世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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死体を陵辱し、解体する「ゴミ袋詰め殺人鬼」

本名パトリック・ウェイン・カーニー 通称パトリック・カーニー

「人を殺す事は究極のスリルと興奮だ。それは他人の生を支配出来る事の快感だ」(パトリック・カーニー)

1970年代、カリフォルニアには男性を殺害後、フリーウェイ(高速道路)の脇や近くに遺棄していた事からフリーウェイ・キラーと呼ばれる3人の同性愛連続殺人鬼がいた。
ランディ・クラフトウィリアム・ボーニン、そしてこのパトリック・カーニーである。
ゴミ袋詰め殺人鬼ことパトリック・カーニー
ただ、カーニーの場合は遺体をバラバラにして、黒いビニールのゴミ袋に詰めて遺棄してた。
このため、ゴミ袋詰め殺人鬼(トラッシュ・バッグ・キラー)と呼ばれる事も多い。

自首:保安官事務所に来た2人組
燦々と太陽が輝く1977年7月の午後、ロサンゼルス・リバーサイド郡の保安官事務所に、ヒゲを生やした大男と、同じくヒゲを生やしメガネをかけた小男の2人組が、
ずかずかと入ってきた。
そして壁の手配写真を指差しながら、小男は微笑みながら言った。「これは私達だ」信じられないという顔つきで見る保安官に向かい、小男は続けてこう言い放った。

「私がゴミ袋詰め殺人鬼(トラッシュ・バッグ・キラー)だ。自首をしにきた」

メガネをかけた眼光鋭い小男はパトリック・ウェイン・カーニー(37歳) 、大男はデヴィット・ダグラス・ヒル(34歳)と名乗った。
いずれも指名手配通りの名前、特長だった。
5月18日にジョン・ラメィという17歳の少年が遺体で発見され、ラメィ少年はカーニー、ヒルと一緒だったところを目撃されている事から、2人は指名手配され、
メキシコまで逃亡していたのだ。
保安官は2人組を留置すると共に、すぐに警察本部に応援を求めた。
カーニーとヒルの指名手配ポスター

話は4年前の1973年までにさかのぼる。
この頃は丁度ランディ・クラフトが暗躍をしていた時期だが、それとは別にバラバラにされ黒いゴミ袋に詰められた男性の遺体が、
LA郊外のフリーウェイの脇の草むらから発見された。
その後もゴミ袋に詰められたバラバラ死体は増え続け、その数はついに22体にまでなった。
被害者は例外なく10代の少年か20代の若者で、ほとんどが同性愛者だった。
捜査当局は必死になって正体不明の『ゴミ袋詰め殺人鬼』の行方を追っていたが、被害者と犯人を結びつける直接の関連がまったくない事、
そして手がかりがほとんど無い事から、捜査は行き詰っていた。
(ランディ・クラフトは捜査を混乱させるため、自分の被害者をバラバラにして黒いゴミ袋に詰めて遺棄しゴミ袋詰め殺人鬼の犯行に見せかける偽装もしている。
クラフトの狙い通り結果としてこれが両者の逮捕をさらに遅らせる原因にもなっている)

2人は捜査本部に連行され、本格的な尋問が始まった。
カーニーは独身で、大手航空機メーカーのエア・ヒューズ・クラフト社のコンピューターエンジニアとして、かなり高額な収入を得ている。
一方デヴィット・ヒルは高校を中退してから、定職についた事がない。
取調べに対しカーニーは、ヒルとの関係を次のように語った。
自分とデヴィットは共に同性愛者で、すでに15年も一緒に同棲している。自分が仕事に出かけたあとは、家事の一切はデヴィットが受け持っている。
2人の生活の全ては自分の収入が支えている。
さらに自首した理由も家族に説得されたのももちろんだが、「デヴィットまで疑われたのは耐えられなかったから」だという。
カーニーは「殺人は全て私1人でやった事であり、デヴィットは犯行には一切関わっていない」と強調した。

発端:運命のクリスマス休暇
カーニーとヒル

カーニーの自供によれば、最初の殺人は1968年のクリスマス休暇だという。
クリスマス休暇の時、カーニーはヒルと大喧嘩をしてしまった。その頃はいつも口論が絶えなかったそうである。
原因は2人の性格の違いだった。ヒルはにぎやかなパーティーを好み、大勢の仲間と一緒に大騒ぎするのが好きなタイプだ。
しかしカーニーは気の合う人間とだけ、静かにゆっくり過ごしたいタイプだった。

「せっかくのクリスマス休暇だというのに、デヴィットは怒って故郷のテキサスに帰ってしまった。
家で1人でポツンと過ごす休暇は寂しくて惨めだったので、私は町に出た。ゲイバーで飲んでいる時、1人の若い男と知り合った。
そいつの名はジョージ、としか知らない。私が家に誘うとジョージは喜んでついてきた。
家で飲んでいる間にジョージは酔いつぶれて寝てしまった。私はジョージを見ていると何故か怒りが込み上げてきた。
ジョージの後頭部にピストルを押し付け、そのまま撃ち殺した。奴の死体をバスルームまで引きずって行き、そこでバラバラにした。
生皮を剥いでから庭に埋めた」

(カーニーの自供通り庭から白骨化した死体が掘り出されたが、『ジョージ』の身元は不明のままである)

ジョージ殺害から数日後、ヒルは何事もなかったかのように帰ってきたので、カーニーとヒルの共同生活は再び始まった。
カーニーは最初の殺人後の不安をこのように述べている。

「ジョージを殺したあとの数ヶ月間は、ずっとビクビクしながら暮らしていた。
朝起きると『今日にでも家や職場に警察が令状を持って逮捕しにくるのでは?』という不安が真っ先に浮かび上がる。
こんなにも苦しむのなら2度と人殺しなんてしないと誓った」


しかし数年の月日が流れ、誰も捕まえにこないと分かり、ようやく安心出来たという。
カーニーの心から逮捕の不安が薄まるにつれ、今度はジョージを殺害した時の興奮が蘇ってくるようになる。
そしてカーニーは2度、3度と殺人を重ね、ゴミ袋詰め殺人鬼が誕生する事になる。
一旦連続殺人鬼への道を歩み出した者は、殺しの衝動を抑える事が出来ない。
連続殺人鬼は、逮捕されるまで慢性的に殺人を繰り返すしかなくなるのは、ここまで当ブログで紹介している殺人鬼たちを見ても明らかである。

過去:病弱だったイジメられっ子
カーニーは中流階級の3人兄弟の長男だった。
幼い頃から病気がちで体が小さい事からチビと馬鹿にされた。また女の子と一緒にいたら「変態」とからかわれた事もあるという。
自分をイジメる連中には喧嘩では勝てないので、夜中にベッドの上で仕返しをしたという。それは暗闇の中で空想に耽る事だった。
空想の中ではイジメっ子達を可能な限り残酷な方法で苦しめたり殺したりした。
ある時は生皮を剥いで殺す想像をした事もあるという。(後年カーニーはジョージの遺体を相手に生皮剥ぎを実行している)
カーニーは10代になってもやはり、自分の体が小さい劣等感に悩んでいた。他の少年達の体は皆自分より大きく、その事がとても悔しかったという。

1962年に、カーニーはあるゲイバーでデヴィット・ヒルと知り合った。
いつもカウボーイ・ハットをかぶっているヒルは陽気で明るいテキサス男で、大きな体でいつもゆったりと動いた。
細かい事は気にしない性格で、いつもジョークが好きでいつも大声で笑っていた。
カーニーは自分にないものを全てもっていたヒルに惹かれるようになる。

