に冷たい態度をとるようになったジャック・マレーだった。
8月3日、キャロルは計画を実行に移した。マレーを電話で食事に誘った。
「もう今後一切付きまとわないので最後の記念に」というキャロルに、マレーもいつぞやの約束もあるし、これで最後ならと応じることにした。
食べ終わった後、その男の運転する車で郊外へと走った。
寂しい場所に車を停めると、2人は後ろ座席で以前のように性行為にふけった。右腕に拳銃をそっと握り、男が絶頂感を感じている時、彼の高頭部めがけて引き金を引いた。
響音が響き渡って血が飛び散り、男はそのままばったりと倒れた。
初めての自分1人での殺人にしばし呆然としていたが、やがて心が落ち着き、以前クラークがやったように狩猟用のナイフで男の首を切断しにかかった。
これは女1人でやるのは大変な作業で、完全に切断するまで約1時間かかった。切断した首はプラスチックの袋に入れた。
数時間後、興奮覚めやらぬキャロルはクラークに自分の成し得た事を報告する電話をかけた。

「ダグ、ついに私やったの! あの男を自分1人で殺したのよ! ここにその首を持って来てるわ! すぐにあなたに見てもらいたいの!」

しかし、これに対してクラークの反応は期待していたものとは逆だった。

「なんてことをしてくれたんだ!?軽はずみなことはするなと言っただろう!
死体が見つかれば、警察から真っ先に疑われるのはお前だろう!
その男と付き合っていたのはお前なんだからな! そうなれば俺だって疑われる!!」


全くクラークの言う通りなのだが、せっかく喜んでくれるかと思ってした殺人なのに、その逆に大変なことをしてしまった。
キャロルは自分のしたことの重大さを知り、涙声でクラークにこれから先のことを相談した。
「今どこにいる? 今から俺が行くから、そこを絶対に動くな!」クラークは急いで死体処理に向かった。
結局マレーの死体は数ヶ月後、LA郊外の山の奥で彼のバンから首のない状態で発見された。この時にはすでに白骨化していた。
尚、頭部は未だに発見されていない。
マレーのバン

終結:取り戻した人間性
それからというものキャロルは憔悴し、ずっと寝れない日が続いた。
何という事をしてしまったのだ、という後悔の念。そしてクラークは「もし殺人の事を話したらお前の子供を殺すからな!」と脅すようになった。
マレーの遺体が発見された2日後、良心の呵責に耐えられなくなったキャロルは、上司の看護婦長にすすり泣きながら相談した。
驚いた婦長は警察に自首するように勧め、そして8月10日、キャロルはジャック・マレー殺害の容疑で逮捕された。
キャロルは主犯としてクラークの名を挙げ、4日後クラークも逮捕される事になった。
警察はクラークの自宅から被害者の下着類やスナップ写真を証拠として押収した。
職場のボイラー室から拳銃も押収。弾道テストの結果、それは殺害された被害者を撃った銃と確認された。

1982年10月から始まった裁判はアメリカ中が注目する一大イベントとなり、傍聴席には『刑事コロンボ』でおなじみの俳優ピーター・フォークもいた。
クラークと彼の弁護士は

「全ての犯行はキャロルとマレーによるもので、自分は単にキャロルの彼氏に過ぎない」

と全面無罪を主張、キャロルとマレーを非難した。
しかし陪審団はそんな主張を真に受ける訳もなく1983年1月28日、6件の第一級殺人、死体損壊、殺人未遂でクラークに死刑を宣告した。
陪審員の1人は「我々はこのような事件には死刑に投票しなければならない」と強い口調で言い切った。
2月15日には裁判長もクラークに死刑判決を言い渡した。
判決を言い渡された瞬間クラークは裁判長に

「せめて微笑みながら言ったらどうなんだ」

と悪態を突いた。
キャロルは「クラークの有罪を裏付ける証言をすれば死刑を求刑しない」という検察との司法取引に応じ、マレー殺害の1件と殺人幇助により終身刑を宣告され、
2003年12月9日、心不全の為に刑務所内で死亡した。61歳だった。
クラークの上告は全て棄却され、1992年6月、カリフォルニア州最高裁判所は死刑判決を支持。これによりサンセット通りの殺人鬼クラークは死刑が確定した。
2007年6月現在のクラーク
しかし逮捕から32年が経過し64歳になったクラークは、サン・クエンティン刑務所で死刑囚仲間であるランディ・クラフト同様、カナダの死刑反対団体をバックにつけ、
今も全面無罪を主張しているという。

参考文献
愛欲と殺人(扶桑社)
世界犯罪百科全書 (原書房)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館
現代事件簿

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

恐怖の学園都市 ゲインズビルの切り裂き魔

本名ダニエル・ハロルド・ローリング 通称ダニー・ローリング

「奴は外ではいい人ぶってるが、家に帰ると恐るべき悪魔に変貌する。奴の不条理な怒りや暴力の的にされるのは、いつも俺やお袋だった」
(ダニー・ローリング、父親について)

よく、男性は幼少期に見た父親の背中を無意識に追いかける、と言う。
しかし、自分を虐待してばかりいた父親に、そのような感情は持てなくなるのは当然かも知れない。
ゲインズビルの切り裂き魔ダニー・ローリング
微罪を繰り返し刑務所とシャバを行ったり来たりしていた男は、「ゲインズビルの切り裂き魔」として平和な学園都市を震え上がらせた。
ダニー・ローリングのその凶行は、自分を不条理に虐待してきた父親への無言の復讐だったのだろうか。

発端:学園都市を襲った恐怖
1990年、8月下旬のフロリダ州の北部にある学園都市ゲインズビル。
新入生達は来月から始まる新しいキャンパスライフへの、期待に胸を膨らませてアパートや下宿への入居を続々と終えており、街全体活気に満ち溢れていた。
1990年8月20日発売の「ザ・マネー」誌の特集「アメリカで住んでみたい13都市」の一つに選ばれたほどの美しい街並みと、学生たちの活気で街は賑わっていた。
しかしその一週間後、そんな華やいだ空気をどこかに吹き飛ばしてしまうような猟奇殺人事件が起きるとは、住民たちは知る由もなかった。

最初の事件は8月26日に起きた。
9月から新1年生となるクリスチーナ・パウエル(17歳)とルームメイトのソーニャ・ラーソン(18歳)の両方の母から、
「いくらコールしても娘が電話に出ない」との通報を受けたアパートの管理人が合鍵を使って部屋に入ったところ、血まみれで死んでいた2人を発見。
管理人は慌てて警察に通報した。
早速駆けつけた警察が捜査を開始したところによると、2人とも死因は鋭利な刃物による刺殺で、1人は全裸で、1人は半裸だった。
2人とも顔面から体中に至るまでズタズタに切り裂かれており、1人は乳首を噛み切られるか切り取られており、仰向けでドアに向かって大きく足を拡げられており、
部屋に入った人間には、わざと性器が丸見えになるようになっていた。
犯人は何のために、死体に恥辱的なポーズをとらせたのか。ある捜査員は「犯人は病的な変質者か? あま
りにもショッキングな犯行だ」
と青ざめて語った。
翌27日、今度はクリスティア・ホイト(18歳)がこれまたアパートの自室で、死体となって発見された。
犯人は彼女をレイプしたあと、鋭利な刃物で胸から腹部までを一文字に切り裂いて殺害。彼女の死体には首と乳房がなかった。
彼女の切断された生首は、何と化粧台の上においてあったのだ。
犯人は部屋に入った人間に生首が見えるように、わざわざ化粧台の上にキチンと置いていた。
さらに異常な工夫までしていた。化粧台の三面鏡を開いており、そのため部屋のいたる場所から生首が見えるのである。
もし誰かがカーテン越しに部屋を覗いても、生首が見えるようにしてあった。犯人のあまりに異常な行動に、捜査員たちは言葉を失うばかりだった。
警察はアパートの他の住民の指紋も採取するなどして必死に調べたが、犯人の手がかりは掴めなかった。

殺人:さらなる犠牲者
次に切り裂き魔の犠牲となったのは4年生のトレーシー・パウレス(23歳)と彼氏のマニーことマニエル・タボータ(23歳)だった。
将来結婚を誓い合った2人の仲はトレーシーの両親も認めており「背も高くガッシリとしたアスリートのマニーと一緒なら、痴漢や強盗の類が侵入しても安心だ」
と同棲を許可していた。
マニーの友人の1人であるトミー・キャロルは、日曜に何度もマニーに電話をし、留守電にまでメッセージを入れたが1度も反応がなかった事に心配していた。
トミーは火曜の登校前に2人のアパートのドアを叩いた。しかし返事がない。
例の切り裂き魔事件の事もある、と心配になったトミーはアパートの管理人を呼び、合鍵を使って部屋の中に入った。
そこでトミーと管理人が見たものは、上半身をメッタ刺しにされたマニーの遺体と、レイプされたトレーシーの遺体だった。
どうやらマニーは寝ている最中に切り裂き魔に襲われたようで、30ヶ所以上も刺されていた。
トレーシーは足を大きく開かれた状態で、やはり首は切断されていた。トレーシーの首は本棚の上に置いてあった。
部屋に踏み込んだ警官はトレーシーの生首と目が逢い、戦慄したという。
第4及び第5の遺体の発見により、ゲインズビルはアメリカ中のメディアの別の意味でのスポットライトを浴びる事となった。
5人中4人が若い女子大生という事もあり、1970年代にやはりフロリダ州で連続強姦殺人を犯した凶悪連続殺人鬼テッド・バンディを重ねる人も多かった。
メディアはバンディの事件と今回の事件を比較しながら、このアメリカ版切り裂きジャックをゲインズビルの切り裂き魔と名付け、新聞や週刊誌は飛ぶように売れた。
5人の犠牲者への哀悼の意を表した34thストリートのボード

