世界を驚かせた奇怪、猟奇的な殺人事件の数々、そしてその犯人。科学では解決できないミステリー現象。それらを紹介していくブログです。

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拝啓 親愛なる我が友、ミスター・レッサーへ。

「人間を更正させるには殺すしかないと、俺は信じている」 (カール・パンズラム)

カール・パンズラム
幼少の頃から過酷な虐待、裏切りを受け続けてきたカール・パンズラムは、人と社会の全てを憎み、それに危害を加え続ける事に生涯を賭けた。
拘置所に入ってもそれは変わらず、常にいざこざやトラブルを起こし、看守たちの手を煩わせ続けた。
しかし、1人の心優しき親切な看守が、パンズラムの心を開いた。
その看守の「友情」に感謝し、パンズラムが書き綴り渡した半生記には、驚くべき内容が記されていたのである。

告白:親切な看守
1928年の夏も真っ盛りな8月16日。ある大柄でがっしりとした体格の男が、ワシントンDC地方拘置所に拘留された。
8月のワシントン州は凄まじく暑く、30度を超える事もまったく珍しくない。拘置所の中は、囚人たちの汗と消毒薬の臭いが充満していた。
その囚人は20日の昼下がり、5ヶ月前にこの拘置所に赴任したばかりの若い看守、ヘンリー・レッサーに強烈なインパクトを与えた。
レッサーは房の扉の上のネームを確認すると、そこにはC・パンズラム、と記されていた。
見ると、パンズラムは鉄格子をその大きな手で握り締めている。レッサーは、何気なく訊いてみた。
「……あんたの裁判は、いつから始まるんだ?」「11月だ」パンズラムからは、そう返ってきた。
その燃えるような黒い瞳には凄みがあった。レッサーはパンズラムをきっとマフィアかギャングの大物に違いない、と思った。
「あんた、塀の外ではどんな仕事をしていたんだ?」「人間の更正だよ」すると、同じ房の2名の囚人たちが笑い出した。レッサーには意味が判らなかった。

貧しい家庭に育ったユダヤ人青年のレッサーは人当たりがよく、偏見を持たずに囚人たちに接していたため、囚人たちの評判も良かった。
そのレッサーの雰囲気が、ひょっとしたらパンズラムにも伝わったのかも知れない。
翌日、再びパンズラムが拘留されている前を横切ったレッサーは、またパンズラムに話しかけた。
「なあ、パンズラム。あんたが昨日言ってた人間の更正って、何だ?」するとパンズラムは無表情に答えた。

「人間を更正させるには殺すしかないと、俺は信じている」

だが、パンズラムの容疑は窃盗だった。歯科医の家に侵入してラジオを盗み、職務質問で堂々と「泥棒だ」 と答えて捕まったのだ。
そのことを問いただすと「そうさ。ケチな容疑さ。俺は何人も殺しているから、どおってことねえよ」
レッサーは直ちに所長のウィリアム・L・ピークに報告したが、ピーク所長も、警察も、検事も、パンズラムのハッタリだと信じていた。
「あいつはああやって他所の州での立件不可能な犯罪をでっち上げ、逃亡犯罪人引渡しで時間稼ぎしようとしてるんだろう」
実際、パンズラムは過去に何度も服役していたが、容疑はいずれも不法侵入や窃盗だった。
パンズラムの心を開いたヘンリー・レッサー
10月22日、パンズラムの房が抜き打ちで検査された。コンクリートに埋め込んでいる鉄格子の1本が緩められている。
こんなことを出来る腕力の持ち主は大男のパンズラムしかいない。
直ちに懲罰室に連行され、柱を抱く格好で縛られ殴る蹴るの暴行を加えられた上に、吊るし刑に処された。
両手を背中で縛られて手首から吊るされた状態で12時間も放置されたのだ。
心配したレッサーが様子を見に行くと、床に倒れていたパンズラムは「よぉ、お前さんかい」とレッサーに声をかけた。
見ると手首の皮膚が裂け、血が滲んでいる。「大丈夫か?」とレッサーが尋ねると「ああ、これぐらいは慣れっこよ」と答えた。
ところが別の看守が房を覗き込むと、パンズラムは口汚く罵った。たちまち4人の看守によってたかってリンチにかけられた。
不憫に思ったレッサーは、信用できる囚人に1ドルを預け、パンズラムに渡すように頼んだ。「これで何か美味い物でも買うように伝えてくれ」
1ドルあれば、追加の食料とタバコが買えるのだ。金を受け取ったパンズラムは最初、ジョークかと思った。
しかしレッサーの本心だと知った時、パンズラムの両目からは不覚にも涙が溢れた。25日、パンズラムの房の前を通りかかったレッサーに、パンズラムは話しかけた。
「ありがとうよ、他人に親切にされた事なんて、生まれて初めてだ。お前さんにだけは、俺のしてきた事を教えてやろう。
紙と鉛筆を差し入れてくれないか? そうすれば書いて教えてやれる」

囚人に紙を鉛筆を差し入れるのは、厳密には規則違反だった。囚人は書ける手紙の枚数には規制があり、そして必ず検閲される。
しかしレッサーには、そうすることでこの男が救われる、と思えたのだ。
翌日、レッサーは房の中のパンズラムに話しかけるふりをして、鉄格子の隙間から紙と鉛筆を差し入れた。パンズラムはそれをそっとマットレスの下にしまい込んだ。
10日ほどたった11月のある夜、レッサーはパンズラムの房にこっそりと近づいた。パンズラムはレッサーの姿を確認すると、鉄格子の間から1束の原稿を渡した。
そして少し会話をしたレッサーは、パンズラムが粗暴だが知的な精神の持ち主である事を悟った。愛読書はドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウエルの本だという。
パンズラムの裁判が始まるころ、レッサーはパンズラムの手記を一心に読みふけっていた。
だが、まさかパンズラムのいう「俺のしてきた事」が恐るべき大量殺人だとは、レッサーはこの時は夢にも思わなかった。

過去:典型的な厄介者
カール・パンズラムは1891年6月28日、ミネソタ州で小さな農家を営んでいたジョン・パンズラムの4人目の子供として生まれた。
父親のジョンは暴力的な男で、カールが7歳の時に家出した。
カールが初めて警察のお世話になったのは僅か8歳の時だった。酒を飲んで補導されたのだ。そして11歳で少年院に入れられた。
「俺はそこで、人が人に対して行ういたぶりについて、徹底的に教わることとなった」
体罰と称して殴つ蹴るの暴行を受け、裸で縛りつけられたこともあった。社会に対する激しい憎悪の萌芽がこの時に芽生えた。
その後も窃盗を繰り返し、シャバと刑務所を何度も往復することになっったカールは、1910年の釈放時に自身を「典型的な厄介者」と評した。
そして1915年、カールはその生涯を決定づける出来事に遭遇する。
サンフランシスコで逮捕された時、担当検事から「盗品の隠し場所を自供すれば求刑は最低刑の懲役1年にする」という司法取引を持ち掛けられたのだが、
それに応じても検察側は裁判で最高刑の7年を求刑してきたのだ。

「俺はちゃんと約束を守った。でも、判事も検事も約束を反故にし、たっぷり7年もの懲役を喰らわしやがったんだ。
ブタ箱に戻った時、看守どもは俺を嘲笑った。堪忍袋の緒が切れたとはこのことだぜ。
俺は房から抜け出すと、他の房の鍵穴をすべて埋めてから、辺りのものを手当りしだいにぶち壊した。
そして、ガラクタを積み上げてバリケードにすると火を放ったんだ。だが、奴らが突入してきたんで消されちまった」


23歳の時のパンズラム
それからのカールは事あるごとに反抗し、その度に「穴ぐら」と呼ばれる懲罰室に放り込まれて殴る、蹴るの暴行を受けた。
しかし、それでも彼は反抗を止めたりはしなかった。
看守の顔に便器の中身をぶちまけたり、食料庫に侵入して盗んできたアルコールを囚人に振るまって騒ぎを起こした事もあった。
囚人仲間の脱獄を手助けをし、その追跡の際にミント刑務所長が銃撃されて死亡した。カールは狂喜したが、新任の所長は彼を「消火ホースの刑」に処した。
(筆者注:我が国でも2001年、名古屋刑務所の刑務官4人が受刑者を死亡させた体罰である)
それでもカールは耐え抜いた。そして、この体罰が州知事の耳に入り、新所長は免職された。

1917年、チャールズ・A・マーフィーがオレゴン州立刑務所長が就任した。
彼は元陸軍大尉にしては珍しくリベラルな人物で、凶悪な囚人でも人として対等に接すればそれに応えてくれる筈だと信じていた。
彼と出会ったことでカールの人生に陽が射したかに思えた。ところが、結果としてこのことが裏目に出てしまうのである。

転機:リベラルな新所長
マーフィーの方針はそれまでとはまったく違っていた。これまでの所長と違い、残虐さなど微塵もない。懲罰も独房に入れられるだけで、ベッドと3度の飯が与えられた。
ある日、鉄格子を切っているのを見つかったパンズラムは捕まった。報告を受けたマーフィーは看守に訊ねた。
「パンズラムはこれまで何度穴ぐらに入れられたんだね?」
「8回です」と看守が答えると「ふむ、では穴ぐらに入れても効果はない、という事だな」そしてマーフィーは次のように指示を出した。
「明日からパンズラムの食事の量を増やしてあげなさい。それから、字が読めるようだったら、本も差し入れなさい」
「は、はあ…分かりました」

懲罰室
数週間後、パンズラムはまた脱獄を試みようと糸のこを持ち込んだのを見つかってしまった。
報告を受けたマーフィーは、所長室にパンズラムを呼んだ。
「君はこの刑務所で一番の厄介者だそうじゃないか」パンズラムは黙って頷いた。ここでマーフィーは信じられない提案をしてきた。
「君がもし『脱獄しない』と名誉にかけて約束するならば、君は刑務所の外に出て何処に行ってもいい。但し、夕食の点呼までには戻ってくるんだ」
パンズラムはしばらく考え、そして、名誉にかけて脱獄しないと誓った。もちろん、内心は脱獄するつもりでいた。
ところが、夕食の時間が近づくにつれて、後ろ髪を引かれる思いに駆られた。気がついたら、パンズラムは刑務所に戻っていた。
「ムショに戻ると、仲間たちから『どうかしてる』と口々に云われた。
俺もそう思ったから『俺が狂ってないかどうか診察してくれ』と刑務所医に頼んだが、狂ってはいなかったそうだ」

あんなに凶悪だったパンズラムが模範囚になって行った。着実に刑務所改革が進められた。
体罰はなくなり、食事は改善され、囚人による自主管理も行われるようになった。
全てが好転したかに思われたが、それをすべて御破算したのは他ならぬパンズラム本人であった。

事が起こったのはその年の9月のことである。いつものようにぶらりと外に出掛けたパンズラムは近所の病院へと向った。
今や模範囚の彼はそこの看護婦たちと文通をしていたのだ。ところが、その晩はいささか飲み過ぎて、夕食の点呼の時間を過ぎてしまった。
パンズラムの脳裏にふたたび「脱獄」の文字がよぎった。
パンズラムは1週間後に捕まったが、その際逮捕しようとした保安官代理を殺そうとしたため、マーフィーの面目は丸潰れだった。
彼の采配は全米からの注目を集めていたというのに、結局ダメだということが実証されてしまったのだ。
散々批判されたマーフィーは更迭され、刑務所も元のような豚小屋レベルに戻ってしまった。
パンズラムはこれまで他人と社会は憎んでいたが、己れは憎んでいなかった。
ところが、今回はかつて自分との約束を反故にした判事や検事と同じ事を、自分がマーフィーにしてしまったのだ。
「マーフィーは理想主義者だった……彼は俺を信じてくれたのに、俺は彼の信頼を裏切ってしまい、抜き差しならない状況に追い込んでしまったんだ」
マーフィーの信頼を裏切ってしまったパンズラムは自分自身を嫌悪し、完全に自暴自棄になった。

殺人:モンスターへの変貌
自分を含め、地球上のあらゆるものを憎悪するモンスターと化してしまった彼は、殺人にのめり込むようになる。
1918年5月、まんまと脱獄に成功したパンズラムは、ニューヨークで船員の免許を取った。
南米からヨーロッパに入り、英国で盗みを働いていたが捕まって、グラスゴーにある拘置所でしばらく過ごしている。
ニューヨークに戻った彼は、従軍時代に懲役3年の刑を命じた当時の陸軍長官、ウィリアム・ハワード・タフト(のちの第27代アメリカ大統領)の家に入り、3000ドルを盗んだ。
その3000ドルでヨットを買うと、船乗りの追い剥ぎ稼業を始めた。
船乗りを雇って沖に繰り出し、夜に酒をたっぷり飲ませ前後の区別もつかないくらい酔わせると、殺害して所持金を巻き上げるのだ。
これで少なくとも10人は殺した。さらに2名を雇ってまた殺そうとしたが、ヨットが座礁してしまったため、この2名にはちゃんと金を払って解雇した。
その後ベルギー領のコンゴに渡り、6人の現地人を雇うとワニ狩りに出掛けた。
「ワニは腹ペコだったみたいだから、俺はエサをやることにした。6人の黒人全員を撃ち殺して海に投げ込んだ。死体はきれいに平らげてくれたよ」
現地の少年を強姦して、頭を砕いて撲殺したこともあるという。(パンズラムは両刀使いだった)。
どこまでが本当なのかは判らないが「ヘンリー、お前さんにだけは教えてやる」という手記なのだから、嘘やハッタリを書くとは考えがたい。
おそらく、全てが真実なのだろう。最後の中国人を含め、犠牲者は20人にも及んだ。
その後、ニューヨークに戻ったパンズラムは運送会社に侵入して逮捕された。
尚、この件の裁判でもパンズラムは検察に司法取引の約束を反故にされている。
有罪を認めれば求刑は最低刑にする、と約束していたにも関わらず、裁判では最長刑の5年を求刑されたのだ。
そして5年後、出所した彼は歯科医の家に忍び込んでラジオを盗み逮捕され、ワシントンDC地方拘置所に拘留されたところでレッサーと知り合う事になる。

パンズラムの手記をすべて読み終えたレッサーは、戦慄を覚えたが、同時に深い感銘を受けた。刑務所の現在の制度を痛烈に批判する行には、知性すら感じた。

「俺がどうしてこんな人間になってしまったのか、知りたきゃ教えてやろうか?
俺は好き好んでこんなケダモノになったわけじゃない。奴らは俺を捕まえて、ムショで散々虐待してから釈放するんだ。それの繰り返しだった。
例えば、お前さんが虎のベイビーを飼っていたとしよう。こいつを虐待して獰猛で血に餓えた怪物にしてから、世に放ったとする。
そいつは手当たり次第人間に襲いかかり、町はたちまち地獄絵図を化すだろう。それと同じことがこの国のムショでは行われているんだ」


1928年11月12日、パンズラムに判決が云い渡された。
何とこの裁判での検察は、パンズラムに司法取引の申し出を断られた事に怒ったのか(パンズラムにしてみたら当然の対応なのだが)、
25年という窃盗では有り得ないような懲役刑を求刑してきたのである。
怒り狂ったパンズラムは検察、判事、陪審団に怒鳴り声で悪態を突きまくり、判事や陪審団に「俺はもう何人も殺してるんだ!」と言い放った。
結果、判事と陪審団の心象をこれ以上ないくらい悪くしてしまい、パンズラムは国内で最も過酷と云われているカンザス州リーブンワース刑務所に、
求刑通り25年間服役する事になってしまった。
レッサーはパンズラムになんと声をかけていいのか分からなかった。少なくともパンズラムが怒り狂った理由は、レッサーには理解できた。
確かにパンズラムは窃盗犯だ。とはいえラジオを盗んで懲役25年はあんまりだと思った。
レッサーはパンズラムにタバコを1箱余分に差し入れることで、自分の気持ちを表した。