「店に入るときはいつも私が先だった。デヴィットの後ろでは私の姿が見えないからだ。
デヴィットと一緒にいると、私は自分の劣等感も忘れる事ができる」


そして2人は愛し合うようになり、1966年にカリフォルニア州に移った2人は、LA郊外に家を借りて一緒に済むようになる。
やがてカーニーはエア・ヒューズ・クラフト社に就職した。高い知能を持ち、仕事熱心だった彼はどんどん出世し、高給を得るようになる。
2人が暮らしに困る事はなかった。

殺人:本当の目的
冒頭に書いた通り、カーニーは殺人の動機について

「人を殺す事は究極のスリルと興奮だ。それは他人の生を支配出来る事の快感だ」

と供述している。
しかし、カーニーが本当に支配したかったのは、ヒルだったのではないだろうか?
陽気で社交的なヒルは、週末は繁華街に繰り出して騒ぎたかったに違いない。
反対にカーニーは、週末は家でヒルとゆっくりと2人きりで過ごすのを楽しみにしていた。
カーニーの期待に反して、ヒルは週末になると出かけてしまい、月曜日まで帰ってこない。
1人取り残されてしまったカーニーは、ヒルへの不満と怒りを募らせるが、ヒル相手に解消する事が出来なかった。

「金曜の夜になると、デヴィットは自分だけの楽しみを求めて、繁華街に繰り出してしまう。
私はそれが不満だったが、彼は月曜には必ず戻ってくるので我慢するしかなかった。私も1人でいるのは耐えられないので、LAの繁華街に出かけていく。
ゲイバーやバスハウス(同性愛者用のソープランド)にいけば、相手はいくらでも見つかる。『俺の家で飲まないか?』と誘えば、ほとんどはついてきた」


この頃はランディ・クラフトもフリーウェイ・キラーとしてあちこちのフリーウェイの脇に死体を遺棄していたが、その事についてもこう語っている。

「誰かを完全にコントロールしたかったから殺した。死んでしまえば完全に無抵抗だし、何をしようと思うがままだ。 
いつも被害者のこめかみに銃を押し付けて射殺した。私はサディストでないから被害者を拷問した事はない。
だから絞殺死体や拷問の痕がある死体に関しては私は無関係だ」


「殺人そのものに性的快感を感じる事はないが、死体にソドム(肛門性交)をするのが好きだ。
私のパターンは単純だ。若い男を家に誘い、家に入るとすぐに射殺する。その後死体にソドムし、射精する。
その後はバスルームで死体をバラバラにして、ゴミ袋に詰めて捨てにいく。
バラバラに出来なくても血抜きだけはしていた。死体の腐敗を遅らせて、腐臭が出るのを防ぐためだ」


カーニーが本当に殺したかったのは、実はヒルだったのではないだろうか?
しかしカーニーにはそれが出来ない。愛するヒルを失うなど、カーニーには耐えられないからだ。
殺したくても殺せない相手がいるので代理となる人間を殺していくのは、エド・ケンパーの記事でも書いたように、連続殺人鬼の多くに見られる心理である。
カーニーは多くのゴミ袋詰め殺人について自供した。

「いつもピストルで射殺した理由?刺殺では血まみれになるし、絞殺ほど手間がかからないからだ」

また、死体をバラバラにした事については───

「一度でも死体を持ち上げてみれば分かるが、想像以上に重たい。私のようなチビの小男にはそのまま運ぶなど無理だ。
バラバラにする以外に方法はない。死体を綺麗に洗ったのは、血まみれの死体に指紋がついている可能性があるからだ」


移送されるカーニー

カーニーが勤務していた会社で使用していたゴミ袋と、カーニーがバラバラ死体を詰めていたゴミ袋は同一のもであるのが判明した。
ある死体に付着していた陰毛は、カーニーのものであるのが確認された。
カーニーとヒルが住んでいた家からは大量のゲイ向きポルノ写真と雑誌、そして殺人に関する書籍が見つかった。
この他に手錠とゴム手袋、そして死体を解体するのに使用したと思われる電動ノコギリが押収された。
部屋のカーペットからは犠牲者の血液型と一致する血痕が検出されるなど、物的証拠も出揃った。

終焉:司法取引
逮捕のきっかけとなった最後の犠牲者の少年
カーニーは、最初の犠牲者とされるアルバート・リベラ(21歳)アルトゥーロ・マルケス(24歳)、そして指名手配のきっかけとなったジョン・ラメィ(17歳)の、
3件の殺人で起訴された。
1977年12月、カーニーは有罪となり、終身刑を宣告された。
翌1978年、カーニーは検察側との司法取引に応じ、18件の殺人を自供。その代わり死刑の求刑を逃れる事が出来た。
さらにこのあと11件の殺人を自供(但しこの11件は起訴される事はなかった)。合計32人の若者の命を奪った事になる。
デヴィット・ヒルは結局証拠不十分のため不起訴となり、釈放された。ヒルは故郷のテキサスに帰っていた。

1976年からフリーウェイ・キラーを追っていたジム・サイドボトム捜査官は、これで事件を解決した、と胸をなでおろした。
しかし、カーニーが刑務所に入ってから7週間後、フリーウェイ91号線の東行き入路で、スコット・マイケル・ヒューズ(18歳)の遺体が発見された。
サイドボトム捜査官は

「私の殺害方法はいつも射殺だ。サディストでないから被害者を拷問した事は一度もない。だから絞殺死体や拷問の痕がある死体に関しては私は無関係だ」

というカーニーの供述は嘘ではなく、カーニーとは別に活動しているフリーウェイ・キラーがいる事を思い知らされた。

参考文献
連続殺人紳士録 (中央アート出版社)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

67人もの命を奪ったフリーウェイ・キラー 人間狩猟ドライブ旅行

本名ランドルフ・スティーブン・クラフト 通称ランディ・クラフト

「彼がフリーウェイ・キラーだったのは他の人には晴天の霹靂だったかも知れません。けど、私はそれほど驚きませんでした」
(クラフトが同性愛者でSM趣味を持っているのを知っていた学生時代の友人スティーブン・マンリー)

1970年代、コンピューター産業の目覚しい発展。
プログラマーだったランディ・クラフトは、エグゼクティブ・チーフという役職にまで出世し、年収5万ドル以上(当時のレートで1800万円以上)もの高給を得ていた。
中古車とはいえ毎年のように車を買い替え、やはり中古とはいえ庭付きの一戸建てを現金一括で購入したりと、まったく生活に困る事はなかった。
しかし、クラフトはそんな自分の地位・収入を決して鼻に掛けたりせず、部下思い、仲間思い、友人思いで知られ、物静かで礼儀正しくウソを付かない誠実な男と評判で、
(クラフトがゲイである事は知っていたが)職場の同僚も、そしてゲイ仲間も「ランディは典型的なアメリカン・ボーイだ」と認めていた。
フリーウェイ・キラーことランディ・クラフト
だが、典型的なアメリカン・ボーイの正体は、米国犯罪史上でも最悪級の同性愛連続殺人鬼「フリーウェイ・キラー」だった。