警察は公表していなかったが、ゲインズビルの切り裂き魔の犯行に共通する部分を見つけ出していた。

1.被害者をレイプする際に口にガムテープを貼って口封じをし、犯行後にそのテープをはがして持ち帰っている。
2.血まみれの死体を綺麗に洗い流し、指紋などが一切つかないようにしている。
3.被害者をレイプした後、膣や直腸内を漂白剤で洗浄し、精液が残らないようにしている。


しかし、切り裂き魔は近代アメリカ警察の鑑識能力を甘く見すぎていたようだ。
犯行現場にわずか残っていた精液をDNA鑑定したところ、ダニー・ローリングという強盗常習犯のそれと一致することが分かった。
すぐに逮捕されたローリングは、5件の殺人と3件の強姦罪を全て自供した。しかし、あの残虐な犯行の動機については、沈黙を守るだけだった。

過去:父との撃ち合い
ダニエル・ハロルド・ローリング、通称ダニーは1954年5月26日、ジェームス・ローリングと妻クラウディアの間に生まれた。
ダニーは警察官だった父ジェームスに虐待されて育った。少年時代をこう語っている。

「親父の事を話していると気分が悪くなってくる。友達は家に遊びに来るのを禁止されていたし、お袋の家族すらもだった。
自分の妻の家族すら訪れるのを禁止とか、こんな馬鹿な話があるか。
普通の家庭なら楽しみにするクリスマス休暇だが、俺は毎年嫌で嫌で仕方なかった。理由は親父がずっと家にいるからだ。
親父がいると家の中に重く嫌な空気が充満してしまう。クリスマスツリーは飾り付けるし、プレゼントもある。七面鳥の丸焼きもケーキもある。
でも親父がいるせいで台無しだった。俺とお袋はいつも薄氷を踏む思いでビクビクと生活していた」

(母クラウディアは『ダニーは思い悩み10代の時に自殺を試みた事もあった』と証言している)

ダニーは高校に卒業したあと、職についてもすぐに辞めてしまった。
1971年に空軍に入隊するも、重篤な薬物やアルコールの問題で退役している。 ダニーはどんな仕事でも最長で2ヶ月しか続かなかった。
仕事にもつかずブラブラしている内に強盗を働いて捕まり、ミシシッピー州刑務所に服役したのが始まりだった。
釈放されると、すぐにまた強盗を働いては捕まり、また刑務所に送り込まれる。こうして南部4州の刑務所を出入りしている内に15年が過ぎた。
在りし日のローリング家

1990年5月、36歳になったダニーは何を思ったのか、突然家にひょっこり帰ってきた。警察官だったダニーの父はもう定年退職していた。
数日は何事もなく過ぎたが、その内ダニーは父と言い争う事が多くなった。
ある日ダニーと父は些細な事から口論になり、西部劇のように互いに射ち合うという、最悪の事態となってしまう。
ダニーはその時の事を、次のように供述している。

「激怒した親父は銃を俺に突きつけ、俺を家から追い出しドアに鍵をかけた。
俺は家に残されたお袋の事が心配になった。親父は昔から何かあるとお袋に暴力を振るったからだ。
非道い目になっていないか不安だったので、俺は車に隠していた38口径の拳銃をもって、ドアを蹴破って中に入った。
親父は即座に3発撃ってきたが全て外れた。元警官にしては下手な腕だ。
俺も3発親父に撃ち返したら、最初は外れたが次の1発は奴の腹に命中した。3発目は奴の眉間に当たった。
俺はてっきり親父を殺したと思ったら、奴は不死身だった。片方の目と耳がダメになったが、まだ生きていやがった」


ダニーはその場から逃走し、瀕死の状態だった父は病院に運ばれ奇跡的に助かった。そのままダニーはフロリダまで逃げ延びた。
彼は追い詰められていた。今度捕まれば殺人未遂でもう一生シャバに出られる事は出来ないだろう。親父を殺すことが出来なかったのが悔しい。
お袋が心配だが、もうどうする事も出来ない………。
それから3ヶ月後の8月下旬、ダニーはゲインズビルで狂乱の猟奇殺人事件を起こした。

審判:ローリング家の葛藤
1994年3月17日、スタンレー・R・モリス判事を裁判長として開始されたゲインズビルの切り裂き魔裁判は、全米中の注目を浴びる事になった。
以前はただの「ケチな強盗常習犯」だったローリングは、一気にその名を全米に知られる事となった。
裁判で明らかになった事実は翌日即座に記事になるような感じだった。ローリングは次のように証言した。

「俺の親父は二重人格者だ。警察官を22年間勤め上げ、今は退職している。今でも胸に輝くバッチを憶えている。
しかし家に帰って制服を脱いだ途端、別人になる。妻と息子に暴力を振う恐ろしい悪魔に変わるのだ」


ローリングはメディアのマイクに対しても、父親に対する怒りをブチまけた。

「親父は人を愛する事を知らない人間だ。外ではいい人ぶってるが本性は氷のように冷たい人間なんだ。
親父は足のトゲが刺さった老いて凶暴になった大熊だ。いつも怒りに燃えている。悪い事にその怒りの的にされるのは、いつも俺とお袋だった」


ジョン・J・カーンズジム・ニルソン両公選弁護人が弁護側証人として裁判に呼んだローリングの母クラウディアも、夫への恨みを口にした。

「ダニーはずっと夫から虐待されてきたのです。夫は何故か息子のダニーに嫉妬していました。
私が子供だったダニーを抱くと激怒するので、夫がいる時はダニーへの愛情を示す事が出来ませんでした。
ダニーが物心つく頃には『お前は15になるまでに刑務所に入っている』とか散々な事を言ってダニーの自尊心を傷つけまくりました。
幸せな日なんてただの1日もありませんでした」


こうしてローリング家の恐るべき葛藤が全米に明らかになったが、結局ローリングの真の動機は分からずじまいだった。
ローリングは事件をセンセーショナルにしようとして病的変質者の仕業に見せかけたのか?
それとも警察への挑戦だったのか? あるいは父への復讐のため、連続殺人を起こしたのだろうか?
犯罪ライターのサンドラ・ロンドン女史に語ったところによると「エクソシストⅢを見て、被害者を切り刻む事を思いついた」そうだが…。
「殺しは弱い者を徹底的にいたぶりたいと願うもう1人の自分、ジェミニの仕業」と主張するが、当然このような主張は受け入れられなかった。

事件から約4年後の1994年9月、5件の殺人と3件の強姦罪でローリングに5回連続の終身刑が言い渡され、マリオン刑務所に入った。
しかしその後、1989年11月4日にルイジアナ州シュリーブポートで起きたウィリアム・グリソム(55歳)と娘のジェリー(24歳)、孫のショーン(8歳)が惨殺された事件で、
ジェリーがレイプされた後に膣内を洗浄され、切り刻まれ屈辱的なポーズをとらされてたなど、ゲインズビルの事件と多くの共通点があったことから、
シュリーブポート警察は「グリソム一家殺しもローリングの犯行では?」とフロリダ警察に事件の詳細を問い合わせて、ローリングを正式に逮捕。
ローリングは今度は死刑判決を受けた。
ローリングはバンディやジェラルド・スタノも過ごしたフロリダ州立スターク刑務所に送られた。刑務所内で悪魔や被害者の絵を描いて暮した。
ローリングが刑務所内で描いた絵
ローリングは反省の念を示さず、最後まで犠牲者の家族らに謝罪を口にする事はなかった。
土壇場で刑に異議を唱えて控訴するも、米連邦最高裁判所によりあっさり却下された。
2006年10月25日22時13分、薬物注射による死刑が執行され、ゲインズビルの切り裂き魔は52歳でその生を終えた。

余談だが、グリソム一家殺しに関しては一貫して容疑を否認し続けていたローリングだが、死刑執行直前この事件も自身の犯行だった事をカミングアウトしている。

参考文献
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
CrimeLibrary

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

愛に飢えた孤独な首狩り巨人

本名エドマンド・エミール・ケンパーⅢ世 通称エド・ケンパー

「彼女達は死に、僕は生きていた…僕が勝ったんだ…」(エド・ケンパー)

父、そして母にも見放された孤独な巨人。それがエド・ケンパーだった。
米犯罪史上最も話題を呼んだ殺人鬼エド・ケンパー
2m6cmの長身と、人並み外れた高い知能指数。しかし、ケンパーはそれを連続殺人以外に活かす事が出来なかった。
ケンパーは今で言う「社会の負け組」だった。その巨体に似合わず本質的に臆病で、負け組である事に打ちひしがれて暮らしていた。
やがて彼は、自分を爪弾きにする社会に対し、復讐を計画するようになる。
遺体切断、屍姦、人肉食。ケンパーは米国犯罪史上最も話題を呼んだ殺人鬼として、その名を残す事となった。

発覚:ビッグ・エドの自首
1973年4月24日、午前5時。サンタ・クルーズ警察に電話がかかって来た。電話に出たコナー巡査に電話主は「女子大生殺しだ」と告げた。
その日は電話の接続状況は悪く、それは電話主にも分かったらしい。彼はもう一度声を張り上げた。

「いいか、もう一度言うぞ。これはイタズラ電話ではない。俺が女子大生殺しの犯人だ」

電話主はエド・ケンパーと名乗った。
現在コロラド州のブエブロの町の公衆電話から電話をかけている事と車のナンバーを教え、そしてこれまで実の母を含め8人の女性を殺害した事を告げた。
コナー巡査がそこに警官を向かわせる、というと、ケンパーはヒステリックに叫んだ。