パンズラムが入っていた房
年が明け、パンズラムが移監される日が近づいてきた。レッサーは上司からパンズラムの独房の鉄格子の点検を命じられた。
レッサーは鉄棒を手にパンズラムの独房へと向った。鉄棒を確認したパンズラムは全身に緊張をみなぎらせてレッサーを見据えた。
レッサーは「大丈夫、何もしやしないよ」という意味を込めて微笑み、パンズラムの背後にある鉄格子の窓を指差した。
「なあ、カール。あんたはあんなに綺麗な夕日を見たことがあるかい?」その瞬間パンズラムは後ろに飛び退き、そしてレッサーに訊ねた。
「どうして俺を振り向かせようとするんだ?」レッサーは鉄棒に眼をやりながら云った。「ああ、これかい? あの窓の鉄格子を点検しなきゃならないんだ。ただそれだけさ」
パンズラムはレッサーの真意を吟味しているようだった。そして、結論が出たのか、次第に緊張が解れていった。
「以前俺を振り向かせて、振り向いた瞬間に鉄棒で殴った奴がいたんだ。だからお前さんもそうするのかと思ってな」
「ははは、私はそんなことはしないよ、絶対に」レッサーは窓に近づくと、鉄格子を1本ずつ鉄棒で叩いてグラついていないかを調べ始めた。
その背後でパンズラムがにじり寄ってくる気配を感じた。それでもレッサーは点検を続けた。
「夕日なんかに関心を向けようとしてすまなかった。あんたは今、とてもそんな気分になれないよな」レッサーはゆっくりと歩いて房を出ると、ドアに鍵をかけた。
「お前さんは勇気があるな」パンズラムが低い声で云った。「だがな、あんな風に俺に背中を向けちゃいけない。もう2度とするな」
レッサーは微笑みながら答えた。「勇気とかじゃないよ。あんたが私に手を出さない事を知っているだけさ。友達じゃないか」少し沈黙が続いた後、パンズラムは答えた。
「ああ。お前さんだけは殺したくはないぜ。だがな、気をつけろよヘンリー。今の俺はひどく不安定で、どんな事でもしてしまいそうなんだ」

死刑:最初で最後の公平な正義
1929年2月1日、リーブンワース刑務所に移監されたパンズラムは、その後もレッサーと文通を続けていた。
しかし6月20日、彼を虐待し続けていた作業監督のロバート・ウォーンクを金てこで撲殺、1930年4月15日、死刑を宣告された。
ウォーンクは地元のKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーだった。
KKKは白人至上主義有色人種差別の他に「刑務所に入る奴は悪い事をしたからだ、酷い目に合って当然。優しくしてやるなど言語道断」という超保守思想団体でもあり、
そのメンバーでもあるウォーンクが、パンズラムのような男とはソリが合う訳がなかったのだ。
拘置されている間、パンズラムはまた看守たちにリンチを受けるんではないかと思ったが、しかし、そのような事は一切なく、単に反省室に閉じ込められただけった。
パンズラムはレッサーへの手紙に「驚いたぜ、まさか何もされないとはね。最初からこういう扱いを受けていたら、俺は歪まなかったかも知れん」と書いている。
この手紙を読んだレッサーは「私はあんたが根っからの悪人じゃないと思っている。あんたは更正出来る筈だ。必ず減刑を勝ち取って見せる」と返事を書き、
そしてそのために尽力したが、パンズラムからの返事の手紙は以下のようなものだった。

「坊や、いい加減に目を覚ませよ。俺は善人になろうなんてこれっぽっちも思ってないんだぜ。俺がこうなるまでに30年以上もかかったんだ。
それなのにどうしてお前さんは俺が善人に生まれ変わるなんて信じているんだい? 黒はいきなり白になったりしねえんだよ。
しかし不思議なもんだな、ヘンリー。お前さんほどの善人が、俺みたいな極悪人を好いてくれるなんて。俺ですら、俺自身を心から憎んでいるってのによ!」


パンズラムは死刑判決に「不満はない」と答え、上訴はしない事を公選弁護人に伝えた。
折しも米国では死刑反対運動が高まっており、カンザス州はその流れをいち早く汲んで死刑を廃止していた。にも関わらずパンズラムには死刑判決が出たのだ。
当然のように死刑反対論者たちは激怒し、パンズラムに面会を申し入れ助命請願者への署名を求めた。
だがパンズラムは怒鳴り、卑猥な言葉を浴びせて彼らを追い返すだけだった。
死刑反対団体からの「どうして死刑を逃れたいとは思わないのか?」という質問に対し、以下のように答えている。

「今回の俺に対する死刑判決は、俺が生きてきて初めて見た、
最初にして最後の『公平な正義』だと思っている」


時の大統領ハーバード・フーバー「どうか俺の死刑を延期したり中止しないようにしてくれ」と直訴の手紙も送った。
パンズラムの意思が固いと知るや、レッサーにはもうどうする事も出来なかった。
今、彼に出来ることは手記を世間に広め、現在の刑務所制度が抱える問題とその改善を促す事だけだった。
1930年9月5日、早朝6時になろうとするころ、パンズラムの死刑は執行されようとしていた。
立会い人に2名の牧師がいるのを見て彼は激怒し「聖書を盾にした偽善者なんて追っ払ってくれ」と刑務所長に訴えた。
抗議が認められると晴れ晴れとした表情をし、こう言った。「さあ、さっさとやろうじゃないか。何をもたもたしてやがんだ」
絞首刑台の上で死刑執行人に「最後に何か言い残すことはあるか?」と聞かれると、彼はこう答えた。

「ああ、あるね。さっさとやれよこの田舎者、お前がノロノロしている間に俺なら10人は絞め殺してるぜ!」

その数秒後、絞首刑台の床板が開き、パンズラムの首の骨が折れた。
パンズラムの裁判で精神鑑定を担当したカール・メニンガー博士は、数年後、パンズラムをこう語った。
「彼はその獰猛さと気性の激しさ、そして激しい憎しみをもっているという点で、非常にまれな男だった。
我が合衆国の刑務所制度が抱える問題から今後も第2の彼が生み出されるかも知れない。その意味でも私は生涯、パンズラムを忘れることはないだろう」


パンズラムがレッサーに宛てた半生記
パンズラムの手記には多くのジャーナリストや作家が感銘を受けた。
しかし衝撃的な内容と、KKKのような超保守思想派の反対により、その出版は困難を極めた。
パンズラムが処刑されてから40年後、この手記は『 Killer, A Journal Of Marder 』というタイトルで1970年、ようやく発刊に至った。
その間、看守の職を辞め衣服品のセールスマンに転職したレッサーは、亡き「親友」のため、ずっと尽力し続けたのである。

『 Killer, A Journal Of Marder 』は日本では扶桑社より『全米メディアが隠し続けた第一級殺人』というタイトルで発売されている。
残虐ではあったが、実は高い知性の持ち主でもあった大量殺人者の心理を研究したこの本は、犯罪研究家の必読の書である。
興味を持たれた方は、ぜひ一度目を通すことをお勧めする。

参考文献
全米メディアが隠し続けた第一級殺人 (扶桑社)
週刊マーダー・ケースブック31 憎しみの殺人者たち(デアゴスティーニ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

性的興奮が忘れられず「死体に帰る」峡谷の殺人鬼

本名アーサー・ジョン・ショークロス 通称アーサー・ショークロス

「彼にとって殺人は彼自身が語っているように『いつもの仕事、日課』に過ぎないのです」(チャールズ・シラグサ検事)

青年時代に幼き少年少女を殺害して刑務所に服役したアーサー・ショークロスは模範囚人として過ごし、仮釈放後はニューヨーク州ロチェスターにて静かに過ごし始めた。
それから間もなく、ロチェスターのジェネシー峡谷から、女性の死体が次々に発見され始めた。
ジェネシー川の殺人鬼アーサー・ショークロス
容疑者として逮捕されたショークロスは連続殺人を自供したが、動機はあまりに些細なものだった。
更生して収まったかに見えた彼の殺人願望が15年の時を経て、再び蘇ったのはどうしてだろうか?
ジェネシー川の殺人鬼(ジェネシー・リバー・キラー)は、一体どのように生まれたのだろうか?

発見:死体に帰る男
ニューヨーク州警察とロチェスター市警察は、連続殺人事件の犠牲になった可能性のある3人の女性を発見するため、クリスマス休暇も新年会も返上して、
サーモン・クリープと呼ばれる鮭釣りの名所の川や、近接の沼地などを必死で捜索していた。
ロチェスターのジェネシー峡谷は、1988年3月24日にドロシー・ブラックバーンの遺体が発見されて以来、殺人鬼の「死体置き場」と化していたのだ。
しかし捜査は難航し、1989年の暮れには3人の売春婦、ジューン・シセロ、ダーリーン・トリッピ、フェリシア・スティーブンスの3人が、次々に行方不明になっていた。
1990年1月4日。ジョン・マキャフリー上級捜査官マーク・ワドビン巡査ケネス・ハント巡査を乗せたニューヨーク州警察のヘリコプターはついに、
サーモン・クリープに浮かんでいる人間の遺体らしきものを発見した。
それはフェリシアのジーパンが発見された場所から3キロ、ドロシーの遺体が発見された場所から800メートルほど離れた場所だった。
さらに現場を見下ろすと、橋の上にグレーのシボレーが止まっており、そこから運転席の男が身を乗り出してペプシコーラの瓶に排尿をしているように見えた。
双眼鏡でその異様な光景を観察していたマキャフリー捜査官は、動き出したシボレーを追跡。約10キロ先で男に職務質問をした。
男はアーサー・ショークロスと名乗った。クララ・二ールという女友達を迎えにいくところだという。
連絡を受けた連続殺人事件の特捜チームのリーダーでもあるロチェスター警察のテレンス・リッカード副本部長は、ショークロスの経歴を調べて仰天した。
1972年、10歳の少年と8歳の少女を強姦した末に殺害し、有罪となっているではないか。
もっともリッカード副本部長だけでなく署内がもう一種のパニックのような「上を下への大騒ぎだった」という。
(リッカード副本部長は『あの時の衝撃と騒ぎは警察を引退しても、おそらく生涯忘れる事はないだろうね』と回想している)
シボレーは押収され、ただちにショークロスとクララは個別に事情聴取を受けることになった。
発見された遺体はフェリシアではなく、ジューンと判明。ジューンの近くに落ちていたサラダの容器は、ショークロスが橋の上から投げたものだと認めた。
ショークロスは免許を失効していた、いわば無免許の状態なのでシボレーは押収されたままだったが、クララとショークロスは一旦は釈放され、帰宅を許された。
シボレーからはジューンのイヤリングの片方が発見された。
さらにショークロスの写真をもってロチェスターの売春婦街、ライエル・アベニューに聞き込みに出かけた刑事たちは、ショークロスがかなりの「常連客」であること、
売春婦たちには「ゴート」や「ミッチ」と名乗っていることも分かった。
一度、ある売春婦から「ゴートという男が怪しい、調べてみたほうがいい」という通報の電話があったのだ。
その時は「参考程度」くらいに聞き流していたが、こうなると俄然ショークロスは怪しく思えてくる。
捜査は難航し、ロチェスター警察は以前FBIに協力を求めた事もあった。FBI特別捜査官は事件を検討し、犯人像をプロファイリング。それは次のようなものであった。
 
「20代後半から30代前半の白人男性。車を持っており、行動範囲が広い。
女性たちが安心して車に乗り込むような、『透明な』雰囲気の人物である」


髪はかなり白髪が混じり、でっぷりと肉のついた顎と腹、43歳の年齢よりも遥かに老けて見えるショークロスは、FBIのプロファイリングとはあまりにかけ離れていた。
しかし翌5日の午前10時50分、リッカード副本部長は特捜チームについにショークロスの逮捕を命じた。
ロチェスター警察のゴードン・アーレイチャー本部長は記者会見を開き「被疑者をジェネシー川売春婦連続殺人事件の容疑者として正式に逮捕した」と発表。
最初ショークロスは「自分は保釈中の身だし、エイズが怖いから金を払ってまで売春婦と関わりを持ちたいとは思わない」と徹底して容疑を否認していた。
しかし、警察を訪れた妻のローズマリーに「私はどんな時もあなたを愛しているし、あなたの味方よ」と説得され、ついに遺体で発見された13人の女性のうち、
11人を殺害した事を認めた。(残る2名に関しては『自分の犯行ではない』と頑として否定したという)
アーサー・ショークロス

のちの自供で、この男には逮捕のきっかけとなったジューンの遺体を見に行った以外にも、殺人を犯しては度々現場に戻り、そして遺体を見て性的興奮に浸るという、
不気味な癖があることが分かった。
このためマスコミはショークロスを「死体に帰る男」「ジェネシー川の殺人鬼」としてセンセーショナルに報道した。

過去:母に疎まれ、愛されず
1946年6月6日、メイン州のキタリーにてアートことアーサー・ジョン・ショークロスは生まれた。
アートが生まれてからショークロス家は、間もなくニューヨーク州ウォータータウンの郊外、ブラウンビルという小さな村に引っ越した。
アートは幼児の頃から空想癖があり、内向的な性格で、ずっと夜尿症が治らなかった。
それでも小学校2年までは成績はトップクラスだったが、3年からは成績も急激に悪くなり、言語発達の遅れ、家出などの問題行動が多く見られるようになったという。

原因は9歳のときに始まった両親の不和と、それによる家庭の崩壊だったと言えるだろう。
軍人であったアートの父が赴任先のオーストラリアにも妻子を持っているのが発覚したことである。
この一件により両親の仲は冷え、母親は子供たちに対する愛情を完全に捨て去った。
幼いアートには事情は分からなかったが「パパとママの間に何かあった」ことは察した。そして彼らがもはや、自分を愛していないことも。
母親はアートに暴力をふるうようになり「お前はいらない子なんだよ」と面罵した。
父親はたまに帰ってきては「お前さえいなきゃ、こっちで結婚することもなかったんだが」と言って溜息をつき、睨みつけた。
愛情のない家に帰るのが嫌で、アートは近所に住むウェイトレスの誘いにのり、ほとんど性的虐待とも言える交渉を持つようになる。彼はこの行為に耽溺した。
だが我に返ると自分の行為に恥じ入り、肉体的欲求と罪の意識の板ばさみになって混乱した。
この関係が終わるとほとんど同時に、人間の女に対する反発もあってか、彼は獣姦にのめりこむようになる。
家畜の山羊や羊を襲っては、犯しながらナイフで切ったり突いたりして快感を得るのである。
夜遅く、家畜の返り血を浴びて帰ってくる息子を見ても、母親は何も言わなかった。
この頃からアートは学校でも「問題児」として教師たちも手を焼く存在になった。スクールバスで鉄パイプを振り回し、暴れたこともあった、という。
(筆者注:ただ、多くの連続殺人鬼が大抵高知能を備えているが、彼は学校の知能テスト判定では後ろから数えた方が早いくらい、知能は低かったという)
夜尿症は悪化し、独り言は前よりも頻繁になり、大声になった。弟妹たちをはじめとする小さい子へのいじめ行為も見られ、幾度か憤怒の発作も起こしている。

ある日、アート少年が学校から帰る途中、赤いコンバーティブルに乗っ男が話しかけてきた。身なりも普通で、話し方もまともに見えた、という。
男に道を尋ねられ、アートは懸命に説明したが、男は「ちょっとわからないな」と首をひねり、「一緒に乗って案内してくれないか」と言った。
アートが車に乗り込むと、男は人気のない道に入り込み、アートを殴りつけ首を絞め下着を剥ぎ取るとレイプした。
男は欲望を遂げると、少年を路上に置き去りにして消えた。出血した体を引きずって、アートは歩いて家に帰らねばならなかった。
家には母親がいたが、彼女は息子の顔が腫れあがり、シャツもズボンもぐしゃぐしゃにされているのを見ても、なんら注意を払わなかった。

「家に帰ったら、母がキッチンにいた。俺は傷ついてたし、慰めが欲しかったから『ママ、ぼく、ひどいことされたんだ』って小さな声で言ってみたんだ。
そしたらあの女、『そうね。お前を見たら誰だってムカつくだろうからね』って言いやがった。そのまま振り向きもせずに、料理を続けていやがった」


また、2006年には「これとほぼ同時期に母親にも性的な虐待を受けたこと、妹や叔母とも性的関係を持った」とアートは証言している。
ただ、彼をレイプした「赤いコンバーティブルの男」は発見されていないし、母親が彼に性的暴力をふるったかどうかも証拠はない。親族側も完全否定している。
だがアートが裁判前に弁護側証人の女性学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、母親に箒を肛門に挿入されて痛めつけられた記憶を呼び覚まされて、
「痛い、痛い、ママ。僕にそんなことしないで」と啜り泣くさまがCBSテレビで放映された。
そして、直後に「母親の人格」に豹変し、「あたしとあの子の間を邪魔する奴は殺してやる。淫売ども、雌豚」とわめき散らすさまも。
これが演技だったのかは、アートが死去した今となっては誰にも分からない。
(筆者注:少なくとも裁判では検察側はこれを『下らない演技、茶番』であると決め付け、陪審団も同意したが)
ともあれアートによれば、このレイプ事件以来「性的嗜好が完全に一変してしまった」という。暴力的なセックスでなければ、満足できなくなってしまったのだ、と。