発覚:助手席に死体を乗せてドライブする男
「13日の金曜日」から日付が変わった1983年5月14日土曜日、午前1時。
サンディエゴ・フリーウェイの通称で知られるインターステート・ハイウェイ5号線をパトロールに当っていたマイケル・ハワード巡査と相棒のマイケル・スターリング巡査は、
蛇行運転している茶色い79年型トヨタ・セリカを見つけ「やれやれ、またか」とため息をついた。
本日2人目の飲酒運転者を捕まえるべく、パトカーの赤色灯のスイッチをいれ、件のセリカを追跡。セリカは70kmから50kmくらいに減速したが、停止する気配はない。
スターリング巡査がヘッドライトを点滅させ、サーチライトでセリカを照らすと、運転手は後部席からジャケットを掴み、助手席に放り投げるのが見えた。
堪忍袋の緒が切れたスターリング巡査が拡声器で停止を命じると、セリカはようやく停止した。
セリカから降りてキビキビと近づいてきた薄茶色の髪でヒゲを生やした眼光鋭き男を見て、2人の巡査はピンと来た。
普通こういう場合停止を命じられたドライバーは見つかるとマズイものでも車内にない限り、まず自分から降りたりはしない。
きっと飲みかけのビールか何か車内にあるのだろう。案の定、男は車から降りる時、半分中身の入ったビール瓶を路上に捨てていた。
もっともこの時路上で割れたビールの瓶など、あとから出てくる凄まじい『重要な証拠物件の数々』に比べたら、まったく大したものではない事を、
両巡査はのちに思い知る事になるのだが。
男はランドルフ・スティーブン・クラフトと名乗った。38歳で、コンピューターのプログラマーだという。
クラフトはビールを3、4本飲んだのは認めたが、自分は酔っていない、シラフだ、と言い張った。
それならばとスターリング巡査はクラフトにフィールド・ソプライアティ・テスト(縁石を真っ直ぐ歩けるかのテスト)を命じた。
クラフトは真っ直ぐ歩く事が出来ず、スターリング巡査は規約通りにクラフトに手錠をかけた。
そしてクラフトに身柄を拘束した事を告げている間に、セリカの助手席に同乗者がいるに気づいたハワード巡査は、何度も窓ガラスをコンコンと叩いた。
(アメリカの警察はレッカー車を呼ぶ経費と時間を節約するため、同乗者が酒に酔っていなくて車の免許がある場合同乗者に運転させて帰すのが大部分である)
まるで反応がなく、イライラしたハワード巡査は大声で怒鳴り、窓ガラスを強く叩いたが、それでも反応はない。
助手席でぐったりしている若者は膝にジャケットをかけ、眠っているようだった。
クラフトに同乗者の名を聞いても、途中で拾ったヒッチハイカーなので知らないという。助手席のドアはロックされていたため、ハワード巡査は運転席側から車内を見渡した。
床には何かの錠剤の瓶が2本、ビールの空き瓶が数本落ちていた。運転席には刃渡り13cmくらいの、折り畳み式の狩猟用ナイフが置いてあった。
逮捕時のセリカの内部
おそらく助手席の男は寝ているのではなく、薬とビールのチャンポンで酔いつぶれているのだろう。
ハワード巡査はうんざりして「ちょっとキミ…」と若者の腕を掴んだが、その瞬間思わず後ずさった。腕はダラリとして冷たく、体温がまるで感じられない。
「この若者は生きているとは思えない」ハワード巡査は薬瓶とナイフを車のルーフに置き、運転席側から手を伸ばして助手席のロックを解除した。
若者の脈をとり、瞳孔を確認した。間違いない、この若者は死んでいる。
膝のジャケットを取り除くと、ジーンズのチャックは下ろされて、性器が完全に露出していた。死んだ時に尿が漏れたらしく膝は濡れ、両手首は靴紐で縛られていた。
首には若者自身のベルトで絞めた跡が鮮明に残っていた。
その若者はテリー・リー・ギャンブレルという25歳の海兵隊員だったが、サドルバック・コミュニティ病院に搬送され、当直医が生命徴候を検査。
5分もしない内にギャンブレルの死亡が宣告された。
逮捕直後に保安事務所が発表したクラフトの顔写真
午前3時45分、ジム・サイドボトム捜査官の自宅の電話が鳴った。
サイドボトム捜査官がオレンジ郡保安官事務所に勤務してから25年、殺人事件で真夜中の電話で起こされるなど日常茶飯事だった。
電話の主は「身長178cm、体重73kgくらいの同性愛者と思われる不審な男の身柄を拘束しています」と告げた。
さらに「男は車の助手席に若い海兵隊員の死体を乗せていました」との言葉に、サイドボトム捜査官の眠気は完全に吹き飛んだ。
捜査官はついに、長年探し続けていたフリーウェイ・キラーが『御用』になったと確信した。

過去:アメリカン・ボーイの仮面
ランディ・クラフトことランドルフ・スティーブン・クラフトは1945年3月19日、カリフォルニア州のロングビーチで生まれた。
幼少時代はおとなしい子供で、3人の姉に可愛がられて育てられた。
ランディは1960年にウエストミンスター高校に入学。
明るく活発で話術も巧みな人気者、勉強もテニスも優秀な文武両道少年で、秀才の誉れも高かった。1963年に390人中10位という素晴らしい成績で高校を卒業する。
高校卒業後、クレアモント男子大学(現クレアモント・マッケナ・カレッジ=CMC)に入学。ROTC(部隊を訓練している予備役将校)に加わっている。
ランディは大学でも相変わらず典型的アメリカン・ボーイを演じ、経済学で学士号も得るが、高校時代から隠していた同性愛嗜好を押さえきれなくなり、
この頃からオレンジ郡にある同性愛者の溜まり場として知られる「ザ・マグ」という店でバーテンのアルバイトを始める。
キャンパスには「ランディはゲイだ」「ゲイのSMパーティーに出入りしている」という噂が流れ始め、1967年、ついにランディは自分が同性愛者である事を公表した。
1968年、ランディは米空軍に入隊し、カーン郡のエドワーズ空軍基地に配属された。知能テストでIQ129を持つことが判明し「非常にインテリジェンス」と評価されている。
だが1年後、ランディは「医学的理由」で空軍を退役した。
空軍時代のクラフト
軍隊から戻ったランディはバーテン業を再開しながら、カリフォルニア州立ロング・ビーチ大学の社会人育成コースで、夜間聴講生としてコンピューター・プログラムを学び、
やがて高収入の仕事を手にいれる事になる。
1975年には見習いパン職人のジェフ・シーリグと知り合い、2人は1976年初めには同棲を始めていた。

そしてランディが空軍を退役してプログラムを学び始めた1970年代初頭から、カリフォルニア州のフリーウェイ(高速道路)の脇から、
若い男性の絞殺死体が次々に発見されるようになった。
死体はいずれも狂人の所業かと思うようなむごたらしい拷問の痕があり、正体不明の殺人鬼を付近の住民はフリーウェイ・キラーと呼んで恐怖した。
1977年7月、パトリック・カーニーという男が自首をする。
パトリック・カーニー
カーニーは同性愛者を射殺し、死体をバラバラにして黒いゴミ袋に詰めフリーウェイの脇に捨てたのは認めたが、