「嘘じゃないだろうな!? トランクには弾が200発以上と銃が3丁入ってるんだ。俺ですら近寄りたくないくらいだ」

どうやらこのケンパーという男のいう女子大生殺しとは、ここ一年ほどサンタ・クルーズで起きている女子大生連続バラバラ殺人事件、らしい。
ケンパーは母親の家の住所を教え、自分が殺した母とその友人の遺体があるのでマイク・アルフィ巡査部長を調べに行かせてほしい、と頼んだ。
アルフィ巡査部長は数週間前、ケンパーの銃の購入申込書について所定の質問を行う為に母親の家を訪ねてきた警官だった。
ケンパーの話がイタズラ電話の類ではない事、彼の異常に興奮した精神状態からしてトランクの銃を使ってさらなる凶悪犯罪をしでかす可能性のある事は明白だ。
「コロラド警察は一体何をモタモタしているんだっ!?」コナー巡査はハラハラしながらケンパーに極力しゃべらせ、彼との話を引き伸ばしていた。
犠牲者の遺体の隠し場所について話していたケンパーは、出し抜けに叫んだ。「やっと来やがった。おっと、こっちに向かって銃を構えてるぜ!」

ケンパーが自首したその日の内に、サンタ・クルーズからコロラドに捜査関係者一団が流れ込んできた。
その中にはアプトスのケンパーの家で母親の遺体を発見したアルフィ巡査部長、ケンパーの飲み仲間で「親父のような存在」と慕っていたシェラー警部補
ピーター・チャン地区検事も含まれていた。
彼は法的権利の全てを放棄し、テープに向かって話し始めた。言い淀んだり、躊躇したり、言葉を濁すような事は一度も無かった。
一方、ケンパーがいつもたむろっていたバー『ジェリー・ルーム』や他の飲み屋での飲み仲間は、ケンパーが女子大生殺しの犯人だとは信じられなかった。
彼は暴力を嫌がる理性的で心優しき大男というイメージがあり、ビック・エドの愛称で親しまれていたのだ。
尚、カリフォルニアからではなく、コロラドから自首の電話をした理由について、ケンパーはこう語っている。

「カリフォルニアの警察なら問答無用で俺を射殺するだろう、その暴力が俺には怖かったんだ」

刑事に手錠を直してもらうケンパー。憎き母を殺して嬉しそうな表情
サンタ・クルーズに戻ると、ケンパーは細部に関する自分の観察力と記憶力を誇示するかのように、さらに長時間かけて自白した。

過去:心をコントロール出来なくなった15歳の少年
エド・ケンパーことエドマンド・エミール・ケンパーⅢ世は1948年12月18日、カリフォルニア州バーバンクに生まれた。
父のエドモンド・エミール・ケンパー・ジュニアは身長2mを越す大男、母のクラーネル・ケンパーも180cmを越す大女だった。
父ケンパー・ジュニアは第二次世界大戦で数々の武功を上げたが、軍退役後は電気技師をしていた。
ケンパー・ジュニアは巨漢にもかかわらず気が弱く、いつもガミガミと口喧しい母に押され気味だった。
クラーネルは「アンタは大学を出てないから稼ぎが悪い」といつもケンパー・ジュニアを罵った。
ケンパー・ジュニアも大声でこれに対抗し、ケンパー家はいつも夫婦喧嘩が絶えない険悪な家庭環境だった。
クラーネルに遂に我慢ならなくなったケンパー・ジュニアは、エドが7歳の時に離婚、妻子を捨てて家を出た。
幼いながらもどちらが悪いか判っていたエドは、心の中での母への憎悪を募らせて行った。この直後からエドに、次第に奇行が目立つようになる。
猫を殺して首を切断し、その首に向かって「どうか母を殺してください」と頼み込んだり、5歳年上の姉の人形をバラバラに切り刻んだこともあった。
また、8歳の時にエドは担任の女性教師に恋を感じ、「僕、先生にキスしたいんだ」と姉に打ち明けた。
「すればいいじゃない」姉が返答すると、エドはこう答えたそうである

「でも、そのためには先生を殺さなきゃならないんだ」

人形や猫をバラバラにしたり、キスをする為に女性を殺すという発想。後年の殺人の下地が、もう8歳の時点で出来上がっていた。

エドの異常性は、母クラーネルも感じていた。早熟なエドの過剰な性欲も心配の種だった。
姉や妹と間違いを起こさないように、そして「根性を叩き直す」と称し、エドの部屋を二階から地下室へと移した。
エドは泣きながら「それだけは勘弁してほしい」と頼んだが、母はエドが夜地下室に入ると、キッチン・テーブルを重石にして、はね上げ戸を開けられないようにした。
8ヶ月続いたこの『隔離』は噂を聞いた父ケンパー・ジュニアが「止めないなら児童虐待相談所に訴え出る」と警告した事でようやく収まったが、
この「地下室の闇の中で過ごした日々」がのちのエドの狂気、そして復讐心をさらに増大させたことは間違いないだろう。
1963年11月、父に預けられ、一週間でまた母の元に送り返されたエドは家を飛び出し、また父ケンパー・ジュニアのもとを訪ね「一緒に住ませてほしい」と頼んだ。
父も渋々承諾するものの既に再婚しており、明らかにエドは邪魔者だった。
クリスマス休暇にエドを連れてノース・フォークにある祖父母の農場を訪ねた父は、エドを置いて1人でさっさと帰ってしまう。
彼はまたしても父に捨てられたのだ。父はさらに、エドの電話番号を電話帳から消した。息子に関わりたくなかったのは明らかだった。
翌年6月、エドは母クラーネルの元に戻るが、母もエドを祖父母の元に送り返した。
両親からは完全に見捨てられた形のエドは、何の面白みもない田舎の祖父母の家で、完全に打ちのめされていた。
絵本作家だった祖母は母クラーネル以上の毒舌家で、やれ「穀潰し、お前みたいなのがいると金がかかって仕方がない」だの、
やれ「何だいその気持ち悪い目つきは。父親に言いつけるよ」だの、口を開けばエドを罵った。

8月27日、もう夏も終わりに近かったが、その日は朝から暑かった。
エドは突然立ち上がり、祖父からプレゼントされた22口径のライフルを持って、「ウサギを撃ちにいってくる」と祖母に告げた。
書き物をしていた祖母は顔も上げずに「鳥は撃っちゃ駄目だよ」とエドに念を押した。
その瞬間、エドに「自分でもどうする事も出来ない、怒りに近い衝動」が込み上げ、その場で祖母に発砲した。
そして倒れた祖母を怒りに任せて何度も包丁でメッタ刺しにした。そして戻ってきた祖父も同じようにライフルで射殺した。
エドは母に電話で「お婆ちゃんが死んだ、お爺ちゃんも死んだ」と告げた。
最初は事故だと言い張ったが、すぐにエドの仕業と看破した母は「保安官に連絡するように」とエドを諭した。
エドはやがて来た保安官に逮捕されたが、殺害理由を聞かれてこう答えた。

「お婆ちゃんを撃ったらどんな気がするだろうと思っただけです」

祖父を撃ったのは「祖母の死体をみたら祖父が悲しむだろうから」だという。
精神科医から妄想型分裂症と診断されたエドは、犯罪者用の精神病院であるカリフォルニア州立アタスカデロ精神病院に収監された。
15歳で逮捕されたケンパー

殺人:家にも社会にも順応出来なかった身長2m6cmの大男
運び出される母クラーネルの遺体
ケンパーはここで5年を過ごす事になるが、元々130台後半という非常に高い知能指数を持っていた彼は、模範患者を「演じて」たちまち信用されるようになる。
医師やセラピストの質問に対し、どういう答えを言えば「治療が効果を上げている」と思わせるかも熟知し、その通りに答えた。
身長が15歳ですでに190cmを越えていたケンパーは、この手の施設特有のイジメに合う事もなく、レイプ犯罪者達との会話でその手の知識を吸収していった。
あるレイプ犯は「『絶対に警察には言わないから』なんて被害者の9割は約束を反故(ホゴ)にし、警察にタレこむ」という経験をケンパーに教え、
「犯行がバレないようにするには、被害者を生かしておいちゃ駄目だな」と彼は思った。
ケンパーは医師達を欺きながら、荒々しい性的空想に耽り、自由になれる日を待った。そして5年後の1969年12月、仮釈放委員会はついに釈放の断を下した。
彼をずっと見てきた医師達は、彼を母親のもとに返すべきではないと勧告した。ケンパーの心の闇に対する母親を存在がどんなものか知っていたからである。
しかし仮釈放委員会は、この勧告を無視したのかそれとも届いてなかったのか、ケンパーを母の庇護下においた。
この時ケンパーは身長2m6cm、体重127kgという、見上げるような大男に成長している。
それと同時に、彼の心の中の魔物も、彼自身がコントロール出来ないまでに禍々しく成長していたのだった。
精神病院から釈放されたケンパーは、サンタ・クルーズの母のもとへ落ち着いたが、「完治」と認められたケンパーは、以後一切の治療を受けていない。
彼は警官になりたかったが、身長制限があって無理だった。
高い知能指数をもつケンパーは地元のカレッジでも成績はオールAだったが、缶詰工場やガソリンスタンドの店員、その他日払いの半端仕事で働いた。
意思の弱い男を徹底的に軽蔑する母には、ケンパーの生活態度が我慢ならなかった。ケンパーと母の間には口論が多くなっていく。
母は近所をはばかって声のボリュームを下げる事もなく「お前みたいな人殺しの息子がいるから、私はもう5年も男と寝られないんだ」とケンパーを怒鳴る事さえあった。
ケンパーは母についてのちに精神科医にこう語っている。