上の右から3番目、高校時代のショークロス
中高一貫校を留年を1年留年し7年で何とか卒業。家宅侵入で保護観察処分を受けるなどしながらも、アートは18歳で結婚、一児をもうけた。
幸せの絶頂のはずの状況で「自分でも得体の知れない欲望」に突き動かされて、アートは女遊びにのめりこむ。やがて家庭は崩壊し、離婚。
その後再婚したが、新婚生活を楽しむ暇もなく、1968年ベトナムに従軍した。

殺人:連続殺人への序曲
アメリカの黙示録───ベトナム戦争がいかにアメリカを打ちのめしたかについては、今更いうまでもないと思う。
非戦闘員であるはずの女子供からもゲリラ攻撃を受け、片時も油断ならない日々。不安はデマを呼び、ふくれあがったデマはまた新たな不安と緊張を生む。
結果、ベトナム戦争はそれまでの戦争とは比べものにならないほど多くの「戦争神経症患者」を生みだし、「ベトナム後遺症の典型例」とされた。
ジョエル・ノリス著の『ARTHUR SHAWCROSS:THE GENESEE RIVER KILLER』によると、彼はここでカニバリズムに目覚めたのだという。
彼は2人の少女を捕らえて木に縛りつけ、1人が見ている前でもう1人の首を切断し、腿の肉を切り取って食べたと証言した。
それを見ていた少女は発狂寸前になったそうだが、この話に裏付けはなく、ショークロスが主張したのみである。
(筆者注:FBIプロファイラーとして有名なロバート・K・レスラー氏は公判前にショークロスと会見をした。
そして後年自著の中でショークロスが戦闘部隊所属でなかった事を交えて『彼のベトナム時代の遺体切断、人肉食の話は100%ウソ』と断言している)
確かに、人殺しが当たり前になる戦場では、どんなおぞましい、残酷な光景でも毎日のように見ることができるものだ。
しかし、ショークロスの場合、獲物の解体を覚えたのは鹿狩りで、生肉の味を覚えたのは食肉加工工場で働いていた時、というのが真相のようである。
ベトナムから戻ったばかりのショークロス
ショークロスは1969年に帰国。彼はまっさきに母親のもとへと向かったが、彼女にとって息子が邪魔者であることに変わりはなかった。
むしろ彼女は息子が五体満足で帰ってきたことを見るや、恩給が手に入らない事を嘆いた。
そして戦争でM16ライフルで倒した敵の数は確認しただけで39人にのぼるだの、大軍に包囲されたが部隊でただ1人生き残っただの苦労話を大げさに続ける息子に
「いい加減黙りなよ。お前のホラ話に興味なんてないよ。それをさっきから女みたいにいつまでもベラベラ、ベラベラと……お前はオカマかい。
まさか尻で軍隊にご奉仕してたんじゃないだろうね」
と吐き捨てた。

ショックを受けたショークロスは家を飛び出し、我が家へ戻った。家には従軍前に再婚した妻が待っていた。
だがベトナム後遺症による幻覚や悪夢に悩まされるようになったショークロスは、精神科医にかかりカウンセリングを受ける羽目になった。
クリスチャンサイエンスの信徒であった妻が神様の教えに反する、としてショークロスが入院するのは拒否した。
1970年、ショークロスが働いていた製紙工場は彼が勤務して間もなく火事になり、28万ドルもの被害を出した。この時最初に通報したのはショークロスだった。
4ヶ月後、干し草を貯蔵した納屋が出火、これも真っ先に通報したのは彼だった。
その3日後、ショークロスが勤務して間もない乳製品工場から出火。またしても、通報者はショークロスだったのはいうまでもない。まるで「くまえり」である。
その後、ガソリンスタンドへの強盗に加担し逮捕され、3件の火事も自分の放火だった事を自供した。
ショークロスは5年の実刑判決を受け、服役。収監中に妻には離婚を言い渡された。ショークロスによると、彼はここで3人の黒人囚にレイプされたという。
そんな折、刑務所内で受刑者たちの大暴動が起きる。ここでショークロスは偶然に怪我した看守と行き会い、彼を助けることになる。
これが功績として認められ、また、模範囚人として過ごしていたこともあり、ショークロスは2年で仮釈放となった。
1972年、出所したショークロスは26歳。4月22日に3度目の結婚をする。今度の相手は幼馴染みで、妹の元クラスメイト、ペニー・シャビーノ
 
1972年5月7日の日曜日、ショークロスはその日もまた「ベトナム戦争の後遺症による幻聴、フラッシュバックと闘っていた」という。
ショークロスの近所に住む10歳の少年、ジャッキーことジャック・ブレイクが行方不明となり、両親のアレン・ブレイクと妻のメアリーは警察に駆け込んだ。
物置からはジャッキーが大切にしていた釣りセットが無くなっており、どうやら釣りに出かけたようである。
いつもジャッキーと弟に釣りを教えているアートという20代の男のところにいったのだろうか?
夫妻は「アートという男が息子の行方不明に関係していると思う」と警察に話したが、まともにとりあってはくれなかった。
警察は「アート」という男がアーサー・ショークロスという男であるのは突き止めたが、5月10日「彼は息子さんの失踪とは関係ありません」と夫妻に連絡している。
しかし、その後の目撃証言により、グレーのTシャツを着た少年(ジャッキーもその日はグレーのTシャツだった)が、20代の男性と一緒に森に入っていた事が判明。
さらに9月6日、今度は8歳のカレン・アン・ヒルという少女が絞殺死体で発見された。少女はレイプされたあと、無残に絞殺されて川に遺棄されていた。
カレン殺害の件でも「金髪の幼き少女が20代くらいの男性と一緒に歩いているのを見た」「遺体発見場所近くのフェンスを越えようとしている男がいた」と、
やはり“20代の男”が続々と目撃情報として寄せられた。
裁判所に入る26歳のショークロス
警察は少年の行方不明も含めショークロスの身柄を拘束、彼を尋問した。6時間に及ぶ取調べの末、ようやく彼は容疑を認めた。
ジャッキー少年も殺害したことを認め、遺棄現場を自供した。3日後、ブレイク家から3キロほど離れた森の深い部分で、ジャッキー少年は変わり果てた姿で発見された。
ほぼ白骨化しており、激しく殴打されたらしく、歯が抜けて散乱していた。レイプされたようで、服は全て脱がされていた。
司法取引によりショークロスは2件の第二級殺人罪で起訴され、ミルトン・ウィルツ裁判長は第二級殺人罪では最高刑の懲役25年を言い渡した。
ウィルツ裁判長は「被告が服役中に自身の問題を解決する何らかの手助けを得ることが出来ると信じています」と説論したが、ショークロスは無表情だった。
妻ペニーはショークロスに有罪判決が出た次の日に離婚訴訟を起し、10月17日、凶悪犯専用の刑務所と悪名高きアッティカ刑務所に収監された。

衝動:「だから、殺してやった」
刑務所内では問題のない模範囚人として過ごし、14年半後の1987年についに仮釈放許可が下りた。
42歳の誕生日を約1ヶ月後に控えた4月30日に出所したショークロスは、服役中に文通で知り合った看護婦、ローズマリー・ウォリーが一緒についてきてくれた。
服役するまでは長身でスリムなショークロスだったが、出所後はかなり白髪が混じり、体に贅肉もでっぷりとついていた。
ショークロスは事件を犯した土地に戻ることを禁じられていたため、各地を転々とした。
住んで4週間で地元紙が彼の経歴をスッパ抜き、地元警察署から「あなたのような凶悪犯罪の前科がある人間はこの街にふさわしくない」と引越しを命じられることもあった。
打ちひしがれた彼は髪を染め名前を変えることも考えたが、保護監察官から「ニューヨークのロチェスターなら都会なので目立たず暮らせるのではないか」と説得された。
ショークロスは都会は好きではなかったが、ロチェスターのジェネシー川では大好きな釣りが出来るので、渋々応じた。6月29日、彼はここに越してきた。
そして野菜の仕分けの仕事につくのち、クララ・二ールと知り合い、愛人関係になる。
ローズマリーにはクララを「女性だがクララは友人、それ以上の関係はない」と紹介し、ロースマリーもそれを信じることにした。

ショークロスがロチェスターに住んで約9ヶ月後の1988年3月24日。
ロチェスター北西部の郊外を流れる鮭釣り名所の川サーモン・クリープに、女性の死体が浮いているのが発見された。
ドッツィーこと27歳の売春婦、ドロシー・ブラックバーンだった。ドロシーは15日に姉妹と市内のレストランで昼食をとったあと、行方不明となっていたのだ。
半年後の9月11日、28歳の薬物中毒の女性アンナ・マリー・ステファンの死体がジェネシー峡谷でゴミ袋に詰められて遺棄されていた。
この頃ショークロスはローズマリーにプロポーズ、彼女はショークロスの4番目の妻となる。
10月21日、同じくジェネシー峡谷で鮭釣りにきていた男性が頭の無い白骨死体を発見、慌てて通報。
これはのちに7月29日を最後に行方不明になっていた59歳の浮浪者、ドロシー・キーラーのものと判明する。
その6日後、今度はパティこと25歳の売春婦、パトリシア・アイブスが絞殺死体で発見された。激しく殴打され、肛門を犯されていた。
11月初旬、今度は22歳の売春婦、マリア・ウェルチが行方不明となり、11日、フラニーこと25歳の売春婦フランセス・ブラウンがこれまた無残な姿で発見される。
ここで警察はようやく一連の女性殺人を「同一の連続殺人鬼による犯行」と確信したのである。
11月23日にはショークロスとローズマリーの友人で軽度の知的障害がある30歳のジューン・ストットが、ジェネシー川で死体で発見された。
ショークロスは彼女を1ヶ月前に殺害しており、数日して彼女の死体を見に「帰ってきた」という。そこで死体の腹を割き、内臓を取り出して、性器を抉り取り食べた。
「自分が体から抜け出て、死体を切り刻んでる自分を空から見下ろしてるみたいな気がした」という。
27日には29歳の売春婦、エリザベス・ギブスンが殺害される。
その年の暮れにはさらに前述の3人の売春婦、ジューン、ダーリーン、フェリシアがショークロスの手にかかり、行方不明者リストに名を連ねることになる。

ショークロスは犯行を重ねながらも、精神的には混乱のきわみにいた。
死体からえぐり出した内臓を袋に詰め、ハンドル片手に袋の中身をいじくりながら帰途をたどるうち「俺は一体何をしているんだろう」という思いに、
涙が止まらなくなったこともあったという。
ジューンを撃ち殺した後、彼は「この女の部品をロバート(クララの息子)におみやげに持って帰ったら、きっと喜ぶぞ」という思いに取り憑かれ、
内臓と性器をタオルでくるんで袋に詰め、家に帰ることにした。
しかし信号待ちをしている間に、彼はいつものように袋に片手を突っ込んでそれをいじくり出し、我慢できなくなってついに食べてしまう。
それを噛み砕きながら彼はマスターベーションし、ふと我に返ると、バックミラーに血まみれの自分の顔が映っているのが見えた。
彼は自分が完全に駄目になってしまったことを今更ながら悟った。
逮捕されてから彼は、マリアとダーリーンの遺体遺棄現場に刑事たちを案内した。「彼女はここにいます」3ヶ月に及ぶマリアの捜査は終わった。
たとえ戦闘部隊所属ではなかったとしても、ショークロスはベトナムで憶えた殺しのテクニックを有効活用していたようである。
それは以下の刑事とのやりとりでも垣間見える。

「アート、あんたは『夜のタフな女たち』をいとも簡単に殺せている。何故だ?」
「刑事さん、俺は彼女たちの『常連』だから、俺にひどい目に合うなんて考えてもいない。だからまず顔面をガツン、とやってやるんだ。
女たちは俺に殴られるなんて予想もしていないから驚いて呆然とする。そこをすばやく絞め殺すのさ」
「………そんな事をどこで習った?」
「刑事さん、あんたベトナムで戦ったことはないね?」
「ジューンの死体を切り裂いたのは何故だ?」
「死体の腐敗を早めるには、腹を切り裂いて内臓を引きづり出すこと。ベトナムで戦った経験のある奴なら誰でも知っているさ」


事実、ショークロスの犠牲者には抵抗したあとがほとんどなく、検死にあたったニコラス・フォーブス博士も死体が運ばれる度に犯人の「殺しのテクニック」に驚き、
「犯人はスタンガンを使ったか、麻酔薬でも注射したのか?」と火傷か注射痕がないか毎回調べたという。

ショークロスの犠牲者
また殺害理由をそれぞれ自供したが、ほとんどが「そんな理由で殺したのか?」と取調べをした刑事たちが呆れるくらい、些細な事だった。
最初の犠牲者であるドロシー殺害について「あの女、俺の大事なものを噛みやがったんだ。血が出たんだぜ。『噛むのが好きなのよ』ってヘラヘラ笑ってやがった」
ショークロスは激昂してドロシーを絞め殺し、死体をサーモン・クリープに捨てて立ち去った。
フラニーはショークロスとのカー・セックスの最中にギアレバーに足が挟まり、レバーのノブがとれた事に腹を立て、殴り殺したという。
「俺は頭にきて彼女の喉を殴り続けたら、動かなくなった」
59歳の浮浪者ドロシー・キーラーはショークロスのアパートから盗みを働こうとしてショークロスを激怒させた。
さらに盗みを追求されたドロシーは「あんたがクララと愛人関係なの、ローズに言ってやる!」と開き直ったため、殺されることになった。
「『仲直りして、ジェネシー峡谷に釣りに行こう』と誘った」しかし釣りはせず、落ちていた丸太で首を思いっきり殴ったら死んだ、という。
アンナは川で遊んでいたところ、ふざけてショークロスを突き落とした。激怒したショークロスがアンナを殴りつけたら、アンナは「警察に言ってやる!」と騒ぎ始めた。
「仮釈放でまだ保護観察中の俺にとって、警察への通報は命取りだと思った。次に警察沙汰になったら、下手したら一生刑務所から出られなくなる」
「………それで、どうしたんだアート?」
「絞め殺してやった」


前述の通りショークロスは遺棄現場に何度も赴き、殺害した女性の遺体を見ては興奮に浸っていたことから「死体に帰る男」としてセンセーショナルに報道されたが、
これはショークロスだけでなく、今まで紹介した快楽連続殺人鬼に非常に多く見られる特徴である。
殺害現場に何度も赴く、被害者の遺留品を記念にとっておく、あるいは犠牲者の変わり果てた姿を写真に収める………
彼らはそうやって、殺人を「性的な思い出」とするのだ。

裁判:トラウマか、演技か
ショークロスはエリザベス・ギブソン殺害の件を除く10件の殺人で起訴された(エリザベスは隣のウェイン郡で殺されたため)。
裁判の前に弁護側は検察側の「殺人を認めれば死刑になる第一級殺人では起訴しない」という司法取引に応じた。
検察側のリーダーは、ここまで40回連続で有罪を勝ち取っている敏腕検事、「凄腕チャック」ことチャールズ・シラグサ検事が担当することになった。
10月24日から全米が注目する中ショークロスの裁判がはじまり、殺人を認めた弁護側は、ショークロスの精神異常を訴えた。
裁判が始まるとショークロスは弁護側が呼んだ女性精神医学者ドロシー・ルイス博士に退行催眠をかけられ、幼い日「赤いコンバーティブルの男」にレイプされた記憶、
母に性的にいたぶられた記憶を呼びさまされ、許しを乞うて啜り泣いた。
さらには13世紀にイギリスにいた食人鬼「『アリーメス』の霊に取り憑かれている」と言い、奇妙な声でまくしたてた。
これが演技だとすれば、文字通りショークロスは「迫真の演技」ということになるのだろうが………
残念ながらこの弁護団の「戦術」は失敗に終わり、経験豊富なシラグサ検事に徹底的に矛盾を突かれる事になった。
裁判の終わりの方ではシラグサ検事が矛盾を突く度に、法廷は傍聴席や記者団からもドッと笑いが沸き起こり、ウィスナー裁判長は度々静粛にするよう一括し、
シラグサ検事含め検察側にも「被告や弁護側証人を茶化すような物の言い方、態度を慎むように」警告した程だったという。
最終弁論でシラグサ検事はショークロスを指差し、陪審団に訴えた。