「自分の殺害方法はいつもピストルでの射殺だ。サディストではないから、被害者を拷問した事はない」

と絞殺死体、拷問されている死体に関しては自分は無関係だ、と主張した。
カーニーは司法取引に応じ終身刑となった。最終的に73年から77年の自首までに32人の命を奪ったのをカミングアウトしている。
1980年6月、ウィリアム・ボーニンという男が逮捕され、自身がフリーウェイ・キラーである事を認めた。
ウィリアム・ボーニン
最終的に41件の殺害を自供し、10件の第一級殺人で死刑判決を受けた。
しかし、カーニー、ボーニン逮捕後も、フリーウェイの脇や砂漠の茂み、荒地から発見される若い男性の変死体が、後を絶たなかった。

捜査:史上最悪の連続殺人鬼
サイドボトム捜査官は、ただちに行動を開始した。
まずはランディ・クラフトの自宅と車を捜査するための令状を取るため、州最高裁判所判事のリチャード・ビーコムを叩き起こした。
令状無しでも捜査は出来たが、違法な手段で証拠を集めたら裁判ではその点を必ず弁護側に突かれる。捜査官としては、その手の失策は極力避けたかった。
(筆者注:クラフトは1970年3月、当時13歳のジョゼフ・ファンチャーを自宅に監禁し、アルコールと薬で意識朦朧にしてから何度も強姦している。
隙を見てファンチャーは逃げ出しクラフトは警察に逮捕されたが、捜査令状がないまま家宅捜査したため『違法な証拠』として、結局クラフトはこの件では無罪となっている。
ファンチャーはのちにクラフトの裁判で検察側の重要証人として証言することになった)
サイドボトム捜査官とビーコム判事は「殺人事件のエキスパート」の異名をとるブライアン・ブラウン副地区検事を交えて、朝イチで捜査会議を開いた。
すぐに捜査令状が発行され、午後からジェイムス・ホワイト鑑識官と数人の係官が、クラフトのトヨタ・セリカの車内の調査を開始した。
運転席の後ろからは、ギャンブレルの皮のベルトが発見された。このベルトの幅は、ギャンブレルの首に残っていた絞殺痕と一致した。
後部座席のクーラーボックスには、開栓していないビールが数本入っていた。前夜ハワード巡査が車内で発見した空のビール瓶の他に、薬瓶が何本か見つかった。
精神安定剤のバリウム、抗うつ剤のプラプロノロール、狭心症や偏頭痛の治療に使うインデラルという鎮静剤など、合計9種類の処方箋だった。
さらに何度も読み返したらしい、ヨレヨレになったペーパー・ブックも見つかった。
タイトルは『処方薬の必須知識:安全に薬を使用する為に』で、クラフトが薬とアルコールを一度に摂取した際の副作用について、知識を得ていたのは明らかだ。
ホワイト鑑識官が運転席側のフロアマットを上げてみると、若い男性の写真が47枚入った封筒が出てきた。着衣の写真もあれば、裸の写真もある。
例外なく意識が朦朧としているような表情で、中には死んでいるとしか思えない写真もあった。多くが髪を軍隊式の短かい刈り込みにしていた。
さらにショッキングな事に、助手席に血液が染み込んでいる事が分かった。ギャンブレルの死体には外傷はなかったので、この血は彼のものではない。
車のトランクを開ける頃には、捜査員達も鑑識官達も猛烈に嫌な予感に襲われていた。
トランクから発見されたブリーフケースの中身を見て、全員悪い予感が的中した事を思い知らされる。
ブリーフケースから出てきた木目柄の表紙のリングバインダーには意味不明な単語が表記してあったが、サイドボトム捜査官をはじめ捜査員達はピンと来た。
どうやら犯行の状況を思い出すための暗号のようだ。
2 IN 1 HITCH2 IN 1 BEACH という記載は、「一度に2人を殺した」という意味らしい。
単語は全部で61あり、この2 IN 1という表現は4つあり、このスコアが本当に殺人を意味するとすれば犠牲者は65名、さらにギャンブレルと、
つい最近フリーウェイ・キラーの犠牲になったと思われるエリック・ハーバード・チャーチの2名を合わせると合計67名にも及び、
クラフトは近年最悪の連続殺人鬼という事になる。
(3番目の EDM とは20歳の海兵隊員エド・ダニエル・ムーアの事のようで、ムーアはクラフトが起訴された16件の殺人の最初の犠牲者とされた)
クラフトの殺人スコア
午後5時すぎ、サイドボトム捜査官は厳しい表情で、捜査令状を片手にクラフトの自宅に向かった。しかし彼の飼い犬のマックスが吠えるだけで、ノックをしても誰も出てこない。
警察はKEEPOUTと印刷された目隠しの幕を家の外側に張り出し、証拠の押収にあたった。やがて、未解決殺人事件とクラフトを結びつける有力な証拠が次々と見つかった。
クラフトは殺人のスコアと被害者の写真の他に、被害者の遺留品を『記念』として持っていた。
バスルームからは、つい最近遺体で見つかったエリック・チャーチの電気ヒゲ剃り機と、同じくクラフトの犠牲者と見られるマイケル・ショーン・オファロンのカメラが、
この他にもランス・タッグスのショルダー・バッグとゴムぞうり、グレッグ・ジョリーのスケッチ・ブックなど次々と発見された。
夜遅く、クラフトと同棲している愛人のジェフ・シーリグが家に戻った頃には、家中がごった返し状態だった。
続々と見つかる未解決殺人事件の被害者の遺留品に、捜査員の1人がつぶやいた。

「我々はテッド・バンディジョン・ゲイシーをも凌ぐ、史上最悪の連続殺人鬼を逮捕したのかも知れない」
(筆者注:実際クラフトは殺害数ばかりでなく、残虐性、異常性においてもバンディ、ゲイシーのさらに上を行っていると思う)

写真に写っていた花柄の長椅子、そして壁の一部も、証拠として押収された。その後の調べで壁には血痕が染み込んでいるのが分かった。
日付が変わって日曜となった15日の午前2時15分。
未解決殺人事件の被害者達の大量の遺留品を含む証拠品を引越し用トラックに満載して、捜査陣はクラフトの自宅を後にした。

クラフトの愛人のジェフ・シーリグも、ただちに身柄を拘束された。
最初は捜査陣もシーリグも共犯でないかと疑っていたが(後述の理由による)、調査を進める内にシーリグはクラフトの「裏の顔」に気づかず、
何年も一緒に同棲していたようである。
シーリグは取調べに対し「ランディにはSM趣味があったが、自分の知る限りそれ以外の悪癖はなかった」と語った。
シーリグやゲイ仲間、さらにクラフトの会社の同僚への事情聴取と並行して、クラフトの自宅はすでに3度家宅捜査が行われていた。
翌週木曜にはオレゴン州、ミシガン州、ワシントン州の殺人課の捜査官達が、自分の州の未解決殺人事件の捜査に協力するため、次々にカリフォルニア入りした。
おびただしい証拠物件にはチェーン、ベルト、靴ヒモも何本もあった。
ガレージには着古したシャツが山のように積まれていたが、その内の一着はフリーウェイ・キラーにレイプされてから体中をナイフで切り刻まれて殺害された、
クリス・シェーンボーンという若者のシャツである事が分かった。
同様にフリーウェイ・キラーの犠牲者と見られる海兵隊員エド・ダニエル・ムーアのハーモニカも、クラフトの自宅から発見された。
クラフトが持っていた犠牲者の不気味な“記念写真”