「お袋は男以上にデカイキンタマを持った女だった。俺はお袋に少しづつ去勢されたようなもんだ」
「お袋は何でも支配したがる牝犬だ。一度俺の歯を治療する、しない、の事で口論になった事もあった」
「他の誰ともあんな凄まじい口論なんてした事はなかった。男だったらマジでブン殴ってる。でも相手はお袋なんだ」


悩みを打ち明けられる友達も出来ず、社会にも順応出来ない。家に帰れば待っているのは母親との口論。ケンパーの『居場所』はどこにも無かった。
内心はいつも怯えて暮らし、孤独と無力感に打ちひしがれる日々。
ケンパーは徐々に「自分をのけ者にする社会に対する復讐」を計画するようになる。
18ヶ月の母親の保護監督期限が切れるやいなや、ケンパーは一人暮らしを始める。彼は地元の道路局に勤め、抜け道に精通し、ナイフの収集を始めた。
その間にケンパーは父と会っている。ケンパーはまだ、父と和解し親子らしい関係を築く夢を捨てきれていなかったのだ。
彼はレストランで父と食事を共にし、いざ支払いの段階になると父は白々しく「スマン、財布を忘れてきた」と薄笑いを浮かべて言った。
ケンパーも「親父の方が食事の量が少ないし」と父の分まで勘定を済ませた。父とのこの会食について後年ケンパーは
「懸案は綺麗に決着を見た。親父は全て許してくれた。祖父母の事も、一切合切だ」と皮肉を込めて振り返っている。
どの時間帯のどのルートが人目につかないかを徹底的に調べ上げ、どう振舞えば女性が安心出来る「愛嬌のある大男」を演じられるか、も身につけた。
そうした約1年間の「予行演習」の末……1972年5月7日。彼はついに行動を起こした。

決別:奈落へ転がり落ちる岩
ケンパーはヒッチハイクをしていたカリフォルニア州立大学の学生、メアリー・アン・ペスチェアニータ・ルチェッサを拾った。
ケンパーは1年間の訓練の間に身に付けたセリフで、2人がこの地域の地理に疎い事を聞き出した。
車を人気のないところに停めると、2人に仕事仲間から借りた銃を突きつけた。
恐怖で抵抗する気の無くなったアニータをトランクに押し込み、メアリーを手錠をかけシートベルトに繋いだ。
ところが、メアリーは動じず、ケンパーにこういった。「なにか悩みがあるのなら打ち明けなさい。聞いてあげるわ」
ケンパーはメアリーの落ち着き払った態度に感服し、手錠を外してやろうか、とも考えた。
しかし、アタスカデロ精神病院でのレイプ犯から「こういう場合は被害者は犯人を落ち着かせ、その間に逃げるケースが多い」と教えられたのを思い出し、
手錠を外すのは思い直した。
メアリーを黙らそうと二重にしたビニール袋を被せたが、メアリーも必死の抵抗を見せ、苛立ったケンパーは気がついたら彼女の背中を2度ナイフで刺していた。
ナイフで喉を切り裂いたら、メアリーはその後ピクリとも動かなくなった。仕方がないので、トランクの中のアニータもナイフで何度も突き刺し殺した。
そして遺体をアラメダのアパートまで運ぶと、まず首を切り落とし、首の無いメアリーの遺体を心ゆくまで陵辱した。
バラバラ死体をポラロイドカメラで写真に収め、太ももの一部を切り取って冷凍保存した後、山に捨てた。
2人の首は記念品として持っていたが、これも数日後、近くの谷へ放り捨てたという。
尚、ケンパーは切り取った太ももの肉を「後にキャセロール(グラタンみたいな料理)にして食した」と告白している。
(これは逮捕後精神科医が、いわゆる自白剤を使って聞き出したものである)

ケンパーが「記念」に持っていた犠牲者の遺留品
前回のジェラルド・スタノの記事でも「多くの連続殺人鬼が1回目の殺人から2回目の殺人まで間隔が空く」と書いたが、ケンパーも例に漏れず、
2度目の犯行まで4ヶ月の間隔が空いている。
その間ケンパーはメアリーとアニータを殺害した時の一部始終や、遺体を切断したり、首無し死体と性交した時のことを思い出し、空想に耽って過ごしていた。
そして次の犠牲者にはパークリーに住む15歳の韓国系女性アイコ・コーを選んだ。
アイコに手錠をかけ自由を奪ったあと、首を絞めて気絶させ強姦し、彼女のスカーフでそのまま絞殺した。
遺体を持ち帰ったケンパーは、首と腕を切断し、サンタ・クルーズの山中に捨てた。
アイコ殺害後、バイク事故で骨折して仕事を長期休んでいたケンパーは、少年時代の前科の記録の封印を申請し、11月受理された。
これで彼は自分で銃を購入出来るようになり、ますます「狩り」がしやすい状況になった。
ただ、仕事を休んだせいでアパートの家賃が払えなくなったケンパーは、仕方なく母クラーネルの元に戻った。例によってまた母との口論の日々が始まった。
年が開けての73年1月8日、家族や友人からシンディと呼ばれていた18歳の美少女ベビーシッター、シンシア・ショールがケンパーの犠牲になった。
シンシアはケンパーの銃での最初の犠牲者で、至近距離から頭部を撃たれての即死だった。
その時間帯、母が外出しているのを分かっていたケンパーは、シンシアの遺体を家に持ち込み、バスルームで遺体の首と腕を切断。
またも首無し遺体を存分に犯すと、首以外の部分はモントレイの高さ90mを越す断崖からビニール袋に詰めて捨てた。
首だけは取っておき自分の部屋の戸棚にしまい、時々話しかけたという。シンシアの遺体が発見されると、母の寝室の窓の下に首を埋めた。
2月5日、またも母と口論になり家を飛び出したケンパーは、23歳のロザリンド・ソープと20歳のアリス・リューを車の中で射殺。
翌日、頭部に打ち込んだ弾丸を抉り出し、遺体を切断し遺棄したが、ケンパーはこの遺体切断作業にもうスリルを感じなくなっていた。

「汚らしい、頭の悪いヒッピーギャルを殺したところで、社会はちっとも困らない。
でも、将来社会の重要なメンバーになるであろう上流階級、中流階級の娘を殺せば、社会の損失は大きい。
それに、家族に深刻な絶望感を味あわせる事が出来る」


こんな理由から始めた女子大生ヒッチハイカー狩りだが、彼は自分の犯罪人生にクライマックスが近づいている事を悟っていた。
しかし、どうしてもやらなければならいない事があった。

「あの女は殺すしかない。あの女がこの世から消えない限り、罪もない女がこれからも死ぬことになる…
選ぶのは前者しかなかった」


リンク先の+ M O N S T E R S +様のケンパーの項目にも書いているが、正しく冷静な自己分析、自己認識である。
多くの連続殺人犯が「本当に殺したい相手の代役として、多数の犠牲者を選ぶ」ように、ケンパーも母の代役として女子大生達の命を奪っていたのを、
自分でうっすらと気づいていたのだ。
4月20日の聖金曜日、ケンパーは母の自宅を訪ねた。翌朝4時になり母は戻り、ケンパーが寝室に様子を見に行くと、母はベッドに潜り込むところだった。

「どうしたの?何か話したい事でもあるの?」
「いや、別に。お袋が戻ったかどうか見にきただけさ」
「話があるなら、私が起きてからにしましょう」

クラーネルは眠りに入り、ケンパーは安堵した。母とは嫌な気分で別れたくなかったからだ。
1時間ほどして、ケンパーはハンマーとナイフを手にして再び寝室に入った。そして母のこめかみ目がけ、ハンマーを打ち下ろした。
続いてナイフで喉を切り裂き、今まで彼を苦しめ続けた根源である母の声帯を抉り出し、ディスポーザーに放り込んだ。
「ガキの頃からお袋の罵声と金切り声にはどれだけ苦しめられたか分からない。声帯がなければもう俺に罵声を浴びせる事はない」
しかし、スイッチを入れたら機械が詰まり、ディスポーザーは血塊を吐き出した。「あの女、死んでまでも俺に悪態を突きやがった」

「とうとう最後まで、お袋を黙らす事は出来なかった───」

この後ケンパーは母の首を切断。母ではなくただの肉の塊と化した遺体を陵辱。そして母の首をサンドバッグのように殴りながら、涙ながらに罵詈雑言を浴びせた。

「俺はずっとお前と対話をしたかったんだ。でもお前はいつも悪態を突くだけで一度として応じてはくれなかった。
それなのにお前はさっき何といった?『何か話したい事でもあるの?』だと?冗談じゃない、それが出来てればこんな事にはならなかった」


ケンパーの母クラーネル
その後、母は旅行で出かけた事にする偽装工作を思いついた。
「2人連れで旅行に出かけた」という事にして、母の同僚であるサラことサリー・ハレット夫人を呼び出し絞殺。
しかし思い直し、4日後にコロラドから自首の電話をするのである。
前述の通りその日は電話回線の状況が悪く、イタズラ電話でないと分からせるため、ケンパーは数回電話をし(電話に出たコナー巡査に)「やっと信じてもらえた」という。
逮捕されたケンパーの顔は、吹っ切れたかのように晴れ晴れとしていた。

審判:最後の「聖戦」
連行されるケンパー
ケンパーは拘置場に拘置されている間、サンタ・クルーズでケンパーより数ヶ月遅れで連続殺人を始めたハーバード・マリン(のち紹介予定)と隣同士になった。
精神分裂症で「震災からカリフォルニアを救う為に生贄を捧げた」という理由で13人を殺害したマリンをケンパーは「下品な低脳、ただのキチ○イ」と罵り、
実の母の首無し死体を犯したケンパーをマリンは「不道徳なケダモノ」と壁一枚を隔てて罵り返した。(どちらの見解も正しいと思う)