「陪審員の皆さん、冷酷で計算高く、まったく反省の態度を見せないこの男にどうか殺人犯の烙印を押してください。
彼の殺人はベトナム戦争のトラウマや精神異常からの情緒不安定の結果などではありません。
彼にとって殺人は彼自身が言っているように『いつもの仕事、日課』にすぎないのです」


退行催眠によるショークロスの奇態も、陪審団は「全て演技」というシラグサ検事の意見に全面的に同意した。
1990年12月13日、エドワーズ陪審員長は10件の殺人全てに第二級殺人罪で有罪の評決を下した。
年が明けて湾岸戦争では多国籍軍の砂漠の嵐作戦が始まろうとしていた1991年1月2日、判決前にウィスナー裁判長は、ショークロスを自分の前に立たせてこう尋ねた。

「ミスター・ショークロス。発言を許します。何か言いたい事があるのなら言いなさい。
この裁判に集まった人間は私も含めて皆、一体どうしてこんな事が起きたのか、理解したいと思っているのです」


一体彼は何と答えるのか。ショークロスの言葉を聞き逃すまいと、法廷内は水を打ったような静けさとなり、全員が耳を澄ませた。

「今は何も申し上げることはありません」

ショークロスは短く淡々と答え、25年の服役刑の10連続遂行、合計250年の終身刑を宣告するウィスナー裁判長を、無表情に見つめていた─── 
まるで他人事であるかのように無表情である。

FBIのプロファイラーをはじめ、犯罪学者たちは事件解決後も、プロファイルと犯人であるショークロスとの年齢差に首をひねるばかりだった。
しかし一部の専門家の説によれば、刑務所で過ごした15年間、彼の殺人衝動は「仮死状態」になっていたのだろう、ということである。
その眠りは1987年の釈放によって破られた。だから現実の年齢は40代であっても、殺人衝動そのものは26歳のままだったのではないか、と。
26歳だったショークロスは16歳以上年齢の離れたジャッキーとカレンを殺害した。そして40台となってから、16歳前後年齢の離れた売春婦たちを殺害したのだろう。

エリザベスの裁判のため法廷入りするショークロス
1991年5月8日、ショークロスは11人目の犠牲者エリザベス・ギブソン殺害の件でさらに25年の服役刑を宣告された。
ただ、前述の通りエリザベスの件は裁判担当地区が違ったため、先の10件の殺人とは別とされた結果、250年の終身刑と「同時スタート」という事になった。
「これで正義が成されたと言えるのか! ショークロスは娘を殺した罪で刑務所に入った事にならないじゃないか」
とエリザベスの父ブルーノ・スタニスキーは猛抗議したという。

ショークロスの家族は妻のローズマリーと娘以外は面会を一切拒絶し、接触を断ったという。
ニューヨーク州立刑務所のサリバン更生施設にて、250年の終身刑に服していたショークロスだったが、2008年11月10日の午後、激しい足の痛みを訴えた。
アルバニー大学医療センターに運ばれたが、21時50分に心不全で死亡。63歳だった。
ショークロスは刑務所から何100通もの手紙を母親に出したというが、返事が帰って来たことはついになかった。
彼は生前、服役中のインタビューでこんな発言をしている。

「1枚でいいんだ、家族全員で写ってる写真が欲しいな。
それさえあれば、自分が騒ぎを起こすことはもうないような気がするんだがなぁ」


参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.65 峡谷の殺人鬼 早すぎた仮釈放 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

英国版「疑惑の銃弾」 真犯人は姉か?弟か?

「一見折り目正しく洗練された態度とは裏腹に、あなたには若さに似合わない狡猾でいびつで、凶悪な精神が潜んでいます」
(ドレイク判事、ジェレミー・バンバーに終身刑判決を下した裁判官)

ジェレミー・バンバーは少年のようなおとなしそうな外見とは裏腹に、酒とドラックと女をこよなく愛し、力のない者にイジメ行為をしてそれを面白がっている、
今の我が国でいう典型的なDQN男だった。
ジェレミー・バンバー
将来は大農場の地主としての地位が約束されていたが、周囲には「両親が死ぬまで待てない、今すぐ遊ぶ金がほしい」と公言して憚らなかった。
そして「精神異常の姉がライフルを手に暴れている」と警察に通報。駆けつけた警官隊が見たもの、それはバンバー家の人間たちの変わり果てた姿だった。
当初は姉・シーラの無理心中と思われていた事件は、事件そのものを疑問視していた遺族と1人の刑事の手により、急展開を見せていく。

発端:農場での惨劇
1985年8月7日水曜日未明、イングランド東部のエセックス州にあるチェルムスフォード警察の電話が鳴り響いた。
通常、警察への直通番号999番(日本でいう110番)はコンピューターに自動的に記録されるが、その電話はチェルムスフォード警察への直接電話だった。
その時、夜間宿直の警官が時計を見た際、午前3時26分だったのを確認している。
通報者はジェレミー・バンバーと名乗った。自宅に父親から異常な内容の電話があった、と興奮気味に語った。

「姉さんの頭がおかしくなった! 銃を持ち出している! すぐに来てくれ!」

そこで父親からの電話は切れ、すぐさま掛け直したが、話し中の信号音が聞こえるだけだった、という。
最初はイタズラ電話かと思っていた宿直の警官だったが、次第に電話の主の真剣な訴えに事の重大さに気がついた。
ジェレミーの父親だというネビル・バンバーの名前には当直の警官も聞き覚えがあった。この辺では有名なホワイトハウス農場のオーナーだったからだ。
当直の警官は通報者であるジェレミーに、父親の農場に行き、警察の到着を待つように指示した。
バンバーは「分かりました」といって電話を切った。ただちに40名の対凶悪犯用武装小隊に出撃命令が下った。
ネビル&ジェーン夫妻

急行した40名の武装警官が農場の母屋を包囲すると、間もなくそこに通報者のジェレミー・バンバーが到着した。
ジェレミーのいう「頭がおかしくなった姉」の名はシーラ・キャフェル。普段は「バンビ」の愛称で呼ばれていた。
ジェレミーより3歳年上の27歳で、2人ともバンバー家の養子だった。
シーラはかなり以前から精神に異常をきたしており、美しい外見からモデルをしていたこともあったが、その病状ゆえに長続きしなかった。
その年の3月に入院し、退院後は双子の息子ダニエルニコラスを連れてホワイトハウス農場に身を寄せていた。夫のコリン・キャフェルとは別居中だった。
ジェレミーは姉をこう語った。「姉は頭がおかしいんです。というか、以前からとうに狂ってしまっています」さらに念を押すように、こう証言した。

「いつ暴れ出すか判らないんです。実は以前にも暴れたことがあるんです」

「いくら精神に異常があるからといって、姉をここまでボロカスに言うか普通? しかも家族が一大事の時だっていうのに」

事情聴取を担当した警官は、多少疑問に思ったという。
武装小隊が何度か拡声器で投降を呼び掛けたが、返事はなかった。狙撃担当がキッチンの窓に狙いを定める中、最後の説得が行われたがやはり返答はなし。
午前7時30分、ハンマーでドアを破壊し、まず突入した10名の武装警官たちは、想像を絶する惨状を目の当たりにし、思わず息を飲んだ。
まず、リビングの電話器のすぐ側には家主でもある61歳のネビル・バンバーが倒れていた。
頭に4発、首に2発、肩に1発、腕に1発、計8発の銃弾を受けていた。争ったあとがあり、頑強な農夫であるネビルの顔には激しく殴られた傷が残っていた。
2階に上がると、ネビルの妻ジューンが7発撃たれていた。うち1発は眉間に命中。床の上には聖書が投げ捨てられていた。
シーラの双子の息子、ダニエルとニコラスも、就寝中に殺されていた。
ダニエルは5発撃ち込まれながらも、口に親指をくわえたままだった。ニコラスは3発撃ち込まれていた。
あまりに痛ましい光景に、目に涙を浮かべている警官もいた。
そして、シーラも血の海の中に倒れていた。1発は喉に、もう1発は顎を貫通して脳を破壊していた。胸の上には22口径のライフルが乗っていた。
階下に降りた警官は、皆殺しの旨をジェレミーに告げた。彼は表に飛び出すと、その場で嘔吐した。

過去:両親に対する憎悪
元英国空軍のパイロットでもあり、ショットガンを肩に大型犬を連れて散歩をするのが日課の、典型的なイギリスの地方郷士だったネビル・バンパー。
そして慈善事業に生きがいを見出していた妻のジューンの、バンバー夫妻の悩みは子宝に恵まれなかったことだ。
そこで児童協会を通じて1957年にシーラを、1961年にはジェレミーを養子として迎え入れた。
養子を迎える養父母は、家系に悪い血が混じることを恐れるあまりに、養子に対して厳しくなりがちである。バンバー家もそうだった。
ジェレミーは全寮制の学校に入れられ、厳しく育てられた。
厳格なバンバー夫妻はジェレミーに優れた人物になって欲しい、という願いからそうしたのだが、しかし、ジェレミーはそのようには受け取らなかった。

「わざわざ養子に迎えておいて、手放すのか?」

この思いはやがて、養父母に対する憎悪へと発展した。そしてこの憎悪は、彼の人格形成そのものにも影響を及ぼす。
学校では常に上から目線の尊大な態度で「弱い者イジメをして喜んでいるような最低な男」だったという。
そして姉のシーラの頭もおかしくなっていた。ことさらに養父母に逆らってモデルとなり、未婚のままに双子を産んだ。
その奇行はエスカレートしていく一方で、地元ではシーラは「ちょっと、どころか『かなりおかしい』女の子」として有名だった。
シーラ

近所の学生はシーラをこう語っている。
「彼女の目つきは異常でした。完全に狂っているか、そうでなければ何かが憑いているとしか思えない目つきでした」
「大声で叫び回って近所を叩き起こすんですよ。『世界は悪に満ちている! お前らは悪魔だ!』って」


成人して姉は精神異常、弟は良心の欠片も持たない精神病質者(サイコパス)という、のちのトラブルを暗示させる姉弟となっていく。

疑惑:浮かび上がる不審点
しかし、一見シーラの無理心中かと思われたこの事件、おかしな点がいくつかある。それは事件を担当していたスタン・ジョーンズ巡査部長も感じていた。
まず、シーラの死に方である。彼女がバンバー家の4人を殺害した後、ライフルを己れに向けて自殺したとして、2発も撃てるだろうか?
至近距離で喉を撃った1発目の時点で普通は大ダメージを受けて、ライフルを手にする事など出来ないだろう。しかしシーラは2発目を撃ち、脳を破壊している。
次に、ジェレミーは999番ではなく、現場から少し離れたチェルムスフォード警察に直接電話しているのだ。これは明らかに不自然だ。
(我が日本でも、緊急の場合の警察への通報は110番である。個別の警察署に電話なんてしない)
ジェレミーは裁判で「あまりにも気が動転しすぎて、逆に999番のことが頭から消えていた」と弁明しているが、これは誰が聞いても言い訳としては苦しい。
おそらく、裁判でも検察に指摘されたが、警察に「キミが今いる自宅に迎えを寄こす」と言われるのを避けたかったのだろう。
当然ながら、999番電話は最寄りの警察に繋がる。つまり、ジェレミーは自宅からではなく、殺人現場から電話したのではないかという推測が成り立つのである。
また、ネビルは殴り倒され気絶させられてから、頭部に4発撃ち込まれている事が鑑識結果で明らかになったが、ネビルは元英国空軍パイロットの大男なのだ。
年老いたとはいえ、シーラと乱闘し殴られ気絶するとは考えにくい。しかもシーラには「乱闘の形跡は一切なかった」という鑑識結果が明らかになっている。
さらにジェレミーは通報の際「父からの電話が途中で切れたのでかけ直したが通話中だった」と証言しているが、もしネビルが襲われて受話器を落としたのならば、
電話が切れるはずがない。
受話器を元に戻すか、この時間帯では10分経たないと切れた状態にはならない。かけ直したとしても、「通話中」の状態になどならないだろう。

こう考えると、通報の時点でジェレミーも十分に怪しく、容疑者候補に挙げられてもおかしくはない。
ところが、鑑識に入ったロナルド・クック警部補は現場を見て、ドアやリビングの窓などにも鍵がかかっていたことから、

「外部から侵入した様子はないし、押し込み強盗なら寝ている幼き子供を撃ったりはしないだろう。
24発もの発砲は精神異常者の所業としか思えない」


とシーラの無理心中と決めつけて、捜査を進めてしまった。
クック警部補率いる指紋採集チームは、ライフルの回収に手袋をはめなかった。ジェレミーを含めたバンバー家の人間の指紋の採取もしなかった。
しかもジェレミーに同情していた捜査チームは「事件の痕跡を見るのは幸せだった日々を思い出して忍びない、全て運び出したい」というジェレミーの主張を認め、
血のついたカーペットや電気毛布などを運び出すのを許可しているのだ。
そのあと、ジェレミーの彼女だというジュリー・マグフォードが現場に到着した。2人は何かひそひそ話をしていた。
葬式でのジェレミーとジュリー
巡査部長は事件直後のジェレミーに殆ど悲しみが見られなかったことも不審に思った。
そして、葬儀の席でわざとらしく大げさに泣き崩れるジェレミーを見た時、不審は確信に変わった。
さらに葬儀の最後の方で悲しんでいたはずのジェレミーが「いつまで続けてるんだよこんな茶番。もういいだろ、早く帰せってんだ」とジュリーに毒づいてた、というのを、
ジェレミーの従兄弟であるデヴィッド・ボウトフラワーから聞いていた。

再燃:執念の捜査
完全に先入観に沿って捜査を進め、シーラ無理心中説を頑なに信じていたトム・ジョーンズ警部は、デヴィッド・ボウトフラワーと姉のアン・イートン

「24発もライフルを撃って、銃声が近所に1発も聞こえない、なんてことがあるんですか?
発射時には明らかにサイレンサー(消音装置)がつけられているはずです。
でもシーラはサイレンサーのつけ方も外し方も知りませんし、そもそもライフルを撃ったことも一度もないはずです」


という指摘に対し、声を荒げて「捜査しているのは我々警察だ! シーラが銃の扱いを知っていたかどうかは我々が判断する!!」と釘を刺し、
この事情聴取は喧嘩別れのような形で終わった。
しかし、このやりとりを聞いていたスタン・ジョーンズ巡査部長は内心「その姉弟の指摘通りだろうに」と思い、顔をしかめた。
ダーシー村の地主も「ネビル・バンバーのような狩りの経験が長い男が弾丸の入ったライフルをそこらに放置しておくなんてありえない」と証言している。
不審に思っているのは従兄弟のデヴッドも同じだった。上記の彼の証言どおり、シーラは銃を撃ったことなど一度もないのだ。
ジョーンズ巡査部長の立ち会いの下、デヴィッドはガン・キャビネットの中から問題のサイレンサーを発見した。血が付着していた。
これで犯行時にはサイレンサーを使用していたのが立証できた事になり、死んだシーラがキャビネットにサイレンサーを戻せるわけがない。
さらにデヴィットの姉のアンは、キッチンの窓を留め金を上げたまま開けて、強い衝撃を与えると留め金が落ちて窓も閉まり、密室に出来るのを発見した。
そして、キッチンの窓にも血が付着していた。
これは何者かがあらかじめ開けておいたキッチンの窓から侵入し、サイレンサー付きライフルで一家5人を殺害、サイレンサーを外してキャビネットに置き、
シーラの無理心中に見せかけ、家中の鍵をかけて密室状態にしてから台所の窓から逃げ出した、という結論しか導けなかった。
もはや犯人はジェレミー以外に考えられなかった。とはいえ、目撃証言も物的証拠も何一つない。
しかし、事態は思わない展開を見せる。ジュリー・マグフォードの友人というリズ・ライミントンと名乗る女性から警察に電話があった。
ジュリーはジェレミーの殺人計画を最初から知っていて、それを全て話したいと希望している、というのだ。
裁判所から出るジュリー

裁判:誰が嘘をついているのか?
ジュリーは良心の呵責に耐えられなくなった、そしてジェレミーが昔の彼女と未だに付き合っていると知って、人間的にもジェレミーを信じられなくなった、
と出頭した理由を説明した。
1985年10月1日、ジェレミーは殺人容疑で正式に逮捕された。1年後の1986年10月2日、ドレイク判事を裁判長として英国中が注目する中、裁判が始まった。
シーラの無理心中を主張し続けたトム・ジョーンズ警部は英国中からバッシングを受け、ほどなく閑職へと追いやられた。事実上の左遷である。
(皮肉にもジョーンズ警部はジュレミー裁判が始まる5ヶ月前に、ハシゴから落ちて頭部を強く打ち、それが原因で死亡している)
もちろんジェレミーは全面無罪を主張。焦点は「元々恋人同士だったジェレミーとジュリー、ウソをついているのはどちらか?」だった。
ジェフリー・リブトン勅撰弁護人は警察が証拠保全をほとんどしなかった不手際を指摘し「ジェレミー・バンバーを有罪にするのは無理がありすぎる」と陪審団に訴えた。
これに対し検察サイドは「サイレンサーを付けて寝そべったあの体勢からではシーラの指は引き金に届かない」と反論した。
陪審団が評決に入る前に、ドレイク判事は事件の3つのポイントとして

・ネビル・バンバーは事件の夜にジェレミーに電話をしたと思いますか?
・事件はシーラ・キャフェルの無理心中ではない、と確信できますか?
・ジェレミーとジュリー、どちらの証言に信用をおきますか?