殺戮:人間狩猟ドライブ旅行
1971年10月5日、警察はオルテガ・ハイウェイの脇の峡谷の底で、30歳の同性愛者でバーテンダーのウェイン・デュケッティの、バラバラ死体を発見している。
死後2週間以上経過しており死因は急性アルコール中毒で、デュケッティの衣類と所有物はまったく見つからなかった。
クラフトの殺人リストの最初の STABLE という単語は馬小屋、厩舎の意味で、デュケッティはサンセットビーチの厩舎の中のバーで働いていた事から、
デュケッティ殺害の事を指していると思われる。
(さらに当時クラフトは、デュケッティが勤めていた店の隣のゲイバーでバーテンをしており、デュケッティの店の常連客でもあった)
警察もデュケッティがクラフトの最初の犠牲者ではないか、と考えているようだ。
1975年5月8日、ロングビーチ・マリーナでロッククライミングをしていた3人の少年が、岩の割れ目に「奇妙な物体」を発見した。
まだ肉のついた人間の頭蓋骨と分かり、少年らは肝を潰した。
歯科カルテから、数週間前から行方不明になっていた19歳のキース・クロットウェルという若者のものと判明した。
クロットウェルの首から下は左腕が切断された状態で10月8日に発見された。もっとも警察がそれをクロットウェルの胴体と分かるのは1983年のクラフトの逮捕後であるが。
1975年3月29日の未明、クロットウェルはビリアードの帰りに海岸近くの駐車場で、彼女に振られて落ち込んでいた弟分のケント・メイと偶然会った。
すると2人は駐車場にいた「デニムのジャケットを着て水平帽をかぶった男」から
「何か落ち込むような事でもあったのかい、兄ちゃん? 車のクーラーボックスにビールが入っているから一緒に飲まないか?」と誘われ、
数分もせずに白黒のツートンカラーのフォード・マスタングに乗り込んだという。
メイによると、車が走り出してから2人でビールを数本空けると、例のデニムのジャケットに水平帽の男から錠剤やカプセルを手渡され、言われるままに自分は7錠、
クロットウェルは10錠ほど飲み干した、という。
その後は記憶がまったくなく、メイは気が付いたら自宅のベッドで寝ていた、というのだ。
メイの証言と目撃情報から、クラフトは何度も事情聴取を受けるが「その若者を車に乗せたのは確かだが、スーパーの前で降ろしてその後は知らない」と言い張った。
警察は重要参考人としてクラフトを逮捕するつもりだったが、検察が証拠不十分から逮捕状を発行せず、結局逮捕は見送られた。
この件がクラフトを用心深くしたらしく、また、ジェフ・シーリグと所帯をもって落ち着いたのか、クラフトは約1年間殺人のペースを緩めている。

フリーウェイ・キラーの犠牲者
冒頭に書いた通りクラフトは、1979年にはエグゼクティブ・チーフという役職にまで出世し、また「フリーランスのコンサルタント」という肩書きも持ち、
ニューヨーク、オレゴン、ミシガンなどのコンピューター会社に「技術協力のため」出張することも多く、ちょっとしたプロ・スポーツ選手並みの収入を得るようになる。
金銭的余裕が出来たクラフトは、趣味の「週末のドライブ旅行」にも出かけられるようになった。
生涯を誓い合ったシーリグとはその内喧嘩が絶えなくなり、シーリグは週末は実家に帰る事が多くなり、欲求不満を持て余すようになる。
クラフトもゲイ仲間に「週末1人残った俺はドライブ旅行に出かけて、ナンパした若者を家に連れ帰ってホモセックスを楽しむのさ」などと嘯いてた。
しかし、そのささやかなドライブ旅行こそ、まさに人間狩猟ドライブ旅行と言ってもいいものだったのである。
また、クラフトは前述の通りニューヨーク、オレゴン、ミシガンなどのコンピューター会社にドライブ旅行がてら出張したが、彼の行動範囲には海兵隊基地がいくつかあり、
クラフトの「獲物」の大部分は若い、マッチョな海兵隊員だった。
彼らの大部分も週末は実家に戻ることが多く、その手段にはもっぱらヒッチハイクを利用するのが大半である。
不幸にもフリーウェイ・キラーが運転する車に同乗した隊員たちは、例外なく無残な死を遂げた。
クラフトは車にビールを入れたクーラーボックスを置いてあり、ヒッチハイクで拾った若者にはいつも

「ずっと立ちっ放しで喉が渇いただろ。後ろのクーラーボックスにビールが入ってるから、好きなだけ飲んでいいぜ?」

とビールを勧めるのが手口だった。
若者は「車に乗せてくれるだけじゃなくビールまでご馳走してくれるなんて気前のいい人だ」と感激し、ついつい2本3本とビール瓶を空にしていく。
若者がすっかり出来上がったところで、今度は薬を飲むように勧めるのである。
酔いが回りいい気分になった若者は「お、今度は麻薬か幻覚剤か何かかい?」と言われるままに錠剤、カプセル薬を飲み干す。
そして副作用が出て意識朦朧としたところで若者の靴のヒモを奪い両手首を縛り上げ、レイプし、拷問し、そして最後に絞殺するのである。
拷問の方法も両目、両乳首をシガレット・ライターで焼く、眼球を抜き取る、狩猟用ナイフで体中を切り刻む、針金で耳の中をメッタ突きにするなど身の毛もよだつようなもので、
中には気官に土が押し込まれていた遺体もあったという。
また多くの被害者の性器は噛み千切られるか、切り落とされていた。いずれも被害者がまだ生きている内に行われたものであるのを、付け加えておく。

裁判:一切を黙秘
米国犯罪史上最悪の連続殺人鬼の公選弁護人というありがたくない役目を負う事になったのは、オレンジ郡で検事を務めた事もあるタグ・オットー弁護士だった。
オットー弁護士はこの裁判が予審から長期戦になるのを予想していた。検察が67件の殺人容疑の一括審理に出ることはありえないからである。
一括審理では無罪になる恐れがあり、必ず有罪に出来る確率の高い件から小出ししていくはずだ、と。
クラフトは裁判に備えて髪を整えヒゲも剃り落とし、自分が主人公の法廷ドラマを楽しんでいるような感じだった。
予審での検察側の証人喚問中には、薄ら笑いすら浮かべる事もあった。
しかし、クラフトは自分の事がメディアの一大イベントになっている事を、内心は非常に辛く思っていた。
恋人だったジェフ・シーリグは8年間連れ添った相手が怪物さながらの殺人鬼だった事にショックを受け、すでにクラフトの元を去っていた。
逮捕直後は元気付けようと面会に訪れた友人・ゲイ仲間も、次第に来なくなった。
フリーウェイ・キラーの67件の殺人の内、22人は身元が判明しておらず、証拠不十分で無罪にしてしまうような失態を避けたい検察は、身元が判明している45人の中から、
まず確実に有罪に持ち込める可能性のある16件の殺人容疑について、クラフトを起訴する事にした。
クラフトが留置されてから5年後の1988年9月26日、ようやく公判が始まった。クラフトと弁護側は、検察側が上げた証拠は全て状況証拠に過ぎないと無罪を主張した。
公判中の不安げなクラフト
そしてクラフトは、アメリカ合衆国憲法修正第5条「自己に不利益となる供述を強要されない権利・他4つ」を盾に、一切の証言を拒否した。
1989年8月3日、陪審員は死刑を勧告、11月29日、裁判長のドナルド・A・マッカーティン判事も死刑判決を言い渡した。
判決を言い渡す際マッカーティン判事は「被告は合衆国始まって以来5本の指に入る凶悪連続殺人犯だ」とクラフトを評した。
判決の瞬間、フリーウェイ・キラーは苦々しい表情を浮かべた。