捜査官、ジャーナリスト、精神科医が巨体に似合わぬ明晰な頭脳、話術といったケンパーのキャラクターに魅了された。
ケンパーも持ち前の分析力、記憶力、観察力を持ってこれに応じた。調書作成にも全面的に協力的な姿勢を見せた。これは彼にとって最後の聖戦だった。
淀みなく、冷静で客観的、整然としたケンパーの自白は、そのまま調書に丸写ししても問題ない程だった。ある検察官は苦笑いを浮かべて言った。

「長い事この仕事をやってるが、あんなヤツは初めてだよ。もう2度と御目にはかかれないだろうね」

ケンパーは8件の第一級殺人罪で起訴され、10月25日からハリー・F・ブラウアー判事を裁判長として、全米が注目する中ケンパーの裁判は行われた。
ケンパーは公判中、万年筆のカートリッジで手首を切ったり、未遂に終わったが4度も自殺を企てている。
彼は数々の異常行為を淡々と認めたが、父にも母にも愛されなかった幼少期の頃の話になると、さめざめと泣いた。
最終弁論ではジェームス・ジャクソン弁護士が精神異常による無罪を熱弁したが、それも実らず陪審員達はわずか5時間の協議で、
8件の殺人全てに有罪の判決を下した。
当時のカリフォルニア州は実験的に死刑を禁止していた為、ブラウアー判事は11月8日、終身刑を言い渡した。
「被告は生涯釈放されるべきではない」との勧告に対し、ケンパーは静かに答えた。「貴方の仰る通りです、判事」

有罪判決を受け退廷するケンパー
ケンパーは上訴せず、現在もバカビルにあるカリフォルニア州立医療刑務所にて、終身刑に服している。
1978年以降、2年毎に仮釈放の申請をしているが、その度に却下されているそうである。今後も仮釈放される見込みはないだろう。
しかし、アメリカでは囚人1人あたりを養う費用は年間約3万8000ドル、と言われる。
2012年4月現在、38年間を獄中で過ごしたケンパーには、すでに約144万4000ドルの税金が投入されている事になる。
もしケンパーが仮に73歳まで生きるとすると、合計約182万ドルの経費が必要になるのだ。
ケンパーは社会に損害を与えるという復讐を、今も続けている事になる。

余談だが、犠牲者の何人かの肉を口にした事について、どうしてそんな事をしたのかと裁判で尋ねられたケンパーは、こう答えている。

「彼女達と本当の意味で一つになりたかった。彼女達を自分だけのものにしたかった。そして現実にそうなった。
今はもう…俺だけのものだ」

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.62 愛に飢えた殺人鬼 ヒッチハイカー連続殺人事件 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
続・連続殺人者 (タイムライフ)
現代殺人百科 (青土社)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

42人の女性を殺害!? パラノイア症の売春婦憎悪者

本名ジェラルド・ユージン・スタノ 通称ジェラルド・スタノ

「体を売って稼いでいるような汚らしいメス豚どもは我慢ならない。全員殺すしかない」(ジェラルド・スタノ)

逆恨み系男の典型、ジェラルド・スタノ
哺乳類の中でも特に人間という生き物は「生まれてすぐに愛情を注がれないと、一生愛について理解する事はない」と言われる。
生後6ヶ月で売春婦だった母に捨てられたスタノは以後、売春婦を憎悪するパラノイア症に取り付かれた。
そんなジェラルド・スタノ42人の女性を殺害した恐るべき連続殺人鬼になったのは、ある意味当然だったのかも知れない。

過去:悲惨な幼少時代
ジェラルドは1951年9月23日、ニューヨーク州の下町シャネクタディに生まれた。生まれた時の名前はポール・ゼニンガーといった。
母親は売春婦、そして父親は不明だった。生まれたばかりのジェラルドは母親にずっと放置されたままだった。
心配した隣人達の通報を受けて保護に当たった担当者は「あまりに酷い、動物レベルの状態」にショックを受けたという。
赤ん坊だったジェラルドは、半年もの間ほぼ放置されていたのだ。
食べ者はほとんど与えられなかったと見えて痩せこけて栄養失調、何週間も垢まみれで汚れたままの服をまとい、オムツは大小便にまみれている状態だった。
赤子は便を玩具にして遊んでいるという、目を背けたくなる状況だった。この後赤子はスタノ夫妻の養子となった。
父母となったスタノ夫妻は赤子の養育に最善を尽くしたが、ジェラルドと名付けられた赤子は、便で遊ぶのを一向に止めようとしない。
夫妻の愛情に対してまったく反応を示さず、魂を失ったかのように感情のない乳児だった。

幼稚園では先生のいう事に集中出来ず、他の園児に噛み付いたり殴ったりと、乱暴な行為が多かった。
小学校に入っても問題児である事には変わりなかった。クラスメイト全員に嫌われているから友達は1人もいない。
話し方はゆっくりでぎこちなく、しかし注意深い性格で、そして赤子時代の反動か、異常なまでに清潔好きになっていた。
その上に整頓癖がある。どんなものでもあるべき場所にないと、怒って癇癪を起こしてしまう。家具の場所が変わるだけで落ち着きがなくなる。
そして9歳になるまでおねしょが治らなかった。
中学に進学すると太った体と度の強いメガネをからかわれ、虐められるようになる。IQは平均以上だったが、成績は音楽以外は最低だった。
(IQは高いが一部の認識能力が低いために成績全般が低迷するのはよくあることで、シリアル・キラーにはかなり多いタイプである)

高校時代
高校からは、ジェラルドは養父の財布から、現金を盗むようになった。21歳でやっと高校を卒業するが、いつまでも定職に付こうとしない。
アパートを借りて一人暮らしを始めるが、他人の部屋から現金を盗んだのがバレてしまい、掏ったもんだの挙句大家から退去を命じられる。
どんな仕事についても、いい加減で適当な勤務態度からすぐにクビになってしまう。

ガソリンスタンドの巡業員、ホテルの清掃員、レストランの皿洗いなど、各地を転々としながらジェラルドは、有名なストック・カーレース、
デイトナ500マイルレースで有名な、フロリダ州のデイトナビーチに流れ着いた。

発覚:ある売春婦の証言
1980年3月、ドナという売春婦がポリスボックス(交番)に駆け込んできた。「『客』にナイフで切りつけられた」という。

「ヒッチハイクをして赤い車を運転した男に拾われたのよ。私はクスリを決めてハイになってたから、なんでもしてあげるって言った。
でもその男、私をナイフで殺そうとしたの!」


と太腿の傷跡を見せた。傷は深く、27針も縫ったという大怪我だった。
ドナは麻薬を服用していたが、犯人の顔と車の特徴はしっかりと覚えていた。車は2週間ほどで見つかり、同時に車の持ち主もすぐに判明した。
男の名はジェラルド・ユージン・スタノ。過去に売春婦に対する傷害事件を何度も起こしている。
異常なまでの潔癖症であるスタノにとって、汚い靴で自慢の車を汚されるのは我慢のならない事だった。

「売春婦ごときが俺の車にビールの一滴でもこぼすなど許さない」

もう一つ、ベストドレッサーを気取っていたスタノは、自分のファッションセンスを馬鹿にしたり否定されるような事を売春婦に言われると、
「体を売って金を稼いでるような牝豚が俺のファッションにケチをつけるとは何事だ」と逆上したという。
その前月にはメアリー・キャロル・メイハーという20歳の女性水泳選手が、フロリダ空港近くのゴミ捨て場で全身をメッタ刺しにされた状態で、遺体で発見されている。
腐敗が相当進んでいたが、奇妙な事に犯人はメアリーの遺体を折った木の枝で覆い隠すようにしていたのだ。
連行されるスタノ
スタノの首実検(面通し)に呼ばれたドナはスタノを見て「絶対にコイツよ、間違いないわ」と断言した。
スタノは売春婦を良くヒッチハイクで拾っているという話を聞きつけた捜査官は、「メアリー・メイハー殺害もひょっとしたらコイツが?」と疑惑を持った。
もちろんメアリーは水泳選手であり売春婦ではない。しかし捜査陣は「メアリーはよくヒッチハイクを利用していた」という証言を得ており、どうも引っかかるものがあった。
とりあえず捜査官達は事情聴取に立ち会う事にした。
メアリーの写真を見せられたスタノは、彼女を車に乗せた事とはあっさり認めたが、捜査官がいざ尋問をはじめると奇妙なボディ・ランゲージを交えて、のらりくらりと返答した。
(スタノのボディ・ランゲージに興味のある方は当ブログのリンク先である殺人博物館様のスタノの項目をご参考いただきたい)
しかし捜査官の1人から「スタノ、アンタは彼女に手を出そうとしたんだろ?でも彼女はその気にならなかったんだな?」という質問を浴びせられた時、
スタノの顔は怒りであっという間に真っ赤になった。

「ああ。その気になりやがらねぇ! それどころかあのアマ俺をぶん殴りやがった。ふざけやがって!
だからグッサリ殺ってやったのさ!」

警察はスタノの気の短さを利用して、ついにメアリー殺害を自供させる事に成功した。スタノはその後タガが外れたのか、恐るべき連続殺人を自供する事になる。

殺人:車と音楽だけが生き甲斐の男
デイトナビーチに着いたスタノは、相変わらず友人も作れず、ガールフレンドもできなかった。

「俺の顔は決して悪くない。体だってガッチリしている。精力抜群のイタリア系アメリカ人だ。どうして俺はもてないんだ。
俺の良さを理解出来ない馬鹿女が多すぎる」


スタノは女性への身勝手な憎悪を滾らせ、アルコール、麻薬に手を出していた。
欲求不満の解消はドライブと音楽しかなかった。スタノの休日はまず洗車から始まる。ピカピカに磨き上げた自慢の愛車を、1日に300キロ近くもドライブする。
たまに若い女性をナンパして車に乗せる事に成功しても、大抵は喧嘩別れになってしまう。
一流ドライバーを自認しているスタノに、ドライブテクニックに文句をいうのは厳禁だった。
運転している時もビールを放さないので危険なハンドルさばきが多くなるが、女性がその『飲酒運転』に文句をいうと烈火の如く怒ったという。
またスタノはカー・ステレオにも拘っていた。大音響の高性能カー・ステレオは、彼の誇りでもあった。
ドライブしながら自慢のステレオで音楽を大音響で楽しむ。同乗している女が「うるさい」と文句をいうと、これまたスタノは激怒する。
殺害現場のスケッチ