とアドバイスを告げた。
12人の陪審団の意見は別れ、ドレイク判事は多数決による評決を採用すると宣言。10対2でジェレミー有罪の評決となった。
ドレイク判事は判決を言い渡す際、次のように宣言した。

「遺産目当てに自分の家族5人を殺害した被告の行為は極めて凶悪、と断言せざるを得ません。
一見折り目正しく洗練された態度とは裏腹に、あなたには若さに似合わない狡猾でいびつで、
凶悪な精神が潜んでいます」


そして「2人の子供を就寝中にライフルで射殺するような男は、最低25年は仮釈放権を与えるべきではない」との意見を添えて、終身刑判決を言い渡した。
判決を宣告されたジェレミーは、「ノー、ノー、ノー…」とその場で泣き崩れた。
有罪判決を受け刑務所に移送されるジェレミー

1992年2月、時の内務大臣が「ジェレミー・バンバーの刑務を仮釈放権無しの終身刑に変更する」との決定を下した。
ジェレミーだが、彼はいまだに再審を争い、なんと公式サイトまで作って無罪を訴えている。
状況的に見ても、彼が犯人である可能性はかなり高い………と殺人博物館の館長・岸田氏のようにこの記事を締めくくりたかったところだが。
2011年、ジェレミーの無罪を示す新たな証拠が見つかり(英語の読める方は彼の公式サイトを参照)、今イングランド国内では「ジェレミーは無罪では?」という論議が、
非常に加熱してきているという。
また、有罪の決定的証拠とされたライフルのサイレンサーに関してもジェレミーの主張通り、従兄弟のアンソニー・パージェターのものであった事が確認されたそうである。
もっとも第三者である米国の弾道学の権威、ハーバード・レオン・マクダネル博士によると
「シーラの寝そべった体勢では、あのライフルの長さではサイレンサーがなくてもシーラの手は引き金には届かない。
シーラは何者かに殺害された、という結論しか私には出せない」
そうであるが。

さらにジェレミーは他の囚人たちと一緒に「仮釈放権無しの終身刑は欧州人権条約に違反する」と訴え、違反であるという判決を勝ち取っている。
52歳になったジェレミー

仮釈放ない終身刑:英制度廃止へ 欧州人権裁「非人間的」

一体事件の真相は? シーラの無理心中なのか? それとも真犯人はやはりジェレミー・バンバーなのか?
とうの昔に決着したかと思われていた英国版「疑惑の銃弾」事件だが、全ての真実が明らかになるのにはもう少し時間がかかりそうである。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.15 疑惑の遺産相続殺人事件 (デアコスティーニ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館
ジェレミー・バンバー公式サイト

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

世界を震撼させた食人鬼 ミルウォーキーの怪物

本名ジェフリー・ライオネル・ダーマー 通称ジェフリー・ダーマー

「なんてこった! 人間の頭が入っているぞ!?」(ダーマーの冷蔵庫の中を見た野次馬の1人)

ミルウォーキーの怪物ジェフリー・ダーマー
人間の歪んだ想像力が爆発したらどうなるか。前々回紹介のエド・ゲインと、このジェフリー・ダーマーはその最たる例、と言えるだろう。
1991年7月に逮捕されたダーマーは17人の若者の殺害、遺体切断、人肉食を自供し、全世界を震撼させた。
「ミルウォーキーの怪物」「ミルウォーキーの食人鬼」と恐れられたダーマーは、何に憑りつかれてこのような蛮行の数々をしでかしたのだろうか?
一見物静かでハンサムな青年を歪ませたのは、一体何だったのだろうか?

発覚:ミルウォーキーの食人鬼
「ビールの街」として知られるウィスコンシン州のミルウォーキー。
1991年7月22日のその日は、五大湖から吹く風が天然のクーラーとなり、夏だというのに肌寒かった。
ロバート・ローズラルフ・ミューラーの両巡査がパトカーで巡回していた25番街付近は、ストリップ小屋やゲイバーなどの風俗店が密集するいかがわしい場所で、
超ミニスカートの売春婦や辻強盗もあちこちにたむろしており、住人も8割近くが有色人種であった。
23時30分ごろ、パトカーの前に左手首から手錠をぶら下げた黒人の青年が金切り声を上げて飛び出して来た。
かなり興奮していて、叫びに近い大声でまくし立て、話にまとまりがない。両巡査は「落ち着いて事情を話すように」黒人青年を諭した。
黒人青年はトレイシー・エドワーズと名乗った。
白人の青年と知り合いアパートまで着いていったら、酒に酔ったところでいきなり手錠をかけられ、包丁を突きつけられ、
「少しでも抵抗したらその心臓を抉り出して食ってやる」と脅されたという。
服を脱ぐように命じられたが、隙を見て命からがら逃げ出してきたところを両巡査に出くわした、というのだ。
半信半疑だった巡査たちだが、エドワーズはあまりにも真剣で演技をしているとも思えない。一応そのアパートに行ってみることにした。

案内されるままにオックスフォード・アパートメントに着いた両巡査はパトカーから降りると、2階の213号室のインターホンを鳴らした。
部屋の中から出てきたのは、一見物静かな白人青年だった。
ジェフリー・ダーマーと名乗るその男性は、落ち着き払った様子で2人の巡査に対応した。
両巡査は何故エドワーズに手錠をかけ包丁で脅したのか説明を求めた
するとダーマーは「彼と酒を飲んでいて、失業中な事もあり、酔いが回りイライラも重なってあんなことをしてしまいました」と答えた。
一応説明に納得した両巡査が手錠の鍵を出すように云うと、ダーマーは途端に顔を強張らせ、言い逃れをしようとした。
尚も鍵を渡すように要求すると、ダーマーは突然暴れて逃げようとした。両巡査とダーマーは掴み合いの乱闘をはじめ、そのまま室内に雪崩れ込んだ。
「いてて、コイツ引っ掻きやがって!」巡査の叫びに他のアパートの住民たちがゾロゾロと213号室の入り口付近に集まってきた。
ダーマーは後ろ手に手錠をかけられ、ローズ巡査は携帯無線で本署に応援を求めた。
ダーマーに被疑者の有する権利を説明し終え、冷静になった両巡査はやがて、部屋を飛び回るおびただしい数のハエと、凄まじい異臭に気がついた。
巡査たちには臭いの原因が何となく判り始めていた。恐る恐る冷蔵庫を開けると、様子を窺っていた玄関先の野次馬の1人が叫んだ。

 「なんてこった! 人間の頭が入っているぞ!?」

その瞬間、ダーマーはこの世のものとは思えない、獣のような叫び声を上げた。

冷蔵庫の中には3つの頭部と肉片が、ビニール袋に入れられて保存されていた。
ファイリング・キャビネットの上段には灰色に塗装された3つの頭蓋骨、下段には各部の骨が、箱の1つには2つの頭蓋骨とおぞましい写真のアルバムが収納されていた。
キッチンの鍋の中からも煮えて崩れかけた頭部が2つ発見され、その他の鍋も切断された腕が数本、男性器が1本入っていた。
玄関に置かれた樽状の青いポリ容器は塩酸で充たされ、中では3つの胴体が溶解されている。
冷蔵庫の中には人肉の他に食料らしいものは冷凍のフライドポテトくらいで、あとはステーキソースとマスタードソースが1瓶づつあるだった。
塩酸入りの樽を運び出す捜査員
日付けが変わって23日になるころ、本署から次々に応援のパトカーが到着した。その間ダーマーはずっと「ミャオ、ミャオ!」と猫の鳴き声を真似していた。
手錠と、さらに拘束具をつけられたダーマーは、そのまま警察に連行された。
取調べに対しダーマーは冷蔵庫の肉片について「1990年から被害者の肉を食用にしていた」と自供。担当した刑事を青ざめさせた。

過去:陰気で無口で孤独だった少年時代
父ライオネルと当時の妻ジョイスとの初めての子として1960年5月21日、ジェフリー・ライオネル・ダーマーはこの世に生を授かった。
当時ライオネルはまだマーケット大学の学生だったため、2人はライオネルの母親と同居していた。
ジェフリーの誕生後、ライオネルは学業に専念し、やがて1962年には電子工学の学士号を、さらに4年後には分析化学の博士号を取得した。
このようにライオネルは大変は「努力家」であったが、反面家庭を気にすることはほとんどなかった。研究に忙しく、息子をほとんど構ってあげられなかったのだ。
その間、1人で育児を受け持つジョイスの精神状態は次第に悪化して行った。夫婦仲はどんどん険悪になり、常に口論が絶えなくなった。
ジェフリーにとって、それは見慣れた光景になっていった。彼は次第に「親から無視されている」と感じるようになった。
母の精神も次男を産んでからは悪化の一途を辿り、1970年には精神科に入院してしまう。そして1977年、ジョイスとライオネルは離婚する。
そんな中でジェフリーは、1人で近所の森の中で過ごすことが多くなっていた。森の中でジェフリーは動物の死骸を集めては、自分で墓を作っていた。
ウサギを殺して死骸から塩酸をかけて肉をはぎ取って骨だけにしたり、杭に犬の頭を刺したりしていたという。
よくジェフリーを英国史上最悪の猟奇連続殺人鬼、デニス・ニルセンと似ていると主張する方が多いが、ここら辺のエピソードとのちに続く殺人の流れなどは、
犠牲者が男と女の違いはあれど、筆者はむしろ非常にエド・ケンパーと共通するものを感じる。
崩壊して愛情の欠落した家庭環境、死体への妄想、幼少期の動物虐待、大人になってからの「自分は社会の負け組で心を許せる友人もいない」と思っていた部分。
さらにつきつめていうなら、犯行後の病的な死体損壊行為、「被害者と一体になりたい」と行った人肉食なども。
高校時代のダーマー
10代半ばにして、ジェフリーは授業中にこっそりコーヒー用の紙コップでウイスキーを飲んでいることがよくあった、という。
だが、誰もそのことについては何も言わなかった。そう、陰気なジェフリーには忠告してくれるような友人が少なかったのだ。
知能テストではかなり高い数値が出たが、学校の成績はよくなかった。(ここもケンパーと良く似ている)
だが、そうかと思えば注目を集めるための奇行もしばしば行なった。
癲癇の発作を起こしたふりをしたり(自分の母親がしばしば起こした発作を真似たものと思われる)、他のクラスの卒業写真にちゃっかり並んで写ったりした。
そんなジェフリーを快活とみる者もいたが、たいていの仲間は彼を「厄介な、子供っぽいやつ」だと思っていた。
両親の離婚が成立して父に引き取られた頃には、彼はアル中になっていた。
やがてジェフリーは己の中にひそむ性癖に気づき、悩みはじめていた。自分が同性愛者だ、という悩みである。
「友達も出来ない僕に、男の恋人など出来るだろうか?」ジェフリーは日々この疑問に悩んでいた。

ジェフリーは18の時、初めて殺人を犯す。
1978年6月18日、高校を卒業してブラブラしていたジェフリーは、コンサートの帰りに町外れでスティーブン・マーク・ヒックスという少年と出会った。
同じコンサート会場から出てきたヒックスは、ヒッチハイクするための車を待っていたところだという。
一目惚れしたジェフリーは自分の車にヒックスを乗せると、酒とマリファナを餌に自宅へ誘った。ちょうどいいことに両親は別居中で、家には誰もいなかった。
友達が家に来る、などという経験がまったくなく、しかも音楽の趣味も合うジェフリーは大喜びしたが、時間が経つとヒックスはそろそろ帰ると言い出した。
帰したくないジェフリーは泊まっていくように懇願したが「今日はパパの誕生パーティーがあるから」とヒックスはあくまで帰るという。
ジェフリーは咄嗟にバーベルで殴り、そのあとは首を絞めて殺害した。ヒックスの死体を床下に運んで、肉切り包丁でバラバラにした。
大変な作業に感じるかも知れないが、ジェフリーは子供のころから動物を殺してバラバラにするという経験をしていたのである。
そして肉を骨から剥ぎ落とし、骨はバラバラにして自宅と隣の家の敷地の境にバラまいた。
(13年後、ダーマーの供述からその場所を捜索した警察は、骨の欠片数個と歯を3本採集した。歯科カルテから歯はヒックスのものであるのが確認された)
殺人を犯してしまった後悔の念から、ジェフリーはますますアルコールに溺れた。
18歳にしてアル中となった息子を何とか更生させようと、ライオネル・ダーマーはジェフリーを大学に入れてみたがダメだった。
高校時代同様、講義中に酒を飲むような有様で、結局1年で退学した。
軍隊に入れてみてもダメだった。ジェフリーは酒浸りの毎日で、まったくやる気がみられなかった。軍隊も3年間で「不適格」として除隊処分になっている。
(筆者注:尚、立件こそされなかったがジェフリーはドイツ駐軍時代にエリカ・ハッシーという地元の女性を殺害した疑いももたれている)

息子を持て余したライオネルは、母に預けてみることにした。やがてジェフリーはチョコレート工場に職を見つけ、転地療養は奏功したかに思われた。
しかしこの頃のジェフリーは夜になると足繁くゲイ・バーや同性愛者専用のポルノショップに通っていた。
少し経ってジェフリーはハルシオンなどの睡眠薬を相手の酒に混入するようになった。
医者に不眠を訴えて睡眠薬を処方してもらい、気に入った男に酒を奢り、隙を見て睡眠薬を盛るのである。
この頃のジェフリーには相手にいかがわしい事をしようという目的はなく、あくまで睡眠薬の効き目がどの程度か試すのが狙いだったようである。
とはいえ、遂には意識が戻らず、救急車で病院に運ばれる者まで現れた。
他にもジェフリーに薬を盛られたという苦情が店に殺到し、「クラブ・バス・ミルウォーキー」のオーナーはジェフリーに出入り禁止を言い渡した。