死刑囚達が収監されるカリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所で、クラフトは他の3人の死刑囚と、朝のトランプゲーム(ブリッジ)を楽しんでいた。
5件の強姦殺人を犯し、被害者の首に針金を巻きつけプライヤーで締めて絞殺していた事から「ザ・プライヤー」の異名をとったローレンス・ビッテイカー(のち紹介予定)、
「サンセット通りの殺人鬼」ことダグ・クラーク、「もう1人のフリーウェイ・キラー」ウィリアム・ボーニンである。
他の3人の被害者数の合計を上回る命を1人で葬ったクラフトは、ブリッジでも圧倒的な強さを誇ったという。
2度の再審請求も棄却され、2000年8月11日、クラフトは死刑が確定。
2007年6月時点でのクラフト

尚、警察が当初ジェフ・シーリグを共犯者として疑った理由として

・いくつかの死体の周りにあった足跡が、クラフトと被害者以外のものもあった
・被害者の海兵隊員の何人かは200ポンド(90kg)前後の体重の者もおり、誰にも見つからずクラフト1人で死体を遺棄するのは困難ではないか?
・クラフトの家には暗室もないし、彼自身も写真の現像知識はない。
よってあの47枚の不気味な『記念写真』はクラフトではなく別の人間が現像したという事になるが、もし写真屋なら不審に思って警察に届けるのではないか?
・1988年からDNA鑑定が導入されたが、死体に残っていた精液からクラフト以外のDNAも検出された

以上の点であり、何件かはクラフトの単独犯ではなく『写真現像の技術がある共犯者がいたのでは?』という説が、かなり有力になってきているようだ。
検察側もクラフトを有罪にするのが最優先だったため「共犯者がいた可能性のある殺人の起訴は見送った」と認めている。
(1986年7月にエイズで死亡したため起訴される事はなかったが、かつてクラフトが2年間同棲した事があるジェフ・グレイヴスも共犯の疑いが持たれている)

2012年3月20日、1974年にロングビーチで発見された身元不明死体155号が海兵隊員オーレル・アルフレッド・スチュアート・ジュニアと判明。
当時18歳だったスチュアート・ジュニアはペンドルトンでのキャンプからデューティに戻る途中に行方不明となり、以後海兵隊は37年間脱走兵としていた。
海兵隊は脱走兵扱いを取り消し「ミスター・スチュアート・ジュニアを名誉除隊とし、彼の葬儀を執り行う」と発表した。
兄のカール・スチュアートは「弟はランディ・クラフトの餌食になったのではないか」と指摘し、警察もこの意見には同調している。
しかし、クラフトは未だに「司法のミスによって無実の人間が死刑になろうとしている」「メディアは何一つ真実を報道していない」という主張を続けている。
そして、この記事を書いている時点で─────フリーウェイ・キラーの死刑が執行されたという話は、まだ聞かない。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.61 地獄のフリーウェイ・キラー 人間狩りドライブ (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
殺人博物館
LosAngeles Times 『ランディ・クラフトのスコアカード?』 

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

33人の少年を殺害した「死の道化師」

本名ジョン・ウェイン・ゲイシー 通称ジョン・ゲイシー

「砂金堀りをしてるみたいだったよ。土を掘ってはふるいにかけ、何かが出るのを待つ作業さ。出てくるのは人骨なんだけどね」
(ゲイシーの家の床から死体発掘作業にあたった捜査員)

政治活動にも積極的に参加、青年商工会議所ではNo.2の地位を務め、地元では名士的存在だったジョン・ゲイシー
道化師(ピエロ)に扮しボランティア活動にも熱心で、「道化師のポゴ」は子供達の人気者だった。
道化師のポゴ
しかし、道化師のポゴのそのペイントメイクの下に隠されていたのは、恐るべしサディストの素顔だった。
彼は少年を拷問、レイプ、殺害しては、遺体の多くを自宅の床下に埋葬していた「死の道化師」ともいうべき、同性愛連続殺人犯だったのだ。

疑惑:消えた少年
1978年12月11日。
エリザベス・ピーストはドラッグストアのカウンター席に腰掛け、15歳の息子ロバート・ピーストを待っていた。
ロバートは姉と一緒にこのドラッグストアでアルバイトをしていたが、

「今日はある建設会社に来年の夏休みのバイトの登録にいくので、ママはドラッグストアで待ってて」

と母に伝言していたのだ。しかし、まったく姿を見せる気配がない。
真冬のシカゴは米国で一番寒い都市といってよく、しかもその夜は0度を下回る凍てつくような寒さだった。
エリザベス夫人は息子を徒歩で家に帰させる気にはとてもなれず、辛抱強くまっていた。
しかし、ついに待ちきれなくなった夫人は、その店で働いている娘に「ロバートが戻ったら電話をするように伝えて」と伝言し、ストアを後にした。
車を運転しながら夫人は腑に落ちなかった。家族を待たせて外をいつまでもうろつくなど、とてもロバートらしくない行動である。
しかもこの日は夫人の46回目の誕生日で、父も兄も姉もロバートが戻ってからバースデー・パーティーをはじめるのを知っていた筈だ。
帰宅した夫人は夫のハロルドに「ロバートに何かあったに違いないわ。私はそんな気がするの」と告げている。
21時45分、ロバートはまだ戻らず、夫人はドラッグストアの店主に電話で「息子がどこの会社に面接にいったかご存知ですか?」と尋ねた。
店主は答えた。「ええ、知ってますよ。ジョン・ゲイシーという男の建設会社です」
23時30分、ピースト夫妻はついにデス・プレーンズ警察に捜索願を出す。その日は夫人にとって人生最悪の誕生日となってしまった。

翌日8時30分、デス・プレーンズ警察はロバート・ピースト少年の捜索に着手。
ジェームズ・ピックウェル刑事は、早速シカゴ警察にジョン・ゲイシーという男の人物照会を行った。
回答は数分で戻ってきたが、ピックウェル刑事は内容を聞いて不吉な胸騒ぎを覚えた。
かつて未成年男性への同性愛行為で服役した事があり、しかも「非常に暴力傾向が強い」というのだ。
1975年7月にこの男が経営している建設会社PDMコントラクターズの従業員だった若者ジョン・ブツコビッチが行方不明になった件では、
警察から100回以上の事情聴取を受けている事も判明した。
9時30分、ジョセフ・コゼンクザック警部補はゲイシー宅に向かった。中から背が低く丸顔で太った家主、ジョン・ゲイシーが現れた。
ゲイシーは最初「そんな少年は知らない」と言い張った。
ジョン・ゲイシー
だがゲイシーはロバート少年のバイト先のドラッグストアで、ロバート少年に声をかけているのを、店主や店員達に目撃されていたのだ。
「ああ、あの少年のことですか」ゲイシーは二言三言言葉を交わしたのは事実だが、アルバイトの話などを持ちかけてはおらず、
面接の約束もしていない、との事だった。
コゼンクザック警部補はゲイシーに任意での出頭を丁寧に求めたが、ゲイシーは叔父が死んだばかりで、今は母からの電話を待っているから、と拒否した。
結局押し問答の末、母からの電話があり次第すぐに出頭するという約束を取り付けたが、コゼンクザック警部補は
「家出はない。絶対にこのゲイシーという男が少年の行方不明に関係している」と直感した。
警部補はこの時点で、ゲイシーの捜査令状を取る事に決めていた。