1973年春、スタノは例によって自慢の車で音楽をガンガン響かせながら、休日のドライブを楽しんでいた。
たまたまヒッチハイクをしていた2人の家出少女、アンとジェニーを乗せた事が、殺人という最悪の結果となってしまう。
アンナ・フラワーズの『BLIND FURY』には、8年後のスタノのこんな供述が書かれている。

「人気のない場所に連れてから、2人の少女に『セックスしよう』といったら、あっさり断られた。たかが家出少女じゃないか。
こんないい車に乗せてやったのに断るとは何事だ。いつも体で稼いでいるクセに許せない。
懲らしめてやろうと、俺はナイフで少女たちの顔や手足をメッタ斬りにしてやった。痛みと飛び散る血で、少女達はパニックになった。
泣き叫びながら逃げようとするジェニーの首を絞めて失神させた。血を流しながら逃げるアンを捕まえて、メッタ刺しにして殺してやった。
意識を取り戻したジェニーは出血が酷く逃げる事が出来ない。
『慌てる必要はない、ゆっくり殺してやる』そう思った俺は、泣いて命乞いをするジェニーを、何度もメッタ刺しにした。
翌日、俺は車についた血痕を、時間をかけて洗い流した」


こうしてスタノは、連続殺人鬼への道を歩み出した。
普通、連続殺人犯というのは、1回目の殺人から2回目の殺人までの期間が数ヶ月から1年と長い。
これは逮捕される事の恐怖が、次の殺人を抑制するため、と言われている。スタノの2回目の殺人も、1回目から5ヶ月の間隔が空いている。
ジェニー、アンの殺害から5ヶ月経った9月、スタノはまたも17歳の少女を殺害した。
親切を装って車に乗せてやり、人気のないところに連れて行ってからナイフをちらつかせて脅し、両手を縛り上げた。
スタノは首を絞めては何度も失神させた、という。

「殺さないでと泣いて頼む少女を何度も首を絞めて失神させたよ。しまいにゃゾンビみたいになって何でも俺のいう事を聞いたね」

女性からまったく相手にされなかったスタノは、どうすれば女性を支配出来るかを知った。
スタノの多くの犠牲者は家出少女か、道端で客を捕まえようとしてる売春婦だった。
彼女達をビールやマリファナで誘っては人気のないところに連れて行き、殺害して遺棄した。
そして前述の通り、被害者の多くには、木の枝を被せて覆うという儀式めいた事をしていた。

「俺の人生に欠かせないモノが3つある。車、オーディオ、そして女を殺すことだ」

こうしてスタノの生活に、女殺しが組み込まれていった。

終結:悪夢の終わり
連続殺人者は殺人を重ねる内に次第に感覚を麻痺させ、より強烈な刺激・快楽を求めるようになる。
それはサディズムであったり、ネクロフィリア(死体愛)だったりと、倒錯した性行為と結びつく事が多い。
スタノは「俺は女が死んでいくプロセスに興味がある」と告白している。このため刺殺、絞殺、射殺、溺殺等、色々な方法で女を殺したという。
(この様々な殺害方法のおかげで同一人物の犯行とは思われなかった事件も多数あったという)

「誰にでもペースというものがある。俺は出来るだけゆっくり殺すのが好きなんだ

スタノのサディズムは次第に異常性、猟奇性を増していった。
17歳の少女に散々殴る蹴るの暴行を加え絞殺した後、死体にまたがって自慰をし、さらにその死体を犯した事もあった。
23歳のウェイトレスにオーラルセックス(フェラチオ)をさせている最中に、こめかみに銃を突きつけ殺害した事もあったという。
そして8年間に渡り殺人を続けたスタノは、前述の通り売春婦ドナの証言から、1980年4月に逮捕された。
開き直ったスタノは、刑事の尋問に対して恐るべき連続殺人を自供した。

「スタノ、お前さんは73年から80年までに一体何人の女を殺したんだ?」
「そうだな、年に4人から6人は殺していたから、30人か40人は殺している事になるな」

信じられないという表情をしている刑事に対し、スタノはまだ発見されていない死体を埋めている場所に案内する、と言い出した。
スタノと刑事達を乗せた数台のパトカーは、フロリダ空港近くの人の来ないような荒地に向かった。
そしてスタノの指示する場所を掘り起こしてみると、供述通り、女性の腐乱死体が見つかった。
スタノは34人の殺害を自供した。その後の捜査で、スタノに殺害された22人の女性の身元が判明した。
当初は司法取引が行われ、3件の第二級殺人で25年の懲役刑の3連続遂行、合計75年の刑が命じられた。
しかし、身元の判明した22人の殺人で次々に起訴され、その後3件の死刑判決を受ける事となり、フロリダ州立スターク刑務所の死刑囚監房に収監された。
尚、彼はそこで自分と同じ連続強姦殺人鬼の大物ともいうべきテッド・バンディと89年まで同僚だったという。
刑務所内でのスタノ
そして1988年「実は18歳の頃から殺人を始めている。その時の少女たちも含めれば41人の女を殺した事になる」とカミングアウトした。
事実、スタノが18歳の頃に彼が居住していた地域及びその周辺では、10代の少女が多数行方不明になっているという。
(20年前の件ということで、結局起訴は見送られたが)
バンデイ同様に命が惜しくなったのか、スタノはさらに42人目の殺害を告白し「死刑を延期するならこれらの遺体の発見に協力する」と足掻いた。
これに対し、当時のフロリダ州知事の言葉は非常に有名である。

「いや、もう結構だ。我々の望みは、一日でも早く被告が死刑になることだから」

スタノが処刑されたのと同型の電気椅子

1998年3月23日、スタノは電気椅子にて処刑され、48年間の生を終えた。
被害者女性の体内に残っていた精液のDNAがスタノのものとは違った、警察が自供を強要した、などから何件かは免罪なのでは?との声もある。
確かにそうかも知れない。それでも、スタノが凶悪な強姦連続殺人鬼だったことに、疑いの余地はないだろう。

参考文献
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
殺人王 世界殺人鬼ファイル (太陽出版)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

アメリカ横断女子大生連続殺人事件

本名セオドア・ロバート・バンディ 通称テッド・バンディ

「テッドは大人びた若者で、責任感が強く、とても落ち着いています。欠点らしい欠点は見当たりません」(1972年、バンディを診察した心理学者)

女子大生連続殺人犯テッド・バンディ
洗練された態度と物腰、ハンサムな顔立ち。
ワシントン州立大学に在学中には「トップ1%に入る知能の持ち主」とも評価された事もある、IQ160以上とも言われるその卓越した頭脳。
テッド・バンディはまさに「他の男たちがうらやむような、模範的な好青年」だった。
しかし彼の本性は、アメリカ大陸を横断しながら美しい女子学生を次々に強姦・殺害していった、稀代のシリアル・キラー(連続殺人鬼)だった。

過去:「ここじゃない、どこかへ」
1946年11月24日、ペンシルバニア州のフィラデルフィア。
信心深く、周囲からも尊敬を集めていた若き21才の秘書のルイーズ・コーウェルの私生児として、テッドはこの世に生を授かった。
セオドア、というのは「神の贈り物」という意味だそうで、父親の素性は今なお不明である。ルイーズも父親については口をつぐんだままだそうである。
(テッドの本当の父は祖父、つまりルイーズの父という説もある。テッドの衝動的な殺意は祖父から受け継いだ、というのだ。もちろん仮定の話でしかないが)

テッドはかなり大きくなるまで、祖父母を本当の両親、実母を姉と思っていた。(最初はそうだと教えられたのである)
彼の育った家庭はお世辞にも健全とは言いがたいものだった。
祖父は短気で癇癪持ちで、家中の誰もが恐れていた。祖母はつねに夫の暴力の被害者で、ひどい鬱病の発作にひんぱんに苦しんでいた。
テッドは1969年、自分の出生証明を取るためにバーモンド州に出向き、そしてついに自分の出生の秘密を知るのである。

テッドが4歳のとき、ルイーズは人生をやり直そうと海軍を除隊したばかりのジョン・バンディ結婚することになった。
テッドは新しい姓「バンディ」を与えられ、同時に正式に彼女の「息子」となった。
垢抜けなく、退屈な性格の義父をうとんだが、父に対しても、のちに生まれる異母兄弟に対しても、敵意を見せる事なく幼少期を過ごしている。
ただ、テッドはこの年齢からすでに功名心と自意識が強く「頼むから自分を裕福な家に養子に出してくれ」と再三母親に頼んでいる。
西部劇のスター俳優だったロイ・ロジャースの養子になる事を夢見ていたし、タコマで音楽教授をしていた叔父のジャックに「養子にしてくれ」と頼んだ事もあった。