殺人:歯止めの利かなくなった魔性
1987年9月15日、出入り禁止となった店とは別のゲイバー「クラブ219」で、ダーマーはスティーブン・トゥオミという24歳の黒人青年と出会い、ホテルへ入った。
朝、目が覚めると、トゥオミは口から血を流して死んでいた。首には絞めつけた跡があった。
泥酔していたダーマーは何があったのかまるで覚えていなかったが、自分が絞殺してしまったことだけは確かである。
慌てた彼はクローゼットに死体を隠し、一旦外出してスーツケースを買い求めると、死体を詰めて改めてチェックアウトし祖母の家へと運んだ。
(この行動はパニック状態にあっても冷静に最善の策を思いつく、高知能殺人鬼特有のものである)
そして、地下室でバラバラに切断して、黒いゴミ袋に詰め、燃えるゴミの日に出した。
トゥオミ殺害の証拠は事実上残っておらず、ミルウォーキー警察は止むを得ずこの件の起訴を断念することになった。
年が変わって1988年1月16日。
ダーマーはまたもクラブ219付近のバス停留所でジェームス・ドクステイターという、ネイティブ・アメリカンの血を引く若い白人の男媚と出会った。
そこで写真のモデルになってほしいと頼み、祖母の家へと連れて行った。
そして、睡眠薬を砕いて混ぜたラムコークを飲ませて、意識を失わせてから絞殺した。屍姦した後、地下室で死体の解体を行い、頭蓋骨は記念として保存した。
さらに3月24日、ダーマーはクラブ219からさほど離れていないフェニックス・バーでリチャード・ゲレロというヒスパニック系の青年と出会い、祖母の家へと連れて行った。
その後は前回と同じである。この頃にはダーマーは解体用のナイフ一式を揃えていた。
祖母のキャサリンは地下室から漂ってくる異臭に悩まされていた。そこでライオネルに電話し、地下室を調べさせた。
床にどす黒い液体がこぼれている以外は、特に変わったところはなかった。
ダーマーは「子供の頃やっていたように動物の死骸を酸で溶かしたんだ」と苦しい弁明をしたが、ライオネルはこれをそのまま信じてしまった。
しかし、キャサリンは孫の深酒と、地下室の異臭にはウンザリしていた。ライオネルはダーマーに、独立するように促した。
9月25日、北24番街808番地のアパートに引っ越したダーマーは、翌日の午後にケイソン・シンサソンフォンというラオス人の少年を部屋に連れ込んだ。
睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて猥褻行為をしたが、彼は殺さずにリリースした。ケイソンは自宅に戻るや否や昏睡状態に陥り、病院に運ばれた。
この件でダーマーは逮捕され、未成年者に対する強制猥褻の罪で起訴された。しかし、ライオネルが1万ドルの保釈金を払ったため、1週間後に釈放された。
1989年3月25日、ケイソンに対する容疑が係争中であるにもかかわらず、ダーマーはモデルのアンソニー・シアーズを祖母の家に連れて行き、殺害した。
自分の部屋に連れて行かなかったのは、警察に監視されているのではないかと思ったからである。そして、いつものように解体し、頭蓋骨と性器を保存した。
5月23日、ダーマーはケイソンに対する容疑で有罪となったが、裁判では心から反省した態度を見せたため、5年間の保護観察処分と1年間の刑務所外労働で済んだ。
おかげでミルウォーキー刑務所からチョコレート工場に働きに出ることができた。たまにはゲイバーにも寄ることもできた。これで更正など無理な話である。
そして1990年3月3日に仮出所となり、北25番街924番地にアパートを借りた。
後に「ジェフリー・ダーマーの神殿」として世界にその名を轟かすことになるオックスフォード・アパートメント213号室である。
部屋そのものが証拠物件として押さえられた
新たにアパートを借りたダーマーは1990年5月末、凶行を再開した。
20代中盤から刑務所を出たり入ったりしていたレイモンド・スミスは、5月からミルウォーキーの姉妹の家に居候することになった。
「今度こそ人生をやり直し、まっとうに生きるんだ」と誓っていたスミスは29日、クラブ219で知り合った「ジェフ」と名乗る白人青年から、写真のモデルを頼まれた。
「ジェフ」も2週間前にミルウォーキーに越してきたばかりだという。
アパートについていったスミスは睡眠薬入りラムコークを飲まされ、そのままダーマーに解体されてしまった。
ダーマーは6月14日、頭にターバン状のものを巻いていたことから「シャイフ」というニックネームで呼ばれていた黒人青年エディ・スミスを、写真のモデルを口実に、
またしてもアパートに連れ込むことに成功した。
ダーマーは約束を守り、ちゃんと写真は撮った。もちろん例によって睡眠薬入りラム・コークを飲ませて意識を失ったところで殺害後、解体してからだったが。
7月8日にヒスパニック系の少年リッキー・リー・ベックスを殺害しようとしたが、逃げられてしまったためにダーマーは殺人を自粛する決意をする。
(ベックスは『養父母に自分が同性愛者であるのを知られるのは困る』と警察に被害届を出さなかった。のちにダーマーの逮捕を聞き、改めて被害届を出した)

蛮行:想像を絶する悪魔の儀式
そして9月3日、ダーマーの蛮行は8人目の犠牲者によって新たな局面を迎える。人肉食である。
書店で知り合った黒人ダンサーのアーネスト・ミラーを「写真のモデルになって欲しい」と口説き、家に連れ込み睡眠薬入りラムコークで眠らせた。
ミラーはハンサムで筋肉質、バネのような体つきをした黒人ダンサーで、まさにダーマーの好みにぴったりだった。
ベックスの件で自粛していたダーマーは欲求不満が募り、殺人衝動がピークに達していたのだろう。絞殺する代わりにミラーの首をかき切って殺害した。
ダーマーは大喜びで死体のあらゆる写真を撮り、肉をそぎ落として骨だけにし、さらに白骨化したミラーをバスルームでシャワーのノズルにひっかけて、また写真を撮った。
その内にダーマーはミラーのバネのような肉体を思い出し、そぎ落とした肉の残骸を、このまま処分するのはあまりに惜しい、と考え始めた。
ダーマーは残骸から心臓と上腕二頭筋(力こぶを作る筋肉)を回収すると、キッチンで肉叩きハンマーで叩いて柔らかくし、
サラダ油で焼いてステーキソースをかけて食べた。
彼によると二頭筋はビーフのような味がしたが、心臓はふわふわしていて味がなかったそうだ。
ダーマーはミラーの一部を胃に収めると、これで彼は俺と一緒になった、と大きく安堵した。
同じく9月にまた犠牲者が出、同じ道をたどった。22日にはデビッド・トーマスが、翌1991年2月18日にはカーティス・ストローダーがダーマーの胃袋に納まった。
この頃アパートの住人が「ダーマーの部屋から悪臭がする」と苦情を言いにいったことがある。
その時ダーマーは「冷蔵庫が壊れて、中の肉が腐ってしまった」と説明している。確かに「肉が腐っていた」というのは嘘ではない。

この後、ダーマーの蛮行はさらにとてつもない方向に向かう。ロボトミー手術を施した「ゾンビ」の創造を企てるのである。
ダーマーが相手を殺害するのは、同性愛行為を拒否されるのを恐れているからである。
しかし裏切らず、口答えせず、逃げ出すことのない恋人が永遠に隣にいれば、彼は殺害を繰り返す必要はないのだ。
そこで思いついたのが「ゾンビ」の創造、すなわち「ロボトミー手術」である。前頭葉白室を切り離してしまうと無抵抗な人間になってしまう。
かつては前後の区別もつかないような凶暴な狂人の治療法として広く行われていたが、あまりにも非人道的ゆえに現在ではほとんどの国で禁止されている。
1991年4月9日、エロル・リンゼイに睡眠薬入りラムコークを飲ませたダーマーは思った。

「また僕は殺人を犯すのか? 殺してどうなる? 死体の写真と頭蓋骨のコレクションが増えるだけじゃないか」

そう考えたダーマーは、リンゼイの頭部に電気ドリルで穴を開け、調理用の注入器を用いて脳に塩酸を注入した。
しかし余りの激痛にリンゼイを目を覚ましのたうち回った。ダーマーは隣の部屋の住民に感づかれるの阻止するために、やむなく彼を絞殺した。
ダーマーの犠牲者たち
5月24火、今度は31歳でダンス好きのトニー・ヒューズがダーマーの犠牲になった。
睡眠薬で眠らせたものの、ヒューズはあまりダーマーのタイプではなかった。しかも聾唖者で、ダーマーは何か良心が咎めた。
とはいえ目を覚ますと怒り出して、警察に訴えられる可能性がある。ダーマーはそのままヒューズを絞殺した。
2日後の26日、ヒューズの遺体をベッドの上に放置したまま、ダーマーは次なる獲物を探しに出掛けた。
そしてショッピング・モールでまだ14歳のラオス人、コネラク・シンサソンフォンに声をかけた。
彼は3年前にダーマーに睡眠薬を飲まされあやうく犠牲になるところだったケイソン・シンサソンフォンの弟である。
コネラクをアパートにつれてきたダーマーは、睡眠薬で眠らせると、彼の頭に穴を開けて塩酸を注入した。
夜になり、ビールを買い忘れていたことに気づいたダーマーは、コネラクをそのままにして出掛けた。
そしてアパートに戻ると、コネラクが外に出て全裸のままで2人の黒人少女に助けを求めているではないか。
ダーマーは慌ててコネラクを少女たちから引き離そうとしたが、少女たちは応じず警察に通報。
駆けつけた警官たちに対しダーマーは「彼は僕の恋人なんです。ちょっとした痴話喧嘩でこんな騒ぎになったんです。もう19歳です」と必死になって弁解した。
不運なことにコネラクは英語がうまく喋れない。しかも「警察が来て助かった」と思ったのか、コネラクはソファーでおとなしくしていた。
「事件性なし」と判断した警官は、そのままダーマーの部屋を少し見渡しただけで去ってしまった。(この時、寝室にはまだヒューズの遺体があった)
警官が帰った直後にダーマーはコネラクを絞殺、バラバラにして頭蓋骨コレクションに加えた。
このコネラクの件は「警察は有色人種のコネラクにはロクに事情も聞かず白人のダーマーの言い分だけを信じた」とミルウォーキーの有色人種住民が怒り、
さらに「ホモの痴話喧嘩に出くわしたww」とこの件を笑い話にした警察官の会話がそのまま記録用テープに録音され、これが外部に漏れTV・ラジオで放送され、
「彼らの有色人種と同性愛者への偏見、無能ぶりとお役人仕事のせいで14歳の少年は犠牲者になった」
とミルウォーキー警察は世界中から批判を浴びる事になった。

終結:怪物を待っていた皮肉な最期
コネラク殺害あとは6月30日にマット・ターナー、7月5日にジェレミア・ワインバーガー、7月12日にオリバー・レイシー、7月19日にジョセフ・ブレイドホフトと、
ほぼ1週間に1人のペースで殺人を重ねている。
この時期、ダーマーはチョコレート工場をクビになり、家賃滞納のため7月いっぱいでアパートを追い出されることが決まっていた。
本人にしてみればいつかは訪れる「逮捕」に備えての殺し納めのつもりだったのだろう。
アパートを追い出され居場所を失った彼が、仮に大量の頭蓋骨コレクションや人体の残骸を荷作りして、一体どこへ行けたというのだろう?
ブレイドホスト殺害から3日後の22日、トレイシー・エドワーズがあやうく難を逃れた事により逮捕されたが、ほとんどためらいもせず警官たちを招き入れたことからも、
ダーマーがこの「破滅の日」を予感していたことは間違いなかった。
事実、取調室でのダーマーは、自分の凶行に終止符が打てたことに安堵しているようにすら見えたという。

裁判中のダーマー
ダーマーはスティーブン・トゥオミ殺害を除く16件の殺人などで起訴され、ローレンス・グラム判事を裁判官として1992年1月30日から裁判は始まった。
すでにダーマーは全面自供していたために弁護団は精神異常を主張したが、陪審団はこれを退け、16件の殺人の内15件を第一級殺人で有罪であるとの評決を出した。
判決前にダーマーは「自分は刑の軽減など望んではいない、死刑だけを願っている」と語ったが、ウィスコンシン州では死刑がかなり前に廃止されているため、
グラム判事はダーマーの希望を叶えることは出来なかった。
ダーマーは15件の第一級殺人とベックスへの殺人未遂などで、15回連続の終身刑判決が言い渡された。
これは合計957年の禁固刑に相当する。
食人鬼が生きてシャバに戻れる可能性が0%になったことに、犠牲者の遺族たちはインタビューで「ホッとした」と答えた。

しかし、ダーマーがこの終身刑を全うすることはなかった。
1994年11月28日、ウィンスコンシン州立刑務所であるコロンビア医療更生施設の、浴室の清掃作業を他の2名の囚人と共に命じられていたダーマーは、
頭から血を流して倒れているのを、通りがかった看守に発見された。
すぐに近くの病院に搬送されたが、その途中に救急車の中でダーマーは息を引き取った。34歳だった。
犯人は同じく浴室の清掃作業を命じられていた、25歳の黒人で精神異常者クリストファー・スカーバーで、凶器は運動部屋のトレーニング機材の一部分だった。
スカーバーは「自分は神の子であり、父である神の命に従いダーマーを殺害した」と主張したという。
ダーマーを殺害したクリストファー・スカーバー

父、ライオネル・ダーマーは息子の事を書き上げた自伝著『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』を発売し、売り上げ金の一部を遺族への慰謝料に充てた。
「もう少し息子を何とかするべきだった…」という悔恨の念がひしひしと伝わる内容である。

参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.9 ミルウォーキーの食人鬼 (デアコスティーニ)
息子ジェフリー・ダーマーとの日々 (早川書房)
死体しか愛せなかった男 ジェフリー・ダーマー (原書房)
続・連続殺人者 (タイムライフ)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

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無心の少年は、公国の跡継ぎではなかったのか?

1828年5月26日、聖霊降臨の月曜で祝日だったその日、バイエルン王国(現ドイツ)のニュルンベルグのウンシュリット広場に人は少なかった。
夕方に差し掛かった17時ごろ、地元で靴屋を営むジョルゲ・アイヒマンは広場の片隅にたたずむ、奇妙な少年を発見した。
少年は小汚い格好で、まるで何かに怯えたような様子だった。
不審に思ったアイヒマンは少年に話しかけると、少年は黙っているか「分からない」とだけ機械的に応答するのだった。
アイヒマンがふと少年の足を見ると、怪我を負っていたことに気がついた。靴から血が滲んでいたのである。
アイヒマンはかがんで少年の靴を脱がせ、透き通るような青白い足を眺めた。すると少年のまだ幼い足にはたくさんの水ぶくれが出来ているのに気づいた。
通常、人間の膝の裏は折り曲げるためにくぼみになっているが、少年の足はまるでこれまで一度も足を曲げた事がないようにピンとまっすぐ伸び、
むしろ反対側へとわずかに湾曲しているようにすら見えた。アイヒマンはいよいよ不審に思った。
「この少年はひょっとして、これまで一度も歩いた事さえないのではないか?」
謎の少年カスパー・ハウザー
少年は手に持っていた2通の手紙をアイヒマンに手渡した。その宛先は1通は第4騎兵隊長へ、そしてもう1通は第6騎兵連隊へと当てたものだった。
アイヒマンはとりあえずその手紙を手掛かりに、第4騎兵隊長であるヴェセニヒの元へと少年を連れて行くことにしたのである。
しかし、そこでの少年の行動はまた彼らを困惑させるものだった。
少年はまるで、それまで火というものを見たことがないかのようにロウソクの火に触れて火傷したり、部屋の隅に置かれていた古時計を異常に怖がったりした。
また少年は食べ物を与えられたが、パンと水以外は一切口にすることはなかった。それ以外の食べ物は食べてもすぐに吐き戻してしまうのである。
そこでひとまずアイヒマンたちは手紙を調べることにした。しかし、その手紙の内容はさらにまた、一層彼らを困惑させる謎めいたものだったのである。

「拝啓 隊長殿へ 
閣下の軍隊を志望する若者を隊長殿のもとへ送ります。この子は1812年10月7日に私の元に来ました。
この子の母親は私にその養育を頼んできたのですが、しかし、私には他に子供もおり、育てる余裕がありません。
また、私はこの子を一度も家の外に出したことがありませんでした」


2通目の手紙には以下のような事が記されていた。

「この子供は洗礼を受けています。名前はカスパー。あなたがこの子に姓を与えてください。
この子の父親は騎兵でした。彼が17になったら、ニュルンベルクの第6騎兵隊に参加させてください。
それはこの子の父親がいた部隊です。この子は1812年4月30日に生まれました。
私は貧乏で、この子の面倒を見ることができません。この子の父親は既に亡くなっています」


一体誰がこの手紙を書いたのだろうか。いや、それ以前に。この奇妙な少年は、一体何者なのか?
彼らはひとまず少年に様々な事を尋ねてみることにした。
「君はどこから来たのか?」「君の名前は?」「年齢は?」「お父さんは?」「好きな食べ物は?」
しかし、少年は全く彼らの言葉を解せない様子で、ただ機械的に「分からない」「私は父のように軍人になりたい」「ウチの馬」と答えるだけだった。
それはまるで、彼が誰かに教えられた、唯一の言葉であるかのようだった。彼はおそらく「分からない」の意味さえ、分からなかったのだろう。
そこでヴェセニヒ隊長はひとまず、少年に紙を与えてみた。ひょっとしたら筆談なら出来るのではないかと考えたのである。
とにかく何でもいい、少年と意思の疎通をしたい。すると驚くべきことに、少年は紙とペンを受け取ると、嬉しそうな様子で、何かを書き始めたのだった。
少年が紙に書いたのは Kaspar Hauser
それ以来、この不思議な少年はカスパー・ハウザーという名で知られるようになった。