過去:父の不吉な予言
ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日、イリノイ州シカゴに生まれた。
高圧的な父、ジョン・スタンリー・ゲイシーは息子を決して愛する事はなかった。ゲイシー・シニアはジョンの姉と妹を可愛がったが、病弱なジョンは虐待し続けた。
それどころかジョンの病弱を同情を誘おうとしている演技だと決め付け「女々しいガキ」「このままだと、将来はホモになる」と罵った。
彼は成人するまで父から謂れなき非難を浴び続け、その云い逃れをしながら生きてきたのである。
ジョンは父に認められる為、父の為に傷つけられた自尊心を取り戻すために一生を捧げた、といっても言い過ぎではないだろう。
しかし、ゲイシー・シニアは彼のことを決して認めようとはしなかった。

ジョンはハイスクール卒業後、一時家を出てラスベガスで働き、その後実家に戻りノースウェスタン・ビジネス短期大学に入学、無事卒業する。
卒業後はナン・ブッシュ・シューカンパニーに入社、マネージャー見習いとして働き始めた。
話好きで仕事熱心なジョンはたちまち出世し、大きな紳士用品店の店長を任されるようになる。
ジョンは「自分の仕事に対する熱意の前には小太りでチビという肉体的欠陥など何の障害にもならない」とすっかり自信をつけ、
1964年9月、同僚の美人社員マリリン・マイヤーズにプロポーズし、ゴールイン。マリリンの父親は地元ではかなり成功した実業家である。
この一帯のケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズを買収した際、やる気に満ち溢れたこの義理の息子に店の経営を任せたのは当然だった。
青年商工会議所でも積極的に活動し、息子、娘にも恵まれ、名士への道を着々と歩みはじめていた。
あんなにジョンを罵っていたゲイシー・シニアも、ジョンの事を認め始めていた。
若き日のゲイシー
ところが、そんな或る日のこと、彼は少年に性行為を強要したかどで逮捕されてしまう。
ジョンを尊敬していた同僚達や地元の人間達は驚いたが、彼はこれまでも同性愛嗜好があるのを隠そうとしてはいなかった。
マネージャー見習い時代に酔った勢いで同僚と男色関係を結び、以来そっちの世界にのめり込んでいたのだ。
ケンタッキー・フライドチキンの店長になってからは、アルバイトの少年達にも常習的に手を出すようになっていた。
ジョンは懲役10年の禁固刑の判決を受ける。判決が出た次の日妻マリリンは離婚訴訟を起こした。
ジョンは全てを失い、彼を認めつつあったゲイシー・シニアも、失意のうちに死亡した。
しかし、男性矯正施設内では極めて礼儀正しく模範囚人として過ごしたジョンは、わずか一年半で保釈される。
(施設内では『自分は同性愛者ではない』と強調していた為『ジョンは仕事のライバルの罠にかかりデッチ上げで有罪にされた』と信じる者も大勢いたという)
1970年、出所したジョンは地元シカゴに戻り、デス・プレーンズでPDMコントラクターズという建設・リフォーム業の会社を始めた。
かつてのやり手ビジネスマンの腕前は健在で、会社は順調に売り上げを伸ばして行った。
そして1972年6月1日、高校時代のクラスメイト、キャロル・ホッフと再婚したが、またしても離婚。
(実はキャロルと結婚する7ヶ月前にすでに最初の殺人を犯し、死体を床下に埋めている)

発覚:悪夢の床下
その日はゲイシーは出頭せず、結局コゼンクザック警部補は丸一日待ちぼうけを食らせられた。
警部補が翌日署に出勤すると「ゲイシーが泥だらけの服で午前3時30分に出頭してきましたよ。警部補が帰ったあとだったので、ゲイシーも帰りましたが」と聞かされた。
翌々日再出頭したゲイシーは「雪に車が埋まってしまい行くのが遅れた」と詫びた。しかしロバート少年については相変わらず知らぬ存ぜぬ、の態度を貫いていた。
ゲイシーは別に急ぐ様子もなく「自分の会社は200万ドル以上(当時のレートで7億2000万円以上)の年収がある」「民主党の有力議員に懇意にさせてもらっている」
などと身振り手振りで自慢話を始めた。
ピックウェル刑事がゲイシーの会社の繁栄ぶりやボランティア活動などおだてて話を聞いている間に、コゼンクザック警部補はゲイシーの家の捜査令状を手にいれた。
15時30分、ゲイシーに捜査令状が出た事を告げ、自宅の鍵の提出を求めた。
動揺した様子もなく落ち着き払った態度で鍵を渡すゲイシーに、警部補は「ロバート少年の遺体はコイツの家にはないな」と感じた。
確かにゲイシーの家に少年の遺体はなかった。しかし踏み込んだ捜査陣はゲイシーの家中を見て、疑惑が完全に確信に変わった事を実感した。
家中のあらゆるところにゲイのSM関連の写真集やポルノ雑誌やロープ、手錠、巨大な張型が散乱していたのだ。
ゲイシーの部屋に、例のドラッグストアのレシートがあった。捜査陣はこれを証拠として押収した。
これはロバート少年のガールフレンド、キムことキンバリー・ベイカーズがフィルムの現像を頼んだもので、キンバリーは
「そのレシートはロバートから借りたジャケットのポケットに入れておいたものに間違いありません」と断言した。
彼女はレシートの上にふられる2桁の番号までも記憶していたのである。
これで少年がゲイシーの家を訪れた事は立証され、同時に少年の生存の可能性は非常に厳しいものになった。
おそらく、警部補が尋ねた時はまだ少年の遺体は家にあったのだろう。「自分が引き返した後、どこかに遺棄したに違いない。いつ?」
日中に死体を遺棄するなんて危険な真似をするとは思えない。夜になってからどこかに運んで捨てたのだろう。
だとしたら約束をすっぽかし、午前3時になって泥だらけで出頭したのもうなずける。
ヘリコプター、警察犬を使って山狩りが行われたが、少年の遺体は発見されなかった。ひょっとして、デス・プレーンズ川に捨てられたのだろうか?
一方、自分が重要参考人としてマークされていると分かったゲイシーは、次第にイラつきを見せ始める。
会社の共同経営者である友人ドナルド・クザーナに「麻薬の不法所持を疑われている、警察が自宅前で張り込んでないか見てくれないか」と頼むこともあった。
捜査を進める内、ゲイシーはシカゴ界隈の同性愛者を相手にする、いわゆる「男娼」達の間では、非常に評判が悪い事も判明した。
手錠をかけて殴りつけられたり、レイプまがいのプレイをするなど、相手に苦痛を与える事で快感を得るタイプだというのである。