ハイスクールでのテッドは成績は優秀だったが、どちらかというとあまり目立たぬ存在だった。
ガールフレンドもいることはいたが、純情だったテッドは手を握ることさえできなかった。しかし、その内面ではどす黒い情念が形成されつつあった。
彼は夜になると自宅を抜け出し、女子寮に出向くと着替えを覗き見しては自慰に耽り、下着を盗んだ。
そして普段は冷静でおとなしいが、怒ると手がつけられないジキル博士とハイド氏のような二面性は小学校の頃から覗かせており、
通信簿には成績よりも「攻撃的な性格は改めるように」という担任教師の指摘が書かれている。
さらにこの頃から虚言癖が出始め、窃盗に手を染め始める。彼はスキーの腕を自慢していたが、その高価なスキー用品の大半は盗品だったと思われる。
ともかくテッドは「父無し子」「私生児」である劣等感を押し隠すためか、必要以上にプライドの高い人間となった。

そして奨学金を得てワシントン州立大学に進学したテッドはここで、のちの人生そのものを決定付ける女性に出会う。ステファニー・ブルックスである。
サンフランシスコの裕福な家庭に育ったステファニーは、その容姿・家柄・学歴、まさにテッドの理想とする女性であった。
テッドは彼女に夢中になった。そして、早々に婚約を交わした。
しかしステファニーは、表面上は穏やかで理性的な態度を取っていても、内面はワガママで子供っぽく粗野で自尊心が異常に高いテッドに嫌気がさしていた。
そしてついに、──────テッドとの婚約を破棄してしまう。
テッドのショックはあまりにも大きかった。学業も手につかず、遂には退学を余儀なくされる。ホテルの調理室で下働きをし、麻薬中毒者とも関わるようになった。
弟のグレン・バンディはこう語っている。

「兄をおかしくしたのは、間違いなくステファニーだ。それまであんな風な兄を僕は見たことがなかった。
ステファニーにさえ会わなければ、兄は殺人鬼になどならなかったと思う」


その後のテッドの心の中は「ステファニーのようなロングヘアを頭の真ん中で分けた女」への憎悪、支配欲、征服欲が渦巻く事になる。
テッドはステファニーを見返すために、例によって虚構の自画像、「洗練された理知的な青年」の外見を、コツコツと積み重ねていった。
食事や礼儀のマナーを身に付け、ファッションにも常に注意を払い、社交的となった。
そして共和党員となり、黒人の共和党副知事候補アート・フレッチャーの選挙活動を、フルタイムのボランティアで手伝ったりもした。
慈善団体で精神カウンセラーとしても働き、ビュージェット・サウンド大学で法律の勉強も始めた。
共和党員の上級議員の中にも、テッドの知性的な物腰、行動に感銘を受けた者は少なくない。
「テッドならば必ず知事にまで登りつめるだろう」人々は口々にこう噂した。
そしてテッドはスティファニー・ブルックスと7年ぶりに再会する。ステファニーはテッドの変わりように驚き、再び付き合うようになり、2人はまた婚約を交す。
ところが、テッドは週末を2人で過ごしたあと、突然ステファニーに連絡をしなくなった。
彼女が電話で釈明を求めても、「君は一体何の話をしてるんだ? 僕にはさっぱり分からないな」そう言ってテッドは一方的に電話を切った。
ステファニーへの復讐を遂げたテッドは、心のタガが外れ、冷酷無比なパワーを身につけたかのように、最悪の連続強姦殺人鬼へと変貌するのである。

殺人:消えた女子大生達
子供じみた「復讐」でステファニーを捨てたバンディの狂宴は1974年1月、シアトルから始まった。
リンダ・アン・ヒーリー、21歳。1月31日に失踪。
ドナ・ゲイル・マンソン、19歳。3月21日に失踪。
スーザン・ランコート、18歳。4月17日に何者かに誘拐される。
ロバータ・カスリーン・パークス、22歳。5月6日に失踪。
ブレンダ・ボール、22歳。6月1日に何者かに誘拐される。
ジョージアン・ホーキンス、18歳。6月11日に何者かに誘拐される。
ジャニス・オット、23歳。7月14日に何者かに誘拐される。
デニーズ・ナスランド、19歳。7月14日に何者かに誘拐される。

犠牲になったと思われる女学生たち

7月14日、ピクニックにはうってつけの避暑地と言われるワシントン州サマミッシュ湖畔。
ドリス・グレイリング(22歳)は夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊ったハンサムな男が近づいてきた。
「車にボートを積むのを手伝って欲しい」というのだ。彼女は駐車場までついて行った。
そこには茶色いフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。
待ち合わせの時間が迫っていたし、これ以上知らない男と遠くに行く気がしなかったドリスは丁寧に断わった。
それから1時間もしない内に、ドリスは先ほど自分に声をかけたハンサム男が、今度はブロンドのロングヘアの女の子を伴って歩いているのを目撃した。
その女性がジャニス・オットである。
数メートル先に腰を下ろしていた目撃者は、その男が「テッド」と名乗っていた事、カナダ人か英国人のようなアクセントがあった事、
ボートをどうとか言っていたと記憶していた。
「ははぁん、これがあの男のナンパの方法か。うまい事やるものね」ドリスは内心苦笑いをしたが、ジャニス・オットは再び生きて姿を現わすことはなかった。
ジャニスが消えた約2時間後、同じ湖畔で今度はデニーズ・ナスランドもトイレに行ったきり戻らなかった。
翌日、捜査に乗り出した警察は、この「ナンパ」でテッドという男が若い女性に声を掛け捲っていた事を突き止めた。
(ちなみに、ドナ・ゲイル・マンソンとジョージアン・ホーキンスの遺体は悲しい事に未だに発見されてない)

目撃談から容疑者の似顔絵、モンタージュ写真も作成された。警察には「似顔絵、モンタージュに似ている男がいる」という通報電話が3,000件以上届いた。
そしてそのうちの4件は「セオドア・ロバート・バンディという男にそっくりだ」という内容だった。
この時期のバンディはワシントンの法律事務所に勤めていた。
同僚の女性キャロル・ブーンはバンディの顔がモンタージュ写真にそっくりだとからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。
しかしバンディと同棲していた当時の恋人メグ・アンダース「彼があの『テッド』では?」と疑い始めていた。
彼の机の引き出しを探すと中からギブスと包帯が発見された。メグはすぐに通報したが警察の相手にもされなかった。(4件の通報のうちの1件はメグのものである)
前科もなく選挙運動やボランティアに熱心な若者であるバンディは、最終的に3,500人以上もの名がつらねられたリストの一番下に、名が記載されただけだった。

暴走:止まらない殺人衝動
2ヶ月後の1974年9月6日、ジャニス・オットとデニーズ・ナスランド、さらに身元不明の遺骨が一度に同じ場所から発見された。
シアトルでの女学生連続殺人はその後、ピタリと止んだ。しかし時同じくして、今度はユタ州で類似の連続殺人事件が発生するようになった。
そう、バンディはユタ大学のロースクール(法学を学ぶ3年間の専門課程。日本の大学院に相当する)に進学するため、ユタ州に引っ越していたのである。

ナンシー・ウィルコックス、16歳。10月2日に失踪。
メリッサ・スミス、17歳。10月18日に失踪。
ローラ・エイミー、17歳。10月31日に何者かに誘拐される。
デビー・ケント、17歳。11月8日に何者かに誘拐される。

いずれもロングヘアの女学生な事を付け加えておく。さらに、ナンシー・ウィルコックスの遺体は未だに発見されていない事も。

11月8日、ショッピング・センターの駐車場でキャロル・ダロンシュという女性の誘拐に失敗したバンディは、同日の夕方にすぐにデビー・ケントを誘拐しているのである。
この時、間一髪で難を逃れたキャロルは

「最初はハンサムで優しそうだった犯人が、私を車に連れ込んだ途端にジキルとハイドのように凶暴な表情になった」

と警察に告げている。
また、バンディはコロラド州にも「出張」していた。
新年の1975年1月11日、23歳の看護婦カリン・キャンベル失踪。彼女は2月17日、変わり果てた姿で発見された。
もちろん、新本拠地となったソルトレイク・シティでも、「真ん中から髪を分けたロングヘアの若い女性」が大量に行方不明となっていた。
しかし思いもかけぬ事から、バンディは破綻していく事になる。
飲酒運転取締りでパトロールしていたボブ・ヘイワード巡査部長のパトカーと出くわしたバンディのワーゲンは、慌てて逃げ出したのだ。
結局男は逃げ切れないと分かって無人ガソリンスタンドにワーゲンを止めて投降した。
しかし自分から車を降りてつかつかと歩み寄ってきた長身のハンサムな運転手を見て、ヘイワード巡査部長はピンときた。
このように運転者から警察に近寄ってきた場合、車に見られちゃいけないものがあるのが常である。
男が見せた運転免許書には「セオドア・ロバート・バンディ」と記されていた。
車のバッグの中から見つかったのは、目だしスキー帽、女性用のストッキングに目用の穴を開けて作った覆面、アイスピック、鉄棒が出てきた。
さらにトランクからは手錠も見つかった。ヘイワード巡査部長は運転手に近寄ってこう宣言した。「ミスター・バンディ。貴方を逮捕します」

バンディは一旦自分で保釈金を払って釈放されるが、5日後キャロル・ダロンシュへの誘拐未遂容疑で再び逮捕された。
以前、彼の魔手から逃たキャロル・ダロンシュ、デビー・ケントの担任教師ジーン・グラハム、クラスメートらが、バンディの首実験(面通し)に呼ばれた。
バンディは髭を剃り落とし、髪の分け目も逆にしていたが、彼女たちはいずれもバンディを一目で見抜いた。
だが実際に裁判が始まると、出頭したバンディを見て陪審員たちは「警察は誤認逮捕をしたのでは?」と不安になった。
ハンサムで上品で礼儀正しく、知性的な物腰。ナンパしたら9割の女性はバンディの誘いに応じるだろう。どう見ても女に飢えているタイプではない。
こんな男が誘拐強姦などする必要があるだろうか?
バンディも調子に乗って自分を罪人扱いしている警察やマスコミを猛批判したが、しかし被害者の証言が決定打となり、陪審員たちは有罪の評決を下す。
無罪を確信していたバンディにはこの評決は晴天の霹靂だったようで、彼は泣きながら「刑務所には送らないでほしい」と頼んだが、
裁判官は1年~15年の禁固刑を言い渡した。