広場に現れたカスパーのイラスト
カスパーは引き取り手もなく警察も困り果ててしまい、とりあえず浮浪罪の名目で警察が犯罪者を収容する目的で作られた小さな塔の中で暮らすことになった。
部屋には小さな窓が取り付けられており、その窓は公衆に面していたため、その窓の下には、さっそく話題となった少年を見に、たくさんの見物客が訪れた。
しかしカスパーは部屋の中でほとんど動くことはなく、また毎日絶え間なく訪ずれる見物客にもほとんど気に留めていない様子だった。
ある日、見物客の1人がカスパーの部屋に向かって馬のオモチャを放り投げた。カスパーはその馬の人形を見るなり、「ROSS!(馬)」と叫んだ。
(筆者注:後に明らかになることだが、カスパーはその時決して馬を識別した訳ではなく、彼は犬も猫も4本足の動物は全てROSSと呼んでいたという)
そして友達を得たカスパーは毎日その人形と飽きることなく遊び続けた。
食事の時間には必ずその人形にも餌を与え、まるで人形に命が無いことを知らないかのような素振りだった。
(実際、人間社会に慣れ教育を施されるまで、カスパーは生物と物の違いが分からなかったということである)

そしてその後、カスパーの特異な五感能力が次々と明らかになる。
まず、コーヒーやビールといったものは、それらが部屋に運び込まれただけでカスパーは気分が悪くなってしまうのである。
ワインにいたってはその匂いだけで酔ってしまうほど敏感だったという。
また鼻だけでなく、その目も明らかに普通の人間とは違っていた。彼は暗闇の中で完全に物を見ることができたのだ。
彼は真っ暗な中で聖書を読むという実験を成功させ、見事その能力が本物であることを実証したという。
またその耳も恐ろしく敏感で、隣の部屋で囁く声を聞き分ける事ができた。

それから後、カスパーの元を次々と学者や著名人が訪れた。
中でも彼に格別の興味を示したダルマー教授は、ほぼ毎日に渡って彼の元を訪れ、物心が付き始めたカスパーの人生最初の「教師」といってよかった。
また当時の市長もカスパーについては特別処置を取り、熱心に彼の成長を記録し続けたという。
こうして周囲の善意、あるいは好奇心に支えられ、カスパーがニュルンベルクに現れてから数ヶ月が過ぎた頃、彼はまるで別人のように成長していた。
カスパーの知能はその年齢の通常の人並みに達し、言葉を流暢に喋るようになっていたのである。
それはまるで、新しい言葉を次々に「覚える」というよりは遠い昔に知っていた言葉を「思い出して」いるかのような凄まじい吸収ぶりだったという。
会話も出来るようになったカスパーは、周囲の勧めもあって、まず回顧録を著わすことに着手した。
そして彼の「まだ幼稚だが、しかしとても覚え立てとは思えない」言葉で書かれたその文章で、カスパーのその驚くべき過去がついに明らかになった。

彼が16歳で表に出るまで暮らしていた場所は奥行き2メートル、幅は1メートル。窓はなく、立ち上がることができないほど天井が低かった。
彼はその場所を「オリ」と呼んでいた。また床は汚れていて、寝床代わりに干し草だけがつまれていた。その部屋に唯一、白馬のオモチャが置いてあったという。
毎朝目を覚ますと、決まって床にパンと水が置かれていた。しかし彼はそれが誰かの行いではなく、自然のことだと思い込んでいた。
それもそのはず、その部屋にいた10数年の間、彼と外部との接触は皆無だった。その暗く四角い部屋だけが彼にとっての、全世界だったのである。
つまり、カスパーには自分が「閉じ込められている」という認識すらなかったのだろう。その部屋には「外の世界」を想像するきっかけさえなかったのだ。
水は時々苦く感じる事があり、その後は決まって深い眠りに落ちた。そして目を覚ますと髪の毛や爪、衣服が綺麗になっていたとされている。
(水には睡眠薬が入っていたと考えられる)
そんなある日、カスパーの部屋に突然男が現れ、カスパーに3つの言葉を教えた。
それは「わからない」「私は父のように軍人になりたい」「ウチの馬」というものだった。
さらに男は「カスパー・ハウザー」という名の書き方を教えると、カスパーは馬に乗せられ、ニュルンベルクの公園へと連れられた。
そしてその日、少年は靴屋のアイヒマンに拾われたのである。

それからというもの、カスパーは一躍有名人になった。
彼はその物珍しい存在感で社交界の貴族たちに愛され、その子供のような純粋さで、様々な場所に呼ばれる身分となった。
多くの人々は彼のことをその秘密めいた出生から面白がり、カスパーは「ヨーロッパの子」とまで呼ばれるようになった。
いずれにせよ、彼の存在は退屈な田舎町であるニュルンベルクに、一抹の話題をもたらしたことは事実なようでである。
一部の者たちはかたくなに反論したが、市はいよいよ税金の中から少年の生活費を捻出することに決めたのである。
さらに市では少年の出生の秘密を探るために懸賞金をかけて情報を募った。
カスパーの話では、ニュルンベルクに連れてこられるまでは大体馬で1日という距離であったため、閉じ込められていたのは町のすぐそばではないかと推測された。
そして、そうした手がかりを元に市では様々な場所を探索したが、結局、そのような小部屋が発見されることはなかった。
(筆者注:現在ではカスパーが閉じ込められていたのは、ノイマルクトにある小さな水城ピルザッハ城の小部屋という可能性が高くなっている。
ニュルンベルクからおよそ35キロ程の距離にあり、1924年秘密の小部屋が発見され、その広さや形はカスパーが説明したものと一致している。
1982年の改装工事で、瓦礫の下から白馬のオモチャが発見されたが、それもカスパーが説明してみせたものに正確に合っていた。
また半ばカビの生えた衣服の一部もそこで見つかっている)

そしてそれから間もなくして、カスパーがいよいよ塔を出て市民として暮らすことが決まると、ダルマー教授が彼の里親として名乗りをあげた。
ダルマー教授はカスパーの磁力や金属に対する能力に興味を持っていたからである。カスパーは、人生で最も幸せな時期を送ることになった。
しかしそのころから、カスパーがこの町にきた当初から囁かれていた噂が、また再浮上しはじめたのである。
カスパーの容姿が当時の貴族バーデン王室カール大公にそっくりなことから、「カスパーは王室の血族なのでは?」と噂されたのだ。
「カスパーは元々王の後継者であったが、何らかの理由により隔離され、小部屋に幽閉された」といったものである。
事実、そうした噂を裏付けるようにカスパーが生まれたとされる1812年ころ、バーデン王室で子供2人がいなくなるという騒ぎがあった。
そんな騒ぎをよそに、カスパーはダルマー教授の元で幸せな日々を送っていたが、事件は突然訪れた。
ニュルンベルクで拾われた日から17ヶ月が過ぎようとしていた1829年10月17日のことである。
ダルマーの家の中で、カスパーがシャツをビリビリに破かれ、頭から血を流して倒れている姿で発見されたのだ。
何とか一命を取り留めたカスパーは、ダルマー教授に事件のいきさつを話した。覆面をつけた男が突然現れ棍棒のようなもので殴られたというのである。
そして事件を受けた市ではカスパーに特別に24時間態勢で警護をつけることにした。
町の多くの人々はそうした市の計らいを妥当なものだと考えていたが、一部では既にカスパーに対する猜疑心が広まりつつあったのも事実である。
カスパーは既に失われはじめた自分への注目を取り戻すため、自作自演でそうした暗殺未遂劇をでっちあげたのではないかという噂が流れ始めたのである。

しばらくして、英国のスタンホープ卿がカスパーに興味を示した。スタンホープはカスパーが王室の末裔であるという噂に注目していたのだ。
しかし、そんなスタンホープの思惑を知らずに、すっかり彼の事を気に入ったカスパーは、その後しばらくの間スタンホープと共に過ごすことになった。
だが、そのような関係もおよそ長くは続かなかった。スタンホープはすぐにカスパーに嫌気が指した。
カスパーはそのころから徐々に自己中心的に、そして傲慢に振る舞うようになってしまったと伝えられている。
カスパーがうっとうしくなったスタンホープは、カスパーを友人であるメイヤー博士のもとに住まわせることにした。
メイヤー博士の家はニュルンベルクから遠く離れたアンスバッハという町にあり、そこでヒッケルという名の護衛をつけたのだ。
しかし、カスパーはそこでの生活とヒッケルを激しく嫌い、ニュルンベルクでのダルマー教授との充実した日々を思い出し、たびたび涙を流していたという。

クリスマスを目前にした1833年12月14日。その日、カスパーはメイヤー博士のリビングルームで多量の血を流して倒れているのが発見された。
カスパーは右胸を刺されており、重傷だった。途切れ途切れのカスパーの話は以下のようなことだった。
その日、彼はある男に面白い話があるから、と公園に呼び出された。(護衛なしでと言われたかどうかは定かではない)
そして公園に向かったところ、黒づくめの男が現れ、「カスパー・ハウザーか?」と訪ねた。
カスパーがうなづくと男はカスパーに財布を手渡し、それと同時にいきなりナイフでカスパーを突き刺したということだった。
その後警察とヒッケルがすぐにカスパーが刺された公園に向かうと、そこには「逆書き」でメッセージが書かれた財布が落ちていたのだ。
(逆書きとは犯行声明などの際にあえて利き手とは逆の手で書く事で筆跡を崩し、筆跡からの犯人特定を鈍らせる方法である)
メッセージは「自分はカスパーのことを知っているし、カスパーも自分のことを知っている。俺の名はM・L・Oだ」という内容のものだった。
しかし、ヒッケルはさらに奇妙な事実に気がついた。その日は雪だったが、そこには不思議と1人分の足跡しか残されていなかったのである。
そしてヒッケルは推測した。おそらく事件はカスパー自身の狂言による自傷なのではないか。そして軽く刺すつもりが誤って深く刺し過ぎたのではないか。
結局、カスパーはそれから3日後に死亡した。享年21歳の彼の最後の言葉は「自分でやったんじゃない」というものだったという。
カスパーは闇からふらりと現れ、また闇に消えた。本当に王族の血縁者だったのか、それとも稀代の詐欺少年なのか。ついにその正体が明らかにならないままに。

1996年、シュピーゲル誌が依頼し行われたDNA鑑定によると「カスパーはバーデン家とは何も関係がない」という判定が出て、
また、2002年ミュンスターの法医学研究所は「生物学的な観点から、カスパーはバーデン家の一員(血縁者)である」という鑑定を出した。

彼は生前のある日、最も信頼していたダルマー教授と美しい見晴らしの丘に出かけ、大喜びした後に、こう語ったという。

「私はあの小部屋から出てこなければ良かった。
(自分を小部屋から連れ出した)あの男はどうして私を外へ連れ出したりしたんでしょう。
あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。
もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、
経験しないですんだのに……」


参考文献
世界史 ミステリー事件の真実 (河出書房新社)
世界不思議物語 (リーダースダイジェスト)
謎のカスパール・ハウザー (河出文庫)
参考サイト
1828年独、闇の中から現れた少年カスパー・ハウザーの謎

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女がほしくなると墓場から連れてくる「月夜の屠殺狂」

本名エドワード・セオドア・ゲイン 通称エド・ゲイン

「エド・ゲインは2つの顔を持っていた。1つは隣人たちに見せていた顔。もう1つは死体にだけ見せていた顔だ」(デイリー・ジャーナル)

アイツに人殺しなんて恐ろしいことが出来る訳がない───それが地元プレーンフィールド住民たちの、エド・ゲインに対する印象だった。
頭は弱い変わり者だが気のいい男。誰もがそう思っていた。
月夜の屠殺狂エド・ゲイン
しかし、2人の中年女性を殺害し、おぞましい墓荒らしまでして15の遺体を切り刻んでいた狂人。それがゲインの正体だった。
そしてこのプレーンフィールドの屠殺狂は、恐怖映画『サイコ』『羊たちの沈黙』のモデルともなった。

失踪:よろず屋の男
アメリカの中北部、ウィスコンシン州の中央に位置する広大な平原の真ん中に、プレーンフィールド(何もない平原)という人口600人程度の小さな町がある。
「何もない平原」というその名の通り、本当になんにもなく、視界に映るのはどこまでも続く広大なライ麦畑のみ。
そんな寒村での住民の娯楽といえば鹿狩りと、そして仕事が終わってから飲む酒ぐらいだった。

クリスマスを2週間後に控えた1954年12月8日、この町で「メアリー酒場」という飲み屋を営むメアリー・ホーガンという体格のいい中年女性が行方不明になった。
シーモア・レスターという農夫が仕事を終えての一杯をやろうと店に立ち寄ったが、中には女将のメアリーがいなかった。
いくらメアリーを呼んでもまったく返事がない。不審に思ったレスターはカウンターの中を覗いて仰天した。床が血の海となっているではないか。
レスターは慌てて保安官事務所に通報。駆けつけたハロルド・S・トンプソン保安官は、床に転がる32口径ライフルの薬莢と、引きずられた血の痕を発見した。
どうやら何者かがメアリーを射殺し、その遺体を持ち去ったらしい。しかし、何のために?
現場には争った形跡はないし、レジの中の現金も手つかずのままだ。動機がまったく不明である。事件発生から1ヶ月が経過したが、解決の糸口はまるで掴めなかった。
もとより娯楽の少ないこの町は「メアリーに何が起こったのか?」の話題で持ちきりになった。
メアリーはこの町に来るまではシカゴに住んでおり、いわゆるマフィア、やくざ者とも付き合いがあったので、その関係で「消された」という噂も、真しやかに流れた。
製材所を営んでいるエルモ・ウィークも、塀を直しに来ていた、よろず屋(何でも屋)をして生計を立てている中年男にこの話題を振った。

「エディー。お前がもし本気でメアリーを口説いていたら、彼女は行方不明にならず、今頃お前の家で夕食を作ってくれていたかも知れないなぁ、ははは。
まあ、おそらくメアリーは殺されちまったんだろうが……」


ウィークはこの男がメアリーに気のあることを知っていた。たいして酒も飲めないクセに、メアリーの店に通い、しきりに彼女の様子を窺っていたのである。
すると、よろず屋の男エド・ゲインは笑いながらこう答えた。

「彼女はいなくなってなんかいないさ。今も俺ん家にいるよ。俺が軽トラで彼女を家に運んだんだ」

ウィークは「エディーが珍しくジョークをいった」と笑ってすませたが、3年後にそれはジョークでも何でもなかった事を思い知ることになる。
よろず屋ゲイン
このエド・ゲインは、プレーンフィールドの西の外れの一軒屋に住む、40代後半の無口な男だった。
9年前の1945年末に母が死んでからは天涯孤独となり、農作業もせずに町のよろず屋、なんでも屋としてブラブラしていた。
少々頭のネジが弱いところがあるが、柵や屋根の修理から農場の雑草むしり、さらには留守の時の子供たちの相手と頼んだ仕事はイヤな顔一つせずに手伝ってくれるので、
住民たちは重宝していた。
つまり住民たちにとってはゲインは「ボンクラだけどいい人」であり、そんな彼がメアリーの失踪に関わっているなどとはウィークを含め誰1人として夢にも思っていなかった。

過去:育まれた狂気
1906年8月27日、父ジョージ・ゲインと母オーガスタ・ゲインの2人目の子供として、エド・ゲインことエドワード・セオドア・ゲインはこの世に生を授かった。
ゲインについて語る場合、まずこのオーガスタについては触れない訳にはいかないだろう。
(筆者注:多くの書籍、サイトにも書いてあるように、月夜の屠殺狂エド・ゲインを作り出したのはオーガスタだと私も思っている)

オーガスタは勤勉で敬虔なキリスト教の大家族に生まれた。彼女の父親は狂信的なまでのキリスト教徒で、厳しい躾に加え、子供たちに躊躇無く体罰をおこなった。
その甲斐あってか、オーガスタは父親そっくりの娘に育った。
限りなく厳格で、独善的で、支配的。融通がきかず、自分の考えこそ絶対の正義だと信じ込み、それを他人に押し付けることにも躊躇がなかった。
ジョージと結婚後、オーガスタはすぐにゲイン家の女暴君と化した。彼女は人前でも家の中でも、夫を平気で嘲笑い、怠け者とののしった。
それ以外では夫と口を利くことなどなく、ゲイン家から明るい笑い声や軽口が聞こえてくることは皆無だった。
酒が入っているときのジョージはオーガスタの言葉の暴力に我慢することなく、オーガスタに手をあげることもしばしばだった。
殴られたオーガスタは夫に悪態の限りをつきながら泣き叫び、そのあとは一心不乱に夫の死を祈った。
オーガスタは「子供」という自分の人生への慰めが欲しい一心で、夫をベッドに入れることを許した。
性行為を心の底から嫌悪していた彼女にとって、それは我慢ならないことだったが、彼女はこれを出産のための義務として、歯を食い縛って耐えた。
結果、彼女は長男ヘンリーと次男エドワードの2人の息子を授かることになる。娘を望んでいたオーガスタは酷く落胆したが、くじけはしなかった。
彼女は恐るべき精神力の持ち主であり、そのときもこう誓うことで絶望を乗り越えた。
「この子たちだけは、堕落しきって汚れたよその男どものようにさせはしない」