一週間ほどして、ゲイシーはあてもなく長距離ドライブに出かけ、帰ってくると尾行していた警官2人を自宅に招きいれた。
ゲイシーにとって、この行動は完全に命取りになった。ロバート・シュルツ巡査は暖房の効いた部屋に入った瞬間、異様な甘酸っぱい臭いに気がついた。
明らかに死体の臭いである。
前回の家宅捜査では暖房が入っていなかった為に、捜査陣はこの臭いに気づかなかったのだ。
報告を受けた警部補は、今こそゲイシー逮捕の時だと確信した。異臭は暖房ダクトから出ており、死体が家の地下に隠されているのは間違いない。
12月21日、警察はゲイシーの車を囲んで包囲し、マリファナ所持の容疑で身柄を拘束した。
尾行している警官の前で、駐車場の係員にマリファナを手渡すところを目撃されたのだ。
(ゲイシーは何故こんな自殺にも等しい事をしたのか。前回のテッド・バンディ同様殺人を止めたい、捕まりたいという無自覚な願望が、ゲイシーにもあったのだろうか?)
自宅に連れてこられたゲイシーは「今から床板をめくって床下を捜索する予定だ」と聞かされ、「そんな事をする必要はない!」と血相を変えた。
捜査チームをガレージに案内し「以前正当防衛で男を殺してしまい、床下に埋めコンクリートを打った床に十字架を書いた」と告白したのである。
しかしゲイシーの言葉を真に受ける程警察は甘くなく、技官の到着と同時に床下の捜査を開始した。
(実際はガレージの床のコンクリートの下からも死体は発見されたが。しかも前述のジョン・ブツコビッチの遺体を含め1体ではなく3体も)
床下から凄まじい異臭のする黒い水をポンプで吸い出し、掘削機で泥をかき回した。やがて人間の腕の部分と思われる骨が掘削機の先端に引っかかった。
掘削に当たった技官ダニエル・ジュンティはコぜンクザック警部補を呼び、こう告げた。
「これでゲイシーに殺人容疑を追加出来ますよ」
死体置き場と化していた床下

捜査:増え続ける犠牲者
ゲイシー宅に次々と到着するパトカーに、近所の住民は大騒ぎとなった。
ゲイシーが警察から嫌疑を掛けられているのは本人も語っていたが、それはあくまで麻薬所持の疑いであり、ゲイシーも「一切身に覚えがない」と憤慨していたからだ。
だが、PDMコントラクターズの共同経営者のドナルド・クザーナは、ゲイシーが少なくとも麻薬所持よりも重罪を犯したのは分かっていた。
逮捕される直前にクザーナを尋ね

「もうお終いだ、男を30人くらい殺してしまった…でも仕方なかったんだ。全員死んで当然の奴らだったんだ…」

とクザーナの肩を抱いて泣き出したからである。
遺体からでる有毒ガスと汲み上げても汲み上げても湧き出てくる地下水、シカゴの冬の寒さのせいで、遺体の採掘作業は凄惨を極めた。
採掘チームにはガスマスクと使い捨ての作業着が渡されたが、それでも気分が悪くなったり、倒れたりする作業員があとを絶たなかった。
傷口から有毒ガス、細菌が入って感染するのを防ぐため、電気ヒゲ剃り機を持っていない作業員は、ヒゲは作業を終えてから夜に剃るように厳命された。
(夜だとウッカリ切っても朝には切り傷が治っているからである)
作業終了後は、消毒薬で体を清めるのが義務付けられた。
しかしそれでもデス・プレーンズ警察は「遺体が見つからなくなるまで堀り続ける」との声明を発表した。
5年前、テキサス州ヒューストンで、やはり同性愛者のディーン・コールという男のボート小屋から、次々に少年の遺体が発見され最終的に27人に及んだが、
ゲイシーの殺害記録はコールを上回る勢いだった。
10体の遺体が発見され、次の日には6体、という具合である。
前述の通りゲイシーはキャロル・ホッフと結婚する7ヶ月前にすでに最初の殺人を犯していたが、キャロルと離婚してからは殺人のペースが異様な勢いで早くなっている。
ゲイシーは被害者の多くの身分証明や運転免許書をそのまま持っていた為、大部分の犠牲者の身元を確認する事が出来た。
おかげで11月にデス・プレーンズ川から全裸遺体で発見され、指紋を頼りに身元が判明したヒゲの若者フランク・ランデンギンも、ゲイシーの犠牲者である事が判明した。
ゲイシー宅の床下、ガレージ、庭から計29名の遺体。そしてデス・プレーンズ川からは事件発覚のきっかけとなったロバート少年を含む計4名の遺体。
(ロバート少年の遺体は翌年1979年の4月末、イリノイ川のドレステン・ダムで発見された)
合計33人にも及ぶ、前代未聞の殺人が明るみになった。
被害者の少年たち
ゲイシーによると、最初の犠牲者は彼が「グレイハンド・バス・ターミナルの少年」と呼んでいた、18歳くらいの身元不明の少年だそうである。
この少年と「ロマンチックな夜」を過ごした翌朝、目を覚ますとその少年がナイフを持って立っていた。驚いたゲイシーは乱闘になり、その少年を逆に刺してしまう。
台所にいったゲイシーは、サンドウィッチが作られていたのを見て愕然とした。
少年はゲイシーの為にサンドウィッチを作ったあと、たまたまナイフを持ったままゲイシーを起こしにいった為、
恐るべき誤解を生んでしまった─────というものらしい。
死体を床下に隠したのは、性犯罪の前科があったので偶発的な事故だといっても警察は信じてくれないだろうと思ったから、だという。

裁判:精神異常か、性格異常か
アメリカ中が注目する中、米国屈指の裁判官として知られるルイス・B・ギャリッポ判事を裁判長として、1980年2月6日にゲイシーの裁判は始まった。
ゲイシーは多くの殺人は正当防衛だ、少年達は望んで性行為をしたと言い張ったが、弁護側は「そんな主張は陪審員の神経を逆撫でするだけだ」として、
精神異常を訴える作戦に出た。
ゲイシーが刑務所内で書いたピエロに扮した自分の自画像
ゲイシーは2人目からは全て絞殺しているが、多くの殺害方法は「少年達が首にかけていたロザリオにボールペンをいれゆっくりねじって窒息させていく」というもので、
証人喚問での捜査員の説明を聞いて、気分が悪くなり退廷する陪審員もいた。
一ヶ月間、検察はゲイシーは悪人、弁護団は精神異常という主張をずっと続けたが、ゲイシーが精神異常という弁護団の主張には、精神科医ですら同意出来なかった。
陪審団はわずか2時間の協議で検察の主張を支持し、ゲイシーに有罪の評決を下した。
3月12日、ギャリッポ判事はゲイシーに死刑を言い渡し、法廷内は拍手喝さいに包まれたという。
ゲイシーも必死に抵抗を見せ「事件は自分の成功を妬む人間と警察のでっち上げ」として何度も再審請求をしたが棄却され、死刑が確定した。
1994年5月10日、ゲイシーは薬物注射にて処刑された。
その際薬物の分量に手違いが生じたのか、ゲイシーは窒息するまで意識を失わず、約18分間苦しみ抜いてから絶命したのである。
14年前の裁判で検察側のリーダーを務めたウィリアム・カンクル検察官はこの事について

「被害者の多くはもっと苦しんで死んだのだ。それに比べたらゲイシーの苦しみなんてまだ足りないね」

と冷淡にコメントした。
尚、ゲイシーが最後の晩餐として希望した食事はケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、イチゴ、コーラと、若き日の成功を象徴するものばかりだった。

後で明らかになったが、いかなる事においても常に自分を正当化したがるゲイシーは、弁護団が無罪に繋がる弁護をせず精神異常で切り抜けようとした戦法に、
いたく憤慨していたそうである。
再審請求が却下され死刑が確定した後、彼はこんな台詞を吐いている。

「俺はとんでもなく恐ろしい事をやったけど、いい事だってたくさんやっているんだぜ」 

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.3 シカゴ連続少年殺人事件 (デアコスティーニ)
連続殺人者 (タイムライフ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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