脱走:カイ・オメガ女子寮での惨劇
バンディが使用していたのと同型のワーゲン
もちろん、警察がこれだけでバンディへの追求の手を緩めるはずがなかった。シアトル、ユタ、コロラド、一連の女子学生連続殺人事件で告発する準備を進めていた。
特にコロラドでは目撃情報が続々と寄せられており、カリン・キャンベルの髪の毛もバンディのワーゲンから見つかっている。
一方、裁判においてバンディは自ら弁護の指揮をとると主張し 国選弁護人に対しては鼻持ちならない傲慢な態度で接した。
フランク・タッカー検察官はその様子をこう語っている。

「テッドは私が今まで見てきた中で一番生意気で傲慢な奴だ。あんなヤツは初めてだね。弁護人に対してあれこれ指示してるんだから」

もっとも、バンディが自分で弁護をし出すと言い出したのには、もう一つ理由があった。
アメリカでは自分で自分の弁護を行う被疑者にはある程度の行動の自由が認められている。
例えば図書室での判例集の閲覧などが許される。バンディはこの自由を利用して、脱走を企てたのである。
19977年6月7日、バンディは予審のためにコロラド州アスペンの裁判所に護送された。
彼は午前休みになったところでバンディはいつものように図書室に入って行った。手錠と足かせは外されていた。
数分後、一人の婦人が裁判所に入ってきてこう尋ねた。

「この辺じゃ男の人が窓から飛び降りるなんて当たり前なの?」

警察官は「まさか!?」と思い急いで二階の図書室に駆け込んだが、すでにバンディの姿はなかった。「バンディ脱走」のニュースは全米を駆け抜けた。
街を抜けた彼はアスペン山に入り、そこの空き家の山小屋で2日間過ごした。しかしバンディの逃走劇はあっけなかった。
キャデラックを盗み、シアトルに向かう途中で地元の保安官に呼び止められ逮捕された。わずか8日間の脱走劇だった。
続く半年間、延々と法廷闘争が続いた。検察はユタでの女学生失踪事件の証拠提出を試みたが、バンディも牛歩戦術でこれに対抗した。
1977年12月31日、バンディはガーフィールド郡刑務所の独房の天井に穴をあけ、二度目の脱走。
フロリダ州の州都タハラシーは、アメリカの南東部に位置している。
シアトルからは4,000km/hも離れていたが、美しい町並みとたたずまいは、シアトルを思わせるものがあった。
バンディが脱走してから2週間経っていたが、このニュースはまだタハラシーではほとんど知るものはいなかった。
年明けころ、タハラシーのオークハウス(こちらでいうゲストハウスのようなもの)にクリス・ヘイゲンという流れ者が住み着いていた。
1978年1月15日日曜の午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは彼氏に別れを告げると、キャンパスの外れに位置するカイ・オメガ女子寮に帰宅した。
すると正面玄関から急いで出て行こうとする一人の男の姿を見かけた。黒い毛糸の帽子をかぶり、棍棒を握りしめているように見えた。
不審に思ったニタは2人のルームメートを叩き起こし、寮長に相談しようと部屋を出た矢先、カレン・チャンドラーが血みどろで部屋からよろめき出てきた。
驚いた3人は部屋に飛び込むと、カレンのルームメートのキャシー・クライナーも血の海の中で倒れていた。
さらに他の2人の女学生、マーガレット・ボーマンリサ・リービーも倒れていた。
マーガレットは既に事切れており、リサも病院に運ばれる途中の救急車の中で絶命した。

2人を死亡させ、2人に重症を負わせたにも関わらず、バンディの衝動はまだ終っていなかった。
カイ・オメガの惨劇から1時間半後、数ブロック離れた別の女子寮に住むデビー・チカレッリは、隣室からの激しい物音で目を覚ました。
時計を見るとまだ午前5時前、太陽も出ていない。デビーもまたカイ・オメガのニタ同様ルームメートを叩き起こして2人で聞き耳を立てた。
何かを叩くような音に続いて、慌ただしい足音が聞こえてきた。数分後、カイ・オメガから急行してきた警官にこの女子寮も取り囲まれる。
シェリル・トーマスが頭を割られて瀕死の重症を負っていたが、幸いにも一命は取り留めている。
2件の女子寮での暴行殺人に全米は騒然となったが、この時点ではバンディの犯行と考えるものはほとんどいなかった。
シアトル、ソルトレイク・シティでの犯行に比べ、あまりにも杜撰でいくつもの証拠を残していたからだ。
「誘拐から死体遺棄まで綿密に犯行に及んでいた、あのテッド・バンディの所業とはとても思えない」と考えられても無理はなかった。
これについては当ブログのリンク先である殺人博物館様のバンディの項目にも書いているが───
ひょっとしたらバンディの心の奥底には「もう殺人を止めたい、捕まりたい」という心理が働いていたのかも知れない。
(リサ・リービーのお尻に残した歯型が、バンディにとっての致命傷となり、有罪となっている)
白いバンを盗んだクリス・ヘイゲンことバンディは、ジャクソン・ビル方面に向かった。
バンディの最後の公式な被害者は12歳の少女キムことキンバリー・リーチである。2月9日、学校から行方不明となった。
その6日後、バンディは盗難車のナンバーから足がつき逮捕された。
キムは2ヶ月後、スワニー・リバー州立公園近くの古びた小屋から変わり果てた姿で発見された。
遺体は激しい性的暴行を受けた事を物語っていた。直接の死因は「頚部に加えられた致死的な激しい力」だそうである。
12歳の少女をも手にかけたバンディに、警察官の1人は怒りにかられ、記者に向かってこう言っている。「警察は必ずバンディを電気椅子に送ります!」

終結:下された審判
女性弁護士とバンディ
マイアミでのバンディの公判は、世界中の注目を集めた。
ここいら辺は犯罪ドキュメンタリー映画「アメリカン・バイオレンス」にも収録されているので、機会があればご覧いただきたい。
弁護士チームはバンディに対し、リサ・リービー、マーガレット・ボーマン、キム・リーチの3件の殺人を認める代わりに死刑を求刑しない、
いわゆる司法取引を受け入れるようにバンディに強要していた。
これに腹を立てた彼は弁護士チームを解任し、なんと自らの弁護をかって出たのである。彼は被告であり、弁護士であり、弁護側証人でもあった。
(しかし、バンディはこの『イチかバチか賭け』に見事に敗れる羽目になる)
公判のたび「テッド・グルーピー」と呼ばれた彼のファンの女性たちが裁判所に詰めかけた。
バンディは傍聴席の彼女たちに笑顔で手を振る余裕まで見せ、あげくかつての同僚キャロル・ブーンと婚約を交わすというパフォーマンスまでやってのけた。
しかし、前述の被害者リサ・リービーの遺体に残された歯型が決定的な決め手となった。
こればかりはいくらバンディが天性の話術の才能を発揮しても、公選弁護人のマーガレット・グット女史が見事な弁論を展開しても、言い逃れはできなかった。
「米国のデス・ベルト」と呼ばれる地帯がある。死刑宣告が他の州より頻繁に出ることからそう呼ばれているのが、フロリダもその州の一つだった。
バンディ裁判で裁判長を務めたエドワード・D・カワード判事は、死刑宣告をバンディに言い渡した後、こう付けくわえた。
この時期に出版されたバンディ関連の書籍は、大抵カワード判事のこの言葉で締めくくられている。
カワード判事
「私は君に対し、何の敵意も持っていません。この事は信じてほしい。
これほどの人間性、才能の無駄な浪費は、本裁判においても悲劇でした。君は優秀な青年です。立派な法律家になれたかもしれない。
君が殺人犯としてでなく、弁護士としてこの裁判にいたら、どれほど幸福だったでしょうか。しかし、君は道を誤った……。
自分の過ちは自分で償うように。今後(電気椅子に座るまで)、体に気をつけなさい……」


バンディはカワード判事のこの言葉を、どんな思いで聞いていただろうか。
再審請求も棄却され、死刑が確定。それでもバンディは「死刑を延期してくれるなら、まだ発見されてない遺体の捜索に協力する」と最後まで足掻いた。
のちに彼はこのような感情に突き動かされていた事も、カミングアウトしている。

「僕は人間の生死を支配したかったんだ。地上から1人2人消えたからって、それが一体何だっていうんだい?」 

フロリダでの3件の殺人で死刑となったバンディだが、死刑執行の数日前、彼はシアトルやソルトレイク・シティでの殺人を含めて他に27件、
合計30件の殺人を犯したことを告白している。
しかしバンディが暗躍していた時期、バンディの好みの「真ん中で髪を分けたロングヘアの女学生」が……100人以上行方不明になっているのだ。
本当の犠牲者数は、一体何人だったのか。シリアル・キラー(連続殺人鬼)という言葉を生み出すきっかけにもなった稀代の殺人犯は、真実を墓場まで持っていった。
誰にも「本当の殺害数」を明かすことなく、1989年1月24日午前7時7分。テッド・バンディの命は、電気椅子の露と消えた。
そしてその遺体は、笑みを浮かべていた。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.4 アメリカ横断女子大生連続人 (デアコスティーニ)
連続殺人者 (タイムライフ)
テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (上) (原書房)
テッド・バンディ 「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (下) (原書房)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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