ウィンスコンシン州のラクロスで、ゲイン家(といってもオーガスタだが)は雑貨屋を始めた。
怠け者で大酒飲みの夫を相変わらず侮蔑し、牝牛のように頑丈な体のオーガスタは、朝から晩まで身を粉にして働いた。
やがてゲイン家はプレーンフィールドに移り住み、農場をかまえた。
人里離れていたことがさらにオーガスタを満足させた。彼女にとっては、もはや世間の全てが堕落し、汚れきったものでしかなかったのだから。
だがさすがに子供たちを隔絶させたまま育てることはできず、学校にはやらなけらればならない。だがオーガスタは子供たちに友達を作るのを禁止した。
エド少年が誰かと遊びたい、とオーガスタに打ち明けると、オーガスタは目を吊り上げ反対した。

「あの子の親父は女癖が悪いって噂さ。この子の母親は誰にでも色目をつかうって評判だよ。あんた、そんな家の子と付き合いたいのかい!?
ここの子供たちなんてあんたの父親と一緒の堕落しきった罪深い存在なのさ!」


声は次第に高くなり、やがて絶叫となる。こうなるとエドも、母親に再度懇願する気力などまったく無くなっていた。
こうして同年代の子とまともに付き合ったことがないエドは、卑猥なジョークを聞くと真っ赤になって逃げ出し、
些細なからかいの言葉にも女の子よりたやすく泣き出す子供に成長した。
エドは「ここにはお前が付き合うようなまともな子供なんていやしない」という母の言葉にウソはない、と思い込むようになった。
エドの中で母オーガスタは唯一の友人であり、全能の女神、聖母となっていた。
オーガスタにとって自分以外の女性もまた、全て堕落し、汚れた存在だった。息子たちに自分の名にかけて、女には関わらないように誓わせた。
しかしエドは忠誠を誓う一方で母の目を盗み、ポルノ雑誌やホラー雑誌を読み耽るようになった。
ゲインの家
1940年、「名ばかりの父親」だったジョージが66歳で死亡。そして1944年、兄ヘンリーは42歳のとき、近所の山火事を食い止めようとして死んだ。
エドは「兄を火事の最中に見失った」と言っておきながら、捜索隊を迷わず「ある場所」まで案内した。そこにはヘンリーの死体が横たわっていた。
それを指摘されるとエドは平然と「不思議なこともあるもんだ」とだけ言った。
ヘンリーの体にはほとんど火傷のあとはなく、頭部には殴られたようなアザが出来ていたという。
実はこの事件の直前に、オーガスタの「洗脳」が浅く社交性のある人間に育ったヘンリーは、エドの前で母の態度や思想を散々非難し
「お前はいつまでお袋にベッタリくっついているんだ」とオーガスタから離れるように助言したという。
だがヘンリーの死因は煙にまかれた窒息とされ、有耶無耶の内に事件は忘れ去られ、エドがオーガスタのもとを離れることはなかった。
ヘンリーの死の直後に、今度はオーガスタが父が死亡した時と同じ66歳で脳卒中で倒れた。エドは母を1人占めできることに半ば狂喜しながら付きっきりで看病した。
その甲斐あってかオーガスタはリハビリできるまでに回復したが、エドに対し感謝の念を表すことはなかった。
しかし1年後、オーガスタは再び倒れた。今度は彼女の鉄の意思をもってしても、回復は不可能であった。1945年12月、オーガスタ死亡。
唯一の友であり、唯一の愛する人、唯一の尊敬出来る人を失ったエドは、葬儀の席で人目もはばからず棺にとりすがって
「母のような人はどこを探してもいない」と泣きじゃくった。
マザコン男エド・ゲインはまともに生きる気力を失い、現実と妄想の区別がつかなくなっていく………。

殺人:吊るされていたもの
3年後の1957年11月16日の土曜午前。またしても殺人の可能性が高い失踪事件が発生した。
鍋、包丁からライフルまで金属製品ならなんでも扱うウォーデン金物屋の女主人、バーニス・ウォーデン夫人が今度は行方不明となったのである。
夫人もメアリー同様に太った気の強い中年女性で、やはりメアリーの時と同様に、カウンターの中には夫人の生命が危ぶまれるような、血溜りがあった。
「アイツの仕業です、アイツがお袋に何かしたのは分かっているんだ」息子のフランク・ウォーデンは駆けつけた新任の郡保安官のアート・シュリーに語気を強めて言った。
「アイツ?誰です?」シュリー保安官が尋ねると、フランクは答えた。「エド・ゲインですよ」
フランクは数日前からゲインが軽トラを店の前に止めて、店の中を窺っていたことを保安官に伝えた。さらにカウンターから手書きの領収書が見つかった。
血が飛び散った一番新しいその領収書はゲイン宛てのものだった。
シュリー保安官はゲインを見つけ次第身柄を拘束するよう、無線で各方面に連絡を取った。
その頃、製材商のエルモ・ウィークはゲインの所有する農場で迷い込んでいた鹿を仕留めた。
車のフロントに鹿を縛り付けて帰ろうとしたら、ゲインが運転するフォードのセダンがこちらに向かってきている。
ゲインの土地に勝手に入り込んで鹿狩りをしていたウィークは「ヤバ、見つかった、エディーに怒られる」と焦ったが、ゲインは愛想よく手を振り何を急いでいるのか
「いつもよりも速い運転スピードで」そのまま走り去っていった。
午後になって近所に住む、ゲインの数少ない少年時代からの友人でいつも親切にしてくれるボブ・ヒルとその妹のダーリーンが、ゲインの家を訪れた。
車のバッテリーが切れたので、新しいのを買いたいので大きな町まで乗せていってほしいと頼みにきたのだが、ドアを開けて現れたゲインの両手は血まみれだった。
ゲインは「鹿を捌いてハラワタを抜いていたんだよ」といってニヤニヤと笑ったが、兄妹は不審に思った。
ゲインは日頃から「屠殺は嫌いだ。血を見るだけで気を失いそうになる」と言っていたからだ。事実、ゲインは鹿狩りに参加したことはない。
「でもまあ、当のエディー本人がそう言っているんだからそうなんだろう」とボブは納得し、ゲインに町まで送ってもらった。
そして、御礼としてボブの母アイリーンはゲインに夕食を食べていくように勧めた。
ゲインがメインディッシュのポークチョップに舌鼓を打っている最中、バーニス・ウォーデン夫人失踪のニュースがヒル家にも届いた。
ボブの母アイリーンがゲインにからかい半分でこんな質問をした。「誰かが頭を吹き飛ばされたり、いなくなったりする時、どうしていつもあなたが近くにいるの?」
その時ゲインは、肩をすくめてニヤニヤと笑っただけだったという。
腹いっぱいになり、満足して帰路についていたゲインを、ダン・チェイス交通巡査ポーク・スピーズ保安官代理が発見。ゲインに今日1日の行動を質問した。
2度の供述には明らかに食い違いが見られ、そのことを指摘されるとゲインは慌てて「誰かが俺を陥れようとしたんだ」と答えた。
「陥れようとしてる?何のことで?」チェイス巡査が質問すると、ゲインは答えた。「ウォーデン夫人だよ」

「だってあの人、死んだんだろう?」

「死んだって!?」チェイス巡査は叫びに近い金切り声を上げた。
「我々は今日1日のアンタの行動を聞いただけだ! 『ウォーデン夫人が死んだ』なんて一言も言ってないぞ!?」ゲインは重要参考人として身柄を拘束された。
ゲイン身柄拘束の連絡を受けたシュリー保安官は、隣接するグリーンレイク郡保安官事務所のロイド・シューフォースター所長と共にゲインの家に到着。
台所の増築部分のドアを破壊し踏み込んだ2人は、懐中電灯のスイッチを入れた途端恐怖に息を飲んだ。
懐中電灯に照らし出されたのは、逆さにY字で吊るされた女性の首無し死体だった。
さらに女性の死体は胴の部分がポッカリと空洞で、狩猟された鹿肉のように内蔵を抜かれ、血抜きされ、皮を剥がされていた。
シューフォスター所長は言葉を失い、そしてシュリー保安官は家を飛び出し雪上で激しく嘔吐した。
汚らしく散らかったゲインの家の内部

捜査:吐き気を催す家宅捜索
何とか冷静さを取り戻したシューフォスター所長は、無線で警察に応援を要請。逃げ出したい気持ちをこらえ、2人は再び探索を続けることにした。
ゲインの家は、ゴミと汚物にまみれていた。広い屋敷の中で、実際に使われていたのはせいぜい3部屋ほどであった。
ゴミの山に混じり、コーヒー缶にはガムが大量に吐き捨てられていた。ホラー雑誌や殺人書籍が大量に山積みされており、暖炉の上には入れ歯がずらり並んでいた。
死体の存在を別にしても、こんな空間で生活出来る人間がいるなど、信じられかった。
やがて応援の警察の捜査班も駆けつけ、家の中に小型バッテリーを持ち込んでアーク灯に照らし出された光景に、捜査員たちは絶句した。
テーブルには頭蓋骨をノコギリで半分に断ち割ったものがスープ椀として置かれていた。椅子の座板には、人間のなめした皮が張ってあった。
その他にもランプの笠、ブレスレット、タムタム太鼓、狩猟用ナイフの鞘、足の皮膚で作ったレッグウォーマーなど、人間の皮を加工して作った様々な小品が見つかった。
さらには、女の上半身の皮を丁寧に剥がして作られた、乳房付きのベストがあった。
床の靴箱の中には、女性性器が9つコレクションされていた。
ほとんどは乾いて干からびていたが、ひとつはごく新鮮で、陰毛の生えた外陰部に性器と肛門が付いているのが肉眼でも分かった。しかもそれは塩漬けにされていた。
(これはのちの鑑識でウォーデン夫人のものであるのが確認された)
頭蓋骨を半分に割って作ったスープ椀
だが、中でも一番捜査陣を戦慄させたのは、ゲインの干し首コレクションだった。
捜査陣も、未開部族の伝説の話くらいに思っていた人間の干し首を、まさかその目で見ることになるとは、思いもしなかった。
いずれも慎重に女性の頭蓋骨から頭髪のついたまま皮を剥がされ、紙やボロ布を詰めてオイルを丹念に塗られて、表面の滑らかさを保たれていた。
その内の1番新しいものは、3年前に行方不明となっていた酒場の女将、メアリー・ホーガンのものだった。
捜索に当たった保安官、警官たちは恐怖で顔面蒼白になりながらも、ゲイン宅をかきまわし、探りまわし、様々な「人間のパーツで作った日常品」を発掘した。
ウォーデン夫人の心臓はビニールに詰められて、内蔵は古いスーツに包まり発見された。
頭部は干し首にするつもりだったのだろう、耳に紐がついた状態で台所から発見された。

そうして彼らは、ついに一階の母屋の奥へと突き当たった。ドアが厳重に板張りで封じられた、その部屋へと。
釘が抜かれ、板が外され、彼らが見たもの―──それは壮麗な「墓場」だった。
そこはオーガスタの部屋であった。彼女の生前の状態そのままに、その部屋は「聖域」として12年間強固に守られ続けていたのだ。
家具類も暖炉の上の飾りものにも、分厚いホコリがかかるまで。

取調べに対し、ゲインはウォーデン夫人の死を「銃の暴発による不幸な事故だ」として故殺でないと主張した。
それにしても、メアリー・ホーガンとバーニス・ウォーデン以外の干し首などの人体コレクションは一体誰のものなのか───
この疑問に対し、ゲインの回答は再び捜査陣に恐怖を植えつけた。

「彼女たちは、墓を掘り起こして連れてきました」

母が死んで5年後くらいから墓荒らしを始めたという。新聞の死亡欄を常にチェックし、中年女性が死ぬとその遺体を盗んだ、というのだ。
ゲインの供述通り、2つの墓の内1つは死体が入ってなく、もう1つは人間のわずかな残骸が残っていただけだった。
ゲインの自供は真実なのを確認した捜査当局は、墓の捜索を打ち切った。

公判:精神病院へ
ゲインに命を奪われた被害者2人は、ともに体格のいい気丈な中年女性で、彼にとって全能の女神であるオーガスタに非常に似ていた。
母親オーガスタが死ぬまで崇拝し続けたゲインは、オーガスタの死を受け入れられなかった。墓から「彼女に似た」中年女を掘り起こすことで、母を死から救おうとした。
それと同時に、その死体を解体し、ありとあらゆる損壊を加えることで、彼は復讐をも試みていたのだ。
メアリー・ホーガンとバーニス・ウォーデンを殺害したのも、おそらく無意識に母オーガスタを殺害していたのだろう。
友達を作ることさえ許してくれず、常に威圧的で彼の一生分の幸福を奪った償いとして。
(もっとも、ゲインはまったくそれを自覚してはいなかったと思うが)

ゲインは殺人以外の供述には至極協力的で、捜査員の言葉に迎合して「彼らを喜ばそうと」子供のように無邪気だったという。
尚、死姦と人肉食は頑として否定した。「臭いが酷くて耐えられなかったので」と答えた。

「月夜の晩に女の顔から剥がした皮をかぶったり、乳首付きのベストを着て、皮張りの太鼓を叩いて……」

そして彼は自分の性器を切断したいと思ったこと、死体から切り取った女性器で己の性器をくるみこんで隠してみたこと、女性の下着を身に着けたことがあること、
などをごく控えめに認めた。
精神鑑定の結果、ゲインは性転換願望がかなり強いのが確認された。彼は女になりたかったのだろうか?
いや、ゲインはおそらくオーガスタになりたかったのだろう。この世で彼の唯一認める、全知全能の存在に。

12月18日、ゲインを精神鑑定したウィンスコンシン州立中央病院の医師団は「被告が法廷に立つことは不適切」との見解を提出、
ゲインはそのまま州立中央病院に無期限で収監されることになった。
約11年後の1968年11月14日に行われた裁判でゲインは有罪判決を受けたが「重度の精神病患者」として刑務所送りにはならず、再び州立中央病院に入れられた。
彼はそこで模範患者として静かに過ごしていたが、1974年2月、突如として「精神障害を克服した」として釈放の嘆願を提出、周囲を仰天させた。
法廷での傍聴前にゲインは記者たちに「これからは人生を有意義なものにしていきたいし、世界一周旅行の計画も練っているんだ」と愛想よくしていた。
しかし、ゲインのこの嘆願は却下された。医師の1人の「彼を長年蝕んできた精神異常は、すぐに再発する可能性がある」という診断結果が致命的だった。
退院を求めて傍聴席に座るゲイン
1978年、ゲインはメンドータ研究所付属精神病院に移送され、ついにそこから退院することはなかった。
1984年7月。ゲインは癌による呼吸不全で息を引き取った。78歳だった。彼の死体は、最愛の母親の墓標のすぐ隣に、墓標なしで埋葬された。
ゲインのその異常、邪悪にして純真で無垢な魂は、後世に凄まじい影響を与えた。
『サイコ』の溺愛していた母をもう1つの人格としてもつノーマン・ベイツも、『羊たちの沈黙』の乳房つきチョッキを着るバッファロー・ビルも。
ゲインなくしては生まれてくることはなかったのだ。
事件が起こったプレーンフィールドには、今でもこんな小話が残っている。

「昔、ウィンスコンシンの片田舎にエドという小男が住んでいた。
女を口説いて誘う術(すべ)を知らなかったエドは、女がほしくなると墓場からつれてきた」


参考文献
週刊マーダーケース・ブックNo.72 プレインフィールドの屠殺人 (デアコスティーニ)
快楽殺人者の異常心理 (KKベストセラーズ)
オリジナル・サイコ 異常殺人者エド・ゲインの素顔 (ハヤカワ文庫NF)
参考サイト
+ M O N S T E R S +
殺人博物館

テーマ:衝撃 - ジャンル:サブカル

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